取引先との営業トークで政治ネタはタブーだと、そう会社で教わった人も多いのではないでしょうか。時にはスポーツネタでも応援するチームの違いによって印象を損ねることがあるので避けた方が良いなんて話も聞かされましたが、最も基本的な「避けた方が良い話題」はやはり政治の話であると、そう教育している職場は多いと思います。つまり政治的な見解の違いによって、お客さんとの関係が悪くなる可能性が非常に高いからですね。たとえば取引先担当者が極右思想の持ち主で、一方の担当営業が明確な左派であった場合、政治ネタを振られた途端に両者の関係が悪化するであろうことは目に見えています。だから何かと対立しやすい政治の話題は避けて、できるだけ無難な話題を選ぶよう営業の基本として教えられるわけです。
「ゾーニング」とか「棲み分け」という発送もまた、こうした考え方から生まれていると言えます。お互いに交わることを避ければ、対立は生まれません。もちろん変化も生まれませんが、ともあれ交わりを避けることで表面的には対立のない、平和な関係が築けるわけです。こうした在り方をお互いを尊重した関係と見るか、それとも欺瞞に過ぎないと見るかは人それぞれなのでしょうか。現状を乱したくない(変えたくない)のであれば前者、現状を変えたいという意志があれば後者に傾くような気もします。
たとえば外国人に対して偏見と憎悪を抱くように、性表現に対して偏見と憎悪を抱き、「私たちの目の届くところから出て行け」と主張して憚らない人もいるわけです。この場合、レイシストの目の届かないところに隠れて交わらないよう心がけるのもまた平和的な解決方法と呼べるのかも知れません。別にそこから煙が漂ってきて否応なしに吸い込まされるとかそういう代物でもあるまいにと私なんかは思うものですが、ともあれ自分たち(子どもたち)の生活圏に性表現が存在することを許せないと感じる人もいるわけです。ならば性表現をゲットーなり出島なりに隔離しておけば、つまりはゾーニングを徹底すれば余計な対立は避けられるのだと考える人も、追う側と追われる側の双方から出てくるでしょう。
共産党のビラをポストに投函して、それで警察沙汰になるなんてこともありました。ゾーニングの考え方からすれば、ビラを投函した人の方が悪いことになってしまうはずです。ビラを投函された住民の中には多かれ少なかれ極右思想の人もいるでしょうから、そうした人からすれば「見たくない権利」を侵害されたとも言えます。お互いに棲み分けを徹底していれば避けられた対立を、ビラの投函という越境行為によって引き起こしたわけです。性表現規制に賛同してしまうような人は「見たくない人が見ないで済む権利」をやたらと主張するものですが、この辺はどうなんでしょうか。たとえば私が日頃のエントリを、右派系のブログに宛ててトラックバックでも送りつければ「見たくない人が見ないで済む権利」を侵害していることになります。ゾーニングの徹底、という考え方からすればこれは良くない行為になるでしょう。
その辺は「ただし性的なものは除く」という立場の人が多いのかも知れません。人種や国籍、そして思想信条に基づいたゾーニングには反対の立場を示しながら、性表現に関しては全く別の態度を取る人も多いように見受けられます。ゾーニングへの評価にかかわらず、「性」が絡むと全く立場が正反対になるケースは枚挙に暇がないのではないでしょうか。日頃は冤罪など気にしない人が痴漢に関してだけは冤罪の可能性を危惧する一方で、それ以外の場面では冤罪の危険性を声高に訴えておきながら痴漢に関しては冤罪やむなし、細大漏らさず犯人を罰することの方が重要だと平然と主張しているのを見てゲンナリしたことがあります。別にここで個人ブログを晒し挙げるようなことはしませんが、こういうダブスタは何なのだろうと思うわけです。
小沢一郎とか好みの政治家が疑惑に晒されているときは「マスメディアを信用しすぎるべきでない」とか言いつつ、「性暴力ゲーム」云々の素性の怪しい報道が出てくるやメディア報道を全面的に信頼し、日頃は公権力の乱用に警鐘を鳴らしておきながら、性表現規制に関しては「お上」の審判に委ねることに躊躇いを感じない等々、まぁ酷いものです。私から見れば何ともいいお笑いですけれど、それでいて自分自身は良識派を気取っているとしたら、たぶん彼らはポルノではなく自分自身をオカズにしてオナニーしているのでしょう。自分に酔える人は幸せです。
拉致被害者(家族含む)とか殺人被害者(遺族)とか性犯罪被害者とか、別に本人が悪いわけでも本人に落ち度があったわけでもないのですが、だからといって「被害者」の主張することが真理であるとは限らないものです。真っ当なことを言う人もいれば、とんでもないことを口にする輩もいますから。闇雲に被害者の要求に応えれば万事解決というものではないわけです。しばしば被害者に仮託する形で厳罰化や強硬論が唱えられますけれど、それが本当に妥当かどうかは被害者への同情や共感とは切り離して考えられる必要があります。
しかるに「被害者」とは異なる見解に立てば何かと非難を浴びるのはご存じの通りです。拉致被害者や耳目を集めたセンセーショナルな殺人事件の被害者遺族の要求に反するような主張を繰り広げれば、さも加害者側に立っているかのような非難を受けるものです。被害者に対して「冷たい」とも言われますかね。それでも被害者感情に流されるのを潔しとせず、その主張するところが妥当かどうかを冷静に判断する人もいるわけです。ところが、拉致や殺人に関しては冷静に判断する一方で、性犯罪に関しては全く反対、全面的に被害者の主張に寄り添って、その妥当性を問うこともなければ、日頃の主張を覆して厳罰化が意味を持つかのように語り始める人もいたりします。う~ん、性犯罪に関しては被害者に完全に同調する一方で、殺人や拉致の被害者には同調しないとしたら、それは確かに「冷たい」のかも知れません。
朝鮮学校への差別的取り扱いを強めたところで拉致問題とは全く関係ないように、性表現規制を強めても現実の性犯罪等々には何ら影響を及ぼさないであろうことは間違いのないところですが、この辺もダブルスタンダードがまかり通っているものです。たぶん、憎悪や偏見に駆られた人にとっては「何となく関係がありそうなもの」への攻撃が問題解決に繋がるように見えているのでしょう。それが本当に意味のある行為なのかは問われることもなく、というより意図的に無視されることによって敢行されるわけです。対象が何であれ、このような振る舞いは軽蔑されてしかるべきことなのですけれど。
多岐にわたるフェミニズムの中でも、ラディカル・フェミニズムと分類される人の中には宗教的な保守派と手を組んで表現規制を強めようとしている人もいるようですからね。そうした部分で折り合いが付かないのでしょう。既成の価値基準の中では男女差別が歴然として存在するわけですけれど、こうした中で男女平等を目指す中では、時に既成の価値観への積極的な同化や、既成の(=保守派の)価値観の肯定に繋がるケースもあるような気がしますから、そうなると既成の価値観に対して否定的な立場とは相容れなくもなるのかも知れません。
…まあこういう人のことを管理人さんの言葉で言うと「ネットで真実な若い人」なのでしょう。それこそ絵に描いたような。
前振りが長くなりましたがその若者もこの前の東京都条例(非実在青少年のアレ)の反対活動を行っていたとか(中身はよく分かっていなかったようですが)。その一点においてのみ私と相通じているわけですけれども、やっぱりそれも「ただし性的なものは除く」というわけですかねえ…。ここで追われる者の立場に立てるのならなぜ普段は排他的言動に身をやつすのか何かよく分からないです。
私もその記事、読みました。まぁ性的な要素が絡むと、日頃の主張が裏返るパターンもありますよね。痴漢に関してだけは冤罪の可能性に危惧する厳罰論者もいれば、性犯罪に限っては厳罰論者に転向する人権派もいたりしますから。また、このところ賑わしくなってきた小沢一郎がらみでは、むしろ「ネットで真実」な人と対立しているかに見える人の中に「マスメディアは本当のことを伝えない」みたいな主張が目立つような気もします。結局、自身の好きなものか嫌いなものかで対応が分かれてしまう、ダブルスタンダードも当たり前になってしまう、そういうところがあるのかも知れません。
さて、私の今の職場の仕事場の休憩室にはM新聞とスポーツNと地方紙と業界紙があるのですが、M新聞は記事はそれなりにまともなように思えるのですが書籍の広告が練られていない印象がありますね。最近では歴史修正主義が強い本を多数出している出版社(そこの看板と思われる月刊誌の広告もM新聞には載っている)の禁煙風潮に反対する本の広告が載っていて「禁煙ファシズム」という言葉が例によって(?)載っていたりもしましたけど「お前にだけは言われたくないぞその言葉」という感じではあります。
自民党もまぁ、極右路線が票にならないことに気づいて修正を図れれば民主党と拮抗することもできたのではないかと思いますが、どうも同じ失敗を繰り返しそうですよね。民主党もどうかと言うところが多々あるにもかかわらず……
ちなみに「禁煙ファシズム」もどうかと思いますね。安易にファシズムと言い出す輩にロクな人がいた試しがないわけで、歴史修正主義者といい勝負なのではないかと。前のエントリでも触れましたが、民主党に批判的な報道をした新聞社に向かって「どこの国の新聞か!」と言い出した民主党支持者もいたりして、考えていることは極右層と大して変わらないのではないかと感じたりします。