風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

映画『日本沈没』 昭和48年(1973)

2014-03-30 19:39:43 | 特撮映画


SF作家・小松左京氏のベストセラー小説「日本沈没」。

元々の発想としては、「日本列島がなくなったら、日本人はどうなるのか?」という、逆説的な日本人論を展開させたかったようです。

その為の舞台装置として、日本を沈没させようと思った、ということなんです。

その物語の制作過程で、地球物理学に興味を持ち始めた。

物語は日本列島が沈んだ後、世界中に日本人が散って行ったところで終わりますが、小松左京氏は本当は、この後の話が書きたかったわけです。

日本列島が無くなって、世界中に散った日本人がどうなるのか?しかし結局、その後日談が小松氏御本人の手によって書かれることはありませんでした。あまりに壮大な話に、さすがの小松氏も筆が進まなかったようです。


ちなみに2006年、樋口真嗣監督によるリメイク版『日本沈没』が公開された折に、谷甲州による小説『日本沈没 第二部』が上梓されています。小松氏のオリジナルではなく、小松氏には最早、続編を書く気力も体力も無かったようです。

この小説では、散り散りになったとはいえ、日本政府は未だ存続しており、かつての日本列島の残存と思われる岩礁の存在を盾に、領有権を主張しているとか、まあ、読んでいないのでわかりませんが、小松氏が当初思い描いていたような「日本人論」たりえているのかどうか。

ちなみにこの岩礁。どうやら「白山」の一部らしいです。

面白いですねえ。



では、映画のストーリーを紹介。


*********************


海底探査艇「わだつみ」の操縦士・小野寺俊夫(藤岡弘)は、日本近海の無人島が沈没したことの調査のため、地球物理学者の田所博士(小林桂樹)を乗せて日本海溝の底へ潜ります。
小野寺たちは海溝の底で激しい泥流「海底乱泥流」が起きていることを目撃。なにやら容易ならぬ事態に発展しそうな予感に震えます。

折しも日本列島には地震が群発し、火山も噴火し始め、山本総理大臣(丹波哲郎)は田所博士を中心とした調査チームを秘かに立ち上げます。内閣調査室との連携によって組まれたチームは、日本の政治を裏から牛耳る謎の老人・渡(島田正吾)からの資金援助を受け調査を進めます。

その結果出された結論は、「日本はその大半が太平洋の底に沈む」


まさに、東京を大震災が襲います。

高架ごと一気に倒れる高速道路。次々と崩れ落ちるビル群。

逃げ惑う人々の上に降り注ぐガラス片。あちこちで火の手が上がり、東京中が火の海に包まれます。

隅田川に掛かる永代橋は崩落。堤防が決壊し、洪水に呑みこまれる人々。

下町の狭い路地で逃げ場を失った人々が炎に包まれていく。阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されていく。

逃げ場を求めて宮城前広場に集まる避難民。山本総理は宮内庁に命令します。「門を開けて、避難民を宮城内に入れて下さい!」

消火しようにも、消火剤が圧倒的に足らず、東京はなすすべもないまま、炎に包まれていく。

この震災による死者、行方不明者。

360万人。



山本総理は外務省の野崎(中村伸郎)以下の特使を世界各国に派遣、日本人の大量移民を要請します。戸惑う各国首脳陣。この問題は国連の議題にもなりますが、移民計画はなかなか進まない。そこで山本首相は自らが赴いて移民を受け入れてくれるよう、世界中を行脚します。これによってようやく計画は進展します。

小野寺はフィアンセの阿部玲子(いしだあゆみ)と、スイスへ渡る計画を立てますが、玲子が富士山の噴火に巻き込まれ、二人は別れ別れになってしまう。

加速度的に崩壊してゆく日本列島。ついに山本首相も避難していく中、渡老人と田所博士は日本と運命を共にすることを決意します。



シベリア特急の中、一人座席に座り、凍える外を寂しげに眺める阿部玲子。

アメリカの荒れ地を走る貨物列車に押し込まれている小野寺。

二人の運命は

日本人の今後は…。


*********************




東京大震災のシーンは、科学的考証に基づいてつくられており、阪神淡路大震災や、東日本大震災を経験した現在の日本人の上に、重く圧し掛かってくる映像と成り得ています。

まあ、ミニチュア特撮ですから、CGに比べたらそりゃあね、というのはありますが、ミニチュア故の「空気感」というものがあって、私はこれが好きなんです。

富士山噴火のシーンは、スタジオ一杯に富士山のミニチュアを作って、さらにカメラをスタジオの外に置いて、望遠レンズで撮影したそうです。

これによって、空気がぎゅっと凝縮されて、ミニチュアなんだけどただのミニチュアではない、ミニチュア・リアリズムとでも言うべきものが生まれるんです。

ミニチュア特撮にはこの空気感が大事、まあ、なんでもかんでも望遠で撮るわけではありませんよ(笑)富士山のシーンは、黒澤明監督の弟子だった森谷司郎監督の発案だったとも言われています。黒沢監督は望遠で撮るのが好きでしたから。



渡老人の手配により、数人の識者によって、日本人の脱出作戦の、いくつかの試案が作成されます。渡老人はそれを山本首相に渡し、一つの意見として

「このまま、なにもしない方がいい」

という意見もあった、という報告をします。

日本人はこのまま、日本列島と運命をともにした方がいい…これを聞いた山本首相=丹波さんの目にじわっと涙が溢れてくるんです。

深く共感しながらも、しかしそういうわけにはいかない。その意見を心にしっかり受け止めながら、脱出計画は粛々と実行されて行きます。

丹波さんという方は、決して「上手い」俳優さんではありませんが、ここ一番の見せ場に強い。涙を流すタイミングが絶妙なんです。流石です。




今改めて見直してみると、実によく出来た映画です。

むしろ今観た方が、より強く迫ってくるものがあるかも知れない。

科学的には、日本列島が沈没するなど有り得ないことになっていますが、なにが起こるかわかりません。大地は未だ鳴動を止めようとはしておりません。

「亡国」とは、なにも日本列島が沈むことだけだとは限りません。亡国の憂き目となりかねない危険性は常にあると言えるでしょう。

今一度、日本とはなにか、日本人とはなにかということを、日本人自身が考え直す。そういう時期が来ている気がします。この映画は、そうしたことの継起となり得る作品のように思われます。


もしも日本人が世界に散らばったとして、それでも日本人としてのアイデンティティを保ち続けるにはどうしたら良いのか。

かつてユダヤ人は、そのアイデンティティを保ち続けるために、ユダヤ教という宗教をその拠り所としてきました。しかし日本には、そのような宗教はない。

そんな宗教などではなく、極めて日本的で、日本人のアイデンティティの統合の象徴となりうるものはなにか?

おわかりですよね?そうです

皇室です。

日本人が皇室への尊崇の念を保ち続ける限り、日本人としてのアイデンティティは無くならないでしょう。

日本列島を沈没させることで、図らずも皇室の重要性が、日本にとって、日本人にとって、皇室というものがいかに大切かということが浮き彫りになった、といえましょう。



映画の中には、皇室は直接的には登場しませんが、日本政府というものの存立基盤は皇室無しには考えられないように憲法上も出来ているわけですから、やはり皇室の存在なしには、本来この問題は語れないはずがなんですね。

日本国家というもの、日本人というものを考え語る上で、皇室の存在は絶対に外せない。今、現代においてこそ、意味のある映画かもしれない。

なんてことを感じた次第。



機会があれば、是非にもご鑑賞あれたし。





『日本沈没』
制作 田中友幸
   田中収

原作 小松左京

脚本 橋本忍

音楽 佐藤勝

撮影 村井博
   木村大作

特技監督 中野昭慶

監督 森谷司郎

出演

小林桂樹
藤岡弘
いしだあゆみ

夏八木勲
中丸忠雄
神山繁
村井国夫
滝田裕介

高橋昌也
中条静夫
名古屋章
地井武男

垂水悟郎
鈴木瑞穂
中村伸郎

二谷英明
丹波哲郎

島田正吾

特別スタッフ

地球物理学(東大教授)竹内均
耐震工学(東大教授)大崎順彦
海洋学(東大教授)奈須紀幸
火山学(気象研究所地震研究部長)諏訪彰

昭和48年 東宝映画

映画『ゴジラ対メガロ』 昭和48年(1973)

2014-03-27 14:14:02 | ゴジラ


昭和48年頃といえば、テレビでは仮面ライダーシリーズや第二次ウルトラシリーズ、「ミラーマン」、「スペクトルマン」、「シルバー仮面」、「アイアンキング」、「流星人間ゾーン」、「ジャンボーグA」等々、特撮変身ヒーロー物が一代ブームとなっていました。

そのブームに乗っかるかたちで作られたのが本作品で、厳密にいえば「変身ヒーロー」ではありませんが、デザイン的にはそれを意識したロボット、「ジェットジャガー」が登場します。



ストーリーとしては、かつて海に沈んだ某大陸の末裔がひっそりと暮らしている海底王国「シートピア」が、地上人の度重なる地下核実験によって、生活を脅かされ、地上世界に逆襲しようと、怪獣メガロを使って攻撃するという話。

シーとピア人は日本の科学者、伊吹吾郎(佐々木勝彦)が開発した人型ロボット「ジェットジャガー」を奪い、メガロの誘導役(?)に使おうとしますが、伊吹が超音波を使ってこれを阻止、ジェットジャガー奪還に成功し、ジェットジャガーをゴジラの元へ向かわせ、ゴジラに支援を要請します。

これに答えたゴジラは日本へ、そしていつの間にか自己の意識を得たジェットジャガーは、自らの意志でメガロと戦うことを決意、なっなっなんと!どういうメカニズムなのか、いきなり巨大化?????して怪獣メガロに立ち向かいます。

シートピアはM宇宙ハンター星よりガイガンを呼び、ここにゴジラ、ジェットジャガー組対、メガロ、ガイガン組の世紀のタッグマッチのゴングが鳴る~!!




伊吹吾郎って、格さんかよ!?というツッコミはさておき、内容としてはとにかく子供の観客を愉しませることを主眼に置いており、細かいところのストーリーはいい加減で荒唐無稽、その代り怪獣バトルシーンなどは、プロレス技を大胆に取り入れたりして、結構面白く仕上がっており、また要所要所の特撮シーンは非常に見応えがあります。

冒頭の地下核実験シーン。地下といいながら地上がやたらと爆破されまくっていて、「爆破の中野」と異名をとった中野昭慶特技監督の面目躍如といったところ。その火薬量はハンパではなく、リアリティはともかくとして、迫力は凄まじい。

湖の底に裂け目ができて、水が吸い込まれてしまうシーンも、非常に面白く丁寧に作られていますし、ダムの決壊シーンは、屋外に巨大なセットを組んでドラム缶いっぱいに汲んだ水を押し流して撮影しています。まるで後年の映画『日本沈没』の予行演習のようなシーンですね。



子供向けエンタテイメント作品としては、よく出来ているといえるかもしれません。福田純監督は元々アクションの得意な監督で、格闘シーンやカー・アクションシーンも多く取り入れられており、とにかく子供達を飽きさせない、楽しませるという点に主眼を置いています。

その分、ストーリーの整合性等はかなりいい加減ですが、当時のゴジラ映画の置かれた位置というものを考えた場合、致し方なかったし、むしろ上手くいっていると言えるかもしれません。

こういう時期を乗り越えたからこその、現在まで繋がるゴジラの歴史が続いてきたのですから。



ただ一点、どうしても気になる部分があります。

それは、「シーとピア」の扱いです。

彼ら「シートピア」は、海底でひっそり静かに暮らしていたのに、その生活を脅かしたのは、われら地上に暮らす人間なわけです。

地下核実験に怒って攻撃してきたシートピア。

初代ゴジラもまた、核実験によって古代の恐竜の生き残りが突然変異を起こし、巨大狂暴化したもの。

この映画はそういう意味では『ゴジラ対初代ゴジラ』なんですよね。

なんだかね、ゴジラが初代ゴジラの在り方を否定しているようなかたちになっちゃってるのが納得いかないんですよね。

これどう考えても、非は地上の我々の側でしょ?なのに映画の中ではその点は便宜的に触れられているだけで、あまり問題にされていないように見受けられ、これはかつての「社会的テーマ」を必ず盛り込んできた東宝特撮映画としては、はっきり言って「堕落」なのではないかとすら思うわけです。




「ウルトラセブン」には「ノンマルトの使者」という傑作編があります。

海底に暮らすノンマルトが、実は地球の先住民であり、人類は侵略者だったという衝撃的な内容でした。

作品中では、事の真相ははっきりしないまま終わるのですが、その重いテーマは子供向けドラマの中でも十分に生かされていました。

シートピアには、このノンマルトのような存在感がまるでない。

ちょこっと出てきて、やられたらまたすぐ引っ込んで、籠っちゃう。

これじゃだめでしょ!?

もう少し、シートピア側の立場なり言い分なりを盛り込んだ内容になっていたら、作品的にも深みを増すし、それは子供たちの心にも、なんらかのかたちで残ったかも知れないのになあ。

その点、とても残念ですね。






『ゴジラ対メガロ』
制作 田中友幸
脚本 福田純
音楽 真鍋理一郎
特殊技術 中野昭慶
監督 福田純

出演 

佐々木勝彦
林ゆたか
川瀬裕之

大月ウルフ
ロバート・バンハム

高木真二
中山剣吾

昭和48年 東宝映画

本『線路はつながった ~三陸鉄道 復興の始発駅~』

2014-03-24 13:56:48 | 
  

                       



三陸鉄道は、岩手県沿岸部を走る、第三セクターによる旅客鉄道で、久慈と宮古を結ぶ「北リアス線」、釜石と盛を結ぶ「南リアス線」から成り立っています(宮古~釜石間はJR山田線により繋がっています)。

2011年3月11日の東日本大震災により、多大な損害を受けましたが、そのわずか5日後、3月16日には久慈~陸中野田間の運行を再開させます。

被害状況を視察していた時、被災者の方々が線路を道路代わりにして行き来していたことや、ガレキをかたずけていた方から「息子が高校に通うんだ。三鉄はいつ再開するんだ?」と訊ねられ、地元の方々のために、早急に復旧に務めようとする三鉄とその周辺の方々の活動が描かれていきます。



三陸鉄道は、ドラマ『あまちゃん』に「北三陸鉄道」として登場します。始発の久慈駅はドラマ内では北三陸駅。ドラマに登場する「袖が浜駅」は実在せず、撮影には海が最も綺麗に見える「堀内(ほりない)駅」を使ったとか、「おらと結婚してけろ」とペインティングされた電車の話、アキ(能年玲奈)とユイ(橋本愛)が駆けて行くトンネルの撮影秘話等々、『あまちゃん』ファンの方々も興味津々の話が載ってます。「奇跡の電車」の話とかね。



「奇跡の電車」を改装した「きっと、ずっと号」




三鉄の社長は「三年で全面復旧させる」ことを目標に掲げていたそうです。

スゴイですね、本当に三年目、今年の4月に全線開通に漕ぎ着けました。

会社の存続をかけたというのもありますが、なによりも地元の方々のために頑張った。

第三セクターの意地、見せてもらいました。



2014年、平成26年4月。

5日に南リアス線、6日には北リアス線が全線運転を再開します。

南リアス線にはレトロ列車、北リアス線にはお座敷列車も走るとか。

地元の方々が、待ちに待った再開です。



                  



『線路はつながった 三陸鉄道 復興の始発駅』

冨手淳(三陸鉄道旅客サービス部長)著

新潮社刊

雪とお彼岸

2014-03-21 21:58:14 | 日記


【暑さ寒さも彼岸まで】

とか言いますが、それにしても、積もるほどの雪が降るとは、とても珍しいです。



一口に岩手と申しましても広うござんして、岩手でも県北部、特に沿岸の方は、記録的な大雪だったようで、三陸鉄道(『あまちゃん』の北三陸鉄道のモデル)北リアス線は全面運休したとか。

私は岩手でも南の端っこの方に住んでおりまして、この辺りでも雪は降り積もったものの、さほどの量でもなく

予定通り、行ってきました。

お墓参り。

それにしても、お彼岸に雪など、80を過ぎた我が両親とも、こんなことは記憶にないとか。

やはり、気候は変化しているようで。




雪解け水でぐちゃぐちゃになった墓地内の道をそろそろと歩き、我が家のお墓へ。

体調の優れぬ母を家に残し、父と二人。オッサンとジイサンによる墓参りです。

墓石の上に残った雪を落とし、融けかけた雪で水浸しとなっていた床面を箒で掃いて水を落とし、簡易なお掃除完了。花とお水とお茶。お菓子にお線香をお供えして、ゆっくりと手を合わせる。

こうして手を合わせておりますと、不思議な感慨に打たれます。

今はこの世に存在しない、数えきれぬ程の名も無き多くの方々が、遥かなる太古より今に至るまで命を繋げてきて、私がいなくなった後も、やはり数えきれぬ程の、名も無き多くの方々によって繋がれて行く。

私という命は、その大いなる命の流れの、ほんの一部だ。

命とは私一人のものであって、私一人のものではない。

「個々」であって。「すべて」なのだな。

畏れ多くも、有難い。





雪はお昼までにはすっかり溶けてしまいましたが、天気予報には未だ雪マーク。それでも春の兆しは着実に感じる今日この頃。

それにしても風が強い。なにやら色々な意味で、一波乱ありそうな、

なさそうな…。





この辺りでは入学式頃までは雪が降るのは珍しくありませんが、入学式頃に降る雪はヒラヒラと舞い散る程度。

積もるようなことは有り得ない。


しかし今年は分かりませんよ。入学式の朝、窓を開けたら一面の銀世界だったりして。

あるかもよ~(笑)。

映画『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』 昭和47年(1972)

2014-03-20 17:29:26 | ゴジラ


                      


鋭い鉤爪に胸部から腹部にかけては丸鋸。トンガッた鶏冠にサングラスのような目。

まるで髪の毛を逆立てたパンク・ロッカーのようです。ヘヴィ・メタルではないなあ、やっぱりパンクだ(笑)。

それまでの東宝怪獣には無かったタイプです。どちらかというとウルトラ怪獣に近い。このガイガンの存在が、この作品最大の魅力でしょう。

他には特に……無いかも。




ゴジラは人類の味方に完全にシフトし、宇宙の侵略者や宇宙怪獣と戦う。子供向け映画としては良く出来ています。キャラクターの色分けも分かりやすいし、ストーリーも難しくはない。

そこはかとない「文明批評」が込められているところが、東宝怪獣映画としての意気地でしょうね。



侵略者、M宇宙ハンター星人というのは、その正体がゴキ★リなんです。お食事中の方には失礼。

彼らの母星、ハンター星は、かつて人類と同じタイプの生物が物質文明を謳歌していたけれども、度重なる環境破壊によって、ついに滅びてしまった。その後、生態系が激変し、ほとんどの生物が死滅した中、ゴキちゃんたちはしぶとく生き延び、独自の進化を遂げ文明を構築しました。

しかしハンター星自身の寿命が尽きようとしており、ゴキちゃんたちは、新たな住処を求めて地球へとやってきたというわけです。



地球だってこうならないとは限らない、という警告が、薄らとではありますが込められているわけです。


思い返せば、この頃辺りから、巷では小松左京のSF小説『日本沈没』が話題に上り始め、『ノストラダムスの大予言』が流行り始めたのもこの頃からだったように思う。

そこはかとない、未来への不安。それでも70年代初めはまだ、そんなことがあるとしても、遠い先のことだという余裕があった。

これが70年代後半から80年代にかけて、特にサブカルにおいてはにわかに「終末思想」というものが現実味を帯びて、私の前に迫り始めた。


私と同世代の方々は、そういう時代を生きてきたのですよね。

それは蔭になり日向になりつつ、私の人生の歩みに少なからぬ影響を与えて来たのだなあ…。

なんかね、映画の内容よりも、そんなことばっかり考えていました。


そんな我が人生の流れの中、今の私がいる。未来の私もいる。

これでよかったのだ、結果オーライだ。という人生にしたいね。

そのためには今が大事。今を大切に生きなきゃね。

…なんだか映画と関係ない話になっちゃった。これでいいのか?

いいんだよ、「ユラユラ語り」なんだから。結果オーライさ…(笑)。






『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』
制作 田中友幸
脚本 関沢新一
音楽 伊福部昭
特殊技術 中野昭慶
監督 福田純

出演

石川博
梅田智子
菱見百合子
高島稔

藤田漸
西沢利明

村井国夫

中島春雄
中山剣吾

昭和47年 東宝映画

われら親子、冥府魔道に生きるもの

2014-03-18 13:43:26 | 名ゼリフ


なんだかシリーズっぽくなってきたなあ。




小島剛夕、小池一夫原作による劇画『子連れ狼』。

元公儀介錯人・拝一刀が、一子・大五郎とともに冥府魔道の刺客道を歩み、宿敵である裏柳生とその総帥・柳生烈堂との対決に挑む。

若山富三郎主演の映画として制作されたのが、映像化の最初なのですが、若山先生版は殺陣は派手ですが、若山先生自身のふっくらした体型が、原作のイメージと合わず、私としてはどうにも違和感を禁じ得ませんね。

やはり『子連れ狼』といえば、1973年から1976年にかけて日本テレビで、3シーズンに渡って放送された萬屋錦之介版でしょう。




                  




公儀介錯人とは、簡単に言えば「死刑執行人」です。

ただ首を落とす相手は大名以上の位の高い武家の者に限られており、介錯をする際には、徳川将軍家の家紋、三つ葉葵の紋をつけて執行するのです。

つまり、幕府の権威の執行を代行する者という位置なんですね。

将軍家の家紋を身に着けられるということは、それだけ幕閣内でも高い地位で優遇され、発言権も強くなる。

そこに目をつけたのが、裏柳生の総帥、柳生烈堂でした。

裏柳生とは、将軍家を陰から補佐する、いわば「影の軍団」のような存在で、暗殺等の汚い仕事をすべて遂行する一族。

柳生烈堂はその立場を生かし、将軍家を裏から輔佐しつつ、実質上の政治的実権を握ろうと画策します。

その一つとして、公儀介錯人の役職を柳生家のものにしてしまおうとするんです。

拝一刀は罠を仕掛けられ、謀反の罪で捕縛されようとします。その際、一刀の妻・あざみが柳生の手に掛かって殺されてしまう。

怒りに震える一刀は、怨敵烈堂を倒すため、役職を捨て、一子・大五郎とともに冥府魔道の刺客(殺し屋)道を歩む。

もっともこの公儀介錯人ですが、これは完全な創作なんです。実際にはそんな役職はありませんでした。

よく出来てるでしょ?これで騙された人は相当多かったと思いますよ。

裏柳生なんてのも創作だし、烈堂は架空の人物だし、その他、柳生黒鍬衆だとか、将軍家お口役とか、架空のものがバンバンでてきます。その辺りの設定が実によく出来てる。



一刀が冥府魔道を行くことを選ぶ際に、大五郎にどうするかを選ばせるんです。

その当時の大五郎は、まだ生まれたばかりの赤ん坊。一刀は畳の上に鞠を一つと刀を一振り置いて、大五郎にどちらを取るか選ばせます。

大五郎が鞠を選んだら、大五郎とともに一刀も自害して果てる。しかし刀を選んだら

ともに、冥府魔道の道を行く。

年端も行かぬ赤ん坊にそんな選択権があるのか!?と思われるかも知れません。しかし日本には古来

「子供は3歳まで神のもの」

という考え方があったようです。つまり当時の大五郎のような、生まれて間もない赤ん坊は、それだけ神に近いんですね。

一刀は大五郎を通して「託宣」したということでしょう。神あるいは先祖の意志を確認したんです。

これは一刀一人のエゴではなく、神、先祖の意志である。

大五郎は刀を選び、だから一刀は、迷わず冥府魔道の刺客道、地獄道を歩むことを選んだ。

大五郎とともに。

なんだか涙を誘うじゃありませんか。その行動は愚かとも思われ、哀れとも思われ

けな気とも思われ。



人としての道を踏み外し、復讐の鬼に生きる。拝親子は人の道を捨てたが故に、その絆はより強い親子の情愛で結びつけられる皮肉さ。

巨悪を倒すために、自らも悪となった親子の悲劇でもあるとも捉えられ、単なるアクション時代劇ではない奥の深さを感じさせます。

一体、善とは何であるのか、悪とは何であるのか。

70年代には、こういう奥深さを持った時代劇があったんです。






愈々、宿敵柳生烈堂との対決の日。一刀は大五郎に尋ねます。

一刀「大五郎、川は何処へ流れる?」

大五郎「海!」

一刀「そうだ、川は海へと流れ、やがて天に昇って雲となる。雲は雨を降らせ、雨は川に降り注ぎ、また海へと流れ行く。
人の命もまた同じだ。生まれては死に、死してまた生まれ来る。
儂もそなたもいずれ死にゆく。そしてまた生まれ来る。その繰り返しの中で、未来永劫、父は我、子はそなたぞ!」



日本人の死生観、世界観、武士道というもの。

私はこのドラマから、随分多くのものを学んだように思います。

ある意味、私が「世界」というものを捉える上での、一つの原点と言えるかも知れません。

善のように見える悪、悪のように見える善。

心に一本、芯が通ってなければ、すぐにブレてしまうのがこの世の常。



なんであれ、どうであれ、最後は「覚悟」ということ、か。






名ゼリフシリーズ、今後も続きますかどうか。

乞う御期待! 

あっしには関わりのねえこって

2014-03-17 15:24:22 | 名ゼリフ


中学時代、私の中学校の校長先生が、朝礼でよく言っていたことがあります。

「紋次郎型人間になるな!」

私はエラく反発しました。

「このオッサン(失礼)、なにもわかってねえ!」




                       



無宿渡世の股旅者、木枯し紋次郎(中村敦夫)。他人との関わりを避け、己の腕一本で生き抜いていく生き様に、ハードボイルド的なカッコよさを感じた人達が多かったのでしょう。1972年からフジテレビで放送された第一シーズンは大ヒット。口に銜えた長楊枝をぷっと吹いて飛ばす遊びは、当時小学生だった私たちの間でも流行ったものです。もっとも実際には、ドラマのように真っ直ぐは飛ばないんですけどね。大概下にポトっと落ちるだけ。

一体紋次郎さんは、どんだけの肺活量なんだよ!?(笑)


その紋次郎さんのきめゼリフが

「あっしには、関わりのねえこって」

なんです。

困った人がいても助けない。関わりがないといってその場を立ち去って行く。一見自分勝手で無責任のように見えます。

まあですから、あの時の校長先生がおっしゃりたかったことの意味は、わからないでもない。つまりは、

「見て観ぬフリをするな、無責任な行動をとるな。困っている人がいたら助けよう」

ということでしょう。

極めて真っ当、なにも間違ってはいない。

では、なにが気に入らなかったのだろう。




関わりはねえ、とか言いながら、結局は関わっちゃうんですよ、紋次郎さんは。

そして大概は悲しい結果に終わる。おそらく紋次郎さんは、こうした他人の悲しみを、それまでに嫌と言うほど見てきたに違いないんです。

きっとね、紋次郎さんはもうこれ以上、人様の悲しみは見たくないと思ったに違いないんだ。見ないためにはどうすればいいのか。

他人と関わらなければいい。

でも、結局は関わってしまうんです。それは生来の優しさなのか、持って生まれた因果なのか。

関わってしまって、また新たに、他人の悲しみを見てしまう。

その度に、紋次郎さんは改めて思う、これ以上他人の悲しみは見たくない。

その思いが、きっとその思いが、言わせるんです。

「あっしには、関わりのねえこって」……。




紋次郎さんの在り方が、必ずしも正しいとは思わない。

しかしながら、その心情くらいは察してあげてもいいのではなかろうか。

あの時私が校長先生に感じた反発は、おそらくこれなんだな。

他人に優しく接しよう的なことを言いながら、アンタ(失礼)紋次郎さんに冷てえじゃねえか。紋次郎さんの心情を全然察してねえ。大人のアンタよりも、ガキの俺の方が、紋次郎さんの心情をよくわかってるぜ。

エラそうなこと言いやがって、アンタ全然わかってねえよ!



……ガキですねえ。

抑々校長は、ドラマを見たこともなかったでしょう。ただそのきめゼリフを一つのきっかけとして、生徒たちに人として大切なことを伝えたかっただけ。ドラマの内容だとか、主人公の心情だとか、そんなものは

はじめから、どうでも良かったのだ。



あの時、過敏に反応した自分に恥じ入りつつ、こういう感性もまた、人として大切じゃなかろうか?などと自画自賛している始末。

それもまたよし、か。






今回は結論めいたものはありません。

また次回ね。

めんどくせー!

2014-03-14 14:53:52 | 名ゼリフ


10年以上前になりますか、『池袋ウエストゲートパーク』というドラマがありましたね。

原作・石田衣良、脚本・宮藤官九郎、演出・堤幸彦。元不良少年でフリーターのマコト(長瀬智也)は、池袋周辺の“アブナイ”人たちからの人望が厚く、彼の元にはいつもトラブルごとが持ち込まれ、マコトは嫌がりながらも結局関わって、無茶苦茶な方法で解決していく。

細かいところは忘れましたが、こんな内容だったと思います。

そのマコトの口癖が「めんどくせー!」なんです。


                     


極度のめんどくさがり屋なのに、人がいいのでしょうね、結局首を突っ込んでしまう。そういうところが頼られたり、場合によっては利用されたりもする。

ちょっとおバカですが、愛すべき人です。



めんどくさいことというのは、めんどくさくない内に処理して置かないと、後々本当にめんどくさいことになります。

捨てるのがめんどくさいとかいって、ゴミをそのままにしておくと、その内どんどん溜まっていって、掃除するのが大変になります。掃除するのが大変だからといって、掃除しないでおくと、益々ゴミが堆積して行き、ゴミ屋敷完成とあい成る次第。



めんどくさいことは、めんどくさくない内に早めに処理しておいた方が、めんどくさくならないコツですね。

めんどくさいことを、めんどくさいことにするのは、めんどくさがるからだという…ええい!ややこしい!

要するに、めんどくさいことなんて、本当は無くて、めんどくさくしてるのは本人の気持ちなのかなという話…かな。

でも、めんどくさいものはやっぱりめんどくさい。






私は元来、めんどくさがり屋なんです。だから放っておくとどんどん部屋が汚くなる。

汚くならないうちに掃除すればいいのだけれど、やっぱりめんどくさい。だから、ある程度まで汚さが進行したところでやにわに掃除決行!

そうやって必死こいて掃除しても、またすぐに汚くなる。それの繰り返しです。

汚くなったら掃除して、汚くなったら掃除して…これは生きてる限り永遠に繰り返されることなのでしょうね。

ええ修行させてくれはりますわ、ホンマ。




掃除してもすぐに汚くなる。そうなったらまた、掃除すれば良い。

穢れたら祓えば良い。曲がったら真っ直ぐにすれば良い。

そうやって先人たちは、命を繋いで来たのだな、と思う、今日この頃。









数字というのはどうも苦手だ。

13が31とか、ンなこと知るか!勝手にせい!興味ねえ!




あー「めんどくせー!」        

『あまちゃん』と3.11 トンネルの向こうへ

2014-03-11 11:28:27 | あまちゃん


北三陸の人達は本当に強い。

大吉さん(杉本哲太)等北鉄職員は、地元の人たちの足である、北鉄を止めてはなんねえと、震災後わずか五日で、一区間だけとはいえ復旧させます。これはモデルとなった三陸鉄道で、実際にあったことでもあります。

その電車(ディーゼルだから汽車ですか)の帰りを、車庫で待っている鈴木のばっぱ(大方斐紗子)。

「おらの命を助けでけだ北鉄さ、お礼ばいわねばなんねえ」

鈴木のばっぱやユイちゃん(橋本愛)の乗っていた汽車は、大吉さんの好判断でトンネル内で停車したため、津波に呑まれなかったんですね。

鈴木のばっぱは出番は少ないですが、要所要所で登場する、東北のおばあちゃんの代表的なキャラクターです。



帰ってきたアキ(能年玲奈)をさっそくホームページにアップし、オタクさん達を呼び込み、尚且つ「K3RKDNSP」(北三陸をこんどこそなんとかすっぺ)Tシャツまで売り出すしたたかさ。

「だって被災地だもん」

しれっとして言ってのける菅原さん(吹越満)。これって結構ギリギリのセリフかも(笑)



アキは海女に戻って海へと潜りますが、震災の影響で海底にはガレキやヘドロが堆積し、ウニは一匹もいない。

北三陸高校潜水土木科の“いっそん”こと磯村先生(皆川猿時)は、ガレキやヘドロの撤去には、早くて今年いっぱいかかるといいます。

「一か月でやれ!」と檄をとばす夏ばっぱ(宮本信子)。

「ウニは銭!同情するならウニ獲らせろだ!」吠える“メガネ会計ババア”ことかつ枝さん(木野花)。

いっそん「男がここまで言われて、動かないわけにいかないでしょ!」

アキ「いっそん、かっけー!」

いっそん「初かっけー、いただきましたー!」

みんな自分が出来ること、やるべきことに動き始めていました。

では、アキは何がしたいのか。

アキがしたいことは、被災した「海女カフェ」を復活させること、そして再びお座敷列車で歌うこと。

ユイと一緒に。

しかし、ユイは頑なに拒み続けます。



「海女カフェ」復活にはかなりの費用がかかり、現実的にはほぼ不可能といっていい状況でした。

或る晩、アキは一人で、廃墟となった海女カフェの中で佇んでいました。そこへ現れる人影。

その人物はなんと、アキの母親、春子(小泉今日子)の若き日の姿をしていたのです。

若春子(有村架純)はアキに、アキがレコーディングした「潮騒のメモリー」のCDの、ボロボロになったジャケットを手渡します。おそらくはガレキの中から拾い上げたものでしょう。

この時現れた若春子が何を意味しているのか、ずっと考えていました。

若春子が、歌手になれなかった春子の無念が生んだ生霊であるという解釈は、基本的には間違っていないでしょう。

しかしそれだけでは、この場に現れた意味がよくわからない。

若春子の生霊を目撃するのは、基本、アキだけなんです。

荒巻さん(古田新太)も目撃しましたが、それはアキの存在を通してのこと、アキの姿を通して若春子を目撃しているんです。

どうやらこの若春子。春子が生み出しているのではなく、アキ自身が生み出しているように思えます。

アキの前に若春子が現れ始めたのは、春子と鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)の間の秘密をアキが知ってからです。正確には春子と鈴鹿ひろ美が、無頼鮨で「対決」して以降のことだったはず。

この「対決」シーンをよく見ていると、鈴鹿ひろ美が春子の秘密に気が付いているんじゃないか?というような表情をする箇所があるんです。

自分の歌として発売された「潮騒のメモリー」が、実は吹き替えられていたということは、おそらく最初から知っていたのでしょう。でも騙されたフリをしていた。一生騙され続けるつもりだった。

それがアキを通して、図らずもかつての「影武者」と対面してしまった。その時鈴鹿ひろ美の内面に生じた罪悪感。アキはそれを潜在意識で、というか魂の奥側で敏感に感じとったのではないでしょうか。ただそれは、あくまで魂の奥側で感じ取ったことで、表面的には気が付いていないんです。

若春子とは、そんな鈴鹿さんの罪悪感と、春子の無念とが、アキの中でミックスされて生み出されたものなのではないでしょうか。

つまりそれは、アキ自身の心の声なんです。春子と鈴鹿さんと、二人の間にあるものを昇華させて、ククリ合わせなさい、という心の声の表れなんです。

東京編でのアキの行動は、よく見ていると、この二人の心残りを昇華させ、ククリ合わせるための行動だったとしか思えないんですね。もちろんアキ自身は気が付いていないんですが、結果的にそうなっているんです。

そのククリ合わせの総仕上げが、「海女カフェ」での鈴鹿ひろ美リサイタル。

だから、その夜現れた若春子の生霊は、時空を超えたアキ自身のメッセージを伝えに来たんでしょう。「海女カフェ」を復活させて、鈴鹿ひろ美が「潮騒のメモリー」を生で歌うことで、すべてが昇華され、ククリ会されるんだよというメッセージを伝えに来たんです。

だから、がんばれと。




アキの一連の行動は、鈴鹿ひろ美や春子だけではなく、多くの人達を癒し、元気づけ、前向きにさせて行く。ユイもアキがいたからこそ、潮騒のメモリーズ再結成に前向きになれた。




生きている人間が実際に動かなければ、物事は動いて行かない。一人の少女の行動が、多くの人を、物事を動かして行き、さらには無念を抱いた魂をも昇華させていく。

これは拡大解釈すれば、生きている人間が前向きに歩み続ける姿こそが、死者たちの魂をも癒し、昇華成仏させていくという風にも解釈できます。

トンネルはまだまだ続く。問題は山積しており、実情は甘くない。なかなか先は見え難い。

それでも、トンネルの先の光へ向かって進み続けるしかない。トンネルを抜けても、その先のレールは途切れたままかもしれない。でもその途切れたレールにしたって、努力し続ければ必ず繋がる。

そしてそれは必ず、死者たちへの「鎮魂」へと繋がっていく。



苦難を越えて前向きに生きようとする人々を描きつつ、死者達の鎮魂も忘れていない。『あまちゃん』の世界観の深さを感じます。





3月11日。今日この日に、この記事を書かせて頂けたことを感謝します。

私が動かなければ、皆が動かなければ、なにも動かない。

一人一人に出来ることは小さくとも、それが積み重なることでおおきなうねりになっていく。

それを信じて、今日という日を越えて行きたい。




ありがとうございました。







「忠兵衛さんに引き合わせてくれた海が、家族におまんま食わせでくれた海が、一回や二回へそを曲げたくらいで、遠くへ逃げるべなんて、おら、ハナっから、そんな気持ちで、生きてねえ」
by夏ばっぱ



                   

『あまちゃん』と3.11 震災前後②

2014-03-08 15:44:23 | あまちゃん


ドラマの中で、直接的に震災の被害を描いたシーンはほとんどありません。

その代り、観光協会の室内にあった北三陸市のジオラマを使って、被害の状況を描写しています。

このジオラマ、第一話から折あるごとに画面に映し出されます。観光協会のシーンには必ずといっていいほど、このジオラマが写り込むシーンが出てくる。観光協会の菅原浩さん(吹越満)は、肝心の仕事よりもジオラマ作りに熱中しているかのようです。

アキ(能年玲奈)が観光客を呼び込む一つの拠点として、「あまカフェ」建設を提案した時も、このジオラマを使っていました。

注意深い視聴者なら、この「あまカフェ」が海沿いに建っていて、おそらく津波で流されるであろうこともわかるようになっているんです。まあ、そこまで観ていた方はほとんどいないでしょうけど。






震災からもう3年というべきか、まだ3年というべきか、ともかく震災の記憶はまだ生々しく我々の中に残っています。

朝の時間帯に、この震災をどのように描くべきかということを、クドカンさんは相当悩んだに違いない。被災者の方々を気遣いつつ、いかに視聴者を納得させられるか。

ジオラマはその解決策だったのだと思います。

現実に、被災地の被災前の街並みを模型=ジオラマで再現するという活動が行われているんです。陸前高田、大船渡、大槌等々の被災地の、以前の街並みがそうやって再現されているんですね。

この模型には、被災された方々の想いが乗っかっていると考えていいでしょう。

クドカンさんはそれをどこかで知ったのではないでしょうか。これは使える、と直感的に思ったのに違いない。

執拗なくらい、折あるごとにジオラマを写し続けた理由は、視聴者に印象付けるためであり、それは、北三陸の人々の「想い」が乗っかっているのだということ、北三陸の雛形であるジオラマ上で展開されることは、現実の北三陸で起きる出来事と同義なのだということなのです。



このジオラマのシーンは賛否を分けました。が、このドラマを愛し、思い入れを持って“ちゃんと”御覧になっていた方々は、概ね肯定的なようです。一方否定派は、あまり思い入れを強くお持ちでない方々がほとんどのようですね。

何をかいわんや。一目瞭然。やはり“ちゃんと”観ていない方々には、ジオラマの意味がわからなかったようです。

どのような立場から、どのような批評をなされようとそれは自由です。ただ言えることは、このジオラマシーンの評価の度合いが、その方の「ファン度」を示す指針となっている、ということですね。

私?私はもちろん、120%支持してます。お見事でした。





東京にいるアキは、夏ばっぱ(宮本信子)やユイ(橋本愛)との連絡を試みますが、まったく繋がらない。それが夜になってから、夏ばっぱより一通のメールが届きます。

「全員無事 ごすんぱいねぐ」

このあっさりしたメール一通のみで、夏ばっぱ等の被災の状況は一切映し出されない。クドカンさんらしいテンポの良さではありますが、やはり被災者の方々を気遣ったのでしょう。



余談ですが、この被災当日、夏ばっぱは体調を崩して寝込んでいたんです。なぜわざわざこんな設定にしたのか、考えていたんです。

思うにあれは、「夏ばっぱを絶対に死なせない」という、クドカンさんの決意だったのではないでしょうか。




夏ばっぱの家が高台にあることは、第一話ですでに示されています。だから家にいて、外を出歩いてさえいなければ、津波に呑まれる危険は回避される。さらに誰かについてもらって避難すれば、危険な目に会うようなことは絶対にない。

ヘタに夏ばっぱが元気だったりすると、動き回らないとも限りませんからね。だから体調を崩して、かつ枝さん(木野花)や六郎さん(でんでん)を側につけることによって、確実に夏ばっぱを守ったのだと思う。



一部では、震災で夏ばっぱが死ぬんじゃないか、ユイちゃんが死ぬんじゃないか、なんて噂も囁かれていたようですが、クドカンさんは登場人物を誰一人として死なせなかった。

『あまちゃん』とは、どんな苦難があろうとも、明るく笑いながら、前向きに生きて行く人々を描いたドラマです。時に滑稽でカッコ悪くてみっともなくて、それでも前を向いて、泣きながら笑って人生を歩んでいく、そんなダサくて「かっけー」人達のドラマなんです。

そうそう簡単に死にはしません。クドカンさんはそんな「甘ちゃん」じゃないです。






夜になってからユイとも電話が繋がり、アキはライヴが延期になったことを告げ、中止じゃなくて延期だから、また次に来ればいいと言います。

アキなりにユイを気遣っていたのですが、ユイはアキが思っていた以上に、大きな心の傷を負ってしまったようです。

「あたし、怖くて行けない。アキちゃんが来てよ!」

道が無くなってたの、線路が途中で終わっていたの、と言うユイ。本当はそれ以上のものを見てしまったに違いなく、トンネルの出口で見た光景と、どうしても東京へは行けないのだという事実とで、ユイは打ちのめされてしまったのでしょう。

それは、実際に被災地の現場にいるユイと、所詮離れた東京で、テレビ越しの映像でしか見ていないアキとの、埋めようがない温度差でもありました。




震災より三か月。自分になにが出来るかを逡巡していたアキでしたが、ついに東京での仕事をすべて捨てて、北三陸に帰ることを決意します。

〈続く〉