時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

30年戦争の中のロレーヌ(3)

2011年10月11日 | ロレーヌ探訪

 

甲冑姿のロレーヌ公シャルルIV世 
銅版画との対比が興味深い

Portrait de Charles IV
Nancy, Musée Lorrain



 

  17世紀、30年戦争当時のテーマをブログで、何度か取り上げているのは、単なる懐古趣味ではない。明示してはいないが、長くブログにおつきあいいただいている皆様には、漠然としてではあるが少しずつ伝わっていると思う(笑)筆者のある思考のネットが背景にある。

 30年戦争が世界史最初の「国際戦争」ともいわれ、ヨーロッパのほとんどの国がさまざまに関わり、人口比にすれば第二次大戦を上回るかもしれないといわれる多数の犠牲者を生んだ悲劇の舞台を、できるかぎり客観的に知りたいという思いが根底にある。30年戦争は、近年新たな関心も呼び起こし、優れた研究者も現れている。事態はかなり複雑で、新たな史観、史実の解釈も生まれている。

 現在も展開しているアフガニスタン・イラク戦争は、およそ8年近くを費やしたヴェトナム戦争同様に泥沼化し 、21世紀の「10年戦争」 とまで言われている。最大の当事者であるアメリカはいったい何年、戦争に関わってきただろうか。戦争の原因はそれぞれに異なるとはいえ、人類はいつになってもお互いに殺し合うという愚行を改めることがない。そこではしばしば「正義」Justice という怪しげな言葉が掲げられることが多い。

 

再び17世紀へと時空を飛ぶ

 

ロレーヌをめぐるフランスの野望

  ロレーヌ公シャルルⅣ世は、フランスがメッス、トゥール、ヴェルダンの3司教区を保護領として手中にし、それらを足がかりとしてさらに公国への影響力を拡大・発揮することを嫌っていた。これらの保護領は、フランスから見れば公国へ影響力を発揮するいわば布石となっていた。トゥール、ヴェルダンの2つについては、すでにフランスの実質支配が成立していた。

 メッスは伝統的にフランスが支配力を発揮しようとするための拠点になっていた。シャルルは、なんとかしてメッスでのフランスの政治的影響力を弱め、中立化させようと考えたようだ。シャルルについては、リシュリュー嫌いの偏狭な君主という見方も強いが、自分なりに父祖伝来の地ロレーヌを守りたいという意気込みもあった。しばしば血気にはやり、傍目にも策謀と分かる考えで動いてしまうような人物だった。それでも、歴史に名を残した偉大な父祖たちの築いたロレーヌを守りたいと思いは強く流れていたようだ。勝ち目がない戦いと思っても、シャルルを君主と仰ぐロレーヌの人たちも少なくなかった。

 


17世紀30年戦争当時のアルザス、ロレーヌおよびフランシュ・コンテ(フランス東部の昔の州)。シャンパーニュはロレーヌの西側、パラチネート(プファルツ)は東北部に位置。南東部はスイス。


 

 16302月、シャルルの要請で2700人の神聖ローマ帝国軍がメッスを占領した。メッス司教区の飛び地領ヴィックとモイェンヴィックは、フランスからヴォージェ山脈を経由してアルザスへ向かう主要経路の拠点になっていた。この当時、別の外交危機に対応を迫られていた宰相リシュリューは、このシャルルの動きを過大評価してしまい、全面的に帝国軍がフランスへ進入してくる先駆けかもしれないと考えたようだ。そして、対抗手段として、シャンパーニュ(ロレーヌの西部)へ大軍を派遣した。

 ちなみにリシュリューの戦略は、時にこうした過剰な対応や、誤った判断もあったが、全体としてきわめて巧みであった(この点についても、近年リシュリューが関わった戦争について、新しい史実の発見などもあり、大変興味深い。戦略家としてのリシュリューの面白さについては、触れる時があるかもしれない)。
 

 実際には、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンドは戦線を拡大する意図はなかった。しかし、皇帝の周辺には、この機会を利用しようと思っていた人物もいた。フランス自体、しばしば内乱に揺れ動く、確固とした国家基盤ができていない時代であり、その隙に便乗しようとする者も多かった。

 たとえば、資産家パトロンのオリヴァーレ
はシャルルに資金援助し、ガストンにフランスへ侵攻させようとした。フランスがオランダを支援することを抑止するという意味を含んだこの対応は、実現すると、フランスには大きな問題だった。

 ガストンはアルザス、バーゼル、さらにヴュルテンベルグの支配下にあったモンペルガールなどへまで出かけ、兵隊を集めることに奔走していた。この時代、君主や領主に直属する兵士は少なく、主として傭兵であり、そのための資金力がものを言った。傭兵は戦時に金で雇われる。概して、支給される報酬と戦果をあげた時の報奨への期待で集まってきた。
1632年5月までに彼は2,500人の騎兵を集めた。他方、シャルルは15,000人を集めた。


 しかし、その集めた傭兵たちの統一のとれない実態を見て、策謀に走り、実戦経験に浅いシャルルは、自分には軍隊も十分管理できないことを悟った。さらに、そうした兵力が集結していること自体が、リシュリューの怒りを買い、フランスがシャンパーニュにいる軍隊をロレーヌに進入させるのではないかと恐れた。

 それでも、シャルルは
163110月にライン川を越えた。しかし、彼の軍隊は風邪にかかる者が多く、下パラティネート(現在のプファルツ)をスエーデン軍が占領することすら防げなかった。一ヶ月もしないうちにかろうじて生き残り、統制もなくなった7000人近い傭兵たちは、ライン川を渡り逃走に追い込まれた。

 

 ロレーヌからシャルルが離れている時を狙って、フランス軍は謀反したガストンへの軍事的対応を理由に、ロレーヌに侵攻した。12月末、帝国側軍隊はヴィックとモイエンヴィックで降伏した。フランス軍をなんとか追い払おうとした試みは、16325月、フランス軍の再度の侵攻を招いた。そして、620日にはリヴェルダンの講和で敗戦を認め、なんとか事態を治めざるをえなかった。 

 結局、シャルルの軍隊はロレーヌのいたる所で敗退、降伏し、フランスは3つの司教区と飛び地領などを確保し、戦略上重要なアルザスへの道を確固たるものとした。(迅速な連絡手段がない時代であり)、まったく悪いタイミングで、3日後にガストンはわずか5,000の軍でフランスへ進入した。彼はラングドックの知事の協力をかろうじてとりつけたが、ユグノーは痛いレッスンを受け、ガストンを支持して挙兵することはできなかった。ガストンは逃走したが、彼に協力した知事は処刑され、ガストンたちは163410月王とリシュリューに忠誠を誓わされる羽目になった。

ガストンとシャルルの晩年
 しかし、ガストンの反フランスの策謀はこれで収まらず、繰り返し同じような陰謀を繰り返した。一時はリシュリュー枢機卿暗殺まで画策、失敗している。しかし、1643年にルイ13世が死去すると、フランスの陸軍大将、1646年にはアランソン公になった。だが、フロンドの乱に際し、マザラン枢機卿といさかいを起こし、1652年にブロワに蟄居させられ、そこで生涯を終えた。ブロワ城はかつて母后マリー・ド・メディシスが、息子ルイ13世によって一時幽閉された場所でもあった。

 他方、ロレーヌ公シャルルはロレーヌ人としての独立心を強く抱いていたが、軍事戦略は拙劣であり、周辺にも適切な判断ができる軍事顧問もいなかった。結果として拙劣な行動に終始し、ロレーヌ公の地位を弟ニコラ・フランソワに譲り、亡命することになる。その後もさまざまな形で、反フランスの策動を図ったが、いずれも敗退した。1661年にいちおう復位するが、1670年には公国はフランスの占領するところとなる。シャルルは結局ネーデルラント継承戦争に神聖ローマ帝国軍の一員として参戦、軍務の間に死去した。

屈辱の時 
 
1634年11月8日、リュネヴィル市民のひとりひとりが、ルイ13世への忠誠誓約書に署名した。この時すでに、メッスにはフランスの高等法院、ナンシーとリュネヴィルにはフランス王室の総督が配置されていた。

 
小国ながら大国何者ぞという自立心が強く、誇り高かったロレーヌ人にとって、このフランス王への忠誠誓約は屈辱そのものであった。住民の中には、ロレーヌ公への忠誠を抱き、署名を拒否し、国外逃亡した者もいた。英明で武運に恵まれ、外交に巧みであった歴代ロレーヌ公と比較すると、凡庸で経験に乏しく、策謀に走りがちな君主であったが、公国の住民にとってはわれらが君主だった。 

 市の名士たちに連なって、画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールも表向きは迷いも見せることなく率先署名していた。しかし、画家の内心もロレーヌとフランスの間で揺れていたことだろう。その後の画家の生き方からその動きをうかがうことができる。

 

 

 

 

 

Q; さて、この短いフレーズの意味することは? お分かりの方は立派なロレーヌ・マニア(笑)かもしれません。

 

 

 

 

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