風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

【黄金の國・新編】奥州安倍氏の系譜⑤ ~塩土老翁神~

2018-09-29 04:47:12 | 黄金の國






宮城県塩釜市に御鎮座される陸奥国一宮・鹽竈神社。創建年不明。主祭神は塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)。その他、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)が祀られています。



シオツチノオジノカミは、神武天皇や山幸彦を導いたという神話から、航海の神また海の潮を流れを神格化した神とも云われますが、今一つ正体がわかっていません。


鹽竈神社の境内にはもう一つ、とても立派なお社が御鎮座されております。延喜式内社・志和彦神社です。




総研年代はやはり不明。この志和彦神社。元々は現在地とは別の場所に鎮座されておりました。かつては延喜式内社、名神大社の社格を持つ由緒ある神社でしたが、時代の流れとともに衰退し、江戸の頃には小さな祠一つとなって、別の神社内に合祀されていました。

明治の御代となり、新たに官幣中社の社格を与えるに及び、小さな祠一つでは具合が悪いということで、現在地に立派な社殿を建て、御遷座されたという次第。


なんとも、不思議な変遷を辿った神社ではあります。





志和彦神社の御祭神は志和彦神。農業の神、殖産の神であり、国土開発の神だとされていますが、その由来はよくわからない。

ただ、江戸時代・元禄の頃に書かれた縁起には、「シオツチノオジ神と同体」であると書かれているそうな。


国土開発、つまり「国造り」の神ですね。国造りと神といえば思い出すのは


大国主神。



大国主とは固有名詞ではなく、それぞれの地方の開発に尽力した者たちは皆、大国主と言ったという説があります。ですから東北を開発した志和彦神も大国主だし、かつて大和地方を開発したと思われる、ナガスネヒコもまた、大国主。


で、あるといえます。



出雲大社に祀られているのは実はナガスネヒコであるとする説はすでにご紹介しました。ナガスネヒコが大国主なら、志和彦神も大国主。


この志和彦神とシオツチノオジ神が同体であるなら、シオツチノオジ神もまた、大国主。



いや、それだけではありませんね。鹽竈神社は奥州安倍氏の氏神社でした。創建以来の初代社家は阿部家が代々受け継いでいたそうです。


そうして、奥州安倍氏の先祖を遡っていくと、その先には


ナガスネヒコがおられる。



ということは、あるいは……。






ある方の説によれば、ナガスネヒコが殺された後、ナガスネヒコの一族は東北に流されたといいます。彼らナガスネヒコ一族は、そのもてる農業技術を生かして、東北の土地開発に乗り出したのではないでしょうか。弥生時代前期には津軽地方にまで稲作は一挙に普及していきます。これはナガスネヒコ一族の尽力があったからなのかもしれない。

もっとも、津軽地方ではその後稲作は衰退し、北東北は続縄文文化の時代を迎えることになるのです。


おそらくナガスネヒコ一族は仙台平野や大崎平野などを中心として土地開発を行っていったのでしょう。宮城県大崎市志和姫の地には、志和姫神社が御鎮座されております。大崎平野の真ん中といっていい志和姫の地に祀られる神は、志和彦神社の神と同体だとされているようです。


彦と姫の違いこそあれ、同じ神が仙台平野と大崎平野に祀られているという事実。


そういえば、岩手県奥州市水沢区に鎮座される駒形神社の境内には、摂社として塩釜神社が祀られています。この駒形神社の建つ場所は元々塩釜神社だったそうで、そこへ後々駒形の神が御遷座されてきたのだそうな。結果、塩釜の神は脇へ追いやられた。


なんとも切ない話ではありますが、胆沢平野にもまた、シオツチノオジ神が祀られていたわけです。


志和彦神=志和姫神=ナガスネヒコ。

シオツチノオジ神=ナガスネヒコ。


であるとするなら、仙台平野と大崎平野、そして胆沢平野にもナガスネヒコ一族の痕跡を見るのは


安易だろうか。













もう20年程前になりますか、私はとある書店において、ある書籍を立ち読みしておりました。

その書籍で鹽竈神社のことが取り上げられており、そこには


「鹽竈神社の本当の御祭神はナガスネヒコであると、古い文献に書かれている」とあったのです。


その当時は意味がよく把握できず、そのまま忘れ去られていました。それが最近になって俄かに思い出され、それと合わせての安部貞隆氏の書籍の内容に示唆されての、一連の記事であります。



東北開発に尽力したナガスネヒコ一族が、安倍氏が土着したころ具体的にどのような状態にあったのかは、わかりません。あるいは安倍氏は、同じナガスネヒコの血を引く一族だとして、ナガスネヒコ一族から東北における地位を、なんらかのかたちで受け継いだのかもしれない。







まだまだ、つづきますよ。

ニッポン笑顔百景

2018-09-28 04:58:06 | ももクロ







桃黒亭一門『ニッポン笑顔百景』





笑おう 笑おう 笑えなくても
笑うしかないでしょ 笑いましょ
笑おう(ソイヤソイヤ)口角上げて
ひたすら笑いましょ

応仁の乱 大ききんさえ
クリアして現代日本人
笑おう 未来永劫
グハハと笑いましょ

<中略>

波乱万丈 酸いも甘いも
乗り越えた あっぱれ日本人
笑おう どんな時でも
ひたすら笑いましょ

ひたすら笑いましょ

ぐわっはっは(ぐわっはっは)にょっほっほ(にょっほっほ)
空気なんて読まずに笑っとけ
笑顔(笑顔)笑顔(笑顔)
笑う門には福来たる!

作詞、作曲、前山田健一
歌、桃黒亭一門『ニッポン笑顔百景』より一部抜粋





笑えるのになぜか涙が出てくる。そんな曲。


ホント、ももクロって、素敵だ。

【黄金の國・新編】奥州安倍氏の系譜④ ~大彦命~

2018-09-27 05:14:10 | 黄金の國





阿倍氏の祖は第八代孝元天皇の第一皇子、大彦命の子、タケヌナカワワケであります。


この大彦命をざっと調べてみました。



母親は孝元天皇の皇后ウツシコメノミコト。同母兄弟には第九代開化天皇がおられる。



このウツシコメノミコトですが、父親が大矢口宿禰命。母親は坂戸由良都姫命。同母兄には穂積氏の祖であるウツシオノミコトがおられる。


大矢口宿禰命の祖父にあたるのが出石心大臣命で、この方をさらに遡っていきますと、ウマシマジノミコトという方に辿り着きます。



ご存知の方もおられるかとは思いますが、ウマシマジノミコトとは、ニギハヤヒノミコトの子であり、その母ミカヤシキヒメはナガスネヒコの妹です。


ということは、物部氏と同じ血筋ということになりますね。





神話に詳しい方ならご承知の通り、ナガスネヒコは神武東征のあおりを食うかたちで殺されてしまいます。結果的に彼を殺すように仕向けたのは、彼ナガスネヒコが神と仰いでいたニギハヤヒノミコトでした。


裏切られたかたちとなったナガスネヒコの悲しみ、怒りは相当なものだったでしょう。ある方の説によれば、ナガスネヒコの怨霊は激しく祟り、この怨霊を鎮めるために祀ったのが、出雲大社であるということらしい。


つまり阿倍氏の祖の母は、大怨霊ナガスネヒコの血筋であるということになります。この方が孝元天皇の皇后となり、その子の一人は阿倍氏の祖となり、また一人は

開化天皇となった。



私には霊的なことはわかりません。ですからこれは私の完全なる妄想と捉えていただければ幸いです。


つまりこれは、天皇、皇室、皇族の中に、ナガスネヒコの怨念の霊的因子が入り込んだ、ということなのかもしれない。



その因子は後々、崇徳上皇の怨霊を生み出し、皇室に仇成すことになる……。



いやいや、妄想です、妄想。




つづきます。

【黄金の國・新編】奥州安倍氏の系譜③ ~前九年合戦とその後の展開~

2018-09-26 04:44:12 | 黄金の國





前九年合戦については、長らく「前九年の役」と称されてきました。



「役(えき)」というのは、日本人ではない異民族との戦争に関して使われる表現なのだとか。例えば蒙古とのいくさは文永・弘安の役、豊臣秀吉の朝鮮侵攻は文禄、慶長の役というように。

もっとも、西郷隆盛の起こした反乱をかつては西南の役と呼んでいましたから、必ずしも異民族との戦争のみを指しているというわけではないのかもしれない。ただ敢えて言うなら、西郷さんは国家=天皇に反逆した逆賊である、つまり日本人とは言えない、という意味が含まれていたのかもしれない。



やはりそこには、日本人と日本人以外という区別、もっとはっきりいえば「差別」の意識があった、と私には思える。奥州安倍氏が名族の裔であるということは、長い時の流れの中で忘れ去られ、東北の奴ら=俘囚とされ、差別の対象ともなっていった。それが「役」という表現に現れているのでしょう。




だから私は絶対に、「役」という表現は使いません。安倍氏や、蝦夷・俘囚などと呼ばれた人々、我が東北の先人たちを日本人ではないなどとは絶対に言わせない。


あくまで「前九年合戦」であり、「後三年合戦」なのです。



その点、どうぞよしなに。




では、前九年合戦についておさらいしてみましょう。








●永承6年(1051)、陸奥守・藤原登任は、安倍氏が朝廷へ納めるべき租税を私しているとの嫌疑を掛け、懲罰と称して数千に及ぶ兵を動かします。両軍は玉造郡鬼切部(宮城県大崎市鬼首)にて激突。このいくさには秋田城介・平繁成の軍勢も加勢しますが、安倍軍の大勝利に終わり、藤原登任は更迭、後任として河内源氏・源頼義が派遣されてきます。

※安倍氏が租税を納めなかったというのは登任の言いがかりでしょう。登任は安倍氏の奥州における莫大な権益の一端を奪取しようとしたのだと思われます。それは後任の源頼義も同じでした。



●源頼義が陸奥守として赴任してまもなくの永承7年(1052)、後冷泉天皇祖母・上東門院の病気平癒祈願のため、大幅な大赦が行われます。これにより安倍氏の罪も不問に付され、頼義は安倍氏を攻める大義名分を失ってしまいます。安倍氏の長・安倍頼良は大層喜び、陸奥守と同じ名前では畏れ多いと、名を安倍頼時に改めます。なにもできぬまま時は流れ、ついに源頼義の陸奥守の任期が切れる時が迫ってきました。


●頼義の陸奥守の任期が切れる天喜4年(1056)、頼義一行は胆沢鎮守府(岩手県奥州市)を視察し、多賀国府(宮城県多賀城市)への帰路。阿久利川(所在地不明)畔にて野営していると、配下の者の人馬に危害が加えられたとの報告があり、さらにその配下は、犯人は安倍頼時の次男・安倍貞任に違いないと頼義に報告します。頼義はこれをとくに調べもせずそのまま受け入れ、安倍氏に対し貞任の引き渡しを要求します。安倍側はこれを拒否、ここに頼義はいくさを仕掛ける口実を得ることになったのです。

※この阿久利川事件、頼義の仕掛けた謀略とみて、ほぼ間違いないでしょう。


●天喜5年(1057)、頼義は安倍勢を挟み撃ちにしようと、津軽の安倍富忠に使者を送ります。頼時と富忠は同族だったようで、頼時は富忠が源氏側に靡かぬよう説得するため、自ら津軽へ向かいますが、その途上、富忠勢の奇襲を受け負傷、鳥海の柵(岩手県奥州市金ヶ崎)にて息を引き取ります。


●頼義は頼時の死を朝廷に報告しますが論功を得ることが出来ず、焦ったのか冬であるに関わらず兵を上げます。安倍軍は川崎の柵(岩手県一関市川崎)に兵を集め、両軍は黄海(きのみ、岩手県一関市藤沢)にて激突。雪に慣れない源氏軍は苦戦を強いられ、戦況は一方的に安倍軍有利に進み、頼義は長男の義家以下、わずか7騎ほどを引きつれ、ほうほうの呈で戦場を離脱します。

※安倍氏側には、国司である頼義の首を取るつもりはなかったと思われます。国司を殺せば逆賊、朝敵となってしまいます。だから頼義らをわざと逃がしてあげたのです。



●膠着状態が続いたまま時は過ぎ、あっという間に5年が過ぎ、頼義の陸奥守の任期が切れてしまいます。康平5年(1062)、朝廷は新たな陸奥守・高階経重を派遣しますが頼義は頑として居座り、経重は仕方なく帰任。頼義が三度陸奥守に任命されます。
頼義は出羽の実力者清原氏の長、清原光頼に「奇珍の贈物」を続け、参戦してくれるよう要請します。こうして清原氏は光頼の弟、武則を総大将として源氏に加勢したのです。


清原氏の参戦によって形勢は一挙に逆転します。源氏・清原連合軍は安倍軍の最前線である小松の柵(岩手県一関市萩荘)を、清原武則の戦略によって激戦の末落とし、安倍軍はじりじりと後退。拠点である衣川の柵(岩手県奥州市)も捨て、厨川の柵(岩手県盛岡市)にて決戦に臨みます。
難攻不落の厨川の柵でしたが、やはり清原武則の知略によりついに陥落。安倍貞任や貞任の盟友・藤原経清(奥州平泉藤原氏初代・藤原清衡の父)らは戦死。ここに奥州安倍氏の栄華は潰えたのです。

※いくさはすべて、清原武則の采配によって行われ、源頼義はその下知に従っていただけだったようです。源頼義、およそ将の器ではなかった。






戦後、頼義は待望の陸奥守に再任されることなく、陸奥から遠い伊予守に任命され、特別な論功はなにもありませんでした。頼義としてはこれで安倍氏の権益は思いのままになると期待したのでしょうが、そうは問屋が卸さない(笑)、朝廷側としてはこれ以上源氏に力を付けさせては危険だという判断があったのかもしれません。

代わりに清原武則が鎮守府将軍に任ぜられ、奥羽の覇者となったのです。

藤原経清の妻・有加は清原武貞に再嫁し、経清の遺児とともに清原に引き取られます。経清の遺児・清衡は後に藤原清衡を名乗り、奥州平泉(岩手県平泉町)に100年の栄華を築くことになるのです。






さて、安倍貞任には宗任という弟がいました。宗任は貞任の死後、朝廷側に投降し、伊予国から、のちには筑前国の宗像に「流され」ました。


しかし、先の安部貞隆氏の著書によれば、宗任が「流された」「配流」されたとはどの記録にも記されていないというんですね。

「配流」ではなく、「安置」と書かれているのだそうな。


我々は長いこと、宗任は罪人として流されたのだ、と思ってきました。しかし、実際はそうではなかったとするのが、安部貞隆氏の説です。


宗任はまず伊予に置かれ、その後筑前の太宰府に遣わされているとする記録が残っているそうです。これはつまり宗任は罪人として扱われていたのではなく、地方官吏として派遣されたのではないかと思われるわけなのです。


さらには宗任が、前九年合戦に参加しなかった褒美として、肥前国松浦の地を賜ったとの記録があり、また松浦神社などの鳥居に、「松浦郡司安倍宗任」と刻まれていたのだそうです。


宗任は官吏としての経験を買われ、地方官として派遣されていた、ということです。


宗任は前九年合戦には参戦しておらず、従って「罪」は犯していないと云える。罪を犯していないのに罪人扱いなど、考えてみればおかしな話です。それに奥州安倍氏が古代名族阿倍氏の裔であるならば、それなりに丁重な扱いを受けるのは当然というものでしょう。しかし我々は奥州安倍氏が俘囚の出であると思い込んでいた。だから宗任も当然のように罪人として扱われ「配流」されたのだと、勝手に思い込んでいた。

だって「俘囚」なのだから。


なんということだ!かくも思い込みとは恐ろしきもの。しかもそこには、そこはかとなく、意識されていないが

微かな「差別意識」が見え隠れしている。


差別とはこのように、意識されることなく、ごく当たり前のように行われるものです。


だから私は云うのだ、差別などしたことがないなんて言う奴は、嘘つきだと。




それはともかく、奥州における安倍氏の栄華は潰えました。しかし宗任をはじめとして、奥州安倍氏の血族は九州北部などで栄えたようです。宗任の子孫は一部が松浦水軍の一党となり、そこからさらに分かれた一族の中に、長門国、現在の山口県に渡った一族がいたそうな。


その山口県に渡った「安倍氏」の末裔に、現内閣総理大臣・安倍晋三氏がおられるというわけです。




奥州安倍氏は古代名族阿倍氏の末裔だった、ということが分かったところで、



話はまだまだ続きます。



では、本日はここまで。

【黄金の國・新編】奥州安倍氏の系譜② ~古代名族、阿倍氏~

2018-09-25 04:01:38 | 黄金の國






中央における古代名族である阿倍氏の祖とされるのは、第八代孝元天皇の第一皇子、大彦命(大毘古命)の子、武渟川別(たけぬなかわわけ)です。


阿倍氏というと、阿倍仲麻呂や安倍晴明などが歴史上有名ですが、奥州安倍氏はそれらの人々と直接的な繋がりがあるわけではないと思われますが、遡っていけばどこかで繋がるのでしょうね。



奥州安倍氏は大化の改新後に左大臣を務めた阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)や、秋田蝦夷を征した阿倍比羅夫の流れのようです。


斉衡2年(855)安倍安仁なる人物が、陸奥出羽按察使(あぜち)に任命され、東北の地に派遣されてきます。按察使とは政治、軍事をともに束ねる最高責任者であり、いわば東北で一番偉い人ということです。

安仁は政治家としての手腕が大変高く、またよく仁政を敷き、人々から慕われた。貞観14年(872)には、安仁の子・安倍清行(きよつら)が陸奥守に就任。さらに仁和2年(886)には清行の弟・貞行が陸奥守に就任。東北、奥州に大変縁の深い家系だったようです。


前掲書によりますと、その貞行の子・頼任(よりとう)が奥州の地に土着、奥州安倍氏の祖となったということらしい。


奥州安倍氏は鹽竈神社(宮城県塩釜市鎮座)を氏神としてこの鹽竈神社周辺を基盤として発展して行き、北上して栗原郡や磐井郡、胆沢郡などへ勢力を伸ばし、六箇郡の司となって行った。


そうして頼任から崇任ー忠頼ー忠良ー頼良そして貞任、宗任へと繋がっていくわけです。



なるほど、古代名族阿倍氏の裔ということなら、郡司に任命されてもおかしくはないでしょう。当時は今では考えられないくらい、「血筋」というものが重要視されていましたから。




私的には、こちらの方がスッキリする気がしますね。








奥州安倍氏の由来はこのくらいにして、次回は前九年合戦について、サラッとおさらいしてみたいと思います。




つづきます。

【黄金の國・新編】奥州安倍氏の系譜① ~俘囚について~

2018-09-24 04:44:35 | 黄金の國






宝亀5年(774)現在の宮城県石巻市桃生(ものう)の地にあった大和朝廷の砦桃生城を蝦夷が襲撃、占拠します。朝廷側の政策に反発した蝦夷たちの反乱でした。

いわゆる「奥羽三十八年戦争」の始まりです。


宝亀11年には伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)が乱を起し、朝廷の陸奥における拠点である多賀城が焼き討ちにされます。


延暦8年(789)には征東将軍・紀古佐美らによる大規模な対蝦夷軍事行動が行われますが、阿弖流為(アテルイ)らが率いる蝦夷勢の奇襲攻撃により、巣伏の地(岩手県奥州市)にて大敗を喫してしまいます。


その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、広大な胆沢の森(岩手県奥州市)を切り開き、胆沢鎮守府を建設。その圧倒的軍事力を見せつけることで蝦夷側の戦意を喪失させ、阿弖流為とその腹心・母礼らが投降。田村麻呂は彼らの助命嘆願を申し出ますが聞き入れられず、阿弖流為らは河内・森山の地にて処刑されます。


弘仁2年(811)には幣伊村蝦夷の反乱が征討され、新たに和賀郡、稗貫郡、紫波郡が設置され、現在の岩手県中央部までが朝廷の支配下となり、ここに奥羽三十八年戦争は終わりを告げることとなりました。




この三十八年戦争の後、朝廷側に投降した蝦夷たちは「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれました。彼ら俘囚は、農業に従事するいわゆる「良民」とは異なり、国衙より食料や布の配給を受け、租税も免除された。その代わり大和国家への服従を誓い、土地の産物を貢物として献上していたようです。



抑々なぜ蝦夷たちは反乱を起こしたのか?諸説ありますが、ひとつには彼ら蝦夷の生活の基本スタイルである狩猟、これを大幅に制限され、先祖伝来の生活スタイルが壊されるのを嫌ったからではないか、とも云われています。


ですから、食料や布を配給していたというのも、急激に生活スタイルを変えるのではなく、少しづつ手なづけながら、徐々に稲作を行わせるような方向へ向かわせようとしていたのかも知れません。



しかしその後の東北地方には、東日本大震災に匹敵するとも云われる貞観の大地震が起き、さらには鳥海山の噴火による火山灰によって大地が覆われ、農業が立ち行かなくなる状況に追い込まれるなど、天変地異が相次ぎ、上記のような俘囚対策はうやむやなものになっていったようです。




その後俘囚たちが具体的にどのような道を辿って行ったのか、よくわからない。ただ、上に挙げた献上品を送るルートから交易が発展し、それを足掛かりとして力を付けていった者達のなかから台頭してきたのが、出羽の清原氏であり、陸奥の安倍氏である、とするのが従来の定説だったようです。




しかし、本当にそうなのでしょうか?




11世紀後半に書かれたとされる、前九年、後三年合戦の顛末を記した文書『陸奥話記』などによれば、安倍氏は「六箇郡の司」つまり六か所の郡の郡司の役職にあった、と記されています。


郡司といえば国司の下で各郡の政務一般を取り仕切り、租税徴収など国家にとってとても重要な職務を任せられている役職です。



そのような重要な役職に、いかに力をつけていたとはいえ、こう言ってはなんですが、



たかが「俘囚上がり」に、任せるものでしょうか?






ロマンとしてはわかります。俘囚と蔑まれた者たちの中から実力をつけた者達が自力で這い上がり、地位を得、やがて国家に反逆する戦いへと挑んでいく。小説やドラマならこのような展開にした方が盛り上がるし面白みもあるし、何よりロマンがある。エンタテインメントとしてはこちらの方がよいのかもしれない。



しかし現実はどうだったのか。私の中には、その点がずっと、言い知れぬモヤモヤとして心にまとわりついていたように思う。



やはり奥州安倍氏は中央の古代名族阿倍氏に連なる、由緒ある血筋の者達の裔ではなかったか?その点を明確に示してくれたのが、先に紹介した書籍だったというわけです。



つづきます。





※阿倍、安倍、阿部、安部など、「あべ」の表記が様々に入り乱れ、混乱を呈している方もおられるかも知れませんが、これらの表記は時代や地域、あるいはそれぞれの家系の事情によって変化したものであります。しかしだからこそ、その表記は間違えないよう、注意を払う必要があると考えます。

阿倍、安倍、阿部、安部はすべて「あべ」。しかし「あべ総理」は安倍総理であって、安部総理でも阿倍総理でも、阿部総理でもありません。この点、皆さんも注意してくださいね。

【黄金の國・新編】奥州安倍氏の系譜 ~はじめに~

2018-09-23 14:47:07 | 黄金の國













私が奥州安倍氏のことを意識しはじめてどれくらいになるだろうか。少なくとももう、30年以上にはなるだろう。


この古代東北を席巻した一族の出自、系譜を探ることは一つのロマンであり、古代東北の秘密ひいては古代日本の秘密を知る上で、一つの大きな契機となり得るかも知れません。



大分県在住の郷土史家、安部貞隆氏が、ご自身の家をはじめとする豊後安倍氏の家系の家々に伝わる系図、古文書を基に書かれた著書、『陸奥安倍氏累代の古文書が語る 逆説前九年合戦史』これによりますと、奥州安倍氏はいわゆる蝦夷、俘囚の類いではなく、中央の名族である安倍(阿倍)氏、正三位大納言・安倍安仁の系譜であること、つまりは第八代孝元天皇の皇子・大彦命に連なる系譜であるらしいのです。


これを読んで、長年私の中にあった言い知れぬもやもやがすっきりしたような気がしました。これとやはり奥州安倍氏に連なる秋田氏の系図に書かれていた、ナガスネヒコの兄、安日彦からの系譜と、これらを考え合わせたときに、


奥州安倍氏の秘密の一端が見えてきた。


そんな気がしました。




歴史の闇に挿した一条の光、このことをこれからつらつらと書き連ねていきたいと思っております。


本日は前振りのみということで(笑)、本編は次回から。


では、どうぞよしなに。





つづく。






大河ドラマ『炎(ほむら)立つ』オープニング・テーマ

私が選ぶ珠玉の悪役ベストテン

2018-09-22 07:16:34 | エンタメ総合






悪役が魅力的でなければ、ヒーローを際立たせることは出来ない。



悪の魅力なしに、ヒーローは成り立たないといっても過言ではない。


悪役を侮ってはなりません。



そんな悪役たちのなかでも、私の心に特に残っている10人の悪役たちを、ここに列挙してみたいと思います。


エンタテインメントを彩った華麗なる悪役たち、とくと御覧じろ。







第10位:遠井弁護士
ワイルド7(1969~1979少年キング連載)原作、望月三起也

いわゆる悪徳弁護士という奴。第1エピソード『野生の七人』及び第2エピソード『バイク騎士事件』に登場したあと、ずっと間を置いて最終エピソード『魔像の十字路』に登場。ワイルド7たちが闘ってきたすべて悪党どもの裏側で、実は暗躍していたのだとしたら、ちょっと面白いな、と思ったキャラクターでした。
まあ、望月先生がそこまで深く考えていたとは思えませんが(笑)、せっかく面白いキャラクターなのに、ほんのちょっとしか登場しなかったのは実にもったいないということで、ここに選ばせていただいたという次第。





第9位:X星人
ゴジラファイナルウォーズ(2004)監督、北村龍平。演・北村一輝

この映画、ゴジラシリーズの中では私が最も大っっっっっ嫌いな作品なんですけどね(笑)でもこの北村一輝の思いっきり振り切れた演技だけは大好きでした。
まるで時代劇の悪代官みたいでね、面白かったなあ。好きなセリフは「やっぱマグロばっか食ってるやつはダメだな」





第8位:兎之助
用心棒(1961)監督、黒澤明。演・仲代達矢

時代劇なのに首にマフラーを巻き、6連発のリボルバー拳銃を持ち歩くヤクザ。疑り深く知恵も回り、三船敏郎演じる主人公、桑畑三十郎を苦しめた最大の敵。
仲代さんの狂気を湛えた目とにやにや笑いが、この兎之助という男の悪人ぶりを見事に表していました。
仲代達矢の名演が光る名悪役。





第7位:インディオ
夕陽のガンマン(1965)監督、セルジオ・レオーネ。演・ジャン・マリア・ヴォロンテ

マカロニウエスタンの最高傑作に登場する悪役。殺人、強盗、悪の限りを尽くし、多額の賞金がかけられている極悪人で、クリント・イーストウッドとリー・ヴァン・クリーフ演じる二人の賞金稼ぎに狙われるが、狡猾な男で二人を手玉にとってしまう。残虐でよく悪知恵も働き、仲間を裏切ることも厭わない極悪非道な男。イタリアを代表する名優、ジャン・マリア・ヴォロンテの素晴らしい演技が光る名悪役。




第6位:ハンス・グルーバー
ダイ・ハード(1988)監督、ジョン・マクティアナン。演・アラン・リックマン

ナカトミビルを占拠したテロリスト・グループのリーダー。常に静かな口調で喋る男だが、底深い悪の闇を感じさせる、ある種不気味な佇まいを漂わせている。、頭の回転も速く腹の底が読めない、どこか人を不安にさせる雰囲気がなんともいい感じの悪役です。
最後の最後まで気を許せない、見事な悪役ぶりでした。





第5位:加藤保憲
帝都物語(1988)原作、荒俣宏。監督、実相寺昭雄。演・嶋田久作

日本の歴史の裏側で滅ぼされた「まつろわぬ者たち」の怨念が結晶化した存在で、帝都・東京を破壊せんと企む魔人。
演じた嶋田久作さんはこれが映画デビュー作でしたが、そのデビュー作にして最大の当たり役でもありました。演技云々というより、その強烈な存在感で、役2時間半の映画を見事に見せ切ってしまった。
ある意味、歴史的悪役といっていいかもしれません。





第4位:ドクター・フー
キングコングの逆襲(1967)監督、本多猪四郎。演・天本英世

正体不明、国籍不明、科学者のようでもあり企業家のようでもあり、何をやっている人なのかもよくわからないが、悪い奴だという事だけはわかる。そういうわけのわからない悪役を演じさせたら、天本さんの右に出る人はいませんでしたね。
天本さんといえば最大の当たり役はなんといってもショッカー大幹部で仮面ライダーの敵、死神博士であることは間違いないでしょう。まあ、死神博士を上げてもよかったのですが、私的にはこのドクター・フーの悪役ぶりは特筆に値すると思っておりますので、敢えてこちらを上げさせていただきました。
悪のふてぶてしさ、憎々しさ、どれも最高でした。





第3位:阿部頼母
子連れ狼(萬屋錦之介版。1973~1976)原作、小池一夫。小島剛夕。演・金田龍之介

将軍が執る食事の毒見役を代々掌る家の当主。通称「阿部怪異」。あらゆる毒という毒に精通しているのみならず、拝一刀一人を殺すためなら、村を一つ水没させることも厭わない、極悪非道ぶり。ある意味、時代劇最大最悪の悪役といっていいでしょう。
演じる金田龍之介さんは、原作に近づけるために出っ歯の入れ歯を嵌め、その怪演はまさしく「怪異」でありました。
時代劇の歴史に残る、名悪役中の名悪役。





第2位:カリオストロ伯爵
ルパン三世カリオストロの城(1979)監督、宮崎駿。演(声)・石田太郎

日本のアニメ史上もっとも印象的な悪役といえばやはりこちら、カリオストロ伯爵でしょう。
「ジョドー、不始末だな」「どこまで行くのかな、クラリス~う」などなど名セリフも多く、その堂々たる悪の品格には、悔しいが惹かれずにはおかれない魅力があります。石田太郎さんの声がまた素晴らしくてね。永遠に忘れられない名悪役です。





第1位:ダースベイダー
スター・ウォーズep4~ep6(1978~1983)監督、ジョージ・ルーカス。演・デヴィッド・プラウズ。声・ジェームズ・アール・ジョーンズ

悪の怖さ。悪の弱さ。悪の悲しみ。そのすべてを漆黒の衣装に包んだ哀れな男。くれぐれもダークサイドには落ちないように、皆さん気を付けましょうね。
ダースベイダーはなんといっても1作目が一番颯爽としていて、悪の魅力に満ちていましたね。悪役としては1作目が一番よかった。2作目3作目以降も悪くはないですけどね。1作目は悪であることに迷いがない。やっぱり悪役はこうでないと。
ダークサイドに堕ちる危険性は誰もが持っています。ダースベイダーはある意味反面教師でもある。これもまた悪役のお役目の一つであるかもしれませんねえ。




世に悪役は数多あれど、その中より選ばれし珠玉の悪役10人。いかかでしたでしょうか。皆さんもご自分の好きな悪役を選んでみてはどうでしょう。


案外、楽しいかもしれませんよ。



では、また。

秋のお彼岸

2018-09-21 05:58:34 | ここで一句




こちら東北では、朝夕めっきりと冷え込むようになってきました。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもの。この間までの異常な暑さは噓のように過ぎ去り、あっという間に秋も過ぎて、もうすぐ冬がやってくる。



今年もあと3ヶ月、早いなあ。




ここで一句



【行く夏を名残惜しみて秋彼岸】



寒くなってくると、あんなに暑くて辟易した夏でも、妙に懐かしく感じたりします。おかしなものです。










春はぼたもち、秋はおはぎ。間違えませんように。