風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

収穫

2013-09-29 21:24:53 | 歴史・民俗


                


秋は収穫の季節。

写真は稲穂を天日干ししている風景です。

この干し方は主に東北でよくみられるかたちで、私の住む辺りでは「ほんにょ」「ほにょ」「ほんにお」などと呼ばれているものです。


                

                


漢字で書くと「穂仁王」あるいは「穂鬼」。これも後からあてた当て字に過ぎないだろうと思われ、語源はよくわかりません。仁王様か鬼が立っているようだ、というところからこの字が当てられたのでしょう。

仁王様とか鬼とかいうより、私には妖怪「油すまし」の群れに見えますねえ(笑)


                   
                     こんな感じ(笑)


市内全域すべてこれかというと、そんなことはないんです。この「ほんにょ」から数キロ離れた先では


                     



近づいてみますと


                     


フェンスをうまく利用した(笑)「はさがけ」(稲架掛け)ですね。うまいこと考えたもんだ(笑)



こうした天日干しの風景は、年々希少になりつつあるようです。なにせ時間も手間もかかるし、機械乾燥の方が楽ですからね。

しかし稲は天日干しにした方が、味も良いし栄養価も高い。やはり自然には敵わない。




収穫された稲は「氏の長者」の元へ集められ、長者は稲を氏神に捧げ、感謝の祭を行う。

氏神はまた「先祖」でもありますから、氏の長者は氏神の祭司権を握ることで、一族の長となる権限を得る。

その地域ごとの氏神様すべての頂点に立つのが、伊勢の神宮におわします太神様であり、その伊勢の太神様を氏神として祀る皇室は、日本人すべての「氏の長者」となるわけですね。

稲というもの、お米というものは、天皇の権威に直結しているんです。そこから様々な「歴史的視点」が得られると思いますが、

それは控えましょう。

ただただ我々は、毎朝毎晩とても有難いもの頂いているのだ、ということだけでも理解しましょう。「いただきます」「ごちそうさま」は、両親に対してであり、作ってくれたお百姓さんたちに対してであり。

大自然に対してであり、御先祖さまに対してであり、氏神様に対してであり。

そして、畏れ多くも天皇陛下に対してであるということを、忘れずにいましょう。

感謝して、いただきましょう。                     


               






農耕と文明と戦争

2013-09-26 22:31:04 | 歴史・民俗


農耕の発展は余剰を生み、これが人口の増加を促します。

人口が増えればもっと食糧がいる。食料を確保するためにはより広い土地が必要となる。



極めてザックリした味方ですが、これが濃厚と文明の発達と共に、戦争が引き起こされるようになった原因の一つです。

戦争というのは、ほとんどが土地争い、つまりは領土紛争が原因となって起こることが多いんです。あっちの土地の方が土地が肥えてる。あっちの土地の方が水が良い。畜生ウラヤマシ~!

なんてところから始まって、あることないこと色々な理由(大義名分)を捻り出して攻め込む。

それが戦争でしょう。

自然共生的狩猟採取生活では、必要以上のものを捕らず、足るを知って満足していますから、余剰など抑々生まれ難い。

ところが農耕生活となりますと、豊作が続けば余剰が生まれて“しまう”んです。この余剰によって生活が豊かになる。豊かになれば人口も増える。貧富の差が生じる。

物質的欲望も増大する。

つまり、農耕による文明の発達が、人類に戦争を起こさせた、とも言えるのです。

ザックリしてますが、そんなに的外れではないと思います。



農地を広げ、開拓するためには森を伐り開く必要も生じてきます。また森の木々は物質文明を支える燃料ともなる。否応なしに森の木々は伐り倒されていく。

ギルガメッシュ叙事詩の伝説の王、ギルガメッシュは森の杉の木を守る怪物フンババを殺し、杉の木を伐り倒して船を作り、航海にでます。これは物質文明の発達とともに森の神々を抹殺していった過程を表しているとも思われ、おそらく宮崎駿監督はこのギルガメッシュ叙事詩を『もののけ姫』のヒントにしているのではないか、なんてことを思っています。

映画『もののけ姫』に登場するタタラ場の主エボシは、森の木々を伐り倒すこと、そして森の神々を殺すことが、人々のためになると信じている。人々が豊かになり、幸せになると信じている。ある意味今日に至る物質文明の発展を促した人々の象徴なのです。だから単なる悪役とはなり得ない。

彼女を悪としてしまったなら、我々の今日の生活もまた、悪の生活となってしまう。

自然なしには生きて行けず、自然破壊なしには物質文明は成り立たない。

まあ、農耕だけが、そのような矛盾を人類に背負わせたわけではないでしょうが、農耕の発展が物質文明の発展に大きく寄与したことは間違いないでしょう。




農耕と言うのは実は自然破壊を伴っている。それでも稲作というのは、大量の水を必要とするため、里山を発展させて森の木々による保水力を保った。里山がキープされることによって、豊かな生態系も維持される。稲作は比較的自然に優しい農耕であったといえるでしょう。

ある程度自然を保護することで、自分達の生活が保たれる。大自然の恵みなしには生きていけない。

日本において自然崇拝が衰退しなかった原因の一つには、稲作農耕だったから、

なのかも知れませんね。

春になれば田の神を祀る。田の神は冬の間は山(=森)に住んでいて、春になると里におりてくるわけです。田の信仰と森の信仰とがセットになっているんですね。
また、稲を育てるために必要な水の神を祀り、さらには水を引くための水路の神様をも祀る。

稲作というのは、農耕の中でも比較的自然共生率が高い。それが、八百万の神観念が守られ、自然が大切にされてきた要因の一つとなっている、と言えるのではないでしょうか。

奇跡、ですねえ。



日本の自然は他国に比べて「優しい」ようです。

優しい自然に抱かれて暮らす人々は、当然のように自然を崇拝し「優しい」人々になる。

日本という大地の持つ「御神気」が、日本人の特質を形作ったと言えます。

農耕民族とか狩猟民族とか、

そんなことではないです。





祝!東北楽天ゴールデンイーグルス優勝!!


アイヌの世界観

2013-09-23 23:29:26 | 歴史・民俗


アイヌの人々は、この世の森羅万象、存在するものすべてに「魂」が宿っていると考えていました。

動植物はもちろんのこと、海にも山にも、川にも命があった。

獲物を捕りに山へ入る時は、まず山の神に感謝の祈りを捧げる。獲物が捕れれば、やはり感謝の祈りを捧げる。

アイヌにとっての獲物は、また神でもあった。

特に熊は、おいしい肉と暖かい毛皮を大量にプレゼントしにやってきた有難い神だとされました。

アイヌの人々は小熊を捕えると、その小熊を村に連れて行き、村全体で大切に育てます。

そして小熊が若熊に成長した段階でこれを殺し、その頭蓋骨を祭壇に祀ると、大量の供物を捧げて感謝の祭を行い、熊の霊を丁重にあの世へ送り返しました。

これを「イ・オマンテ」といいます。

これを聞いて残酷だと思われる方もいるかも知れません。しかし、アイヌ人の世界観では、この世の森羅万象、山川草木、鳥獣虫魚、毛羽鱗介すべてに命が宿るというもの。その命の価値には、基本的に違いはないのです。



アイヌの信仰では、あの世では人も熊も魚も木も畑作物も、皆人間と同じ姿をしていると考えていました。

そしてこの世に生まれる時に、熊は熊の、魚は魚の、木は木の、畑作物は畑作物の、それぞれ着ぐるみを着てこの世に生れ出ると考えていたのです。

だから一皮剥けば、霊になってしまえば皆同じなのです。同等なのです。

だから、せっかく食糧になってくれたのだから、これは丁重にお祭りをして感謝を捧げて送り返さなければいけない。

畑作物を“収穫”することも、熊を“殺す”ことも、命をいただくという意味では同じ。

作物を栽培することも、くまを飼育することも、同じことなのです。

他の命を奪わなければ生きていけないなら、自分達の血となり肉となってくれた者達に感謝を捧げないわけにはいかない。



さて、あの世に丁重に送り返された熊の霊は、あの世でどうしているでしょう。

“彼”はあの世の仲間たちと語り合います。

「○○村ではこんなにたくさん贈り物をもらって、すごく良くしてもらった。○○村はいいぞ」

それを聞いた仲間がうらやましげに言います。

「そんなに良いのかい?なら今度は私が行こう」

こうして次の年も、熊が沢山捕れるわけです。



アイヌは必要以上に獲物を捕らず、必要以上に山菜も木の実も採らない。木の皮を剥ぐ時も、木が死なない程度までで済ませる。

乱獲すれば、最終的に困るのは自分達だということを知っているのです。

足るを知って満足する。大自然の中で、大自然と共に生きて行くにはそれが鉄則でした。

ロシアの軍人ゴローニンの記録によると、日本人は武器を欲しがる「武の民」で、琉球人は羅針盤に興味をもった「海洋民」。そしてアイヌ人は、なにも欲しがらない無欲の、心優しき「狩猟民」だとのこと。

敵対的でもなければ攻撃的でもない。

友好的で無欲な、自然と共生している心優しき「狩猟民」。

それがアイヌです。




東北には「マタギ」と呼ばれる狩猟集団がおりました。

夏は稲を作り、冬には山に入って集団で狩りをする。彼らマタギの狩猟文化は、アイヌのそれとよく似ています。

山で狩猟をする際には、マタギ独特の呪文を唱え、山の神に祈りを捧げる。

熊などの獲物が捕れたなら、その心臓を串に刺して山の神に捧げる。感謝の意を表すわけですね。

彼らマタギもまた、必要以上に獲物を捕ることをしなかった。子供を連れた母熊は捕らないなどの禁忌も多数あったようです。

マタギの起源は平安時代にまで遡るとされていますが、本当はもっと古い、おそらくは縄文の昔までさかのぼれるのではないかと考えられます。

そのルーツからアイヌが分かれ、マタギが分かれた。

日本の基層文化には、彼ら「狩猟民」の文化が

大自然を愛し、大自然と共生して暮らしていた「狩猟民」の文化が、脈々と流れています。



アイヌやマタギは、個々人で勝手に狩りをしていたわけではなく、リーダーの統制のもとに集団で狩りを行っていました。農作業だけが集団行動を必要とするわけではないです。日本人が「農耕民族」であるとする論拠のひとつが、早くも崩れますね。

勿論、基本的には、日本人は「農耕民」であると私も思います。しかしそれは、農耕文化のみで成り立っているわけではない。

日本文化とは縄文以来の自然共生的な狩猟文化の上に、農耕文化が乗っかってそれが混じり合って出来上がった、いわば「ハイブリッド」な文化なのです。

日本というのは、ありとあらゆるものを混ぜこぜにして溶かしてしまって、ついにはひとつにしてしまう「ハイブリッド」な国です。それは今も昔も変わらないでしょう。

日本文化には狩猟文化も農耕文化も両方入っているし、日本人は狩猟民と農耕民のハイブリッドなんです。

どちらか単一で存在などしていません。

単一民族などと、そういう意味では幻想だと言えます。

ただその両方の文化に共通していたのは、どちらも自然共生的であった、

ということでしょう。

狩猟民“だから”自然を支配しようとする?

狩猟民“だから”攻撃的?

御存じでしょうか。その狩猟文化主体であった縄文時代には、考古学上、戦争はなかったとされています。

戦争がこの日本で行われるようになるのは、弥生時代以降のこと、稲作農耕が本格的に行われるようになって後のことです。少なくとも考古学上は。

農耕民だ狩猟民だ。そんな簡単にカテゴライズ出来ることではない、ということではないでしょうか。




狩猟と農耕

2013-09-20 19:34:56 | 歴史・民俗


日本人は農耕民族とか、よくいいますよね。

で、ヨーロッパの方は狩猟民族とか。

日本人は農耕民族だからウンヌンカンヌン…。

私、大っ嫌いなんですよ、これ。

本当にそれでいいの?そんな安直な分け方で、本当に納得してるの?

農耕民族だから自然を大事にする?狩猟民族だから自然を支配しようとする?

そんな安直なもんじゃねーっつーの!(笑)



アイヌ民族はどちらかというと「狩猟民族」でしょ。

そしてアイヌ民族は自然を崇拝し、自然と順応し、自然と共に生きてきました。

決して自然と敵対し、自然を支配しようとしてきたわけではありません。

ふりかえって農耕ですが、たとえば田んぼを作る場合など、土を耕したり、水路を引いたり、場合によっては森の木々を伐り倒すこともあるでしょう。

これは、自然を“支配”しようとする行為ではないのですか?

まあ、結論を言っちゃいますと、稲作は大量の水を必要とします。

だから、保水のために森が必要になるんです。

そのために、いわゆる「里山」が発達し、その里山で自然の生態系が保持されてきた。

つまり稲作農耕というのは、ある程度自然の体系を保持しながら、一方で人間の都合の良いように自然に変化を加えることが出来た、両者の“共生”のもとで発展してきた。また日本が、それが出来る環境にあった、ある意味奇跡的な農耕だったのです。

これが小麦になりますと、稲作ほどには水を必要としない。そこまで自然に気を使わなくても良いことになる。

さらにはキリスト教の教え。人間は自然を支配する権利を神より与えられたとする教えが、彼らの文化を形作ったと言えます。

つまり、農耕民族”だから”ではないし、狩猟民族“だから”ではない。

それは結局、突き詰めて言えば、

【日本】だからです。

【日本人】だからなんです。




…あっなんかこの話、色々突き詰めていくと面白そう(笑)

色々頭の中を整理するためにも、今後折に触れ、この話題続けて行こうかな。

というわけで、次回以降、乞う御期待!


歴史は視点

2013-09-19 15:51:17 | 歴史・民俗
 

『東大のディープな日本史』という本を御存じでしょうか?




                    





東大の日本史の入試問題を紹介した本なのですが、これによると、東大日本史入試問題はすべて論述形式なんですね。資料を提示してその資料をよく読み込んだ上で、設問に答えるというものです。

例えばこんなのがあります。

【問題】
次の(1)~(4)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。


        (1) 607年に小野妹子が遣隋使として、「日出づる処の天子」にはじまる
           国書を提出したが、煬帝は無礼として悦ばなかった。翌年再び隋に向かう
           妹子に託された国書は「東の天皇、敬みて西の皇帝の白す」に改められた
           。推古朝に天皇号が考えだされたとする説も有力である。
        
        (2) 659年に派遣された遣唐使は、唐の政府に「来年に海東の政(軍事行
           動のこと)がある」と言われ、1年以上帰国が許されなかった。669年
           に派遣された遣唐使は、唐の記録には高句麗平定を賀するものだったと記
           されている。
        
        (3) 30年の空白をおいて派遣された702年の遣唐使は、それまでの「倭」
           に代えて「日本」という新たな国号を唐に認めてもらうことが使命の一つ
           だったらしい。8世紀には遣唐使は20年に一度朝貢する約束を結んでい
           たものと考えられる。

        (4) 717年の遣唐使で唐に渡った吉備真備と玄は、それぞれ中国滞在中
           に儒教や音楽などに関する膨大な書籍や当時最新の仏教経典を収集し、次
           の733年の遣唐使と共に帰国し、日本にもたらした。   
  

   設問
    7・8世紀の遣隋使・遣唐使は、東アジア情勢の変化に対応してその性格も変わった。その果たした
   役割や意義を、時代区分しながら、6行(180字)以内で説明しなさい。
   (09年度第一問。『東大のディープな日本史2』より)









いかがでしょうか。

上記のような設問を解くには、この時代の流れをできるだけ正確に把握している必要がありますし、上記の資料をしっかり読み解けるだけの読解力が必要になります。

そうしてしっかり読み解いて、通り一辺の解釈ではない、思いもよらなかった、しかし突き詰めて考えればそのような結論になる、歴史のストーリーが描ける(『東大のディープな日本史』はじめに、より)わけです。
 
さらに東大の入試問題には、答えのない問題もあるのです。ある設問に対し、自由な立場で○○字以内で見解を述べよ、という、独自の視点を問う問題もあるのです。

資料をいかに読み込めるかという事と共に、いかに独自な見解を持ち得るか、ということを問うているのでしょう。この二点が、歴史学を修める者にとって最も重要な点なのでしょうね。



歴史上の出来事は「基本的に」変わりません。

なにが起こったのかということを出来るだけ正確に把握することは大切です。

しかしその出来事に対する解釈というのは、状況により異なってきます。それは時代時代ごとの価値観によっても変わるし、どの立場から、どこを視るかによっても違ってくる。



歴史は人が作るもの。歴史とは人が生きた証しです。人というものは、一人の人間の中に様々な面を持っています。多面体です。

その人間が作るものですから、歴史もまた、多面体。

どの角度から視るかによって、視え方は違ってくる。



量子論にある「観察者の視点」というのは、歴史にも当てはまります。



歴史解釈というのは幾通りにも成り立ち得ることです。しかしその歴史を突き詰めて行った時、そこに浮かび上がってくるものはなにか。

それは、人の営み。

人があるからこそ歴史がある。人がないところには、歴史もまた、ないのです。

歴史を識るとは、人を識ること。歴史を視るとは、人を視ること。

人の「思い」を識り、視ることだと、私は思う。



その「思い」を、私は出来るだけ受け止めてあげたい。



出来るだけ正しく受け止めるためにも、捏造はいけません。





ところで、先ほどの問題の、著者による解答例を挙げておきます。



       《隋による中国統一を受け、7世紀初めには皇帝に臣従しない形式で中国
        との国交を回復し、先進的な制度・文物の摂取を図った。白村江で敗北
        し、朝鮮半島の緊張が増すなかで7世紀後半にはその緩和に務め、国家
        建設に専念すべく遣唐使を一時中断した。新羅の統一により情勢が安定
        すると8世紀初めには遣唐使を再開して律令制の完成を表明し、以降は
        定期的な朝貢を通じて文化交流に貢献した。》







『東大のディープな日本史』
『東大のディープな日本史2』
相澤 理 著
中経出版 

本:『ウルトラマンが泣いている~円谷プロの失敗~』

2013-09-16 13:26:38 | 
  

特撮の“神様”円谷英二氏が設立した円谷プロダクション。

円谷英二監督は芸術家肌の方で、元々が経営には不向きの方でしたから、会社の実情は早い頃から火の車だったようです。

初代社長、英二氏の死後、長男の一(はじめ)氏が後を継ぎますが、この一氏も早逝してしまう。

その後、残された円谷一族が会社を運営していくわけですが、まあ、放漫経営といいますか、会社の内情は益々酷いものになっていく。

詳しい内容は読んでいただくとして、とにかくあんな状況で、よく会社が持ったものだと思います。いや、もたなかったからこそ、最終的には広告代理店(株)TYOに買収されて子会社と化し、円谷一族は追放されてしまうわけで、ま、自業自得ですね。

著者の円谷英明氏は色々あって一族内で冷遇され、円谷プロから一歩離れたところから見ていた方です。まあその分、多少の怨み辛みはあるかもしれませんが、割と客観的に書かれていると思う。そこには典型的な、まるで絵に書いたような企業の転落のパターンが窺えます。



一体会社の中枢部にいた方々は、ウルトラマンをどう思っていたのだろう。単なる商品としか思っていなかったのか、実際そう思っていた人もいたでしょう。

しかしそのような会社の実情の中でも、制作現場にいた方々は、一生懸命良いものを作ろうと努力していたし、実際、「ウルトラマンティガ」「ウルトラマンダイナ」「ウルトラマンガイア」の平成三部作はシリーズ最高傑作といってさしつかえないものだった、と私は思う。

ウルトラシリーズは時代ごとにコロコロ設定が変わり、いつの間にか兄弟という設定が出来上がって、馬鹿みたいに数が増えていった。その安易な姿勢は決して誉められたものではありません。

それでも現場サイドでは、出来る限り良いものを作ろうとがんばった。



私は現在のウルトラシリーズには、なんの興味もありません。だから観たことはないのですが、たまに予告編などを目にしますと、「変わってしまったなあ」と思いますね。もはやそこには、“私の”ウルトラマンはいない。

せめて現場の方々には、「良いもの」を作るよう、努力して欲しいと思います。



『ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗』
円谷英明 著
講談社現代新書

背水の陣 ~2020東京オリンピック~

2013-09-13 12:47:30 | 雑感


【背水の陣】
漢の韓信率いる三万の軍勢が大河を背にして陣を敷き、約10倍の趙の軍勢を迎え撃ち、これと互角に渡り合ったことから、退路を断ち、失敗の許されない状況に身を置くことで、己の出来る精一杯の事を行うことをいう。





私は基本的に、東京オリンピック開催には反対でした。

そんなことより、被災地復興が先だろ?福島のことはどうすんだ?やることいっぱいあるじゃないか!

しかし、決まってしまいました。

決まった以上はやるしかない。



これはある意味「背水の陣」です。東京オリンピック開催が決定したことによって、否が応でも世界中の関心が日本に集まる。

復興が進まぬまま、福島の事の解決に目途が立たないまま、オリンピックだけが華々しく開催されたとして、果たして世界は、

日本を、どう見るのでしょう。

2020年まであと7年。この間に日本国が、日本人がどうあったか、それによって日本とはなにか、日本人とはなにかが問われているのです。

このオリンピックは日本にとって、日本人にとって、

分岐点となるでしょう。



思えば東北とは、日本の分岐点において、日本が新たな時代へと飛躍していくにあたり、その「踏み台」となってきました。

幕末の会津藩しかり、奥州平泉藤原氏しかり、アテルイしかり。

ならば「今回の事」もまた、日本が世界の中で大いに飛躍するためのしっかりとした「踏み台」にしてもらわなければならない。

でなければ、多くの御霊が浮かばれぬ。



「背水の陣」は日本に敷かれ、我々日本人一人一人の背後に敷かれました。

もはや退路は断たれました。これからの7年間、日本人一人一人がどのように「生きた」かによって、展開は決まって行くでしょう。

誰一人として、他人事ではないのです。



各人各様に、それぞれの立ち位置で、己の出来ることをする。

日本の浮沈は、一人一人の日々の「生き方」にかかってます。

『皇国ノ興廃コノ一戦二アリ。各員一層奮励努力セヨ』

Z旗はすでに掲げられました。前進あるのみ!




郷愁

2013-09-10 22:36:30 | 岩手・東北


      〈月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり
     船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は
     日々旅にして、旅を栖とす…〉。


元禄2年(1689)、松尾芭蕉は門人の河合曾良を連れ、歌枕の地を訪ねて奥州路を旅立ちます。
〈そぞろ神のものにつきて心を狂わせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず……〉旅立った芭蕉一行。
矢立の初めに

      行く春や鳥啼き魚の目は涙

憧れの奥州への旅。皆が別離を悲しみ、無事を祈って涙を流しながら送ってくれた。
〈前途三千里…〉への感慨を胸に、芭蕉一行奥州を行く。



奥州は古来より、化外の地、蛮族蝦夷の棲む辺境として恐れられ、一方、興趣を誘う歌枕の地として、多くの文人墨客にとって憧れの地でありました。

平安の歌人・源融(みなもとのとおる)は、奥州塩釜の風景を模した庭を、六条河原院に作庭し、奥州への憧れを表しています。能因法師、西行法師などが奥州を訪れ数々の歌を残し、その地は「歌枕の地」として後世の歌人達の憧憬の的となります。
芭蕉もまた、そうした歌枕に思いを馳せたが故の旅立ちだったのでしょう。



今も昔も都会の人の中には、田舎に妙な憧れを持つ人がいますね。
雛の地に郷愁を感じる心とはなんなのでしょう?
それはたぶん、「故郷」のイメージでしょうか。

日本人が共通して持つ「故郷」というものが、奥州、東北には内包されている。だからこその憧れ、だからこその感慨、郷愁…。





小倉百人一首にその名を残す歌人、藤原実方。中将の位を賜り「藤中将」と呼ばれた実方卿、頭に血が上りやすい性格で、藤原行成なる人物と一条天皇の御面前で口論となり、行成の烏帽子を奪って投げ捨ててしまった。
行成は平静を保ち、これに激怒した一条天皇は「歌枕の地を見てまいれ」と実方を陸奥守に任命し、奥州に左遷してしまいました。

奥州の風土と歌枕の地に触れることで、激情の気のある実方の気持ちも鎮まるであろうという計らいだったのか。当の実方はおそらく嫌々奥州へ向かったことでしょう。陸奥国名取郡笠島(宮城県名取市愛島)の延喜式内社・佐具叡神社の面前を通るとき、「この神は賞罰の厳しい神なので、下馬をして徒歩で通り過ぎて下さい」との忠告を無視し、あろうことか神を愚弄する発言をしたために、馬から振り落とされ亡くなってしまった。

奥州の風土にも歌枕にも触れること亡くなってしまった実方卿。そんな藤中将を憐れんでか、名取市愛島には現在も藤中将の墓と伝えられるものが残っており、地元の人が大切に手入れして保存されています。
私も10数年前に、藤中将の墓を訪ねたことがあります。夏場の盛りでしたが綺麗に草が刈り取られていて、実に気持ち良く参観できました。

都より流れ流れて辺土に没した貴人を憐れみ、日夜その墓を手入れし続ける、雛の地の名も無き人々。
奥州の、いや日本人の気風をみる思いがします。

西行法師もこの地を訪ね、

           朽ちもせぬその名ばかりを留めおきて枯野のすすきかたみにぞ見る

の歌を残しています。

芭蕉もまた藤中将の墓を訪ねますが道に迷ってしまい、地元の人に尋ねると、遥かむこうの山際にあるという。


        〈このごろの五月雨に道いとあしく、身疲れはべれば、
        よそながら眺めやりて過ぐるに、箕輪・笠島も五月雨のをりに触れたりと…〉

              笠島はいづこ五月のぬかり道






藤中将が命を落としたという佐具叡神社。賞罰に厳しいとうこの神、かなり古い神のようです。

この神を降ろしたとされる磐座の跡が現在も残っており、おそらくは太古の昔から地元の人々に祀られていた神なのでしょう。

国津神系の荒ぶる神か。それを愚弄してはいけないよ。





奥州への郷愁、それは奥州が辺境だからこそのものであったのかも知れない。

芭蕉の視点はあくまで、都会人からみた田舎の風趣、決して田舎人に「下りた」視点ではないと言えます。

こうした「芭蕉的視点」から脱却しない限り、東北の真の「解放」は有り得ないとする“識者”もおられるようです。まあ、わからないでもないですが、

でも私は思うんです。田舎でいいじゃないか、辺境でいいじゃないかって。

辺境であるということは、古いものが色濃く残っているということでもあります。

最も古い「日本」というものを深く留めている大地。それが辺境の地、奥州、東北。

奥州に、東北に感じる「郷愁」とは、まさにこの、古い「日本」というものが、深層に留まっているからではないだろうか。ならば、

田舎でいてやろうじゃない。辺境の地位に甘んじようじゃない。

すべての「日本人」のために。

「日本の故郷」でいてやろうじゃないか。



芭蕉一行はこの後、仙台、多賀城、塩釜、松島、石巻を経て、一関そして平泉の地へ足を運びます。

芭蕉in平泉編は、いずれまた。



『おくのほそ道』
松尾芭蕉
頴原退蔵 尾形仂 訳注
角川文庫











【黄金の國】ここだけ話 『月見坂今昔』

2013-09-07 22:55:03 | 黄金の國


世界遺産登録前と登録後でなにが変わったかって

白山神社の手水舎の水が、平日でも流れてる!(笑)

登録前は日曜とか祝日以外の日には、水が止められていたんです。いや、酷い時には日曜日でも水が止まってる時がありましたね。だから以前は、参拝するときは車の中に必ずペットボトルの水を常備していました。

それだけ多くの人が来ているということでしょう。二年前の登録仕立ての頃に比べたら、だいぶ観光客の数は減りましたけど、それでも往年に比べたらまだまだ多いということか。ま、世界遺産効果様様なんでしょうねえ。



世界遺産になるってことが、単に観光客を呼び込むための役にしか立たないのであるなら、そんなものはいらない!と思っていました。

わけわからん観光客が大挙してやってきて、意味もわからず騒ぎ捲って汚し捲って去って行く…そんなのは御免だ!私は静かな平泉が好きなんだよ!!!

しかしまあ、そうは言っても、地元の人達の生活もあるし、お客さんは来ないよりは来た方が良いことも確か。

まあ仕方ない。これが契機となって、平泉の内包する「平和主義」この世に理想の浄土を築くことを目指した深い思いというものに、何かを感じ入る方々が一人でも増えるなら、それも良いかも知れない、と思うことにしました。これを契機として、東北の歴史に少しでも目を向けてくれる方々が一人でも多くなるなら、それも良かろうと。

実際観光客の中には、「なんだこんなもんかい」みたいな、馬鹿にしたような態度をとる連中もいますね。まあ仕方ない、そんなのは放っとけ。所詮、縁無き衆生だったのだ。

一人でもいい。平泉に、東北という風土に、何かを感じ取ってくれる方々が一人でも増えれば

それで良し。



話とびます、すいません(笑)「八重の桜」観てて思ったんですけど、尚之助(長谷川博己)さん、悔しかっただろうな、無念だったろうな。そんな思いを抱いて亡くなった会津の方々は本当に沢山おられたのだろうな。
そしてその後の、八重さんと襄さんのやりとり。弟の三郎が斃れた場所で聴いた「声」。

遥かなる往古の昔より今に至るまで、数えきれぬほど多くの方々が、悔しさや恨み辛みやらの無念を抱えたまま亡くなられただろう。それは、私の御先祖様も同じこと。

その「声」は聴こえなくても、その「思い」はわからなくても、私はその無念を、怨み辛みを、苦しみ哀しみを、少しでも癒してあげたい。昇華させてあげたい。

それが私の最大の望み。

それさえ出来たら、あとは何もいらねえや。金もいらなきゃ名誉もいらぬ。あたしゃも少し背が欲しい。あっ、これはネタね(笑)。



今日もまた、沢山の方々が月見坂を行き来しました。

その方々は中尊寺に、平泉に

果たして何を感じたのでしょう。何を見い出したのでしょう。



                  
                    中尊寺山内から眺めた束稲山
                    「大」の文字がくっきり


黄金の國【コラム】8 中尊寺鎮守白山神社能楽堂

2013-09-06 22:10:40 | 黄金の國


  


中尊寺の鎮守社、白山神社は中尊寺の北の奥、一番上に鎮座されています。

その起源が中尊寺よりも古いことは以前取り上げました。この白山神社にはかつて、「姥杉」と呼ばれた御神木が立っており、その香は伽羅の如くであったといいます。

これを後水尾天皇(1596~1680)に献上したところ


                いく千とせ齢ふりぬる神の木か神ハしら山杉の一本


との御製を賜りました。

この御神木は文化元年(1804)落雷のため焼け落ちてしまい、現存しておりません。


御祭神は現在ではイザナギ、イザナミ。江戸の頃はククリヒメであるとされ十一面観音が祀られていたようです。
菅江真澄(1754~1829)の著書『かすむこまがた』によると、地元民はこの神を「韓神」であるとしていたようです。つまり朝鮮半島の神ということですが、そうなると太白山あるいは白頭山の神ということでしょうか。
しかしこれは案外「逆輸入」であるかもしれない。

遥かな太古、白山信仰を持って朝鮮半島に渡った人々が、太白山や白頭山に同様のものを感じ信仰した。そうして長い年月を経、自分達のルーツを忘れた頃に再び日本に帰ってきた。
白山の信仰と太白山、白頭山の信仰とがそうして混ざり合ってしまった結果、そのような伝承が出来上がったのではないでしょうか。なんてことをちょっと妄想してみました(笑)。


白山神社における奉納舞は、長床と呼ばれた拝殿にて行われていたようです。嘉永2年(1849)6月、その拝殿が不審火にて焼失、同6年(1853)に再建されたのが、現在の能楽堂になります。




                 









さて、明治9年(1876)、明治天皇は東北御巡幸の途上であられる7月4日に中尊寺を御参観されています。随行は木戸孝允と岩倉具視。金色堂を御参観された際に、先の木戸や岩倉らから奏上を受け、この金色堂は「天下の規模」であるから永世保護せよと厳命されたとか。

どうやらこれが契機となって、金色堂は国宝第一号に指定されたようです。


ところで、明治大帝の御参観されるにあたって、中尊寺内でちょっとした議論が沸き起こったようです。

中尊寺の参道は、入り口から「月見坂」という長い坂が続きます。この月見坂を登り切ったところに「黒門」と呼ばれる門があり、門の片隅に、「下馬」という意味の文字が彫られた古い石碑が建っています。


                      
                         中尊寺黒門


                                 
                                    かろうじて「下」の字は見える


江戸時代、平泉は仙台藩の領地であり、伊達のお殿様は馬に乗って月見坂を登ることが許されていました。
しかし、この黒門より先は聖域であるので、例え殿様であろうとも馬上の人であることは許されず、必ず下馬して徒歩で移動するように、という意味の石碑なのです。
さあしかしこれが、天皇陛下であればどうでしょう?陛下を伊達の殿様と同列に扱うかたちになってしまわないだろうか?これは著しく不敬にあたるのではないか?いっその事石碑を無くしてしまったらどうか?等々の議論が繰り返されたようです。
結局、宮内省より「そのままでよい」とのお達しがあったため、石碑は倒されることなく、現在も同地で月見坂を登ってくる人々を静かに見守っています。




さて、明治大帝は寺内を御参観せられた後、白山社能楽堂に立ち寄られ、舞台正面に用意された「玉座」に着かれ、能「竹生島」をご鑑賞されました。爾来、中尊寺の神事能といえば、「竹生島」が一番となるのが通例となっています。

                         
                          撮るべきかどうか迷いましたが
                          御挨拶させていただいた上で
                          撮らせていただきました。



 

中尊寺に立ち寄る機会がありましたなら、是非にも白山社に寄っていただきたい。能楽堂を見ていただきたい。いやわけわからん観光客はご遠慮願いたいですが(笑)。

平泉の内包する「平和思想」に思いを馳せる、真摯な信仰心をお持ちの方は、是非。  



【参考資料】
『中尊寺千二百年の真実』
佐々木邦世 著
祥伝社黄金文庫

『みちのく平泉を歩いた文化人たち』
岩淵国雄 著
本の森

『歴代天皇総覧』
笠原英彦 著
中公新書