風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

斗南藩のこと

2013-03-18 23:18:12 | 会津藩
斗南藩立藩に関しては、一藩丸ごと流罪に処したのだ、との話がまことしやかに伝えられていますが、本当にそうなのか?この問題は、会津の方々が未だに薩長を赦せない気持ちでいる大きな原因の一つであり、とても重要なことなので、素人ながら私なりに掘り下げてみたい。

会津戦争の敗北を受けて会津藩は滅藩処分を受け、藩主・松平容保は永預け(預けとは謹慎、永は無期限という意味ですから、今でいうところの無期懲役です。後に解除され、自由の身となりますが)藩士たちは数グループに分けられて、集められ、やはり謹慎処分となりました。
しかし翌明治2年(1869)容保の側室に嫡男・慶三郎が生まれたことから、この慶三郎に会津松平家の家名を相続させることが許され、奥羽のいずれかの地に、新たに三万石の領地が与えられることになります。
翌明治3年には、新領地候補として元会津藩領の猪苗代か、元南部・盛岡藩領の北東部(現・青森県東部)の地か、いずれかの選択をするよう沙汰されます。結果、元南部藩領が選ばれました。
この、後に「斗南」と呼ばれる地を選んだのは、他ならぬ元会津藩士なんです。これに関しては、明治政府が強制的に斗南に流したのだ、と思われている節があり、かくいう私も数年前まではそう信じていました。しかし様々な資料をみて総合的に判断すれば、強制移住はあり得ない。斗南を選んだのは、ほかならぬ会津藩士自身です。

ちなみにこの「斗南」という地名は、「北斗以南皆帝州」つまり北斗星より南はすべて帝の治める州であるという漢詩文に由来すると言われており、北の果てでも北極星よりは南、天皇の治め奉る国の中であることには変わりない、という意味が込められているとか。

さて、三万石と言われた斗南の地ですが、明治3年、実際に入植してみると三万石など真っ赤なウソで、実高は7千石程度、会津は騙された、薩長は会津を騙したのだ、ということで会津側の薩長に対する怨みの念は益々強まって行く。
しかし考えてみれば、斗南を選んだのは会津側だし、もう一つの選択肢猪苗代を選ぶ手だってあったはず。猪苗代は元々会津藩領でしたから、どのような地か、よく知っているはず。実際、猪苗代移住を主張する一派もおり、鬼佐川と謳われた猛将・佐川官兵衛もその一人で、官兵衛は斗南に移りませんでした。なぜ猪苗代を選ばなかったのでしょう?
猪苗代は新政府の拠点東京に近いので、監視されているようで嫌だとか、幕末期に庶民に対し過酷な税を課していたので、一揆を起こされては困るとか、色々理由はあったようです。
しかしそれ以上に大きな決め手となったのが、元会津藩京都公用方の広沢安任の意見だったのではないか。というのも、広沢安任はかつて文久年間の頃、所要でこの斗南の地を訪れたことがあり、その時見聞した地勢人情等から、新天地として開墾するに相応しい土地だと判断していたんです。この安任の意見に、安任に近しい山川浩や梶原平馬といった影響力の強い者たちが同調した結果として、斗南が選ばられたらしいのです。
つまり、斗南がどういう所なのか、ある程度は予め知られていた、という推論が成り立つのではないでしょうか。

斗南藩領となったのは三戸・五戸付近と、北へ跳んで下北半島北端部、現在のむつ市周辺や大湊などの辺り。それと北海道の道南地域の一部です。この内三戸・五戸付近は戦国時代、南部氏が本拠地としていた所で、古くから開けた土地ですから、そんなに痩せ地ばかりだったとは考え難い。隣接の八戸藩は二万石ですが、実高は五万四千石あったといいますから、単純計算で見積もっても、7千石という数字は少々低すぎるような気がします。
下北半島の北端だとて、農業にこだわらず林業などに力を入れれば、まだ開発の余地はあった。実際、斗南藩権大参事として藩士達を率いた山川浩は、後にそう述懐しています。

石高と人口とはほぼ同数というのが常識的なのだそうで、三万石であったならば、適正人口は約三万人ということになります。この三万という数字は、武士だけでなく他の一般庶民も含めての話、この当時武士は全人口の数パーセント程度を占めるのが常態でしたから、三万石なら三千人以下、せいぜい二千人前後くらいが適正な数字でしょう。ところが旧会津藩士の入植者数は戸数にして二千、人口にして一万人だったといいますから、これは多過ぎます。いきなり一万もの入植者が入って、十分に賄えるような土地ではなかった、と考えられます。
元々会津藩は23万石でしたから、その数字に見合うだけの藩士達がいたわけで、それが三万石に減らされた。20万石も減らされたのです。そんな土地へいきなり約半数以上の藩士達が大挙移住したとして、賄い切れるわけがないんです。旧会津藩、斗南藩上層部は、その辺の読みが甘すぎた。すぐに開墾できると思っていたのでしょう。しかし寒冷地の開墾開発は、そんなに甘いものではなかった。
もっとも、寒冷地開発の甘い見積もりは、彼らだけのものでもありませんでした。明治政府も北海道開発を甘くみていたようで、後に痛いほど思い知らされます。幕末には坂本龍馬が蝦夷地開発に夢を抱き、榎本武揚の艦隊が北海道を目指したのも、蝦夷地を開拓して旧幕臣達による国を作る夢を抱いたからでした。北方開拓は、時代の共有した夢だったと言えます。

斗南藩の失敗は明治政府の策謀などではなく、藩士達自身の見通しの甘さにあった、といえるのではないでしょうか。

しかし当の藩士達にしてみれば、選択肢に斗南を入れた新政府が悪い。あのれ薩長いまに見よ!と怨みを募らせたのもまた人情。無理からぬことであったでしょう。

こうして見てみますと、この斗南藩の件に関しては、誤解と勘違いが恨みつらみを呼んだケースであることが見えてきます。誤解は早々に解かねばなりません。

後続の研究を待ちたいと思います。会津と薩長

両方の和解を推進する契機とするために。



参考文献
『山川家の兄弟 浩と健次郎』
中村彰彦著
人物文庫

『会津の悲劇に異議あり』
八幡和郎著
晋遊舎新書

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21 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (薫風亭奥大道)
2014-08-15 03:44:48
伊藤哲也さん、それは大変な発見ですね、さぞやご苦労なされたことでしょう。頭が下がります。
資料の御呈示、ありがとうございます。
斗南 (伊藤哲也)
2014-08-14 21:16:57
薫風亭大道さん、はじめまして。移住先を決めたのが明治政府です。猪苗代だと該当しません。史料は、「太政類典」。岡谷の資料、猪苗代移住説の資料ありますが、岡谷の願いも叶わず、猪苗代移住説の資料は該当しないものです。何故か。斗南藩の藩名の由来は明治中期から謎として様々な説がたてられました。何れも誤り。藩名の由来を見つけることができたので先月、『会津人群像№27』歴史春秋社に画像ともども掲載しました。100年以上の謎が改名されたのです。今までの藩名由来が全て誤りであったことも。
Unknown (薫風亭奥大道)
2014-08-13 04:57:00
伊藤哲也さん、はじめまして。
それは面白いですね。詳しくお伺いしたいですが、ここでは煩雑でしょう。もし資料があるのなら、御呈示いただけたなら、ありがたいです。
斗南藩史 (伊藤哲也)
2014-08-13 00:52:14
斗南藩史は残念ながら誤りが多い。まず、十和田移住説というものが移住に一切関わりないものです。会津人の移住先の選択権がないのですから。斗南藩の藩名の由来も違いますし。
Unknown (薫風亭奥大道)
2013-08-06 22:13:13
みなととなみさん、はじめまして。
はい、読んでません。ていうか、存在すらしりませんでした。
どうすれば読めるんですか?
Unknown (みなととなみ)
2013-08-06 15:22:15
あのー、斗南藩史ってお読みになられたでしょうか。

なんか、記述見てるとまず何よりの一次資料である斗南藩史全く読んでないんじゃなかって感じがするんですが…。
Unknown (薫風亭奥大道)
2013-06-09 22:38:40
joshさん、ありがとうございます。勉強になります。
斗南藩の人口 (josh)
2013-06-09 17:33:13
斗南藩の人口についてもデータは残っております。

まず会津藩士卒族の人口は、『青森県史』によると明治2年頃の時点で総人員2万1952人の内2072人は帰農しており、残りは1万9880人
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020353/34

最終的には1万7327人が移住したが、3300人は出稼ぎ・離散してしまい、廃藩置県時には1万4000人しか残っていません。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020353/94

一方、国立公文書館の「旧会津藩士斗南藩ヘ移封ニ付建言并届」によると総人員約2万人中、若松にて帰農した者は約2000人、東京にて職を得た者約1200人、態度保留約2000人で、1万4800人が斗南へ移住とあります。
http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?XSLT_NAME=frame&NO=10&BID=F0000000000000001065

史料によって人口が色々違いますが、国立公文書館の数字は2万人からの引き算で計算しているようなので、青森県史が数字が正しいとするなら、旧会津藩士約2万7327人の内、2072人は帰農、1200人は上京、1万7327人は斗南行き、残りの1353人前後は藩士の家族などとして帰農せずに若松に残ったが、やがて斗南に耐えられずに戻って来たものが増えて若松に残った人数は2千人に膨れ、といった感じでしょうか。

これに対して斗南藩の実際の人口は、『明治史要』の「使府軒戸口概表」によると、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773545/38
「1万5240戸 7万5467人」(後ろから二番目)
です。この人口にはおそらく斗南藩士族の人口約1万4000人~1万7327人が含まれるので、旧南部藩時代からの領民は約6万人程度でしょう。6万人の人口に対して3万5千石の実高というのは、もとも南部藩は北郡などのほとんど米が取れない地域に対しては税金が甘かったため(南部藩は一揆が多かったと揶揄されますが、一揆が頻繁に起こったのはむしろ米が取れる地域です)、石高も低目に設定されていたということです。また1石=1人の原則というのは、地域別でみると必ずしも成立しませんが、それにも関わらず斗南の地で領民が生きていけたのは、石高での評価の低いヒエの栽培のお陰と思われます。

以上をまとめると、斗南藩の実高は、表高とほぼ同じ3万石で、それに対する税収(現石)は7000石に過ぎませんでした。会津系作家の書いた本でもちゃんとしたものであれば、「現石が」7千石と銘記してますが、そうでない本は「実高が」7千石と書いて惨状を大げさに書きています。また逆に八幡和郎の本もいい加減です。

猪苗代か斗南かの選択に関しては、新政府側からの選択肢の提示があったとする同時代の史料が無く(あるのは広沢安宅『幕末會津志士傳稿本』などの回想)、疑問を投げ掛ける方(野口信一)もいるようですが、若松県大参事岡谷繁実の上奏案である猪苗代5万石(『史談会速記録』の岡谷繁実の回想)に対し、新政府は3万石の提示し(『太政類典』)、いつの間にか東京拘束組と新政府の間で斗南藩3万石が決定され、猪苗代拘束組との間に衝突があったという(『会津会会報』内の水島純の回想)の流れとなっています。

また斗南で会津藩士の多くが苦労したのは確かですが、そこには6万人の旧南部藩時代からの領民がおり、その人たちの生活が無視されています。当時の三戸の旧家が書き残した『万日記』によると会津藩士が起こした犯罪・事件が書き記され地元住民からは嫌われいたようですが、同じく当時の青森の廻船業者がまとめた『滝屋文書』などからは、逆に経済効果が生まれて喜ばれていたという、なんとも複雑な状況が読みとれます。

星亮一のように、巧みに文献を引用しているように見せかけて、独自の創作を加えて会津の被害を強調する作家も困りますが、八幡和郎のように元文献をちゃんとチェックせずにいい加減な論拠で話を進める人も問題ありです。
斗南藩の実高 (josh)
2013-06-09 17:04:17
始めまして、joshと申します
斗南藩の石高と人口について気になる点があったので書き込みます。
まず斗南藩の実高としてネットや書籍で「実高は7千石」であったとする説が広まっておりますが、これは正しくはなく、7千石とは「現石」、つまり実際の税収です。例えば『明治史要』の「知藩事表」によると、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773545/19
「斗南藩、草高3万石、現石7380石、家録738石」とあり、草高=表高3万石に対し、現石=収納高=税収7380石(原則として過去5年間の正租による平均税収)、家禄738石(知藩事が貰える収入で、原則として現石の1/10)となっております。

それでは実高はどうかというと、『青森県史』によると「3万3747石4斗6升5合」です。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020353/92
内訳は
3,969.416 二戸郡12村
22,048.680 三戸郡50村
8,729.369 北郡46村
34,747.465 合計112村(村数は原文ママ)

ちなみに旧八戸藩は
21,744.280 三戸郡78村
11,935.868 九戸郡38村
7,116.449 紫波郡4村
40,796.597 合計120村

実際の税収の方は明治4年において
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020353/84
米7310石3斗7升8合 (内、正租7095石8斗9升4合、雑税214石4斗8升4合)
金1万4503円13銭7厘 (内、正租100円94銭6厘、雑税1万4402円19銭1厘) (1円=1両として)
銭1万2489貫432文 (内、正租1789貫128文、雑税1万0698貫304文) (合計が2貫違うがママ)

現石7380石というのは原則正租からの収入のみですが、総税収の方は明治4年当時の物価(米1石=金5.63円=銭56.3貫)で計算すると1万0108石相当となります。またもともと斗南の地は南部藩ですが、安政年間の平均物価(米1石=金2両=銭20貫)で計算すると、上の税収は1万5186石相当となり、3万4747石の実高に対しては税率44%に相当し、南部藩の平均税率である4公6民にほぼ相当します。

なお斗南藩への移住開始時の見込み税収自体
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020353/32
「米7500石、金3000両」となっており、年貢による税収はほぼ予測通りで、むしろ生活環境が予測以下だったのでしょう。
Unknown (薫風亭)
2013-03-21 03:44:07
kozさん、ハハハ、私が案内すると、メチャメチャ長い薀蓄を聞かされるかもしれませんよ~(笑)
Unknown (薫風亭)
2013-03-21 03:38:52
ツクルさん、斗南に残った人もいれば、会津に戻った人、東京に出た人、北海道に渡った人、様々です。
斗南藩小参事だった広沢安任は、廃藩置県で斗南藩が消滅した後も、現地に残って牧場を開拓し成功しています。安任は斗南移住の言いだしっぺみたいなものですから、このまま戻るわけにはいかない、おめおめと引き下がったのでは、会津藩士は腰抜けだと思われる。
安任は安任なりに、会津武士の誇りを貫こうとしたのでしょうね。
Unknown (koz)
2013-03-20 17:29:35
薫風亭さん…、どうもありがとうございます。

敵味方なくすべての魂を昇華する…。
そんな深い愛の思いを込めて建てられた中尊寺に、いつか本当に参拝させて下さい。
その時は、薫風亭さんが案内していただけますか?(笑)
わーい、楽しみ~!!
何度も失礼しました(^-^;
Unknown (ツクル)
2013-03-20 07:03:48
会津から斗南に移って、そのまま会津に戻らなかった人達もいるのでしょうか?
青森の方って地元愛がとても強い印象あるので、こんな因果も影響しているのかな、なんて。
あっでも東北全土地元愛がある地域ですよね。
東京に憧れ持って来たけど、いわきが好きなのは変わらないって言ってた女の子いたっけ。
池内博之さんと万作さん?
いや私の池内博之さんは第一印象がGTOのオラオラ系の学生だったので、似ているかどうか考えたことがないっす(笑)
梶原平馬の余生も色々考えさせられますね。
もしかしたら西郷頼母を殺すよう命じたりしたんでしたっけ?だから藩で上手くいかなくなったのかな?なんて…。
本人の中では自責の念で生きたのか、それともひっそりと生きることを決意してそうしたのか分からないけど、一人一人の宇宙は色んなものが絡んで出来上がっているのだろうな。
Unknown (薫風亭)
2013-03-19 22:36:50
kozさん、ありがとう。
薩摩の先人の方々にも、さまざまな想いはあるでしょう。私は、会津の先人の方々も、薩摩の、長州の先人方も、みんなみんな、昇華させてあげたいと思います。敵と味方の区別なく、すべての魂の昇華を思う。これは、奥州藤原氏初代・藤原清衡が、中尊寺供養願文に込めた思いです。私もこの思いに連なりたい。東北人として、日本人として、人間として。

kozさん、もう一度言わせてください。
ありがとう。
あなたは優しい人だ。
Unknown (薫風亭)
2013-03-19 22:25:45
カイロミさん、会津松平家の家名存続については、おそらく明治天皇の御叡慮があったのではないかと思います。容保公の勤皇ぶりは、親王時代の明治天皇にも届いていたのではないか。そんなことを思っています。

会津にだって、色々問題はあった。人間ですからね。そういうところをなるべく冷静に見て行かないといけない。どちらか一方だけが良いの悪いの言い合ったって、解決しないんです。
Unknown (薫風亭)
2013-03-19 22:10:24
和産さん、行くっきゃないぜ!
Unknown (薫風亭)
2013-03-19 22:09:27
よしの@さん、人生甘からず、辛からず、美味からずですねえ…って、ダチョウ倶楽部か!〈笑)
Unknown (koz)
2013-03-19 15:55:40
こんにちは。
私は難しい事は何も分かりません。
ただなんとなく、自分の良心が、私のご先祖さまたちがしてきた事が間違っていた、人様の恨みをかうようなことをしてきたというのが解るだけです。
会津の方々には、本当に申し訳ない気持ちで一杯です。
ただ、こうして薫風亭さんのブログで、なぜ私がご縁があって訪れるようになったのかと、思いをめぐらせた時、きっとご先祖さまは、この事実に今もって良心の呵責に苛まれているのだという事を、私を通して、縁ある会津の方々にお伝えしたいと思っていると勝手ながら思うのです。
私もこの度のことで、お隣の国のことを、初めて立場をかえて見る事が出来たような気がします。
大好きだと思っていた国…。
でもたくさんの過去から現在に至るまでの赦し難い事実を知って、すごく裏切られて赦せない気持ちでいっぱいでした。
でもこの度、自分の立場が加害者側に立ってみて初めて、その恨みも溶けていくような気がしたんです…。(勿論、まるぞうさんの4つの魂に感謝の記事が大きいですが)
なんだかとりとめもない話になってしまいましたが、薩摩は今、とても反省しています。
少なくとも、私一人だけでもです。
立派な会津藩士達の事、美しい会津の心、決して忘れません!!
ありがとうございました。
Unknown (カイロミ)
2013-03-19 13:23:49
感情的にならず、正しい歴史のお話、ありがとうございます。なぜ、行った人と残った人がいたのか・・・疑問に思っていました。わずかでも、夢を持って行かれてたのですね。先の事は、誰にも分からないです。会津松平家が存続したのは、保科正之公の御蔭なのかな~なんて思いました。だって、彼は大名のお取潰しが少なくなるよう取り計らったのでしょう?立派な方々です。
Unknown (和産)
2013-03-19 08:48:51
職業、選択の自由、アハハンU+2669というCMが昔ありました。何故自分はここに来てしまったのか?来ちまったものはしょうがない。問題はこれからだ。AかBか?いや、それとも…AKBも、有り?右にも左にも行きたくないから、道を作ってでも直進するぜ?なんとなく見えて来ました。が、言うは易し…か。ありがとうございます。
お疲れ様です。ありがとう御座います。 (よしの@)
2013-03-19 04:47:05
東北人のひとりとして、私個人的に納得しました。あるある、私、何度も間違い、甘さ、おお甘さと思いました。いろいろで、影響するのですかね?違いが楽しいです。
ありがとう御座います。お疲れ様です。m(__)m。

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