『東大のディープな日本史』という本を御存じでしょうか?
東大の日本史の入試問題を紹介した本なのですが、これによると、東大日本史入試問題はすべて論述形式なんですね。資料を提示してその資料をよく読み込んだ上で、設問に答えるというものです。
例えばこんなのがあります。
【問題】
次の(1)~(4)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
(1) 607年に小野妹子が遣隋使として、「日出づる処の天子」にはじまる
国書を提出したが、煬帝は無礼として悦ばなかった。翌年再び隋に向かう
妹子に託された国書は「東の天皇、敬みて西の皇帝の白す」に改められた
。推古朝に天皇号が考えだされたとする説も有力である。
(2) 659年に派遣された遣唐使は、唐の政府に「来年に海東の政(軍事行
動のこと)がある」と言われ、1年以上帰国が許されなかった。669年
に派遣された遣唐使は、唐の記録には高句麗平定を賀するものだったと記
されている。
(3) 30年の空白をおいて派遣された702年の遣唐使は、それまでの「倭」
に代えて「日本」という新たな国号を唐に認めてもらうことが使命の一つ
だったらしい。8世紀には遣唐使は20年に一度朝貢する約束を結んでい
たものと考えられる。
(4) 717年の遣唐使で唐に渡った吉備真備と玄は、それぞれ中国滞在中
に儒教や音楽などに関する膨大な書籍や当時最新の仏教経典を収集し、次
の733年の遣唐使と共に帰国し、日本にもたらした。
設問
7・8世紀の遣隋使・遣唐使は、東アジア情勢の変化に対応してその性格も変わった。その果たした
役割や意義を、時代区分しながら、6行(180字)以内で説明しなさい。
(09年度第一問。『東大のディープな日本史2』より)
いかがでしょうか。
上記のような設問を解くには、この時代の流れをできるだけ正確に把握している必要がありますし、上記の資料をしっかり読み解けるだけの読解力が必要になります。
そうしてしっかり読み解いて、通り一辺の解釈ではない、思いもよらなかった、しかし突き詰めて考えればそのような結論になる、歴史のストーリーが描ける(『東大のディープな日本史』はじめに、より)わけです。
さらに東大の入試問題には、答えのない問題もあるのです。ある設問に対し、自由な立場で○○字以内で見解を述べよ、という、独自の視点を問う問題もあるのです。
資料をいかに読み込めるかという事と共に、いかに独自な見解を持ち得るか、ということを問うているのでしょう。この二点が、歴史学を修める者にとって最も重要な点なのでしょうね。
歴史上の出来事は「基本的に」変わりません。
なにが起こったのかということを出来るだけ正確に把握することは大切です。
しかしその出来事に対する解釈というのは、状況により異なってきます。それは時代時代ごとの価値観によっても変わるし、どの立場から、どこを視るかによっても違ってくる。
歴史は人が作るもの。歴史とは人が生きた証しです。人というものは、一人の人間の中に様々な面を持っています。多面体です。
その人間が作るものですから、歴史もまた、多面体。
どの角度から視るかによって、視え方は違ってくる。
量子論にある「観察者の視点」というのは、歴史にも当てはまります。
歴史解釈というのは幾通りにも成り立ち得ることです。しかしその歴史を突き詰めて行った時、そこに浮かび上がってくるものはなにか。
それは、人の営み。
人があるからこそ歴史がある。人がないところには、歴史もまた、ないのです。
歴史を識るとは、人を識ること。歴史を視るとは、人を視ること。
人の「思い」を識り、視ることだと、私は思う。
その「思い」を、私は出来るだけ受け止めてあげたい。
出来るだけ正しく受け止めるためにも、捏造はいけません。
ところで、先ほどの問題の、著者による解答例を挙げておきます。
《隋による中国統一を受け、7世紀初めには皇帝に臣従しない形式で中国
との国交を回復し、先進的な制度・文物の摂取を図った。白村江で敗北
し、朝鮮半島の緊張が増すなかで7世紀後半にはその緩和に務め、国家
建設に専念すべく遣唐使を一時中断した。新羅の統一により情勢が安定
すると8世紀初めには遣唐使を再開して律令制の完成を表明し、以降は
定期的な朝貢を通じて文化交流に貢献した。》
『東大のディープな日本史』
『東大のディープな日本史2』
相澤 理 著
中経出版