林真須美被告、面会取材でも無実訴え 21日最高裁判決(朝日新聞)
98年7月に起きた和歌山カレー毒物混入事件の上告審判決が21日、最高裁第三小法廷で言い渡される。4人が亡くなった事件の発生から10年8カ月。一、二審で死刑とされた林真須美被告(47)は今も無罪を主張している。一方の検察側は、直接証拠が一切ないなか、膨大な状況証拠を積み重ねてきた。
林被告は捜査段階と一審・和歌山地裁で黙秘を貫いた。二審・大阪高裁では黙秘を撤回したものの、夏祭りのカレーにヒ素を混入させたとする起訴事実を否認し続けた。
……これは判決前の報道ですが、ご存知の通り、結局は死刑でした。ここでも明記されているように直接証拠がない、状況証拠の積み重ねによる立証だったわけです。推理小説であれば、それっぽい状況証拠を積み上げて「犯人」を追い詰めれば自白が得られて大団円となるものですが、現実はそうも行きません。状況証拠の積み重ねは、あくまで状況証拠の積み重ねに過ぎません。
それでもやっぱり、死刑でした。たぶん、かの三浦和義も裁かれる時期がもう少し遅ければ死刑判決が出ていたでしょうね。「疑わしきは罰せず」から「十分に疑わしいのなら罰することが出来るはずだ」という方向に変わってきたような気がします。できるだけ罰する機会を逃さないように、罰を最大化できるように、そういう方向に向かっているのではないでしょうか。
元々の原則であれば「どうしても死刑でなければならない場合に限って死刑」と、死刑の基準は消極的なものだったはずです。死刑以外の選択肢があるなら、死刑にはしないわけです。ところが昨今は「死刑に出来る機会があるなら死刑にする」、そんな「積極的」な基準に移行しつつあるように思われます。クロの可能性が100%、シロの可能性が0%であるから死刑にするしかない、ではなく、クロの可能性が十分に見込めるから死刑にしよう、と。ブラックリスト方式からホワイトリスト方式に切り替えられるぐらいの大胆なシフトが行われているわけですが、これは危険ですよ。
審理10年、異例づくし=取材映像の証拠採用、メディア批判…-毒物カレー事件(時事通信)
テレビで放映された林被告の取材映像の証拠採用も反響を呼んだ。テレビ各局などが強く反発。裁判長は「報道された情報をなぜ証拠としてはならないのか、理解に苦しむ」とした。事件をめぐるメディアスクラムにも言及。「過熱した取材報道が行われた」と異例の苦言を述べた。
法廷での手錠、腰縄姿が無断撮影され、週刊誌に掲載されたことも。掲載への賠償を求めた訴訟では、林被告側が勝訴した。
週刊誌との訴訟で勝訴云々の流れが特に三浦和義のケースを彷彿とさせますが、それはさておきテレビ放映された被告の取材映像まで証拠採用されたそうです。どういう形で用いられたのか見てみないことには何とも言えませんが、「過熱した取材報道」の中で編集されたものが証拠ですか、この辺も裁判員制度への地ならし的な側面があるのかも知れませんね。
DNA型鑑定「神話」揺らぐ 足利事件で不一致、精度に疑問符(産経新聞)
栃木県足利市で平成2年、4歳の女児が殺害された「足利事件」で殺人罪などに問われ、無期懲役が確定した元幼稚園バス運転手、菅家利和受刑者(62)の再審請求即時抗告審で、東京高裁が嘱託した再鑑定の結果、菅家受刑者のDNA型と女児の下着に付着した体液が一致しなかったことが判明した。今月末にも再鑑定結果の最終報告書が同高裁に提出される見込みで、DNA型が一致したとする捜査段階での鑑定結果を有力な証拠とした確定判決が覆り、再審開始の可能性も出てくる。
こちらは別の事件、遺骨のDNA鑑定というオーバーテクノロジーを有するはずの我らが美しい国ですが、判決の根拠となったDNA鑑定に誤りがある可能性が濃厚のようです。むしろDNAの方が一致しないのであれば被告の無罪を示唆する証拠にもなりそうですが、この先はどうなるのでしょう?
法務省幹部も「DNA型が『明らかに違う』のか、『一致していると認められない』のかでもかなり違う。資料の劣化なども考慮しなければ」と話し、再鑑定結果を詳細に検討する必要を指摘している。
……ということではありますが、1200度で焼却された保管状況の宜しくない骨を『明らかに違う』と断定しきった鑑定技術はどこに消えたんですかね。ともあれDNA鑑定にせよ不確かなまま証拠として提出され、それを根拠に判決が下されることもあるわけです。死刑判決を増やす&死刑執行までの期間を短縮するのが現政権及び法務省の方針であり、国民多数派の支持を得ているところでありますが、この辺の「危うさ」から目を背けないで欲しいですね。
ありましたね、そんなこと。あれは、本当は横田めぐみさんの骨かどうかわからないのを強引に「横田さんの骨でない」と確信的かつ拙速に断定したというひどい代物でしたが、おまけにその鑑定した学者を科捜研にスカウトするという何ともお粗末な茶番劇でした。
それにしても、アメリカでもDNAを再鑑定だか鑑定したら、冤罪死刑囚がつぎつぎに判明したとかいう話を前聞きました。怖い話ですね。
これ目茶苦茶怖いんですけど、多くの人はこれを怖いと思わないんですかね...いや、むしろ望んでる人が多いからそうなるんですよね。何か今の流れを当たり前、当然のこととして受け入れているようです。「日本には死んでお詫びをする文化がある」という元法相の言葉はある意味的を射ていたのでしょうか...。その文化がどうなのかは別として。
するという度し難い腐敗ぶりを晒してきた最高裁が、今度は「推定無罪」の原則をも
廃棄して「怪しい奴はさっさと吊しちまえ」をモットーとする「情治国家」への
転換を
正式に宣言した忌まわしき"記念日"として、この2009年4月21日という日は今後末長く
語り継がれて行くことになるでしょう。
「まだ最高裁がある」などと言われたのも遙かな昔。
名前だけ昔と同じなままだと紛らわしくて仕方がないので、今後は「最低裁」とでも
改称して頂けると有り難いです。
「どうあるか」ではなく「どう見えるか」を思考の中心に据えてしまう傾向。
物事の判断の基準を自分自身の中に置かないという怠慢。
そんな反知性が蔓延しているからこそ、冷静に考えればただ単にこの世の地獄でしかない
「情治国家」を歓迎してしまう人もまた少なからず存在するのでしょう。
さてマスコミは、次は京都の自転車オヤジを吊しにかかるんでしょうかね。
新聞の紙面は「公正」を装うことに決めたそうですから大人しい感じになりそうですが、
系列の別のメディアがその分ハメを外して差し引きトントンといった所でしょうか。
死刑制度について、4月21日のTBSラジオ「アクセス」でとりあげていました。
ttps://tbs954.jp/CGI/ac/btt/btt_talk.cgi
「裁判員になったら、あなたは死刑を宣告できますか?」というテーマです。(バックナンバーから入れます。)
比較的リベラルなリスナーが多いはずなんですが、死刑に肯定的な意見が多数派を占めています。感情的な意見も散見されます。これが今の日本人の意識なんでしょうか。気が重くなりました。
当日の夕方のニュースで、かの佐木隆三氏が、「林さんは世間をなめていた(から、厳刑に処された?)」とコメントしていて、背筋が寒くなりました。
裁判員制度につき、「素人が裁くのだから信用ならん」とよく言いますが、刑事裁判を傍聴するのを生業にしてきた人がこうまで言うことから、経験値が大きければ安心とは言えんでしょう。それとも空気読んでるのか?
でわ。
ちなみに、この被告を「在日朝鮮人」とする説もあるようで・・・。やはり、日本で起きる凶悪事件は在日朝鮮人の仕業であり、彼らを追い出せば日本は平和になると考えているのでしょうか。しかし、カレー事件の犯人だったとしても、国籍や血統は関係ないですよね。
DNA鑑定と聞かされると、あたかも科学的で客観的な判断が下されているかに見えますが、その運用は随分と恣意的なものなのかも知れませんね。部外者には検証の出来ないことでもありますから。
>いるか缶さん
軍事/一党独裁政権が反対派を抑えつけるために死刑を振りかざしているのではなく、民主主義国が「国民の理解」を根拠にして死刑制度を維持、推進しているのが現状なんですよね。支配者の意思だけなら、まだ救いがありそうなのですが……
>ポールさん
判決の基準、死刑の基準が抜本的に変わりつつあるように感じます。死刑にできるものは死刑、十分に疑わしいものは有罪、と。事実がどうあれ、「この人が犯人です」と周囲に確信させることが出来れば有罪確定、そんな勢いですよね。
>えらいこっちゃさん
国際機関から死刑制度の廃止を勧告されても、意に介さず突っぱねる我らが美しい国ですが、その論拠は「(死刑制度への)国民の理解」だったりしますから。これでは司法や行政の暴走を止められまい、と。
>buhiさん
世間を舐めていたから……ですか。確かに、周りの反感を買うか周りの同情を買うかで、判決は大きく左右されそうですね。法廷の判断が情緒的になりつつあるのは裁判員制度への移行を見据えてのことだとする意見もあるようですが、佐木氏もその路線に乗っかっているのでしょうか。
>GXさん
何か問題が起ったとして、その容疑者/犯人には様々な「要素」があるわけですけれど、しばしば恣意的に特定の側面が強調されますね。USAマ・ビン・ラディンは「資産家」ではなく「イスラム教徒」と語られる等々、「どういう面が強調されるか」で、その社会が憎悪の対象に「したがっている」かがわかりますね。今回の容疑者の在日朝鮮人云々は恣意的な選択以前の問題ですけれど。
「冤罪ファイル」っていう季刊誌をご存知ですか? わたしはあの雑誌のおかげで、マスコミ報道で犯人視された人に、報道どおりの心象を抱いてはいけない、ということを思い知らされました。
三浦和義さんには支援団体がありました。三浦さんといえば、ロス事件当時、性的に乱脈なふるまいが派手に報じられていました。イヤな人だなあ、とわたしは思ってきましたし、だから、なぜあの事件で三浦さんをあそこまで支援できるんだろうと、反感に近い感情を抱いていました。
でも「冤罪ファイル」最新号や、「週刊金曜日09年2月26日号」などで、林真須美被告への、事件当時の報道がウソや誤報の多いものであることを知り、このままで裁判員制度に突入していいのかと、危険なものを感じていたところへ、この状況証拠だけで死刑判決です。
恐怖を覚えました。
真須美被告にも支援団体があります。なんと、その支援団体には、真須美被告に毒殺未遂にされたと報じられた人も加わっているのです。これは尋常じゃない。
以前は三浦さん支援の報道や書き物に距離を置いていたわたしですが、この和歌山毒入りカレー事件については、真須美擁護ではなく、最低限、民主的な裁判であるべきだという気持ちをこめて、真須美支援寄りのスタンスで、気がついた時々にブログで書いていこうと決めました。
そういう思いから、考えがわきあがるに任せて書いた散文をトラックバックいたしました。足りない点も多いですが、そちらに気がついた点があればどんどんご教示くださいね。
容疑の段階で犯人扱いする「偏った」報道があるなら、反対に冤罪を前提とした報道もあって良さそうなぐらいですが、実際は一面的な報道ばかりですよね。せめてその「偏り」を指摘できる冤罪ファイルのようなメディアがもう少し注目されるといいのですが。公平であろうとするよりも、勧善懲悪の実現を優先する、そのためには「悪役」を作り出すことも辞さない、そんな雰囲気すら感じられますね。
たとえばおかしな政治家達がはこれまで積み上げてきた学問を否定するような発言をした場合がもっと知識人たちは抗議してもいいと思いますが大人しいですね。
日本では高い教育をうけてきた広い見識を持つ人たちはたくさんいるはずだし北朝鮮ならともかく日本は言論表現の自由はあるはずなので知性派の方はもっと表にでてもいいはずですがどうも存在を感じません。
犯罪に関しては知性派気取りの方もリテラシーを持たずテレビの報道を鵜呑みにし幼稚な世論と同様な意見を得意に語ってる姿を個人的にさんざん見せられてるので厳罰化に関してはこのままいくところまでいくんだろうなと思ってます。