風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

映画『ゴジラ対へドラ』 昭和46年(1971)

2014-02-26 20:19:05 | ゴジラ


昭和45年(1970)特撮の神様、円谷英二氏監督の逝去の後、東宝は特撮部門を大幅に縮小します。

特撮関係のスタッフたちは、辞職して自分達で会社を立ち上げたり他の部門に異動したりと、大リストラが敢行され、伝統ある東宝特撮の火は消えるかに思われました。

当時の日本映画界は危機的状況にあり、東宝としては会社が生き残るために、金のかかる特撮部門を会社から切り離す決断をしたのです。

しかしプロデューサーの田中友幸は、こんな大変な時期だからこそ、もう一度ゴジラに賭けようと思い、70年の大阪万国博覧会の三菱未来館で、故・円谷監督の助手をしていた坂野義光に依頼、坂野氏は依頼を引き受け、当時社会問題となっていた公害によって生まれた怪獣とゴジラが戦うという企画を立案しました。

それが『ゴジラ対へドラ』です。

坂野氏は第一作目の『ゴジラ』を相当意識していたようです。一作目が原爆の恐怖をテーマとしていたなら、今回は公害の恐怖だ、ということでしょう。

しかし先述したように社の財政は逼迫しており、相当安い製作費で作らなければなりませんでした。当時スタッフに関わっていた川北紘一氏は、こんな安い製作費でどうやって作れっていうんだ?と、暗澹たる思いだったとか。

そんなこんなで制作された『ゴジラ対へドラ』ですが、シリーズ中屈指の「異色作」となっています。



                     




宇宙から飛来した生物が、公害によって汚染された海のヘドロの中で怪獣化し、「へドラ」となります。

このへドラのデザインを見ていますと、私はある映画を思い出すんです。

なんか、ベタッとしたものが貼りついていて、目がギロッとしていて、ずるずる引きずるような歩き方をするんですね。なにかピンと来ません?

そう!あなた正解です!…って誰だよ(笑)

そうです。映画『リング』の貞子です。

案外貞子の原型はこのへドラなんじゃないの?なんて秘かにほくそ笑んでます。変な奴…(笑)

なんかね、へドラって憎悪と苦しみの塊のような気がするんです。こいつを見ていると、他の日本の怪獣にあるような悲哀がない。あるのは憎悪、そして延々と続く苦しみ。私にはそう感じられるんです。

へドラはいってみれば「怨霊」なんですよ。そういう意味では、貞子との共通点もあるわけですね。

では何の怨霊なのか?どうもそれがはっきりしない。公害によって汚染されてしまった、海や空に、大地に生きる者達すべての怨みの結晶、とでも言ったら良いのか。よくわからんのですが、でも間違いなく、こいつは怨霊です。

その怨霊をゴジラが祓い、鎮め、成仏させる。まあだから言ってみれば、この映画のゴジラは弘法大師か安倍晴明ですね…って、うーん、自分で書いててわけわからなくなってきたぞ、いいのかこれで!?



続けましょう。映画全体の出来としては、一言でいって「素人臭い」ですね。前衛的と言えば聞こえがいいですが、なんだか学生監督が撮ったような素人臭さがあって、アニメーションを入れたみたり、マルチスクリーンを使ったりと、色々小技を駆使してるんですが、正直鬱陶しいです。

頑張っているのはわかるんです。少ない製作費でいかに面白く見せるか、一生懸命に考えたんでしょうね。でも残念ながら、うまくいってないですね。

ただ、70年代という時代の重苦しさというものが、映画全体からにじみ出ており、この時代の空気を感じるには絶好の映画かもしれません。子供の頃に観たら、トラウマになったかも知れない。それほどの重苦しさがあるし、子供にとってはかなり怖い映画だったでしょうね。

ストーリー展開もかなり雑です。主人公格の青年(柴俊夫、当時柴本俊夫)があっさり死んじゃうし、自衛隊は右往左往するばかりでほとんど役に立たないし、ほとんどゴジラが一人で、祓い浄めをやっちゃう。場面と場面の繋ぎが唐突すぎるし、もうちょっと丁寧に繋げよ!と言いたくなります。

大体ゴジラは何故、へドラを「祓い」にやってきたのか?単純に人類の味方だからということではないようです。へドラを祓った後に人間達をギロッと一睨みしてから去ってゆく。「二度目は助けてやらねーぞ」と言っているように見えます。まあ人類のためというより、地球の、日本の環境保全の為やってやったぞ、これからはちゃんとしろよ、という感じでしょうか。



総合的には、映画全体の作りはかなり雑、ただへドラという「怨霊」の存在感だけは半端なく凄い。インパクトという点だけで言えば、ゴジラシリーズ中屈指のインパクトを放っているといえるでしょう。


「怨霊」は祓われました。しかし海には、早くも新たな怨霊が…。公害を無くさない限り、第二第三のへドラが現れるというオチは、近年のホラー映画のエンディングを連想させますね。やっぱりへドラは怪獣と言うより、怨霊ですね。




『ゴジラ対へドラ』
制作 田中友幸
脚本 馬淵薫
   坂野義光
音楽 真鍋理一郎
特殊技術 中野昭慶
監督 坂野義光

出演

山内明
川瀬裕之
木村敏恵
麻理圭子
柴本俊夫
吉田義夫

中山剣吾
中島春雄

昭和46年 東宝映画




そうそう、この映画でゴジラは、なんと空を飛んじゃうんです!

放射能火炎を推進力にして、後向きに空を飛んじゃう。

是か非かは、あなた次第。

萌えの『神話』

2014-02-23 14:08:03 | あまちゃん
  

                    




扶桑社刊による、あまちゃんファンブック 『おら、「あまちゃん」が大好きだ!』を御存じでしょうか。実に深いです。機会があったら是非にもお読みすることをお勧めします。PART2まで刊行されてます。


 



その中で、「文科系芸人」と謂われるプチ鹿島、マキタスポーツ、サンキュータツオのお三方が繰り広げる『オレたちの「あまちゃん論」』が実に面白い!

一部、引用させていただきます。

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タツオ:僕は、今回の「あまちゃん」を、アニメオタクとして受容しているんですよね。今、マキタさんが指摘した少女の成長モノっていうのは、アニメでも主要なテーマとしてあるの。だからアニメをいっぱい観てる人って、割と朝の連ドラ見てるんですよ。その視点から見ると、「あまちゃん」における能年玲奈というのは、もう完全な萌えキャラなんですよ。なぜかというと、性のニオイがほぼしない。本当に萌えキャラ化してるんです。

鹿島:これ、公で言うとお叱りを受けるかもしれないけど、2000年代以降、モー娘。とかが現れて、30代、40代のいい大人が10代の少女に対して、大きな声で「大好き!」って言っている風潮が、どうしてもイヤだったんですよ。10代の男が10代の女の子にハマるのはいいんですよ。いい年した男が、大きな声で論壇で語るのって何それ、気持ち悪い!って、ずっと思ってたんです。ところがこの「あまちゃん」を見たら、能年玲奈って異性感が一切ないんですよね。じゃあ父親的な温かさで見てるかっていうと、そうでもない。なんか、ずっと見ていたい、ずっと癒されたいみたいな……。

タツオ:鹿島さん、それが「萌え」なんだよ。

鹿島:そうなんですか!?

タツオ:それが「萌え」ですよ、鹿島さん!嬉しいな、気づいてくれて。

鹿島:だから俺、「あまちゃん」のおかげで、今ようやく、10代の女の子を性の対象じゃなくてね、ただ「がんばれ」と見守る。それを受け入れ始めた自分がいるわけです。
(以上、引用終わり)

*********************************


                   



「萌え」とロリコンとは似て非なるもの、というよりは全く違うものだ、ということはなんとなくわかっていました。上記の文章を読んで、それがより明確になったわけです。

押し並べて少女というものには、「神聖性」が付いて回っているものです。その神聖性を守りたい、という感覚が「萌え」なのかもしれない。これは少女をSEXの対象として視る「ロリコン」とは真逆のものです。

しかし両者は混同されやすい。そこが困りもの。

「萌え」とは、神聖性に対する原初的な回帰衝動。とでも言っておきますか。それは時に、「応援」というかたちを持って表される。それが少女アイドル。

なんか、「アイドル論」みたいになってきたなあ…。




例えば、宮崎駿がその作品世界で、繰り返し少女を主人公にした作品を作り続けたのは、やはり少女の神聖性にこだわったから、だと言えましょう。

中でも顕著なのは『ルパン三世 カリオストロの城』です。普段は女性を性の対象としか見ていないように思えるルパンが、神聖なる少女クラリスを守るため獅子奮迅の戦いに挑んでいく。それは次元や五エ門、銭形警部にいたるまでの、「良い齢をした」オッサンたちをも惹き込んで、その神聖性を破壊せんとする悪党、カリオストロ伯爵に立ち向かってゆくわけです。

かくして『ルパン三世 カリオストロの城』は神話的作品として語り継がれ、クラリスは萌えの「神」としての地位を揺るぎ無いものとしている……ちょっと大げさ?

まあとにかく、「萌え」という感覚は、ある種の「神話」を求めている、といえるのではないでしょうか。



さて、この神聖性ですが、それぞれの少女の個性やら環境やらで、早々と消えてしまう子もいれば、長く保ち続ける子もいるわけです。

極まれに、20歳を過ぎてもその神聖性をずっと保持し続けている方もおられます。

それが我らの能年玲奈であり、そして

浅田真央です。

我々は一人の神聖な少女が、一度どん底にまで落ち込んで、一夜にしてそのどん底から不死鳥の如くに飛びたつ場面に居合わせました。我々は、「神話」が誕生する瞬間を目撃したのです。

なんと幸福なことか。

忘れていけないのは、この神話の誕生のきっかけとなったのは、SPにおける失敗があったからこそです。あれがなければ、神話とはなり得ませんでした。

人生、何が良いことで、何が悪いことかなんて、本当にわからない。良くするも悪くするもその人次第。

究極的には、「悪いこと」なんてなんにもないんだね。究極的にはね。

多くの日本国民がこの「真央神話」の誕生に感動し、感謝しています。いや日本だけじゃない、世界中から讃辞が寄せられています。

物理的なメダルは無くとも、間違いなく彼女は、

金メダリストです。



能年ちゃんから真央ちゃんへ





「神話」とは人々の間で作られ、人々によって語り継がれていくもの。

「真央神話」もまた、長く長く、語り継がれんことを。




「あまちゃん神話」もね(笑)



                 

                  岩手県のゆるキャラ「そばっち」と 




        


真央ちゃんと『あまちゃん』と

2014-02-22 14:37:26 | あまちゃん


             


世の中が真央ちゃんで沸騰している中、色々と忙しい私は、未だ真央ちゃんのフリーの演技をちゃんと見れておりません。だ・か・ら・なーんも言えまへん。

で・も・ようやくレンタル出来た『あまちゃん』DVD第八巻はちゃんと見てるんだよね~。正確には第16週「おらのママに歴史あり2」の半分までですけど。

そう、『あまちゃん』は観られても、『真央ちゃん』は観ていないという…国民の皆様、ゴメンナサイ!



              




第16週「おらのママに歴史あり2」はドラマの流れの中でも重要なポイントです。

アメ女の国民投票(AKBの総選挙のパクリ)によって最下位になってしまったアキ(能年玲奈)は、解雇こそ免れたものの、すっかり意気消沈してしまって、折から正月だったこともあって、4か月ぶりに北三陸に帰省するんです。

再会したアキとユイ(橋本愛)ですが、4か月の間にすっかりグレてしまったユイと激しく言い争ってしまう。

二人はこの時はじめて、この4か月間どんな思いで過ごしてきたかをさらけ出すんです。視聴者でさえ知らなかった気持ちをお互いにさらけ出して、ぶつけ合って、言わなくてもいいことまで言っちゃって、傷つけ合って…。

でもその後、双方ともに後悔するんです。ユイは春子(小泉今日子)に縋り付いて、「アキちゃんを傷つけちゃった…」と泣きじゃくり、アキは一人、ウニ小屋の中で立ち尽くす。

でもこのくらいで二人の絆が切れることはないんです。ユイはアキだからこそ気持ちをぶつけられたんだし、アキもユイだからこそ、それを逃げずに受けた。逆に二人の絆の深さを確認できたと言っていい。

上手いよねえ、この辺の展開。



なかなか東京へ帰ろうとしないアキのもとへ、マネージャーの水口琢磨(松田龍平)が東京から駆け付けます。

「どうして電話に出ないんだ!」

何度電話しても出ようとしないアキに業を煮やし、わざわざ北三陸までやってきたんですね。しかしすっかり自信をなくしているアキは「どうせ数あわせだべ」「おらじゃなくて、可愛い方のユイちゃんを連れて行けばいいべ」とスネてしまっている。

しかし、アキの携帯に18件もの留守電メッセージが入っているのを知り、アキは驚いてそのメッセージを再生します。そこには水口の「君はGMTに必要だ」というメッセージや、他のGMTメンバーからの帰ってきてコール。無頼鮨の大将・梅頭(ピエール瀧)の無言(?)のメッセージ。安部ちゃん(片桐はいり)の「お土産買ってきて」の伝言。そして鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)からの「あなた田舎に帰ったんですって!?はっ!ちゃんちゃらおかしいわ!」という愛情溢れる(?)メッセージ等が延々と入っているんです。

私はこの留守電のシーンが大好きで、ベスト3に間違いなく入る名シーンです。自分が思っていた以上に、自分は皆から必要とされていたことを初めて知ったアキ。そしてユイからの後押しもあって、アキは再び東京へ戻ることを決心するんです。



一度どん底まで落っこちて、周りの人達の助けがあって這い上がってくる。そういう時、人は初めて、自分が周りからど思われていたかを知るんですよね。それはつまり、その人の日頃の行い、日頃の在り様の表れです。

その人の普段の生き方の表れです。





真央ちゃんがSPで不本意な結果を出してしまった後に、多くの方々、特に同じスケーターの方々から続々と激励のメッセージを送られていたことを聞き、まさしくこれは、真央という人の生き方の表れだなと思いましたね。



人生は結果じゃないね。経過だね。




『あまちゃん』の登場人物というのは、実はなにかを成し遂げたということがない人たちばかりなんです。

アキやユイはもちろんのこと、春子もそうだし、大吉さん(杉本哲太)もそう、美寿々さん(美保純)なんか、過去に男関係で相当色々なことがあったようですが、結局成し遂げられずに田舎へ帰ってきた。

勉さん(塩見三省)は勉さんで、ずっと琥珀を掘り「続け」、琥珀を磨き「続け」ている。

ミズタクはミズタクで、アイドルを育てる夢、原石を磨く夢を追い続けてる。



『あまちゃん』というドラマは、未曽有の震災を挟んで、人々がどう生きたかを描いた、「過程」のドラマです。その過程のなかで、何かを成し遂げたという人はほとんど出てこない。

「結果」ではなく、あくまで人々の生きている様を描いているんです。欠点だらけで悪いところだらけの、それでもどこか憎めない、妙に愛嬌のある大人たちが、女の子たちの頑張る姿に励まされて、また励まして、そうやって持ちつ持たれつで、なんとなく助け合いながら、なんとなくうまくやっていく人達の物語。そんなもんだよね、それでいいんだよね、と思わせる物語。

つくづく人生ってのは、結果じゃない。過程だよという、今を生きる人たちへの「讃歌」なんだなということを、DVDを見直しながら日々感じておる次第です。

それと同じ「讃歌」を今回の真央ちゃんの顛末に見ました。

いや、フリーの演技は観てないんですけどね…国民の皆様、ゴメンナサイ!




            

              GMTリーダー入間しおり(松岡茉優)、足立ユイ(橋本愛)奇跡の2ショット!





            

              潮騒のメモリーズ紅白出場!ユイちゃんよかったね(涙)




            






いずれすべてはセピア色の思い出に変わり、消えて行く。

それでもその思い出は、必ず人生の糧となる。

魂の糧となる。

過程が糧、糧が過程…おお、ダジャレになってる!なんか感動~…って、そういうオチかい!                    

映画『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』 昭和44年(1969)

2014-02-19 15:39:27 | ゴジラ


『怪獣総進撃』をもって、怪獣映画路線は一旦幕を引く予定だったようです。

69年にアメリカとの合作特撮映画『緯度0大作戦』を公開、怪獣に頼らない特撮路線を目指すかにみえました、が、思ったほど観客動員を振るわず、東宝は急遽怪獣映画路線を復活させます。

折しも円谷英二特技監督の体調がおもわしくなく、制作期間もほとんどない中、過去の特撮ライブラリーからシーンを繋ぎ合わせ、時間と製作費を短縮させるというかたちで制作されたのが、この『オール怪獣大進撃』です。





物語は気弱なイジメられっ子が夢の中でミニラと“会話”を交わし、怪獣たちの戦いに関わっていくなかで、徐々に勇気を得て行くという話。

少年の現実世界と夢の世界が交錯し、少年は現実世界で「ガバラ」という仇名の子に虐められており、夢の世界ではミニラが、怪獣「ガバラ」にやはり虐められているという構図は非常にわかりやすく、少年は自身の姿の投影であるミニラが、ゴジラのスパルタ教育を受けながらガバラと戦う姿に励まされていくんです。




少年はある日、近所の廃工場で運転免許証を拾います。その免許証の持ち主がなんと、5000万円強奪犯の一味だったのです。

強奪犯たち(堺左千夫、鈴木和夫)らは少年を誘拐しますが、少年はミニラを思いながら勇気をもって逃げ出し、犯人たちを翻弄、異変に気付いた近所のおもちゃ発明家?(天本英世)の通報によって警察が駆けつけ、犯人たちは逮捕されます。

犯人たちが翻弄されるシーンは若干『ホーム・アローン』を想起させますね。案外この映画が元ネタだったりして(笑)




その後少年は、イジメっ子ガバラとサシで勝負をし見事勝利。少年は仲直りの印に、近くにいた大人に過激なイタズラを仕掛けます。

子供達はやんやの大喝采。少年はもはや子供たちのヒーローです。仕掛けられた大人はカンカンになって少年を追いかける。そこへ通りかかる少年の父親(佐原健二)。

父親が平謝りに謝っているのを知り目に、駆けてゆく少年たち…。そしてエンドマーク。




正統派の怪獣映画ではありません。だからこの作品はヒジョーに評判が悪い。でも作品的にはそんなに悪い作品ではありません。ただ、マトモな怪獣映画ではないというだけの話。

なんといっても本多監督の、子供たちに対する真摯な愛情が感じられます。子供向け映画ではありますが、決して子供騙しには陥っていない。ドラマは非常にしっかりと作りあげられており、本多監督は決して手を抜いてはおりません。

御自身が戦争や核の恐怖の象徴として生み出したはずのゴジラが、今や子供たちのヒーローとなっているという事実。その子供たちに「強くあれ」というメッセージを真摯に放っている。ジュブナイル映画として非常によく出来ています。言われているほど酷い作品ではありません。いや、ホント。



ただ思うのは、この当時と現在とでは、イジメの質というものが変わってしまったのかな、ということですね。

当時のイジメなど、現在から比べたらほのぼのしたものです。今はもっと、陰湿に変化してしまっている。

そういう意味で、残念ながら今の時代には合わない映画ですね…。





『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』
制作 田中友幸
脚本 関沢新一
音楽 宮内国郎
特技監修 円谷英二
監督 本多猪四郎

出演

矢崎知紀(子役)
佐原健二
中真千子

田島義文
当銀長太郎

堺左千夫
鈴木和夫
沢村いき夫

小人のマーチャン
中島春雄

天本英世

ミニラの声:内山みどり

昭和44年 東宝映画





昭和45年(1970)1月25日、特撮の神様と謳われた円谷英二氏が他界されました。享年68歳。


                 


一つの時代が終わりました。

雪に思うこと

2014-02-16 13:46:13 | 雑感


幼いころは雪が大好きでした。

早朝の雪が庭一面を白一色に染める。あまりに綺麗で、足跡をつけるのがもったいなくて、学校までなんとか飛び越えていけないものかと悩んだものです。アホですね(笑)

春先になると、頂上に雪を頂いた山々の威容を眺めるのが楽しみで、当時は小学校の通学路からよく見えましたから、下校時などによく眺めていたものです。気がつくと30分ぐらい見ていたりしてね。

大人になるにつれて、雪は面倒なもの以外のなにものでもなくなってくる。雪に慣れた地域にずっと住んでいると、雪の大変さはわかっていても、その美しさは忘れがちになります。


雪は「死」と「再生」の象徴です。それは恐ろしく、美しく、

ありがたいものです。


春の雪解け水が大地を潤し、多くの作物を実らせる。米どころに雪の多い地域が多いのはそういうことでもあります。雪は多くの災厄をも齎しますが、一方で多くの実り、恵みを齎す。

「死」あってこその「生」。「冬」あってこその「春」。「雪」あってこその「実り」。

雪を畏れ、そして感謝しましょう。








                       



音楽評論家の伊藤政則氏が「人間国宝」と讃えた、北アイルランド出身のギタリスト、ゲイリー・ムーアが亡くなったのは、2011年2月6日のこと。

彼が10代の頃の北アイルランドは内戦に明け暮れ、何千人という死傷者を出していました。もっとも多感な時期に自分の故郷がそんな状態だったことが、彼の心にどの様な影を落としたか、私にはわかりません。しかしながら彼の激しく物悲しいギタープレイから、その一面を窺い知ることができるような気がします。

ゲイリー・ムーアのギター演奏を聴いていますと、私にはある日本人のことが連想されるんです。

その日本人とは、津軽三味線奏者の初代高橋竹山氏です。

1音1音がクリアでミスがほとんどなく、テクニカルさとエモーショナルさのバランスが素晴らしく、音は力強く大きく、それでいて、どこか物悲しい。

そしてお二方とも、北国の出身であるということ、なにかを抱えているかのような佇まいを備えていることなどが、私の中での共通項として認識されているのでしょう。

初代竹山氏の演奏を聴いておりますと、激しい地吹雪の中を前のめりになりながら、必死に前へ進もうとしている人の姿が浮かんできます。1メートル先も見えないような地吹雪に見舞われながら、それでもひたすら前へ、前へと進もうとする人。

どんな逆境にあっても、進むことを諦めない。生きることを諦めない。そんな力強さ。それは高橋竹山、ゲイリー・ムーア両者の演奏の、もっとも深いベースにある部分なのかもしれない。なんてことを思いつつ…。


                         







ゲイリー・ムーアの命日は2月6日。はて、なにかお気づきになりませんか?

2月6日といえば、現在行われている冬季オリンピック・ソチ大会、フィギュア・スケート団体戦で、日本の羽生結弦がゲイリー・ムーアの曲「パリの散歩道」を、ショート・プログラムの楽曲として使用した日でもあるんです。

羽生選手は図らずも、ゲイリー・ムーア追悼の演技を行ったことになるんです。なんという偶然か!

羽生選手は東北、仙台の出身。その心には常に、被災地のことがあったでしょう。羽生選手がゲイリー・ムーアを選んだ理由は、そのプレイの持つ力強さ、逆境にあっても前のめりになって進もうとする姿勢に、被災地の人々の姿を重ね合わせたのかもしれない。自らもそうありたい、そうして被災地の方々のために出来ることをしたい。そんな風に感じたから、なのかもね。

いや、妄想妄想。          

栄光は誰のために

2014-02-13 12:49:47 | 雑感


まつりごとというものは、時に非情です。

より大いなるものを守るために、なにかを捨てなければならないこともある。時にはそれが

人の「命」であることも。


例えその人達の想いが純粋であったとしても、純粋であるがゆえに、駆逐されねばならないこともあった。

国の歴史とは、そうやって刻まれてきた一面もあるのです。

大いなる視点から見れば、みなそれぞれ自身の最善を尽くしただけ、良いも悪いもない。最終的にはすべて、大いなる「流れ」がすべてを決める。

しかしこの世の狭い視点では、それは「勝者」と「敗者」、「善」と「悪」とに色分けされてしまうこともある。

自身の純粋な想いを胸に、最善をつくしたのなら、結果はどうあれ、そこに本当は「勝ち」も「負け」もなく、「善」と「悪」もないのでしょう。

だから私は、純粋な想いとともに散って行き、「敗者」となった方々、「悪」と断罪された方々をこそ心に掛けたい。

勝者を称賛することなど誰だってやる。今更私がやるまでもないことです。

栄光とは、勝者のためだけにあるのではない。大いなるものを、守るべきものを守るため、最善を尽くして戦ったすべての戦士たちのためにある。

勝者を讃えることを否定などしません。大いにやるべきです、どうぞおやりなさい。お任せします。

私は、敗者の栄光をこそ讃えたい。

栄光は誰のために…。





「東京論」以来考えていたのですが、明治天皇の東京遷都は、我が国においては古来より繰り返してきた、一つの反射である「東西対立」というものを、御自身の存在をもって集束の方向に向かわせるという意図もあったのではないかと思います。

戊辰戦争とは、世界の流れの中で日本が生き残っていける国となるためには、ある意味必須だったとも言え、国が変わったことを示すために、旧勢力の象徴となってしまった会津藩は徹底的に潰されねばならなかった。悲しいことです。

明治天皇はその辺りのことを、かなり厳正に観ておられたのでしょう。大いなる流れの中で、日本が生き残って行くためにには、致し方ないことだと。

しかし戦は人の心に禍根を残す。事実維新後も、関東及び東北、特に東北には反政府的気運が燻り続けていたといいます。

日本が一つとなって進んで行かねばならないときに、このような禍根を残したままではよくない。

そこで、天皇を関東にお移し申し上げることによって、天皇御自身の存在をもって、人々の心を慰撫しようとされたのではないでしょうか。

東京遷都は政府側の意図が基本であり、そこに天皇御自身の御意志が働いていたのかどうかは分かりません。私は多少なりとも、天皇の御意志というのは、あったんじゃないかと推察させていただきたいです。

それは後年の東北御巡幸などをみましても感じられます。明治天皇は日本国中を御巡幸なされましたが、東北には二度に渡ってなされておられ、東北民衆の人心慰撫を心にかけておられた様子が窺えられます。

時に厳しく、時に優しく。

すべては国の為、国民の為。

その視点は常に大きい。凡夫の凡夫たる私になど、到底及ぶべくもない。

まさに「大帝」と御呼びするにふさわしいお方です。



時の流れにある意味「逆らう」かたちで散って逝かれた方々も、国を想い天皇を想う純粋さに遜色はなかった。

だからせめて私くらいは、そんな方々の栄光を讃えたい。

誰が罵倒しようと、誰が嘲り笑おうと、

私は彼らの栄光を讃え続けたい。彼らの無念を鎮めたい。いや、そんな大げさなことではなく、ただ心にかけていたいのです。想いを寄せていたいのです。

それがせめてもの、私にできること。

映画『怪獣総進撃』 昭和43年(1968)

2014-02-10 19:01:57 | ゴジラ
 

ゴジラ、ミニラ、モスラ、ラドン、アンギラス、バラン、バラゴン、マンダ、ゴロザウルス、クモンガ。さらにキングギドラ。

作品の枠を超えた、怪獣オールスター・キャストといった趣になってますね。最早なんでもアリです。

舞台は近未来。内容的には地球侵略ものと怪獣ものを合わせたもので、映画『地球防衛軍』と『怪獣大戦争』から基本アイデアをいただきつつ、多少スケール・アップした、といったところか。

監督には本多猪四郎氏が復帰。脚本にはSF系に強い馬淵薫氏を起用、さらに音楽には伊福部昭氏を再び起用し、かなり気合の入った作品に仕上がってます。

そうは言っても、初期の作品にあったような「大人の鑑賞にも耐えうる」ものとは成り得ていませんが、怪獣映画としては、結構いい線いってます。悪くないです。さすがです。

イラストレーター・小松崎茂氏デザインによるレトロカッコイイ宇宙ロケット、ムーンライトSY-3も大活躍!縦横無尽に飛び回り、まるでウルトラホークだ!

でも一番スゴイのは、なんといっても東京を守る首都防衛機構です。自衛隊でもなければ防衛隊でもない、「統合防衛司令本部」というのがあって、まあ、はっきり言えば「日本軍」なんでしょうけど、そうはっきりとは言えない情勢だったのかな。色々各方面に気をつかったのでしょうな。

で、その「統合防衛司令本部」による首都・東京防衛策がスゴイ!怪獣たちが攻めてくると、突然地面の一部が開いてミサイル発射台がせり上がってくる。ビルの屋上に砲台が、ロケットランチャーがせり上がる!まあ、東京まるごとウルトラ警備隊の基地みたいになってる、スッゲー!


ありえねーと言ってしまえばそれまでの話ですが、特撮ものには時々ハッとさせられることがありますね。時節柄、首都防衛ということについては、結構敏感になっている方々も多いでしょう。まるで今の時代を見越していたかのような発想には驚嘆を覚えます。

特撮ものというのは、有り得ない世界を描きながらも、その根底には常に、現実世界との繋がりを保っているものです。有り得ない空想の世界だからこそ、本来あるべき理想のかたちというものを、かなり誇張、デフォルメされたかたちで発信することができる。

だから、この通りにしろとは言わないけれど、ここには大いなる示唆が含まれているように私には感じられる。

都知事選も終わり、東京オリンピックを間近に控えた昨今、首都の防衛、防災、防犯は喫緊の課題です。関係者の方々は、是非とも一つの御参考に…って、本気かよ!(笑)

まあ、ほとんど冗談ですけどね。でも一つの発想としては、そんなに悪くないと思うなあ。




この映画をもって、ゴジラシリーズは一つの区切りを迎えたようです。この頃までのゴジラは、少なくとも人類の味方ではなかった。

この頃まではね。




『怪獣総進撃』
制作 田中友幸
脚本 馬淵薫
   本田猪四郎
音楽 伊福部昭
特技監修 円谷英二
特技監督 有川貞昌
監督 本多猪四郎

出演

久保明
田崎潤
佐原健二

小林夕岐子
愛京子

伊藤久哉
田島義文

黒部進
西條康彦

中島春雄

土屋嘉男

昭和43年 東宝映画







ムーンライトSY-3
(ダイモス製ガレージキット 飛行ラドン付)

東京論

2014-02-09 14:40:45 | 雑感
 

玲玲さんからお題をいただきまして、東京というものを考えてみました。

 


東京、東京ねえ…改めて訊かれると、結構悩みます。

東京といえば、東京タワー?古いか(笑)

そうそう、東京タワーといえば、ゴジラにしょっちゅう壊されているイメージがありますが、それは間違いです。

ゴジラが東京タワーを破壊したのは、たったの一度。

それも2000年公開の映画『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』での話。つまり昭和時代には一度も壊していないんです。

おそらくは色々な怪獣映画がごっちゃになってしまって、誤って伝えられたのでしょう。人の記憶は案外あてにならないものです。

東京タワーを最初に破壊したのは、昭和36年(1961)公開の映画『モスラ』です。

モスラの幼虫が東京タワーに繭をつくり、成虫に羽化する。その時に東京タワーが折れてしまう。これが最初なんです。

以後、東宝特撮映画では、東京タワーはほとんど登場しないんですね、『キングコングの逆襲』で、メカニコングとキングコングがよじ登って行くくらいでしょうか。あとは『…メガギラス』まで待たねばならない。

昭和ガメラシリーズでは第一作目で一回、東京タワーを破壊した他は、平成ガメラシリーズでギャオスが一度破壊した位しか例がないと思う。とにかく、東京タワーはそんなにしょっちゅう壊されてるわけではありません。

人の記憶とは、案外曖昧でいいかげんなものです。


                     




84年版『ゴジラ』では、出来立ての「有楽町マリオン」がターゲットになったし、91年公開の『ゴジラVSキングギドラ』では、東京新都庁舎が破壊されました。東京は特撮ランドマークの宝庫です。

しかし、東京随一のランドマークでありながら、一度も破壊されたことがない場所があります。

おわかりですね、それは「皇居」です。



日本の怪獣は、いわば大自然(国魂)の怒りの象徴です。

その国魂たる怪獣が、国魂の祭祀者たる天皇陛下のおられる皇居を、襲うはずがない。

陛下のおられる東京を襲いながら、決して皇居には手をつけない。この裏には、国魂からの強い警告が含まれているのかも…。

なーんてね(笑)




東京には、若い頃だったら一度くらい住んでみてもよかったかな、なんてことを思いますが、今はもう結構。

なんというか、東京の持つ「圧迫感」が苦手でしてね。電車なんかに乗ってますと、狭い隙間に詰め込めるだけ詰め込んだかのように、建物がギュウギュウ詰めに立ち並んでいて、今にも電車の上に倒れてきそうな錯覚を憶えてしまう。

東京に住むにしても、それこそ八王子とか多摩とか、あちらの方まで行かないと、とても住めそうにありません。都心は無理!

東京都心の街づくり哲学は、私には理解できませんね。申し訳ないですが。



まあ、どこに住もうが一長一短ありです。住めば都とも申します。自分が今いる所を愛しましょうってことで。

ただ東京は日本の首都、陛下のおわすところ。

日本の中心たるにふさわしい街であって欲しいなと。

では、そのふさわしさとは?

これがまた、簡単には言えないんだな(笑)

そのことは、都民の皆様一人一人が、日本国民一人一人が考えるべきことなんでしょう。

陛下がおわす、首都たるにふさわしい都市とは?

日本人全員の宿題ってことで(笑)


                  


こんなんでいいのかね?






シンプル

2014-02-06 13:45:45 | 雑感
 

物事はなるべくシンプルに考えたほうがいい…のではないかな。


 


自分が今生きているのは、自分だけの力ではありません。

遥かなる太古より連綿と繋がれてきた命の連鎖があって、その連鎖の中に先祖がいて、両親がいて、そして私たちは生まれた。

名も知らぬ、数えきれぬほどの多くの方々が築き上げ、時には犠牲となって繋げてきた文化、伝統の中に我々は生まれ、生きている。

そうして積み上げられてきた命、文化伝統の上に、我々の生は乗っかっているんです。我々が現在、比較的豊かで文化的な生活を送れているのは、そうした名も知らぬ数えきれぬ人々が連綿と積み上げてきた繋がりの上に成り立っているのです。

誰一人として、自分だけで今の生活を送れているわけではありません。

自分は一人でいるのではない。名も知らぬ数えきれぬ人々が積み上げてきたものの上に「生かされて」いるのです。

そう考えたなら、先祖や先人達に感謝するのは極々当たり前のこと、先人たちが築き上げ、繋げてきた文化伝統を大切にし、守ってきたこの国を大切に思うのは極々当たり前のこと。

先人たちが守り通した「天皇」を御尊崇申し上げるのも、極々当たり前のこと。

故郷を大事にしたい、愛したい、守りたい。

人として、極々当たり前の想いです。



泥棒が入らないように鍵をかけるのは、極々当たり前のこと。

私は泥棒をしませんから、我が家に泥棒は入りません。なんてことあるわけないでしょ?

そうやって鍵を開けっ放しにしておいて、泥棒に入られてからあわてて鍵を用意しても、もう遅い。

入ってきた泥棒が、蓑火の喜之助みたいな人だったらまだいいけど、葵小僧だったらどうするの?命ないよ。女性は辱めを受けるよ。それでいいの?って話…「鬼平犯科帳」読んでない人、観てない人にはわからない話だね、コレ(笑)笑いごとじゃありませんけどね。

防犯のため、用心のため、余計な話は外に漏らさない。これも極々当たり前の話。

百万の屁理屈よりも一つの真実。やはり物事はシンプルに考えた方が良い。



あの~、政治の話なんかしてませんからね。極々当たり前の常識をお話しているだけです。

政治寄りのつまんない(失礼!)コメントなど、寄こされても迷惑ですから、その手のコメントは他所へ回してくださいね。まあ、来ないだろうけど(笑)

私は基本、能年ちゃん話とゴジラ話さえ出来りゃそれでいいのだから…(笑)










映画『舟を編む』

人が生きるという事の、一つのお手本がここにあります。

よければどうぞ。お薦めです。




加藤剛さんがいいんだ。


映画『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』 昭和42年(1967)

2014-02-03 13:32:52 | ゴジラ
 

ついにゴジラに子供が出来てしまいました。

戦争の恐怖、原水爆の恐怖、そして大自然の怒りの象徴として現れたゴジラでしたが、徐々に怪獣対決物へとシフトしていき、宇宙侵略物とリンクし、南洋の島に棲む魔神の如くになり…

もはや恐怖の象徴とも言えなくなってしまったゴジラ。ネタが尽きたわけではないでしょうが、行き着いたのは極めて日本的、浪花節的ともいえる「親子物」でした。



内容としては、食料危機解消のために気象をコントロールする実験を南の島で行うという、かなり自然破壊な内容で、その影響でカマキリが巨大化してカマキラスになっちゃったりするわけですが、そうした環境破壊に対する反省がほとんど描かれておらず、その点が中途半端というか、少々不満なところです。

当時はまだまだ「科学万能主義」的な考えが幅をきかせていたわけですが、そこへ一石を投じるのが怪獣映画の一つの役割でもあったわけで、そこがなんとも、もどかしいところです。



それはともかく、ドラマとしては概ねよくできており、高島忠夫以下出演陣は東宝特撮映画の常連さんでほぼ固められており、安心感があります。この点は当時の東宝特撮映画の強みですね。



特撮としては、なんといってもカマキラス、クモンガの動きでしょう。マリオネットの要領で、ピアノ線で動かしているのですが、この動きが実に細かい!ピアノ線を操ることを「操演」というのですが、操演のスタッフだけでは足らず、照明さんとか手の空いているスタッフが総動員されて細かい動きをつけたようです。

苦労の甲斐あって、CG以前の、ピアノ線のみの動きとしては最高峰でしょう。素晴らしいです。

CGを否定はしませんが、人力で作られた素晴らしい映像というのは、実に楽しく、ありがたいものです。



ラストシーン。南の島に雪が降る中、ゴジラとその息子、ミニラが抱き合いながら雪に埋もれて行くシーンは、哀切たっぷりに描かれており、南洋の島に雪を降らせるなどとという暴挙に対する、ある種のアンチテーゼも若干感じさせ(制作側は意識してないかも)、かろうじて納得した次第であります。




『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』

制作 田中友幸
脚本 関沢新一
   斯波一絵
音楽 佐藤勝
特技監修 円谷英二
特技監督 有川貞昌
監督 福田純

出演

高島忠夫
久保明
平田昭彦
佐原健二
土屋嘉男

前田美波里

黒部進
小人のマーチャン

中島春雄

昭和42年 東宝映画