風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

能年玲奈論

2014-01-31 13:51:00 | 


   



この方は賢い方です。


「かんぽ生命」のイメージキャラクター起用の発表記者会見にて、能年さんは、イメージを大切にしながら、ブレずに行きたい。という趣旨の発言をしたとか。

イメージ、という言葉をさりげなく使っていますが、これは自分が世間にどう見られているのかということをよく理解しており、そこから「ブレる」ことなく、真っ直ぐに進んで行きたい、ということでしょう。



人間には色々な側面があります。

「あまちゃん」で見せたような姿だけが能年さんではない、もっと違った面もたくさん持っていることでしょう。

ありがちなのが、「こんなのは本当の自分じゃない!」とか言って、自ら潰れていくケースですね。そうやって消えていったアイドルの類はたくさんおります。

でも「本当の自分」ってなんなのでしょうね?

そんなもの、最初からあるものなのでしょうか?

自分というものは、あるんじゃなくて、「成って」いくものなのじゃないかなあ。

どんな自分になるのかは、それこそ「自分」次第なんじゃないの?

人間は成りたいようにしかなれないものです。つまり、自分で自分をプロデュースしているんです。

能年さんは、「あまちゃん」で培われた世間のイメージを大切にしたいと思った。アキちゃんのように、自分は変わらないかもしれないけれど、周りの人達を元気付けて変えていけるような、そんな人でありたいと思った。

これはある意味、大変なプレッシャーだと思う。でも能年さんはあえてその道を進もうとしている。

能年さんの言う「イメージ」とは、単なる外見ということではなく、本当にそういうような人でありたい、ということなのだと、私は読ませていただきました。

能年さんはそのように自分をプロデュースしたいのですよ。

この方は「イメージ」という言葉一つで、そうした奥側の意味までをも、さりげなく、しかし確実に表現している。

この方は、賢い方です。


                     



【君子は豹変す】

という言葉があります。

豹変なんていうと、悪い意味に解釈されるかも知れませんが、本当はそうじゃない。

賢い人は、自分を良い方向へ柔軟に変化させていく。でもそれは無節操ということではないんです。

人には変わるべきでない部分、変わってはいけない部分が確実にあります。それとは別に、変わるべき部分、変わっていかなければならない部分というのも確実にあるんです。

そこを見極められるか否かが、君子と凡人の違いですかね?

なんかねえ、以前の能年さんは、あんな喋り方じゃなかったとかなんだとか、過去の姿を引き合いに出して、能年さんを批判する一部の人たちがいるようですが、そんなことになんの意味があるのでしょう?

人にとって一番大事なのは、常に「今」この時です。

「今」が未来を造るのです。

過去がどうであろうと、能年さんはそこに安住しようとはしなかった。変わろうと思った。だから今がある。

大切なのは、常に「今」と「これから」

能年さんの「今」が、能年さんの「未来」を造るのですよ。

まだ20歳ですか。これから人生、色々なことがあるでしょうね。

なにかあったら思い出してほしい。「あまちゃん」を通して、自分がどう有りたいと思ったのか。

変わるべき部分と、変わってはいけない部分との見極めを誤らないようにね。

大丈夫、「賢い」方だから。


                        


                    

追悼 永井一郎

2014-01-28 10:15:35 | 日記


                    (青二プロ公式ページより)



私は波平さんというより、初期の宮崎駿作品の印象が強いんです。

「未来少年コナン」のダイス船長や「母を訪ねて三千里」のペッピーノ座長。

「ルパン三世 カリオストロの城」のジョドー。「風の谷のナウシカ」のミト。「天空の城ラピュタ」では、態度ばかりデカくて愚鈍な将軍を好演しておりました。

ミトのセリフ。「何故じゃ!何故撃ってはイカンのじゃ!」心の底から無念さがにじみ出ている叫びには胸を打たれ、今でも強烈に耳に残っています。

ジョドーの狡猾さ。ダイスやペッピーノさんの人の良さ。声だけでそのキャラクターの裏側まで見事に表現していた。

本当に素晴らしかった。



永井さんは主役を演じることはほとんどなかったと思います。声優の脇役さんというのは、一つの作品のなかで色々な役を掛け持ちしていたんですね。例えば「機動戦士ガンダム」でセイラ・マスの声を演じた故・井上遥さんは、セイラの声とハロの声を掛け持ちで演じていました。

永井さんもガンダムではナレーションの他に、シャアが載る戦艦の艦長の声だとか、その他大勢の人達の声を演じ分けていましたね。

「宇宙戦艦ヤマト」では、佐渡酒造医師と徳川彦左衛門機関長の声を掛け持ちしていて、ある時この二人の声がかぶるシーンがあったんです。おそらく別々に録音して後から編集でかぶせたのでしょうけど、まったくキャラが違う役を一人の役者さんが演じることの大変さと面白さと、その技の見事さとを同時に感じさせてくれて、あれはちょっとした至福の時でしたよ。



以前、森山周一郎(刑事コジャックなどの吹き替えで有名)さんのインタビューを読んだことがあるのですが、それによると、亡くなった納谷悟郎さんが怒っていたというんです。
「最近の若い声優は役者じゃなくてただの“声充て”。あれは声優学校が悪い」

初期の声優さんたちは、なにもないゼロの状態からすべてを作り上げていった。そうしたなかで、声優さん方一人一人がそれぞれの個性を際立たせていった。ほぼすべてを自分たちで作り上げたという自負があるのでしょう。それに比べて今の若い声優たちは、声優学校で手取り足取り教えてもらって、細かい技術ばかり憶えて、役者としての面白みに欠けるということなのでしょうね。

森山さんがおっしゃってました。「俺たちが芸術の域にまで高めたものを、すっかり落としやがった!」



若い声優さんたちには、今の状況のなかでがんばってもらう他ないので、私から特に申し上げることはありません。

ただ森山さんのおっしゃるように、永井さんの声優“芸”は本当に芸術の域にまで達していました。もう、あの声は二度と聴けないのですね…。



今、物凄い喪失感を感じています。私は自分が思っていた以上に、永井さんのことが好きだったようです。

日本の「父親」像を演じ続けた永井さんの死は、きっと多くの日本国民に多大な喪失感を与えていると思う。

まさに「国民的」な声優さんでした。


永井さん、多くの国民が、あなたの才を惜しみつつ、感謝していますよ。

よかったですね。あなたは見事に、声優人生を最後まで生き切りました。

縁もゆかりもない私ですが、私もあなたに、感謝を捧げたい。

夢をありがとう。感動をありがとう。

永井一郎さんを生かしていただいて ありがとうございます。

合掌。

映画『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』 昭和41年(1966)

2014-01-27 21:59:24 | ゴジラ


昭和41年といえば、「ウルトラQ」そして「ウルトラマン」がテレビ放送された記念すべき年です。

本格的な怪獣ものがテレビで見られるということで、当時の子供たちは狂喜乱舞したそうですね。私はその頃はまだ生まれて間もない頃で、記憶はありません。私は第二期ウルトラシリーズをリアルタイムで観ていたクチです。「Q」や「マン」「セブン」は再放送で観ていました。

私には齢の離れた兄が二人いて、色々と解説してくれましたので、特撮のことや、ウルトラマンの中に人が入っていることも最初から知っていました。そのことが逆に、私の特撮好きに拍車を掛けたようです。

私の今日の嗜好を形作ったのは兄たちだと言っていい。これはやはり、感謝せねば。



さて、この時代は日本映画も斜陽を迎えており、製作費は激減していました。一般映画に比べて金のかかる特撮映画はモロにその影響を受けます。ですからこの作品ではなるべく金がかからないように舞台設定を南洋の島に限定し、ミニチュアセットを安く仕上げた。

そんな裏事情を知りながら観てみると、また一味違いますかね。



ストーリーははっきり言って荒唐無稽。まあ怪獣映画なんだから、今更荒唐無稽というまでもないだろうという向きもお有りでしょうが、怪獣という荒唐無稽なものを題材とするからこそ、ストーリーはリアルであるべき、という考えも一方ではあります。平成ガメラ三部作などはその典型でしょう。マニアの方々はむしろこちらを好む傾向が強いようです。

ですから、この頃のゴジラ映画は基本的に評判が悪い。監督した福田純氏などは、ケチョンケチョンな言われようです。私は必ずしも、そんなに悪い作品は撮っていないと思うのですがね。

まあ確かに、新怪獣エビラは地味だし、ゴジラもモスラも後半の方にちょこっとしか出てこない、ほとんどゲスト扱い。おまけにザ・ピーナッツの代わりに、ペア・バンビとかいうわけわからない双子が出てるし。まあ、地味の極みみたいな映画ですね。



ただ面白いと思ったのが、南洋の孤島に秘密基地を構える謎の結社「赤い竹」というのが出てくるのですが、その名前からしておそらく、国際的共産テロ組織なのでしょう。これがインファント島の住民を拉致してきて強制労働させてる。基地では原子爆弾を製造していて、どうやらこれで、世界同時革命を画策しているらしい。

戦闘機を大量に飛ばせるほどの豊富な資金力を持っているのに、その割には妙にこじんまりしていて、なにかというと「革命」を口にする彼らは、どこか間抜けだったりする(笑)

これがゴジラが出てきた途端に、実にあっさりとやっつけられちゃう。大自然の怒りの象徴たるゴジラが結果的に倒したのが、地球環境を激変させる原爆の使用を厭わない秘密結社だったこと。しかもその組織の名が「“赤”い竹」だったというのもなにやら示唆的なような…。

反戦反核はゴジラの定番的メッセージ。そこへさらに、当時の社会情勢やら国際情勢やらを巧みに取り入れつつ、エンタテイメントに仕上げている。

観ようによってはかなりキワドイ映画かも、なんてことを思ってしまいました。



まあとにかく、自然を大切にしようとしない奴らは、誰であろうと許さない。ゴジラは大地の怒りの象徴なのだというスタンスはかろうじて守られているという点で、この作品は立派なゴジラ映画だと認めてあげたいと、私は思います。




ラストシーン。島に仕掛けられた自爆装置が作動し、主人公たちは辛くも脱出するものの、ゴジラが一人、島に取り残されてしまうんですね。なんだかゴジラが寂しそうなんです。

これを見た宝田明や水野久美等出演陣が、ゴジラに向かって逃げろ―!と叫ぶんです。その意味がわかったのか、ゴジラは勇躍、崖から海へ飛び込み間一髪助かるんです。

結果的にせよ人類の危機を救ったゴジラを、怪獣とはいえ見殺しには出来ない。

なんだか、日本人だなあと、思わずホロりと来ちゃいました。



最近すっかり涙脆くなっちゃって。私も齢か…(笑)





『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』

制作 田中友幸
脚本 関沢新一
特技監督 円谷英二
監督 福田純

出演

宝田明
砂塚秀夫
水野久美
久保明

ペア・バンビ

天本英世

田崎潤
平田昭彦

昭和41年 東宝映画


           
               エビラ

その後の祭の夜 ~妄想はどこまでも(笑)~

2014-01-24 19:46:37 | 歴史・民俗


先述した「毛越寺二十日夜祭」ですが、この祭の日だけは他人の悪口を言っても許されるのだそうです。

日頃腹の中に溜めていたものを、この日一挙に吐き出す。「隠して」いたものを出すわけですね。



江戸時代の紀行家、菅江真澄の著書『かすむこまがた』によると、江戸時代当時の祭は、猿楽などの芸能事が多く催され、非常に楽しい雰囲気だったようです。

京都の広隆寺の「牛祭」もやはり、摩多羅神のお祭りなのですが、こちらもどこか、滑稽味のあるお祭りだそうで、これはどういう意味だろうかと、ちょっと考えてみました。





摩多羅神は御本尊の後ろ側に普段は隠れている。その為に「後戸の神」と呼ばれているわけです。

ずっと後ろに隠れているなんて、なんだか寂しそうだと思いません?

その寂しげな神様が、年に一度だけ表に出てくるわけですよ。せめてその日一日ぐらい、思いっきり楽しませてあげたいというのが、人情じゃありませんか?

摩多羅神のお祭りがどこか滑稽味を帯びていたのは、そんな祀る側の「思いやり」が元にあったような気がする。

現在の毛越寺二十日夜祭には、そうした滑稽味は失われていますね。まあ、あえて言うなら蘇民祭が、その代わりを果たしているのかもしれません。争奪戦というのも、あくまで神様を楽しませるための、一種のショーのようなもの?

なるほどならば、この日だけ悪口を言うのが許されるというのは、「隠れ神」が表にお出でになる唯一の日だからこそ、人間達もまた隠していることを表に出していいということなのかも知れない。本音と建て前、表と裏が逆になることが許される日なのだ、ということでしょうか。



さて、摩多羅神の「隠れ神」としての性格が、艮金神つまり国常立太神に通じると仮定するなら、この祭の底流には、いつか復活するであろう国土神・国常立太神を待ちわびる、という意味が隠されていたのかもしれない。

裏が表に、表が裏に。なにもかもが、グレンとひっくり返る…。



イカンイカン、どうにも妄想が過ぎるようです。



いずれにしろ、神祭りには「感謝」と「思いやり」が不可欠ということで、まとまったかな?(笑)

祭の夜

2014-01-21 19:40:21 | 歴史・民俗


昨晩(1月20日)、岩手県平泉町の毛越寺において、「二十日夜祭」が行われました。

毛越寺常行堂に祀られる「摩多羅神」のお祭りで、下帯、腹帯姿に鉢巻を巻き、たいまつを掲げた男衆が町内を練り歩く「献饌行列」とその後に行われる蘇民袋の争奪戦「蘇民祭」。そして一山の僧侶による奉納舞「延年の舞」。

これ以外にも、法会等、様々な祭礼がおこなわれるようです。

毛越寺の蘇民祭は、明治以降になってから行われるようになったとか、おそらくは奥州市水沢区の黒石寺にて毎年2月に行われる蘇民祭を真似たものだったのでしょう。それも境内が荒れるということで昭和30年に一度廃止されたものを、近年に至って復活させたもののようです。
黒石寺のものと比べると、随分簡素化されたもののようですね。

ところでこの「摩多羅神」ですが、起源がよくわからない。

どうやら天台宗系の僧侶が、護法神として日本に持ち込んだものらしいです。ある方によると摩多羅神とは、シヴァ神でありスサノオだとか。

話が前後しますが、この摩多羅神の祀られ方が面白い。

常行堂において、普段祀られているのは阿弥陀如来です。摩多羅神はその阿弥陀如来の裏側に「隠されて」祀られているんです。

阿弥陀如来を守護するためかもしれませんが、それにしても「隠されて」いるというのが気になる。

シヴァ神やスサノオ的性格とともに、隠れ神たる艮金神をも想起させます。












毛越寺二十日夜祭における献饌行列のような「裸参り」は、ほぼすべて冬場に行われます。

なぜこんな寒い時期に、わざわざ裸になるのでしょう?

冬はある意味、「死の季節」であるとも言えます。

しかし冬の後には春がきて命が芽生え、夏の盛り、収穫の秋と巡って行く。

「死」があってこその「生」なのです。

裸とは云わば生まれたばかりの赤ん坊。祭の参加者たちは、もう一度赤子に戻って「生まれ変わる」。

人もまた、冬があってこその春。








岩手県奥州市水沢区の黒石寺で行われる蘇民祭は、裸の男衆が「蘇民袋」といわれる布袋の切れ端を奪い合う争奪戦です。

古来日本では、裸は必ずしも「ワイセツ」なものではありませんでした。

大森貝塚を発見したモース博士の日記には、普段恥ずかしがり屋の日本女性が、露天の温泉場で胸も露わにこちらに手を振っている様子をみて仰天したことが記述されています。

元々日本では混浴が基本でしたし、風呂場においては裸であるのが当たり前、その場で裸を見られることは何ら恥ずかしいことではなかったのでしょう。似たようなシーンが、川端康成の『伊豆の踊子』にもありますね。

時と場所さえ弁えれば、裸であることに問題など生じず、場合によってはむしろ神聖なものともなり得ることだった。

蘇民祭の参加者は数週間前から肉食を絶ち女色を絶ち、ニラなどの匂いのきついものや刺激物を避け、精進潔斎して祭りに臨みます。さらに祭りの直前には近くの川で禊を行ってから祭りに参加する。

これは非常に厳粛な「神事」なのです。

参加者たちは今でこそ下帯の着用が義務付けられていますが、本来は完全な素っ裸で参加するものでした。現在でも伝統に従って素っ裸で参加する人は多いと聞いています。2008年には管轄の水沢警察署から、ワイセツ罪にあたる可能性があるとの警告が出され、時の渡海文科大臣が「伝統文化に警察が介入するのは違和感を感じる」という趣旨のコメントを発表し物議を醸したこともあありました。

ともかくも、これは伝統に裏打ちされた厳粛な神事であり、現代の感覚だけで事の善し悪しを図るには明らかに無理がある、ということだけは確かですね。




話は変わりますが、日本では表向き、神様に「生け贄」を捧げる風習はないかのように見受けられます。

しかし民間の土俗信仰の中には、たとえば干ばつ。凶作が続いた時に、牛の生首を川や池などに投げ込んで雨乞いをするなどの風習が、日本各地で行われていたことが知られています。

日本書紀には、「牛馬の首を漢神に捧げることを禁止する」旨の布告が何度も出されていたことが記述されています。漢神とありますから、あるいは海外より流入した習俗なのかもしれませんが、あるいは元々庶民の間で行われていた土俗信仰と結びついたものかもしれず、いずれにしろ国家としては生け贄を失くしたかったけれども、完全に失くすことは出来ずに江戸期まで残っていたということでしょう。

さて、この事と蘇民祭との間に、関連はあるだろうか?

蘇民将来伝承に登場する牛頭天王は、その正体がスサノオであったと伝えられています。もっとも黒石寺ではスサノオではなく薬師如来であったとされており、これはやはり、仏教寺院で行われる祭礼であるということも関係しているのかも知れません。

いずれにしろ、「牛頭」なんですよねえ。

蘇民将来伝承との関連が指摘されるユダヤの「過ぎ越しの祭」の伝承によれば、家のトビラに牡牛の血を塗った家だけが災厄を免れたと確かあったような。非常に「生け贄」的な匂いを感じますね。





ところで、蘇民祭で争奪される蘇民袋とはなんなのでしょう。

「蘇民将来」と書かれた布製の袋を小刀で細かく裂いたものをばらまき、その布きれを奪い合うわけですが、その蘇民袋の「首」(結び口)に一番近いところを取った者が勝ちとされるのです。

そう「首」なんですよねえ。

この首とは、アテルイの首を見立てている、とされているようですが、私が思うにそれは、田村麻呂英雄譚が浸透してからの後付のものでしょう。本来は違うものだったのではないでしょうか。

私は思う、その首とは

牛の首だったのではないだろうか。




先述した雨乞い神事で、牛の首を投げ込む役を負う者達は、地域によっては被差別民に限定されていたようです。

血穢れ、死穢れを一身に背負う被差別民だけが行える神事だったわけで、これはある意味、被差別民の「神聖性」を逆説的に証明しているとも言えますが、元々そうした穢れ観の薄い東北では、一般庶民がそのまま行うことができた。

本来の蘇民祭とは、牛の首を神に捧げる神事だったのかもしれない。



牛の首の争奪戦?だとするとかなりおどろおどろしい感じを受けますが、最初から争奪戦だったのかどうか。

争奪戦となったのは、生け贄の風習が何らかの理由で廃れ、現在のような蘇民袋を使用するようになってからではないでしょうか。

牛の首ではピンとこない、という方もおられるでしょう。では牛ではなく、「熊」の首であったとしたらどうでしょう。

熊の首(頭部)を祀る、となると思いあたるのが、

そうです、アイヌの祭、「イ・オマンテ」です。

熊の霊を丁重にあの世へ送り帰す儀式「イ・オマンテ」では、食料となってくれた熊に感謝し、沢山の贈り物を捧げて熊の霊をあの世へと送り帰します。

熊に限らずアイヌの方々は、食料となってくれた動植物たちの霊に感謝を捧げてあの世へと送り帰します。

そうした古俗が時を経て様々な信仰形態と混じり合い、熊の首は牛の首となり、蘇民袋となった…。


蘇民袋の中には小さな木札が多量に入っており、これを拾ったものは無病息災でいられるとか。

これは本来、熊もしくは牛の肉あるいは内臓であり、それらを共食する祭だったのかもしれない。

いずれにしろこの祭はおそらく、縄文以来の古い古い古俗を踏襲しつつ、大きく変質しながら今日まで伝わってきたものではないでしょうか。





「イ・オマンテ」の祭の根本には、「感謝」があります。

祭とは本来、神に感謝を捧げるものです。蘇民祭の根本にも、やはり感謝が息づいていた。

感謝しましょう。感謝なき祭りは、祭りではありません。




祭の夜にそんなことを妄想する私でありました。




※「過ぎ越しの祭」伝承に出てくるのは、牡牛ではなく牡羊の血でした。訂正いたします。

ところ変われば

2014-01-18 14:44:04 | 日記


一口に岩手県と申しましても、広うござんす。

十把一絡げに「雪が多いでしょ?」とか訊かれても困る。私の住む県南の端っこの方と、盛岡などの県中央部やさらには県北などとを比べたら、雪の量は全然違う。

私の住むあたりは、岩手県の中でも比較的雪は少ない方です。だから盛岡方面から訪ねてきた方々は、「こっちは雪が少なくていいねえ」と大概口にする。それはそうだろうなと思う。

これが「南国」あたりから来た人となると全然違う。道端に残った少しの量の雪を見て。「なにこれ!?雪?スゲー!雪がこんなにあるよ!」もう大はしゃぎ(笑)

抑々、雪の量の多い少ないの基準はどこにあるんだ?簡単に「多いですねえ」「少ないですねえ」言われても困る。誰か基準を決めてくれ!



…というのは冗談にしても、人によって感じ方は実に様々です。人の数だけ宇宙がある。

どちらか一方だけが正しいわけでもなければ、間違っているわけでもない。その人にとっては「少ない」のだし、その人にとっては「多い」のだし。

その人にとっては寒く、その人にとっては暖かいのです。





感覚の違いというのは、時にイラッとさせるものです。

イラッとするのはある意味仕方がない。人は誰でも自我を持っていますからね。

イラッとする自分を受け入れたうえで、何故イラッと来たのかを「見つめる」姿勢。

それを続けていけば、いつかイラッとしなくなるかもね。





「米どころ」は雪が多いとか。

春の雪解けは大量の水分を森に蓄えさせ、多くの「命」を萌えさせる。

東北の短い夏の命の躍動に、多大な彩りを添える。

「白」は破壊と再生、生と死を司る色だとか。真白な雪が多く降る東北は、「命」の輝きも激しく、強く、
そして儚い。

東北の地で萌え、東北の地で燃える命は、美しい。



そんな東北が、私は好きです。

ウルトラマンガイア論 11 ~地球はウルトラマンの星(後編)~

2014-01-15 20:15:12 | ウルトラマンガイア


                


                        




ウルトラマンは光であり人である。

光とはなんでしょう。

例えば太陽の光は、誰彼の区別なく、地上のすべてのものたちに、遍く降り注ぐ。

一切の差別なく。一切の見返りなく。

光とは慈愛。光とは勇気。

光とは、希望。




********************************************




ガイアとアグルは、虫の掃討に掛かりますが、掃っても掃っても虫たちは次々と現れる。さらには何千何万という虫たちが合体して怪獣となり、ガイアとアグルに襲いかかります。両ウルトラマンは光線技で対応しますが、倒してもたおしても次から次へと虫たちが現れては合体し現れては合体し、
これではキリがない。

その時突然、目映い光とともに、ウルトラマンが小人に見えるほどの超巨大な「天使」が降臨します。

「天使」は虫たちを打ち払い、ウルトラマンに優しげな笑みを向けます。

ガイアは直感的に警戒を示しますが、根が素直なアグルは引き込まれるようにフラフラと天使に寄って行きます。

と、その天使の指先から光線が発射され、アグルは弾き飛ばされてしまう。これを見たガイアが天使に向かって行きますが、やはり弾き飛ばされてしまいます。

哄笑する天使。天使の姿を借りた破滅招来体に、両ウルトラマンは果敢に立ち向かいますが、まったく歯が立たない。ついにエネルギーが枯渇し、ガイアとアグルはその身の光を失い、倒れ込んでしまいます。

ガイア、アグルはウルトラマンの姿を維持することができず、人間体へ戻ってしまいます。この時、唯一回線が開かれていたテレビ局KCBが、このウルトラマンのウルトラマンの戦いを中継していました。田端ディレクターが指揮をとり、井上“リンブン”カメラマンが必死の撮影を敢行。吉井玲子レポーターがスタジオにいて実況中継しておりました。

彼らはウルトラマンの戦いを見せることで、人々に勇気を与えようとしたのです。しかしウルトラマンは負けてしまった。そして人間体へと…。

玲子は撮影をやめるように進言しますが、リンブンは撮影を続行、ついにウルトラマンの正体が人間であったことが、全世界に知られてしまう。

人類の間に動揺が走ります。「ウルトラマンはただの人間だった…」「神様じゃなかった…」「ただの人間が、破滅招来体に勝てるわけない…」

そう、これこそが破滅招来体の狙いだったのです。ウルトラマンの負けを人類に見せつけることで、人類を絶望の淵に叩き込む。そのために、テレビ回線だけを開けていたのです。

この中継を、我夢の両親も見ていました。「そんな馬鹿な…」と父親は目を背けようとします。しかし母が「ちゃんと見て!あれは私たちの我夢よ!あの子、私たちにも黙って…」その後は声にならない。我夢の覚悟と苦衷を察したのでしょう。この母にして、この子あり。

我夢の親友、マコト、サトウ、ナカジは、我夢を救い出すためにアパートを飛び出します。このままでは我夢が暴徒に襲われる。

親友三人の機転とKCBトリオの協力によって我夢は難を逃れますが、藤宮が行方不明でした。しかし我夢には心当たりがありました。

自分の原点を見つめなおすために藤宮が向かうところ。それは藤宮が、初めてアグルになった場所。

プロノーン・カラモス。



その頃、世界中に地球怪獣たちが出現し、“虫”に攻撃を仕掛けます。彼らもまた、地球を守るために立ち上がりました。

G.U.A.R.D.環太平洋部隊の柊准将は、かつて憎んだ怪獣たちが地球のために立ち上がったのをみて、怪獣援護のために全部隊を出撃させます。ここで人間がなにもしないわけにはいかない。
上層部に反逆した人間が、ここにもいました。

怪獣たちは体内の核融合炉のエネルギーを虫たちに発射していました。これを見たアルケミー・スターズのキャサリンが、もう一度ウルトラマンを復活させる方法を思いつきます。

怪獣たちの発するエネルギーを習合させて、我夢と藤宮に与えることができたなら…。




藤宮はプロノーン・カラモスにいました。

プロノーン・カラモスは、ニュートリノなどの素粒子研究のため、地下に巨大な水槽を湛えた施設です。藤宮は水槽の前に佇み思案していました。と、水槽の中にキラリと光るものが。

「チェレンコフ光よ」

どこからともなく、女性の声が聞こえてきました。ふと目をやると、そこには亡くなったはずの稲森京子博士の姿が。

稲森博士は、藤宮がアグルになる以前の研究の相棒であり、恋人でした。しかし藤宮の危険な思想を諭すためにある行動を起こし、命を落としてしまったのです。

「こんな時でも、ニュートリノは地球に降り注いでいるわ」

謎の言葉を残し、稲森博士は幻影のように消えていきました。

ニュートリノは地球の地殻をも貫通する素粒子です。稲森博士の言葉に、藤宮はニュートリノを使った通信システムを開き、XIGやアルケミー・スターズと連絡を取ることを思いつきます。

そこへ駆けつける我夢とKCBトリオ。

「我夢、俺たちにはまだやることがあったぜ!」

どういうことか尋ねる我夢に

「稲森博士が教えてくれた」

不敵な笑みを浮かべる藤宮。

XIGとの通信が繋がり、アルケミー・スターズのキャサリンのアイデアを聞く我夢と藤宮。

やるしかない。我夢と藤宮はKCBの車に乗って、再び東京へ向かいます。



キャサリンのアイデア。それはXIGの戦闘機XIGファイターの推進システムであるリパルサー・リフトを利用して、リパルサー・フィールドを発生させ、怪獣たちの発射する核融合エネルギーつまり太陽エネルギーをリパルサー・フィールドにぶつけ、鏡のように反射させて地球のある一点、我夢と藤宮がいる場所にすべてのエネルギーを集束させるというものでした。

怪獣は動き回る。したがってフィールドの角度の計算はとても難しく、コンピューターではとても追いつかない。あとはアルケミー・スターズお得意の頭脳と勘で計算するしかない。とても無茶で無謀な計画でした。

しかしやるしかないのです。

XIGファイターチーム。「チーム・ライトニング」「チーム・ファルコン」「チーム・クロウ」の各メンバーと「チーム・シーガル」の神山リーダーがファイター機に乗り込み、世界各国の怪獣たちの元へ飛び、地上部隊「チーム・ハーキュリーズ」が我夢と藤宮の援護に回ることになりました。
全メンバーを前に、これがXIG最後の戦いであることを告げる石室コマンダー。

「Get A Grory! ミッションネームは【ガイア】」

石室コマンダーの檄とともに各持場へと散ってゆくXIGメンバーたち。

「我夢、みんな自分ができることをがんばっているよ」

敦子がつぶやきます。




瓦礫と化した東京の一角に立つ我夢と藤宮。

一瞬の静寂の後、怪獣たちの放ったエネルギーが、我夢と藤宮の元へと降り注ぎます。

新たなエネルギーを得て復活するガイアとアグル。二人のウルトラマンは新たな力であっという間に虫たちをすべて駆除してしまう。

そこへ再び現れる天使。

しかし今度のガイアとアグルは強い。天使は苦戦を強いられ、天使の姿を脱ぎ捨て、超巨大怪獣ゾグとなって、ウルトラマンに襲いかかります。

ガイアとアグルは何度も弾き飛ばされながらも必死に喰らいつき、二人の光線技を合わせてゾグに撃ち込み、ついにゾグを倒します!

夕陽の中に立つガイアとアグル。駆け寄る人々。

KCB吉井玲子レポーターが実況を続けます。

「これが地球の光です。地球にはウルトラマンがいます。こんな素晴らしい星が、破滅なんか絶対にしません。私たちがさせない努力をしていく限り」

ウルトラマンは光。そしてその光は人がなったもの。

玲子はきっと、こう言いたかったのでしょう。地球の光、ウルトラマンは人なのだ、だから。

私たちはみんな、ウルトラマンになれるんだと。

地球は、ウルトラマンの星なんだよ、と。





地球に再び平和が戻り、我夢は学生生活に戻りました。

藤宮は一人、旅へと出ます。

路上のコンクリートの隙間から一生懸命芽を出している草を見つけた我夢は、愛おしげに草を見つめると、手にしたペットボトルの水をそっとかけてあげます。

一陣の風が吹き渡ります。我夢には周囲の風景がみなキラキラ輝いているように見えました。

「そうか、これが地球なんだ」

周囲のものすべてに、愛おしそうな目を向ける我夢。なんともいえず、歓喜の想いが我夢を包み込みました。

「おーい!」

まるで地球のすべての存在に呼びかけるかのような、我夢の声が響き渡ります。

〈終わり〉






【地球には怪獣がいて、ウルトラマンがいる。
この美しい星を、私たちはもっと愛していきたい】




             








ウルトラマンガイア論 10 ~地球はウルトラマンの星(前編)~

2014-01-14 22:23:39 | ウルトラマンガイア


                    


さて、長々と書き連ねてまいりました「ウルトラマンガイア論」ですが、そろそろ終盤のようです。




私は小さなころから、ウルトラマンに対してある疑問を持っていました。

「他の星の人が、どうしてわざわざ地球を守るの?」



もっともらしい理屈は、つけようと思えばいくらでもつけられるでしょう。しかしどんな理由をつけても、やっぱり私は釈然としない。

それは、「地球を守るのは、地球人がするべきじゃないの?」という思いがあったから

かも知れない。

いや、はっきりとは分からんのですよ、分からんのだけど、やっぱり釈然としない。どうしても疑問は残る。

それでも特撮そのものは大好きでしたから、疑問はあっても観ることを止めることはなかった。



そんな屈折した思いを抱きながらウルトラファンであり続けた私が、30過ぎて出会ったのが、平成ウルトラ三部作

ティガ、ダイナ、そしてガイアでした。

平成三部作の「人間ウルトラマン」というテーマは、私にとってまさに、

【我が意を得たり】

だったのです。





「ウルトラマンは“光”であり“人”である」

「人は誰でも、自分自身で“光”になれる」

上記のセリフはいずれも「ウルトラマンティガ」の中のセリフです。

ああ、これだ!と思いました。私が求めていたウルトラマンはこれだったのだ!

どこかの星からやってきた宇宙人などではない。ウルトラマンは宇宙に遍く存在する光であり、そして人なのだ。



初代ウルトラマンとハヤタ隊員は、その意識が完全に分離した、別々の存在として描かれていました。初代ウルトラマンは確実に人間ではない。

ウルトラセブンとモロボシダンは同一の意識を有していましたが、あれは元々、セブンが人間の姿を借りてダンに成りすましていたわけですから、「人間ウルトラマン」とは到底言い難い。

私にとっては、平成三部作こそが“本当”のウルトラマンなんです、昭和シリーズのファンの方々には申し訳ないですが。

抑々昭和シリーズがなければ、平成三部作の誕生は有り得なかった。そういう意味では感謝しています。

しかしやはり、平成三部作こそ真のウルトラマンであり、ガイアはその頂点である。

私はそう確信しています。





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最終話。根源的破滅招来体は、人間の子供位の大きさをもつ、イナゴのような不気味な“虫”で、地球の空を覆い隠します。

太陽の光は届かず、テレビ以外の通信手段はすべて途絶。地上には、まるでH.P.ラブクラフトの怪奇小説『インスマウスの影』に登場した魚人間のような生物が徘徊し、人々は絶望に打ちひしがれます。

地球防衛機構G.U.A.R.D.は“虫”排除のため世界中で出撃しますが悉く壊滅。主要各国は次々と戦意を喪失し、G.U.A.R.D.の存立基盤そのものが揺らいでしまう。
ついにG.U.A.R.D.首脳陣は破滅招来体への降伏を決定。XIGにも武装解除が通達されます。

しかし千葉参謀以下XIGはこれを拒否します。

「我々はG.U.A.R.D.という組織の為に戦っているのではありません。人類の為に戦っているのです」

かくしてXIGはG.U.A.R.D.の指揮下より離脱し、独立愚連隊となって破滅招来体に立ち向かうのです。



藤宮が石室コマンダーに尋ねます。

「何故我々(我夢と藤宮)を“兵器”として有効に活用しようとしないのですか?ウルトラマンを兵器として使用するよう、作戦を練るべきです」

これに対し、石室コマンダーは静かに答えます。

「君たちは“兵器”ではない。我々の“仲間”だ」

藤宮は黙ってその場を立ち去ります。藤宮はきっと、うれしかったと思う。

自分みたいなものを、“仲間”と呼んでくれたことに。




我夢と藤宮は“虫”排除のためにウルトラマンに変身します。二人を暖かな光が包み、その光の中から飛び立つガイアとアグル。

愈々、根源的破滅招来体との最終決戦の時が来たのです。

〈続く〉


                 






ウルトラマンガイア論 9 ~地球の怪獣たち~

2014-01-11 19:01:53 | ウルトラマンガイア


初代ウルトラマンの主題歌の歌詞に

「怪獣退治の専門家~♪」

とあるように、ウルトラマンは怪獣退治が仕事であるかのように思われますが、そんなウルトラマンも時に悩むことがある。

怪獣を倒すことが、本当に正義なのだろうか?




怪獣は何故暴れるのか?

実はその理由が明確に示されることは、あまりなかったんですね。怪獣は怪獣であるというだけで暴れ、怪獣であるが故に殺されねばならない。

その存在が人類の生存に支障を来すなら、それも止むを得ないことなのかもしれない。

しかし、それでいいのだろうか?

ウルトラマンガイア=高山我夢はその点に疑問を持ち、悩みます。

始めは地球怪獣と宇宙怪獣の区別なく、容赦なく怪獣を倒していたガイアでしたが、やがて止むを得ない場合を除き、なるべく怪獣を殺さずに、もといた場所に戻すようにし始めます。

特に地球産の怪獣は同じ地球に住む生物ですから、よほどの理由がない限り、殺すことを避けるようになるのです。




地球怪獣たちの行動を見ていますと、基本的には己のテリトリーを守るための行動を採っているように思え、意図的に人類に危害を加えるつもりはないようです。

太古より東京の地下に棲み、人類のいとなみを見続けてきた、ミズノエノリュウ(壬龍)。

カナダの森林地帯の守り神、シャザック。

地底貫通弾によって住処を破壊され、ボロボロになった身体で復讐するため地上へ這い出てきた、ティグリス。

彼らに人類と敵対する意図はない。彼らは故郷を守りたいだけなのです。

彼らがその活動を活発化させたのは、故郷である母なる大地、地球に危機が迫っているのを察知したから。

彼ら地球怪獣たちもまた、根源的破滅招来体に立ち向かおうとしていたのです。




実は地球怪獣たちの体内には、核融合炉があるのです。

核融合、といえば太陽ですね。

つまり地球怪獣は、太陽をその身に抱いていることになる。

地球の大地に生まれ、太陽をその身に抱く。

これはウルトラマンガイアも同じです。地球の光が生んだウルトラマンは、大地の力と、太陽の慈愛を合わせ持つ。

ウルトラマンガイアが太陽の「光」を宿すなら、地球怪獣たちは物理的な太陽をその身に宿しているのです。

太陽と大地あるところに生命は育つ。地球怪獣たちは、そんな地球に生きる者達の代表なのかもしれない。

太陽と大地と、それともう一つ、海もまた、生命の満ちる場所です。

海はスサノオの統べるところ。そのスサノオの魂を持つのが、ウルトラマンアグル。

ガイアとアグル、そして怪獣達は、地球の森羅万象を代表するもの。

そして彼らの間を繋ぐのが、人類という存在。




ウルトラマンと、怪獣と、人類による三位一体。

それのみが、根源的破滅招来体に対抗しうる、唯一の手段。


〈続く〉






ウルトラマンガイア論 8 ~群像劇としてのガイア~

2014-01-08 19:24:49 | ウルトラマンガイア


ということで、久々の「ウルトラマンガイア論」です。


「ガイア」には、レギュラー、セミレギュラー含めて登場人物がやたらと多い。

地球防衛機構としてG.U.A.R.D.があって、その日本支部に所属する戦闘部隊XIGは、陸海空及びレスキュー部隊に分かれている。それぞれの部隊は三人編成の小チームなんです。

「空」を担当する戦闘機部隊はさらに三つの小チームに分かれていて、熱血男、梶尾リーダー(中上雅巳)率いる「チーム・ライトニング」、なにか重いものを引きずっている米田リーダー(香川黒之助)率いる「チーム・ファルコン」、男前、稲城リーダー(川嶋朋子)率いる女性チーム「チーム・クロウ」。

「陸」を担当する、吉田リーダー(松田優)率いる「チーム・ハーキュリーズ」は質実剛健な、いつも汗をかいているマッチョなチーム。

「海」を担当する、横谷リーダー(庄司哲郎)率いる「チーム・マーリン」は、一回しか登場しなかった影の薄い方々。

レスキューを担当する、常に冷静沈着な神山リーダー(権藤俊輔)率いる「チーム・シーガル」。

このXIGを現場で直接指揮するのが、堤チーフ(宇梶剛士)。

全体の作戦を統括指示するのが、石室コマンダー(渡辺裕之)。

G.U.A.R.D.とXIGの橋渡し役、千葉参謀(平泉成)。

オペレーター、佐々木敦子(橋本愛←ユイちゃんではないよ)。ジョジ―・リーランド(マリア・テレサ・ガウ)。

XIGの基地は空中に浮かぶエリアル・ベースですが、地上にもジオ・ベースという基地があって、多くの隊員がいます。

さらには警察活動を行う「リザード」。瀬沼龍一(石井浩)という人がチーフですが、詳細は不明。

さらにさらに、ダニエル議長(ジョン・オコーナー)やキャサリン・ライアン(デビー・リギアー)といった、アルケミー・スターズの面々。

怪獣に憎しみを持つ、G.U.A.R.D.環太平洋部隊の柊准将(大和武士)。

民間サイドでは、テレビ局KCBの田端ディレクター(円谷浩)、“リンブン”こと井上カメラマン(角田英介)、レポーター吉井玲子(石田由加里)のトリオ。中でもレポーターの吉井玲子は、ウルトラマンアグル・藤宮博也と深い関わりを持つようになります。

風水師で地球怪獣の“声”が聴ける、いつもポワ~ンとした雰囲気の女性、黒田恵(大寶智子)。柊准将の憎しみを和らげ、彼が怪獣と“共闘”するきっかけを作ります。

アグルになる前の藤宮を支えた女性科学者、稲森京子(久野真紀子)。彼女の死は、後々まで藤宮を苦しめることになります。

その他、梶尾と恋仲になる佐々木律子(沢村亜津佐)は敦子の姉。我夢の大学の親友、マコト(西崎大明)、サトウ(奥本東五)、ナカジ(加々見正史)。藤宮に救けられた少女(蓮沼藍)。我夢の両親(山本亘・水沢アキ)。

新興宗教団体・根源破滅教団の教祖(今田耕司)…はレギュラーかな?(笑)

その他その他、まあ、たくさんおります。



こうした多くの人々が有機的に絡み合いながら、一年かけて一つの物語を作り上げていく。

テレビドラマならではといいましょうか、キャラ一人一人の性格やら関係性やら、細かく描きながら、壮大な一つの物語へと繋がって行く。まあ、見事な群像劇に仕上がっていると言えるでしょう。

我夢は藤宮との関係を疑われ、一度XIGを追放されてしまいます。これを機に、それまで少し距離があった我夢と梶尾、他のXIGメンバーとの関係性が、逆に絆を深めていく。それを静かに見つめながら、我夢を信じ続けた石室コマンダー。
まるで家族ドラマのような、学園ドラマのような展開ですね。石室コマンダーはさながら父親か校長先生のようです。

いや、校長は千葉参謀かな?じゃあコマンダーは教頭?堤チーフは担任の先生かな?

そんなことはどうでもいいんですが(笑)

この段階でコマンダーはすでに、我夢がガイアであると気が付いているんです。それでも敢えて何も言わない。我夢もなにも訊かない。

お互いがお互いを信頼しあっている。この阿吽の呼吸といいますか、なんか、いいですよね。

最終話で我夢が、「どうして僕を信用してくれたんですか?」と石室コマンダーに尋ねるんです。コマンダーの答えは

「理由などいるか!」

そういうものですよね。



学園ドラマなら恋愛模様も当然あるわけですが、ガイアの場合そんなに深く描かれてはいないものの、一応恋愛模様も描かれています。

敦子は最初、チーム・ライトニングの梶尾リーダーにぞっこんだったのですが、その梶尾と、自身の姉の律子が恋仲になってしまい、敦子は潔く身を引きます。その内今度は我夢のことが気になり始めるのですが、我夢は我夢でアルケミー・スターズのキャサリンといい感じになってきて…まあ、この辺はあまり深刻に描かれず、コミカルな感じに描かれています。

一方、藤宮とテレビレポーターの吉井玲子の関係はなかなか深刻で、玲子は藤宮の考えには否定的でも、傷ついた藤宮の心を放っておくことができず、テロリストとして追われる身となった藤宮とともに逃避行することになってしまう。藤宮の唯一の理解者ではないけれども、本当は繊細で優しい人なのだ、ということだけは理解している。
私がいなければ、この人は本当にダメになる、といったところでしょうか。
実際、玲子がいたからこそ、藤宮は人としての“一線”を越えることもなかったし、復活することも出来たと言えます。
母性、ですねえ。

もう一つ、チーム・クロウの女性パイロット、多田野慧(石橋けい)は、まるで死に場所を求めるかのように危険なミッションを繰り返す、チーム・ファルコンの米田リーダーの身を案じる内、ほのかな恋心を抱くようになります。
あまり感情を表に出さない米田でしたが、XIGが絶体絶命の危機に陥り、飛べる機体が三機しかなく、各リーダーのみが出撃することとなった時、自分の肩のワッペンを剥がし、「ファルコンの魂をお前に預ける」と、慧にワッペンを託します。
祈るような気持ちで米田を見送る慧。
ガイアとXIGの連携により、作戦は成功しますが、米田機は撃墜されてしまいます。バラバラになった米田機の残骸の前で立ちすくむ慧。と、その残骸の陰に横たわる米田を発見!
「米田さん!」
思わず駆け寄り、必死で揺り起こそうとする慧。目を開かない米田。
泣きながら慧は、米田の手を握ります。と、その慧の手に力強い感触が。
ハッとする慧。ゆっくりと目を開けた米田は、開口一番。
「生きてるぜ…」

カッコイイねえ、米田さん(笑)

実はこの米田撃墜編は、我夢の正体がガイアだということが、隊員全員に知られてしまう回でもあったのですが、そのことよりも米田の生死の方が大きな問題として描かれているんです。米田の無事を知り、梶尾や稲城とハイタッチをして喜ぶ我夢の姿に象徴されるように、我夢は仲間たちとともに地球を守るために戦う一人として描かれ、ウルトラマンだからといって特別な扱いを受けていない。

このように、いつも仲間と一緒にいる我夢と、常に一人で行動しようとする藤宮との対比は、協力し合うことの重要性を説いているようで、ガイアが群像劇であることの所以であると思われます。

そんな藤宮も最終話では我夢やXIGと行動を共にします。たとえウルトラマンだろうと、一人では限界がある。
二人のウルトラマンと、XIGと、そして地球の怪獣たちが共闘して、地球最大の危機に立ち向かうことになって行く。



ウルトラマンガイアとは、そんな地球の「命」たちの群像劇なのです。





さて、もうちょっと続きますので、よろしくね。

〈続く〉