毎日新聞がNTTレゾナントの協力を得て行ったインターネット調査で、死刑制度について質問したところ、「存続すべきだ」が90%に上り、「廃止すべきだ」は10%にとどまった。国連総会は死刑執行の一時停止を求める決議案を採択したが、国内では死刑制度の存続を求める声は根強いようだ。
死刑存続派が90%に達したそうです。一応、参加自由の調査というわけではなく、あらかじめ登録されたリサーチ協力者の中から無作為に回答者を選出しての結果だそうで、その結果が90%、日本でいかに死刑が好まれているかがわかる数値ですね。
そこで私が常々疑問に感じるのは、どうして日本ではこうも死刑が肯定されているのか、と言うことです。軍事政権なり独裁政権なりが自らの支配を守るため、反対派を死刑によって葬り去ろうとして制度を機能させるのならば合目的と言えますが、曲がりなりにも民主国家のはずの日本で、それも体制ではなく国民の側の要望によって死刑制度が支えられているのは奇異なことのはずです。
死刑制度を廃止したり停止したり、あるいは州によって死刑制度があったり無かったり、死刑制度の有無による影響を計る格好のサンプルには事欠かないわけですが、言うまでもなくこうした豊富なサンプルにおいて、死刑制度の廃止もしくは停止によって犯罪抑止効果が薄れたことを示す有意な変動は見られませんでした。日本だけが例外的に死刑制度によって犯罪が抑止されると言うこともないでしょうから、ならば死刑による抑止効果云々は死刑を肯定するためにでっち上げられた、取るに足らない戯言に過ぎません。
抑止効果もなければ、もちろん被害者にとっての補償になろうはずがない死刑制度を熱烈に支持する人が多いのは、要するに「死刑が好きだから」これに尽きるのではないでしょうか。もちろん、表だって「死刑が好き、殺したい、吊したい」と正直に語る人は誰一人としていません。表だってそうは語れないからこそ、表面を取り繕う必要がある、それがあたかも正しいことであるかのように装う必要がある、その結果が死刑制度存続のための諸々の屁理屈に繋がるわけです。
あるいは意地や誇りの問題なのかも知れません。それはたぶん、冷凍庫に売れ残りの在庫が山積みされているにもかかわらず、国際的な非難を浴びながら捕鯨に拘るのと同じようなもので(捕鯨の是非はさておき)、死刑制度もまた必要性からではなく、その馬鹿げた意地やプライドによって続けられているところもあるでしょう。すなわち、他人の意見に耳を傾けたくない、自分の方が正しいのだと我を通したい、そういう心理です。どっちが正しいかはさておき、人の意見に耳を貸さず自分の主張だけを振りかざす姿勢は何とも子供じみて見えますが。
そんなわけで、我らが仕える主君はアメリカのみ、アメリカ以外の国から対等な態度で接されるだけで恥と感じる、そんな人から見るとアメリカ以外の国すなわちアジア諸国や国連その他からの批判は内政干渉ぐらいにしか見えない、むしろそれを突っぱねることの方が正義だと、そんな風に感じているのではないでしょうか。それは北朝鮮などの非人道的な独裁体制が国内的にはそれなりに支持されているのと同じ理屈で、周囲から非難されればされるほど、意固地になって自分の正しさを信じる、そういうロジックが働いているのです。
特に存続させる必然性もなく、徒に国際的な批判を招くばかりの死刑制度を敢えて固持しようとするのはなぜか、それが必要性に基づかないとなると、ならば「そうしたいから」としか言いようがありません。ただし、表だって人を罰することが好きだから、処刑することが好きだから、そう言える人はいないわけで、ゆえに後から理由付けが為される、そんなところでしょうか。ではなぜこうも人を罰したがるのか、その辺の謎はまだまだ尽きません。
リンチの大義名分は、共同体の秩序の維持にあり、自警団は共同体の意思を代行する存在として、暴力を発動する正当性を確保していた。つまり、リンチは共同体の多数意思に従って、一部の少数の人間を排除するものであった。
リンチは緊急避難的・超法規的な暴力であり、容疑者の排除を最優先していた。自警団は、犯罪の有無を厳密に立証することには、ほとんど関心を寄せない。リンチの正当化は、共同体の側が危害を加えられるかも知れないという脅威を感じているかが基準であって、犯罪の匂いさえあれば、共同体はリンチの大義名分を確保できた。
―――『性と暴力のアメリカ』(鈴木透)
こっからが危ない話ね。個人的な考えだけど、死刑ってのは実は刑罰として本当に罪を償うつらさを与えることにはならない、と思います。じゃ、どうするか?人間の五感を触覚以外奪った状態で死ぬまで生きていただく。もちろん精神崩壊しようがお構いなしだが、身体については医療のどういう手を使っても生き残っていただく。更にそれをDVDにでもして見ろ、抑止効果は抜群だぜ。多分やられる方はつらいよ、死ぬよりも。死ぬ方が楽だ、と思うように考える方がもっときつい刑罰じゃないかな?
・・・あまりにもブラック過ぎ?この考え方。
過去の日本はさておくとして、昨今の日本が異質なものを排除する、したがる方向に向かっているのは間違いないでしょうね。不寛容で独善的な方向へと進んでいるわけです。
後半に関してですが、拷問じみた刑罰を用意したところで死刑と同様に抑止効果なんて無いと思いますよ。ただ他人を罰したい、痛めつけたい、虐げたい、そういう欲望があるからこそそう言うことを考える、だけどそういう加虐心をどうどうとは口にできないから、抑止だの何だのと口実を付けて正当化する、自身の非道さ、残虐さを免罪しようとするものでしょう。
どうしても死刑という形で報復したいと思う被害者遺族は、自分が直接手をかけ、人を殺したという重みを背負うべき(精神的に相当辛いだろう)。もしくは、死刑が公共の福祉に資するとしても、人が人を殺すという特殊性を考えれば、全国民が等しく死刑執行に携わる可能性を持つべきだろう(死刑存続派の人でもやりたくないだろう)。
死刑という刑罰によって嗜虐心を満たす人間はどちらかと言えば少なくて、死刑の結果として『犯罪者』という危険分子が社会から永遠に抹消されることを歓迎しているのではないかと思います。
死刑廃止にあれだけ熱心な欧州だってほんの数百年前までは『市民の娯楽』として公開処刑をやってたわけで、日本人が特別に残虐だとは思いません。
そんな欧州の人間が急に死刑廃止に傾いたのは、恐らく、欧州の人間が『神』を信じていて、人を裁いたり赦したりすることを『神の領域』のこととして畏怖したからではないかと思います。
(昔の王たちは『神の代行者』でしたから『神の領域』を畏れる必要はなかったはずです)
これに比べ、どちらかと言えば人間の力を信じ神を畏れることの少ない新大陸アメリカ、はじめから神を信じていない中国、神を殺した旧ソ連、そして旧い神々への信仰を失い、それに代わる新しい倫理を持たない日本。
これらの国々では『人知の及ばぬ存在』が社会の上位にあるという概念が薄く、社会は人の手のみで維持されるものだと考えているからこそ、社会の構成員に対して生殺与奪の権利を行使することを躊躇わないのではないのでしょうか。
犯罪に対して神の罰も神の赦しもないのだから、人間として赦せない犯罪には、人の手で与えられる最大の罰をもってこれを人の社会から取り除くしかないのだと考えるのは自然なことではないかと思うのです。
いまやすっかり金の亡者と成り果てた日本人が、自分たち以外の存在に畏敬の念を持っていた遠い昔の姿を取り戻すようになるかどうかはわかりませんが、そうならなければこの国から自発的に死刑が取り除かれることはないのではないでしょうか。
まあ、欧州議会の圧力に屈服して死刑を廃止させられる可能性も無くはないですが、その場合、日本側は一方的に欧州の価値観に服従させられたということを意味しますから、後々遺恨を残すことになろうかと思います。
まぁ、何でも子供の言うとおりにしてやる親が必ずしも子供のためにならないように、遺族の復讐感情に諸手を挙げて賛同する第三者は、むしろ被害者遺族にとって有害ではないかとも思うわけです。被害者の復讐感情を煽り立てるのではなく、もっと別の支援の在り方を考えるべきなのですが、どうにも被害者遺族の報復感情に便乗する人が多いですからね……
>KYさん
どうでしょうか、私の現状認識はむしろ逆で、昨今の日本人は精神的なモノを盲信するばかりで物質的な豊かさを失っている、具体性も何もない精神論におぼれて、まともな銭勘定もできなくなっている気がします。
そもそも、欧州に比べて格段に信仰心が強いアメリカでこそ死刑制度が維持されている、それもより宗教色の強い層に支持されていることを考えれば、特にメリットのない死刑を廃止した欧州各国の決断は信仰ではなく合理性の産物でしょう。そして未だに金儲けを悪と考えるような道徳論が支配する日本が死刑に拘泥するのも、それは死刑に対して信仰心に近いものを持っているからではないでしょうか。
さて日本では、さすがに最近ではあまり聞かなくなりましたが、国会議員が治安維持法のような法律を公然と支持していたくらいで、これでは死刑執行停止あるいは廃止の道のりはきわめて険しいというところでしょう。
余談ですが、昔の日本人は、韓国の人権状況を笑っていたのですけどねえ。
米国人の中で『信仰心の強い』と自負する連中は、自分が『神の代行者』たらんとする機運が強いように思います。
あと付き合いのある一般人レベルではどうも信仰が形骸化して本来の信仰心が失われているようにも感じられます。(中世欧州の宗教改革前のように)
この点ヨーロッパ人は律法や戒律といった形骸を失ってもなお信仰心の本質たる超自然的存在への畏怖を失わずにいるように感じられるのです。
日本人の件ですが、私は十分に『合理的』だと思います。たとえそれが『倫理』に反することであっても、日本人は利益を最大化するために十分に合理的に行動しているように思うのです。
日本人が死刑存続賛成なのも、
1.もともと死刑存置国であって追加コストがない
2.死刑=後腐れのない刑罰(死人に口なし)
だというだけのことだと思います。
ただ、管理人様が『合理的』と言われるとき、その『合理性』には倫理的であることは自明の理として含まれているとお考えのように思います。
合理的なものがなぜ倫理的なのか、それは倫理的でないふるまいはいずれ社会に忌避され不利益となるからではないですか?
ではなぜ社会は倫理に反する行為を忌避するのか、それは社会に通底する『倫理』というものが存在するからでしょう?
『倫理』とは基本的に『原理』であって議論されたり合理性から導き出されるものではありません。
死刑は社会的にメリットがない、というのはそういう倫理を持つ社会においてそうであるということであって、そうでない社会ではそうでないのだというだけのことだと思います。
とはいえ国際社会は西欧化されていますから、西欧の倫理に従えば利益が多いのは事実でしょう。
しかし単純に他者の異なる文化に根ざした倫理を強制すればそれがどのような軋轢を生み将来の禍根となるかは明らかだと思います。
廃止ならぬ停止はですと、ポピュリスト型の政治家が登場したときに「娯楽としての」処刑が復活させられてしまう危険性はありますね。そうならないためにこそ、国際社会など外からの働きかけもあるわけですが、孤立すればするほど自分は正しいと思いこむ輩がウヨウヨしているのが日本ですし・・・今や世界から日本の人権状況が笑われる、いや、笑い事では済まされないかも知れませんね。
>KYさん
それはどうでしょうか、自説を補強するためにアメリカ人と欧米人の宗教観を創作しているように見えます。ま、自分が『神の代行者』たらんとする独善性はアメリカと日本には強いかも知れませんが。
それから私のようなガチガチの実利主義者に言わせれば、日本が利益を最大化するために動くなんて、とんだお笑い種です、もし今の日本が利益を最大化するために動いているように見えるのだとすれば、それは何が実利に繋がるかを完全に取り違えている、絶望的に損得勘定に疎いとしか言えませんね。もし『合理的』を自分ルールにしがみつき、ひたすら自分が満足できる選択を繰り返すことを呼ぶのであれば日本人は合理的かも知れませんし、KYさんも合理的なんでしょうけれど。
国連は死刑廃止を求めております。
世界の潮流は死刑廃止へと向っております。
国連の死刑制度への批判は内政干渉にしか見えないというのは、かって満州事変を引き起こし国際連盟が非難すると国際連盟を脱退、国民も脱退を熱烈に歓迎したといったことがありましたが、それと同じではないかと思います。独特の島国根性というか。
今の日本では死刑制度の廃止を主張すると激しいバッシングをあびせられます。戦前、戦争反対を主張すると激しいバッシングをあびせられたように。
でも死刑制度が間違った制度であることはもはや疑う余地がないと思います。日本の世の中が間違っているときは間違っていると言える勇気を持ちたいものです。
私は、死刑制度に断固反対です。
死刑制度は廃止しべきだと思います。
某国の年次改革要望書に沿って政治運営している国が内政干渉を語るなどお笑いもいいところですよね。にもかかわらず、70年近く前と同じように、国際的な孤立を誇ってさえいるとしたら、実に愚かしいことです。利のない制度にしがみつく死刑大好き人間を一体どうしたらいいのか、北風(外からの批判)がダメなら太陽としては何か良い策はないでしょうか。