風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

不毛な議論 ~人を嗤う暇に~

2016-01-31 08:40:15 | つぶやき







ポルノグラフィティ「サウダージ」



「ゲス」はダメなのに「ポルノ」はいいのか!?

なぜ文句いわねえんだよ!…ってなことを言ったところで意味はない、所詮不毛な議論、ですな。

まあ、「そういう」名前をチョイスするメンタリティの持ち主だ、というだけのことです。ごちゃごちゃいうのもアホらしい。

あえて言わせていただきます。「くっだらね!!!」



私は「例の方たち」を擁護するつもりは1ミリもありません。ただ思うのは、どんなにいい子でも、ちょっとしたキッカケで、落とし穴に堕ちてしまうのだな、ということ。

落とし穴ってえのは、すぐ側にあるもんです。



「ザマアミロ!」とばかりに嘲笑っているそこのあなた!見えませんか?あなたのすぐ横に、落とし穴がパックリと口を開けて、あなたが落っこちるのを待っているのを。

堕ちたくなかったら、人のことを嗤っている暇に、自分の行いを顧みることです。

自分を見つめることです。


明日は我が身、ですよ。



あなたも


私も。



SEX MACHIINEGUNS 「みかんのうた」

「ゲス」はダメで「SEX」はいいのか!?

ススムちゃん大ショック

2016-01-30 07:25:04 | つぶやき




1971年、「ぼくらマガジン」に読み切り掲載された、永井豪の短編作品、『ススムちゃん大ショック』


ある日突然、大人たちが子供を殺し始める。ゴキブリやハエを殺すように、あっさりと確実に殺していく。

母親は我が子を殺し、警察官は見かけた子供を片っ端から撃ち殺す。車を運転している者は、子供を見かければ轢き殺す。


子供と大人の絆が、完全に切れてしまった。



小学生のススムちゃんは、例えすべての大人たちが変わってしまっても、僕のママだけは変わらない、ママを信じたいとして、母親の待つ我が家へ帰ります。

いつもと変わらず、台所で夕飯の支度をしている母親。母親はススムちゃんを見かけると、ニッコリと微笑みます。

ああ、いつものママだ!やっぱりママだけは変わらない。

安心したススムちゃんは、ママの元へ走り寄ります。

ススムちゃんに笑いかける母親、その手には包丁が握られ……。



http://blog.livedoor.jp/yamadi99/archives/42835290.html




エンタテインメントには、時として「未来を予見した」のではないかと思えるような作品がままありますね。


私は小学校の低学年のときにこの作品を読んでいるのですが、凄い作品だと思いつつも、特別怖いとは思いませんでした。自分の親に対する信頼は一片たりとも揺らぎはしなかった。


当時の子供たちは皆そうだった。これはただの、「漫画」だった。



今改めてこの作品を思うとき、なにやら慄然とするものを感じるのは、私だけだろうか。



絆を切るも絆を繋ぐも、人の心次第。


今が正念場、かもね。

IRON MAIDEN [Aces High]1984

2016-01-29 07:50:33 | 今日のメタル










映像は2009年、インド・ムンバイでのライヴ。

チャーチル首相の演説から始まるこの曲の邦題は「撃墜王の孤独」。第二次大戦時のイギリス空軍を題材にした曲です。


戦争の高揚と狂気。へヴィ・メタルには恰好の題材かもね。



それはともかく、


メッチャ、カッコええ~!

神社の成立

2016-01-28 10:08:21 | 歴史・民俗





かつて、日本には神社などというものはなく、神々は自由に飛び回り、遊びまわっていました。

そして人が感謝の祈りを捧げたとき、大木や大岩に寄ったわけです。

それがやがて神籬、磐境へと発展していき、最終的に神社になった。


神社建築の元になったものは、稲束を納める倉庫だったようです。稲の収穫を神に感謝したことが起源でしょう。伊勢神宮の建築様式などを見れば、よくわかります。


神社の成立には仏教の影響が大きいとされています。仏が住まう建物である寺院の存在に影響を受け、それまで定住する住まいを持たなかった神々に住まいを与えた。

それが神社の起源であると。



しかし、抑々日本の神々は特定の居所を定めず、飛び回り遊びまわるものとされていました。

神社成立ののちも、基本的にそれは変わっていないんですね。


ですから神様は神社に常駐してはいない。人々が祈りを捧げたときにのみ寄られるのです。

では、神様がもっとも寄り易い祈りとはなんでしょう?

それはやはり



「感謝」でしょうね。





それにしても、神々が飛び回り、遊びまわっているという発想は、神代の昔のおおらかさを感じさせますね。それは縄文時代の「自由」なイメージとも重なります。

縄文人だって定住をしていなかったわけではありません。青森県の三内丸山遺跡にみられるような、縄文都市ともいうべき史跡も発見されており、縄文人には思いのほか定住性があった。

しかしそれでも、季節とともにある程度居所を移動させるということはあったようです。これが弥生時代に至り、人々が農耕に従事し、土地に縛られるようになってくる。


神社の成立とはまさに、この人々が土地に「縛りつけられていく」過程とリンクしているように、私には思われますね。




土地に縛りつけられる、つまり定住性が高くなるにつれて、やはり神様の寄られる「屋敷」というものも、それなりに立派なものが必要ではないか、とする発想になってくる。

そうして、大きな神社が建設されるようになるわけです。





しかしそれでも、神様は常駐しないという発想は、失われなかった。

それは田の神信仰などに顕著に見られるのですが、田の神信仰については後に詳述したいと思いますが、こうした非定住性が、他ならぬ農耕民の中に生きづいてきたというところに、弥生から縄文への文化の「継続性」を感じさせます。



日本文化の基層には、やはり縄文の息吹が、脈々と流れているのですね。





縄文人と稲作

2016-01-27 09:33:12 | 歴史・民俗




縄文時代の遺跡というのは、大概川の中流から上流域の、高台から山中にかけて発見されます。

下流の平地には、ほとんど人が住んでいなかったわけです。

日本の川は流れが速く、大雨などが続けばすぐに氾濫を起こします。そのため下流域の平地には土砂が堆積し、低湿地帯が広がっていることが多い。

翻って中・上流域を高台から山中にかけては、広大な森が広がっており、多くの動物が生息し、山菜や木の実も豊富に採れます。多くの恵みに抱かれて、縄文人は大変豊かな生活をしていた、といえましょう。

魅力のない平地に、わざわざ降りていく必要性はあまりなかったわけです。



古代においては、山と森とは同義でした。それは縄文の頃、人々が高台や山中の森の中で暮らしていたという、遠い記憶が齎した感覚だったのではないでしょうか。


古代日本人は森に暮らす「森の人」であり、山に暮らす「山の人」でもありました。

だから、山の人、山人。



つまり、ヤマト。



まっ、妄想です、妄想。






森、山の恵みで豊かに暮らしていた縄文人にとって、農耕というものがどれほどの意味があったのか。


水稲耕作を行うには田を作らねばなりません。そのためには森を切り拓かなければならない。森の恩恵を受けていた縄文人にとって、はたしてそれが、魅力的なことだったのだろうか?

必要性を感じることだったろうか?


日本の古代社会におけるパラダイム・シフト、転換点でなにが起きたのか?かつては「騎馬民族征服説」のような、異民族が大挙してやってきて、先住民を駆逐し、新たな王国を築いたのだ。というような説がまかり通っていました。

つまり、天皇は「侵略者」の王なのである、と。

ある方々にとっては、とても魅力的な見解のようですね(笑)。それはともかく。



しかし、そのような大きな戦乱があった証拠となるような遺跡、遺物は発見されておらず、むしろ、縄文の弥生の間には「継続性」があったとする説の方が、現在では優勢を占めています。



森に暮らす縄文の人々から、森を切り拓くという発想は出てこない。そこには当然、稲作という新しい技術を持ち込んだ人々がいた。

縄文の人々は、それを受け入れたのだ。


なぜ、受け入れたのだろう?そこに戸惑いはなかったか?

苦痛はなかったのか?



恵みを下さる森の神々を傷つけ、あるいは殺す。そのような行為を、はたして平気で受け入れることができたのか?



そこのところが、どうにも疑問ではあるのですが、いまのところ、明確な答えは見いだせないままです。


しかし、その答えの「鍵」となるものがあるとしたなら、それは



やはり、「天皇」という存在なのではないだろうか。


なんてことを、つらつら考えておる次第。




もちろん、すべての縄文人が稲作を受け入れたわけではないでしょう。稲作を拒否し、さらなる山奥へと逃れていった人々をいたでしょう。また、一度は受け入れたものの、北東北のように気候の問題から、稲作を「捨てた」人々もいた。



日本の歴史の裏側からの眺め。


なかなか見通せませんが、興味深いです。

Yngwie Malmsteen [Trilogy Suite Op.5] 1986

2016-01-26 07:55:04 | 今日のメタル








スウェーデン出身のギタリスト、イングヴェイ・マルムスティーン。この方の新しかったところは、ギターでヴァイオリンを奏でようとしたところでしょう。

速いだけのギタリストは沢山います。しかし、この方のように奏法そのものにある種の革命を齎した方は中々いない。

確かに、天才だ。



冬がのぞいてる

2016-01-25 20:46:51 | 日記





子供ってのは大概そうだけれども、御多聞に漏れず私も子供の頃は、雪が大好きでした。

早朝、庭にのっこり積もった真っ白な雪が、日の光を浴びてキラキラ光っているのを、飽かずに眺めていたものです。

この真っ白で綺麗な雪の上に、足跡をつけるのが嫌で。なんとか足をつけずに学校までいけないもんかと、本気で悩んだものです。アホですねえ。



今でも基本的に、雪は嫌いではない。ただ非常に迷惑を被るものであることも確かで、


何年たっても、雪道を車で走るのは、慣れるということがない。こればっかりはどうしようもない。



雪は好きだ。でも、

雪道を車で走るのは、嫌いだ(笑)。






大雪の被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。







ゾンビと吸血鬼

2016-01-24 11:13:20 | 雑感







1989年のアメリカ映画『ペットセメタリー』。


幼い息子を交通事故で亡くした男が、死者を蘇らせるという禁断の土地に息子の遺体を埋めます。すると噂通り息子が帰ってきた!

しかし戻ってきた「それ」は、息子であって息子ではなかった。



息子のような「それ」は、男の妻、つまり息子の母親を包丁で刺し殺してしまいます。男は意を決し、息子のような「それ」を、泣きながら殺します。


男は思います。「今回」は失敗した。何かが間違っていたんだ。


でも、「今度」こそは……。


男は妻の遺体をその土地に埋めます。そして妻もまた、戻ってきました。


喜ぶ男。今度こそうまくいったぞ!


しかしその妻「のようなもの」の手には、包丁が……。


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ホラーの帝王、スティーヴン・キングの小説を映画化した作品。キングですから、死者を蘇らせる土地の設定はかなりいい加減です(笑)。そこはどうでもよくて、要は愛ゆえに禁を犯す人間の悲しさ、愚かさなんです。

ストーリー・テラーのキングのこと、そこの至るまでの男の行動、心理描写は真に迫るものがありました。映画版もその点は上手く描けていたんじゃないかと思いますね。



愛が執着を生み、その執着ゆえに身を滅ぼしていく人間の哀しさ。


でもそれって、本当の「愛」なのだろうか?








2008年公開のスウェーデン映画『僕のエリ ~200歳の少女~』


家庭にも学校に居場所のない一人の少年。少年はある雪の夜に一人の少女と出会います。

エリと名乗る少女は学校へも行かず、「父親」と二人暮らし。この親子が引っ越してきた頃から、周囲で殺人事件が頻発し始めます。

この親子、実は親子ではなかったです。


エリは、人の血を飲むことで生きながらえている「吸血鬼」でした。エリとともに暮らす男は、エリのために人間の血を得るため、行く先々で人を殺し続けていたのです……。


********************


孤独な少年と、人間ではない「少女」との、恐ろしくも悲しい恋愛映画。

人と、人ではないものとの隔たりが、ある種の「純愛」感を醸し出しており、非常にうまくできているなと思いましたね。ホラー映画であって、純愛映画。

一見相反するかのように思える「ホラー」と「純愛」というテーマが、実は繋がっているということを見せてくれました。


エリのために殺人を犯し続けていた男は、その現場を見られてしまい、少女を守るために自らの命を絶ちます。エリを「守る」者がいなくなってしまった。

少年は決意します。ならば僕が、エリを「守ろう」……。



この哀しき「純愛」。でもこれは、本当に「愛」なのだろうか?









「愛」が「執着」を生み、執着ゆえに身を滅ぼしていく愚かしさ、哀しさ。

「執着」を生む愛とは、一体なんだろう?それは本当に「愛」と言えるものなのか。



ホラーとは、日常のすぐ横にある「闇」を描いたものだと言えます。

「愛」と呼ばれるもののすぐ横で、闇は大口を広げて、誰かが落っこちているのを待っている。


そんなことを考えさせてくれるという点では、ホラーも結構、役に立つかもね(笑)。



あなたの「愛」。「自己愛」、「我よし愛」になっていませんか?


エリは、あなたのすぐそばにいるかもよ(笑)。もちろん、私のそばにも……。

時に拳を時には花を

2016-01-23 08:14:19 | つぶやき





誰かに向けて、「毒」を放出したつもりでも


その毒は結局、自分に返ってくる

自分の出した毒に、自分が浴びて、自分で苦しんでいるだけ。


本当は敵なんかいない。


全部、自分の影だ。







どこかに、自分の出した「毒」にやられている人がいたとしたなら

その人は、身を挺して「見本」になってくれているのかも知れない。


そんな人には「感謝」しよう。


そこにいるのは、一歩間違えばそうなっている「自分」なのだから。


「感謝」は「拳」ともなり

「花」ともなろう。






「ウルトラマンコスモス」主題歌


闘いの場所は心の中だ。

2016-01-22 07:07:51 | つぶやき




人間、心の「芯」が大事だよねえ。

この世は不完全、未完成の世界だから、人間は必ず間違うし、矛盾だらけだ。


しょうがない、それがこの世の理だ。


間違えようが、矛盾しようが

心の「芯」から遠く離れなきゃいい。


「芯」の周りをグルグル回りながら、少しづつ上って行きゃあいい。



間違えることを恐れるな、矛盾を恐れるな。


「恐れることを恐れるな」


……って、誰の言葉だっけ?





「ウルトラマンメビウス」この歌詞が好き。

五十嵐隼士くん、役者を引退したんだよね。