風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

義経 ~最終章~ 義経を考える

2013-01-16 22:21:09 | 義経
日本の歴史の中で、東北とはどのような“位置”にあったのか、どんな役割を果たしてきたのか。ずっと考えていました。

私が思う東北の歴史とは、一言でいえば「反骨」です。それは単純な反権力とか反社会とかいうことではないし、ましてや反天皇でもない。いや寧ろ東北は、中央などよりももっと純粋に、親天皇だったのではないかと思っています。これは理屈ではなく、そう考えなければ、自分の中でしっくりこないのです。うまく言えませんが。

反骨とは、理不尽なるものに対して断固立ち向かう態度です。東北とは常に、“真っ直ぐ”在ろうとする者達の、最後の砦だったような気がする。それはすなわち、艮金神が隠棲せられた地、その霊的磁場がなせる技か。

義経はただただ父の徒を討つため、ただただ兄の助けになるため、それだけを考えて突っ走ったと考えていいでしょう。まあ、御本人に直接お会いしたわけではないので(笑)わかりませんが、おそらくはそれ以上の野心など、持っていなかったのではないでしょうか。ただただ父のため兄のため、源氏のために戦い続けた。それなのに…。
義経の悲劇は、その真っ直ぐさ故の悲劇だった。あるいは鞍馬の魔物どもも、その悲劇に加担したかもしれませんが。

そういう意味で義経は、極めて”東北的”であるといえる。義経の中には“東北魂”が根付いていたわけです。

東北魂とは本来、すべての日本人のDNAに深く刻み込まれているものです。原日本人ともいうべき人々の血を強く受け継いでいる東北人には、特にそれが顕著に現れやすいということだと思います。義経の場合、最も多感な時期を平泉で過ごした日々が、その東北魂、つまりは日本魂を強く呼び起させたのではないでしょうか。
だからこそ、義経は多くの日本の人々の共感と同情を呼んだ。それは世代を超え時代を越え、長く長く語り伝えられてきたのでしょう。

判官贔屓とは、日本魂の伝承でもあったのだ。




こんな感じでどうでしょう?物凄く短めにまとめてみましたので、あるいは分かり難いところがあるかもしれませんが、そこはご了承下さい。

真っ直ぐ在ろうとした東北人ということで、次は「ならぬものは、ならぬものです」幕末の会津藩を、少し取り上げてみましょうかね。

次と言っても、本当にこの次とは限りませんが…(笑)

義経 ~その5~ 平泉の滅亡と義経北行伝説

2013-01-15 16:42:56 | 義経
平泉100年の栄華の礎を築きあげた藤原清衡の父は、京の藤原摂関家に繋がる秀郷流の名門、藤原経清。母は奥州安倍氏の長、安倍頼時の娘、安倍貞任の妹にあたります。
安倍貞任は前九年合戦で討死しますが、その弟・安倍宗任は捕えられ、西国に護送されます。その途上、京に立ち寄った際、宗任の籠に梅の花を手にした京人がよってきて、宗任にこう尋ねた。
「この花はなんという花か?」
野蛮人の蝦夷に、梅の花の雅などわかるまいという、嘲りですね。これに対して宗任は

我が国の 梅の花とはみたれども
大宮人は いかがいうらん

私の国奥州では、梅の花と言いますが、はて?京の都の方々は何と呼ぶのですかな?と、静かに歌で返しました。その京人は大いに面目を失くしたという、痛快な話が伝えられてます。
この安倍宗任の子孫が、現内閣総理大臣、安倍晋三氏だとか。ま、どこまで信憑性があるのかはわかりませんけどね。

それはともかく、藤原清衡は前九年合戦、後三年合戦と数多の戦を経験し、多くの人々、多くの命が無残に消えて行くのを見続けていた。父は残酷な手法で処刑され、自身の妻子も弟に殺されるという悲劇を経験している。だからこそ、恒久平和の世界を築かねばならぬ、という思いが強かったようです。
その手段の一つが、仏教でした。
清衡が建立した中尊寺。その供養願文で清衡は、敵味方の区別なく、毛羽鱗介すべての命が成仏することを願うという意味のことを書いているとか。奥州に此土浄土を建設する。その中心となるのが中尊寺でした。
奥州の平和こそを第一とし、中央に進出しようなどという野心は、微塵も持っていなかったようです。あくまでも奥州にあって、京の朝廷から与えられた権限を基として、奥州の支配権を確立した地方政権、それが平泉です。決して独立国家というようなものではなく、朝廷から与えられた官位官職なしには、その政権は維持できませんでした。この点、鎌倉幕府のあり方によく似ていますね。頼朝は平泉を参考にして鎌倉に幕府を立てた、という説もあるようです。

義経が身を寄せた時の平泉の御舘は、三代目・藤原秀衡。初代以来の志を引き継ぎ、奥州の平和のためにその卓抜した政治的才能を発揮し、朝廷や平氏とも上手くやってきました。しかし時代は急速に変化していきます。源氏の世となり、その源氏に追われる身となった義経の帰還は、少なからぬ波紋を平泉に齎したことでしょう。

平泉には以前より、義経が現れたら鎌倉方に差し出すように、という布告が、頼朝より送られていたようです。しかし秀衡はこれを黙殺します。頼朝の狙いが最終的には奥州制覇にあることを、見抜いていたのでしょう。そのためには、義経の戦の才能が必要だ。最悪の事態となったとしても、義経の下に奥州武士が一致結束すれば、いかに頼朝だとて簡単に手出しは出来まい、と読んでいたのです。
義経の軍略と、秀衡の政治手腕があれば…しかし事態は平泉にとって、最悪の方向に進んでいきます。
秀衡が病死してしまうのです。

秀衡の死は頼朝の知る所となり、頼朝は平泉四代御舘・泰衡にプレッシャーを掛けます。義経を引き渡さなければ、平泉を討つ!
しかし実際には、等の義経が健在である限り、鎌倉方は手はだせないはずです。義経の軍略の才をよく知り、恐れているのは他ならぬ鎌倉方です。だから義経と協力し、防備を固めることこそが、平泉のやるべきことでした。
しかし、そのようにはなりませんでした。秀衡の死より約1年半後。泰衡は義経の館を急襲。義経は自害して果てます。享年31歳。
泰衡は義経を打ち取ったことによって、頼朝の許しを得ようとしますが、義経亡き後の平泉に怖いものはない。頼朝は朝廷の宣旨を得る前に平泉を攻めます。平泉にも17万騎といわれる精鋭部隊はいたはずですが、百戦錬磨の源氏兵と、100年の平和に興じていた平泉兵とでは、戦の経験に雲泥の差があった。平泉軍は次々と打ち破られ、泰衡は平泉の館に火を点け逃亡。その途上に、家臣の川田次郎に殺害されます。
こうして平泉は滅び、頼朝は「源氏重代の悲願」だった奥州の覇権を手にします。

ところで、義経北行伝説というのを、御存じでしょうか?義経は平泉で死んでおらず、秘かに平泉を脱出し、主に三陸沿岸伝いに北上し、津軽から北海道そして大陸へ渡ったという伝説です。
この伝説をどう評価するかで、平泉の滅亡の意味も違ってきます。
この伝説によると義経は、泰衡が義経の館を襲ったとされる日より、およそ一年程前に、平泉を立っていることになるんです。つまり泰衡は、存在しないはずの義経を襲撃したことになる。
これはどういうことでしょう?泰衡に襲われて辛くも逃げ延びたのではなく、すでにいなかったのです。一年前にすでに義経は旅立っていた、そしてその事実は隠さなければならない。それは平泉にとって、とても大事なことだから。
だから泰衡は、ウソをついた。
では義経が旅立った目的はなんでしょう?
乱歩賞作家の故・中津文彦氏によると、義経は大陸の騎馬民族を引き連れて平泉へ戻ってきて、頼朝軍と戦うために出発した、との持論をお持ちでした。いかにも作家さんらしい壮大な説ですね。結局義経は間に合わなかったらしいですが。
その後の義経はどうなったのでしょう?やはりジンギスカンになったのかな。中津氏はジンギスカン説を否定しておられましたが。
まあ確かに、北行伝説はそのルートがほぼ一定しており、ほとんどブレがない。滞在先の伝承も非常に具体的で真実味がある等々、常識に捕われずに見れば、それなりの真実味を感じさせるもののようです。ジンギスカンはともかく、あるいは本当に、義経は北へ向かっていったのかもしれない。

泰衡という人物の評価は、一般的には非常に低い。平泉を滅亡に導いたといっていいまねをしたわけですから、仕方がないですけどね。ただ泰衡が、義経北行にどのように関わっていたかによって、ただの凡庸な人物か、本当は英邁な人物だったのか、その評価は変わってくるでしょう。ひいては平泉滅亡の意味も。

義経北行伝説が真実だったのか、同情が生んだ物語だったのか、真相は闇の中です。いずれにしろ義経は、いまだに多くの人々を惹きつけて止まないようです。


参考文献
『義経不死伝説』
中津文彦著
PHP文庫


あともう少しだけ、義経のことを考えてみたいと思います。

義経 ~その4~ 再び平泉へ

2013-01-12 16:23:36 | 義経
その後の義経の凋落ぶりは、本当に哀れというほかはないです。

なにがいけなかったのか?といっても、義経の側には特に思い当たることはなかったでしょう。あくまでも頼朝の都合。義経にとっては、理不尽極まりない話。

梶原景時の讒言?それもきっかけのひとつでしょう。後白河法皇の任官を、頼朝の許可を得ずに勝手に受けた?しかしこれは、再三に渡って幕府側に要請が出されていたらしく、朝廷としては功績著しい義経を任官しないわけにはいかず、最終的に独断で義経を任官せざるを得なかったし、義経としても断りきれずに引き受けざるを得ない状況に陥ってしまった。これはずるずると引き延ばしていた幕府、つまりは頼朝に寧ろ責任があると言えます。
つまり頼朝は、こうなることを予め見越して、わざと許可しなかったのではないか、とも考えられますね。
ちなみにこの任官騒動は、一の谷の合戦後の話です。壇ノ浦で平家が滅び、安徳帝の悲劇が起きる以前のことです。この段階で頼朝が、すでに義経に良からぬ思いを抱いていたなら、安徳帝のことをキッカケに頼朝が義経を疎んじたという説は、益々成り立たなくなります。

やはり頼朝は、義経に嫉妬していたのでしょう。武門の棟梁は二人もいらぬ。義経の戦の才と人を引き付けるカリスマ性。頼朝の地位を脅かすには十分なものでした。
だから、梶原景時の讒言=義経が自分勝手に兵を動かし、頼朝の軍監(監視役)たる景時の言うことも聞かず諸将を翻弄し困らせた等々の告げ口は、頼朝にとっては渡に船だった。軍監は言ってみれば頼朝の代理です。その代理の言を聞かぬとは、頼朝の言を聞かぬのと同じこと。これは武門の棟梁に対する不敬、反逆に値する大罪である…。
政治家としての才は、頼朝の方が遥かに上だったようです。
こうして義経は鎌倉入りを許されず、失意の内に京へ引き上げます。

しかし京雀達の義経人気は凄いものがあったようです。朝廷(後白河法皇)としても、鎌倉に対するけん制として、この人気を利用しない手はないと思ったのでしょう、義経を伊予守に任官します。
そしてついに、頼朝の刺客、土佐坊昌俊率いる軍勢が、京の義経邸を急襲します。義経は辛くもこれを切り抜けますが、両者の亀裂は決定的となり、義経は頼朝追討の宣旨を受け、兵を挙げることを決意します。
父の徒を討つため、兄の助けになるため、ただそれだけを思って平泉を旅立った時、誰がこのような展開を想像し得たでしょう。あまりにも悲しい、運命の皮肉。
いや、あるいは藤原秀衡においては、このような展開も予想し、危惧していたやもしれません。
利用されるだけ利用され、邪魔になれば捨てられる。息子とも思い愛した義経の、そんな行く末を危惧したからこそ、佐藤兄弟を従者として付けてやったのかも…。

義経は畿内で兵を集めようとしますが、その意に反して兵はなかなか集まらない。畿内の諸将達も、頼朝と主従関係を結ぶことによって、所領を安堵してもらうのが得策と考えていたのでしょう。ならば頼朝の影響がまだ及んでいない九州で兵を集めようと、義経は軍勢を率いて海路九州へ向かいますが、嵐に会い、軍勢は散々となってしまいます。
義経とその主従は、なんとか浜へたどり着いたようです。実はここから先、義経一行の消息は記録から消えます。どのようにして平泉へたどり着いたものか、その詳細は一切伝わっていません。
先述した勧進帳は後世の創作です。ですが追われる身である以上、表街道を堂々と渡って行ける筈もなく、ならば山中を行くしかないでしょう。その場合、山を良く知る山伏のネットワークを利用するのが筋。というより、それ以外に山中を遠路平泉までたどり着く方法はなかったと思われます。

再び平泉へ、今や四海に追われる身となった我が身、もはや頼るとすれば平泉の他は無し。義経の心境、いかばかりであったか。

義経 ~その3~ そして壇ノ浦へ

2013-01-08 21:58:39 | 義経
義経のことを語りたがる方々は世にたくさんおられます。かくいう私もその一人。
しかし往々にして、平泉のことを“忘れている”と思われるような発言をされる方が多いと感じるのは、私だけでしょうか。
16歳から22歳までのおよそ6年余。人生の最も多感な時期を過ごした平泉での日々、その日々が義経になんらの影響も与えていないなどあり得ない。寧ろ多大な影響を与えたと考えるのが当然でしょう。にもかかわらず、まるで平泉のことなど意にも介していないような発言をされる方々は、いったいなんなのでしょう?
まあ良いです。人は人、馬は馬。
私は私。

伊豆に幽閉されていた源頼朝が挙兵したとの報が、いつどのような形で義経に齎されたものか、一切の記録が残されていないのでわかりませんが、義経はこの報せを受け、いてもたってもいられずに平泉を出ようとします。この時の秀衡の心情はどのようなものであったのでしょうか。せっかくの手駒を、ここで手放すのはもったいない、とでも思ったでしょうか。あるいはそれもあったかも知れません。しかし、旅立つ義経に対し、平泉屈指の武将、佐藤継信・忠信兄弟を従者に付けて送り出しているところからみても、そこには親子に近い情愛があった、と読むのは甘いでしょうか。佐藤兄弟は義経に本当によく尽くし、義経のために戦い、討死しています。それはある意味、秀衡の意志の体現でもあった、と私はみたいですね。

ともかくも義経は平泉を旅立ち、黄瀬川の陣で頼朝の軍勢と合流します。頼朝は涙を流してこの異母弟を迎えたといいますから、素直に嬉しかったのでしょう。
この時点では…。

頼朝と義経の合流から僅か半年後、仇敵平清盛があっけなく病死してしまいます。その後源氏勢と平氏勢とはにらみ合いのこう着状態が続き、義経が活躍する機会はなかなか訪れませんでした。それから約二年半後、木曽義仲追討の宣旨を受け、ようやく義経は活躍の機会を得ます。義仲追討を果たした後、義経は怒涛の勢いで一の谷、屋島と平氏勢を追い詰め、ついには壇ノ浦で平氏を滅ぼすに至るわけですが、その転戦の過程で、どうやら頼朝は、義経を疎んじるようになっていったらしい。それは義経の天才的な軍略と、そしてなにより、人を引き付けるそのカリスマ性故であったでしょうか。ヘタをすれば、源氏棟梁の座が脅かされるやもしれぬ、と思ったのかも知れません。
男の嫉妬は怖い、とはよく言いますね。

ところで、一の谷の合戦において、義経は有名な「鵯越の坂落とし」、平氏本陣の背後の崖を、一気に馬で駆け降りるという奇襲攻撃を敢行しています。ここに義経の天才性をみるわけですが、このような奇襲を思いつく背景に、平泉があった、とみるのはどうでしょう?平泉藤原氏初代、藤原清衡の母は安倍貞任の妹です。奥州安倍氏は蝦夷(えみし)と呼ばれた古代東北人に連なる一族と考えられており、蝦夷の戦い方は少数の軍勢でその数倍の大軍を打ち破る、ゲリラ戦術です。アテルイの軍が朝廷軍を打ち破った巣伏の戦いなどはその代表的な例ですが、あるいは義経は平泉において、そのような話を散々聞かされていたのかも知れません。あるいは奥州の山野を駆けまわるうちに、戯れに馬で崖を駆け降りるような遊びをして、自然とそのような技を身に着けていたかも知れない。いずれも記録等は一切残っておらず、私の単なる想像といってしまえばそれまでですが、あり得ない話ではないです。
屋島の合戦においては、嵐の中を渡海して、平氏勢の背後に回り、やはり少数の軍勢でその数倍の平氏勢を打ち破っています。嵐の海を猛然と渡って行く勇猛ぶりは、かつて朝廷軍や源氏の軍勢を相手に、勇猛果敢に戦った蝦夷達を彷彿とさせます。秀衡は少年時代の義経に、この“蝦夷の片鱗”を見い出し、それを愛したのではないでしょうか。それは大都会・平泉に住む人々が忘れかけていた蝦夷魂。その魂を義経の中に見た。平泉に何かあった時、頼りになるのは義経を置いて他にないかもしれぬ。秀衡はそう思っていたことだろうと、想像します。

さて、壇ノ浦の合戦において、ついに平氏は滅亡します。それだけではなく、幼い安徳帝とその母・建礼門院徳子は共に入水、母親が我が子を連れて、自らの意志で海に飛び込んだということです。そして三種の神器の一つ草薙剣もまた道連れに、海に沈んだと伝えられています。
このことを義経のせいであるかのようにおっしゃる方がおられますが、はたしてそうでしょうか?
そもそも平氏はなぜ、幼き帝や女たちを戦場に伴ったのでしょうか?平氏は彦島に陣を敷いており、そこで帝をお守りした方がよほど理にかなうはずです。おんなこどもなど、戦場においては足手纏いになるだけ。なのになぜ、わざわざ戦場に伴ったのか。それに、建礼門院は“自らの意志で”わが子を道連れとしたのであって、これは義経が救う救わないとかいうことではない。もはや初めから死ぬつもりだった。幼帝を道連れにすることが、すなわち平氏のプライド、ということだったのでしょう。
私はここに、平氏の傲慢を見ます。
安徳帝の母・建礼門院徳子は平清盛の娘。つまり安徳帝は清盛の孫にあたる。清盛は天皇の外祖父となった。これはかつての藤原道長が用い、その後藤原摂関家が権力を握る手段としたのと同じ方法です。天皇はいまや平氏の身内。
だから、平氏が滅びるときは、天皇もまた滅びるべき。天皇が滅びるということは、日本が滅びること。
ならば日本も
滅びてしまえ!

これは平氏の傲慢が齎した悲劇です。さすがの義経でも、帝をお救いまいらせることは難しかったでしょう。
義経に責任はない、と断じます。実際この件で、義経が責めを負わされたという形跡はどこにも窺えません。誰もがみな、義経に責任のないことはわかっていたということです。このことをもって、頼朝が天罰を恐れ、義経を追いやったなど、私には到底考えられません。

壇ノ浦の勝利をもって、義経の栄光は頂点に立ったかにみえました。しかしこの後、
義経は、一気に頂点から転がり落ちて行きます。




義経 ~その2~ 鞍馬から平泉へ

2013-01-08 15:56:41 | 義経
源九郎義経は、源氏の棟梁源義朝とその愛妾常盤御前との間に生まれた子です。正室の子でないとはいえ、源氏の棟梁家の血を引く立派な御曹司。いずれまた源氏が兵を挙げるに際しては、その先頭に立つに相応しい血筋です。当時は血統というものが今以上に尊ばれていましたから、その行く末は源氏の残党にとって相当に高い関心事であったはずです。

幼少の義経=牛若(入山後、遮那王を名乗る)が鞍馬寺に預けられたのは10歳前後頃のことのようです。初めの内は学問に励んでいたいたようですが、ある日突然学問を捨て、夜な夜な鞍馬山中において、武芸の訓練に明け暮れるようになった。…と、軍記物などには書かれているようです。軍記物ですので、どこまで本当かはわかりません。ただ、何者かが遮那王出生の秘密=源氏の棟梁の子であることを、遮那王に漏らしたとしたら、己の出自に目覚めた遮那王が、平家への復讐心から憤然と武芸に励むのは当然有り得ることでしょうね。さて、その漏らした何者か、とははたして、源氏の残党か、はたまた…。
いずれにしろ鞍馬の山中ということで、天狗や魔物の憑依があったやもしれず。それが「八艘跳び」などの体術に繋がる一方、後年の悲劇へと繋がっていったのかもしれません。

義経の母、常盤御前は義朝の死後、子供達(今若、乙若、牛若)の命を助けることを条件に、平清盛の愛妾となりますが、愛妾だった期間はさほど長くはなかったようで、常盤御前はその後すぐに、元大蔵卿・藤原長成という人物に嫁ぎます。その経緯はよくわかりませんが、最初乳飲み子だった牛若が清盛の下にいたのは、せいぜい2~3歳くらいまでのことのようです。大河ドラマで牛若が、清盛のことを父と慕うシーンがありますが、はたして牛若に、清盛の記憶があったかどうか。

さて、牛若=遮那王は16歳になっても剃髪・出家をしようとしない。仏門に入ることを条件に命を助けられているので、このままでは清盛との約束が果たせない。あるいは鞍馬寺の僧侶あたりが、常盤御前に「なんとかしてくれ!」と相談を持ちかけたかもしれません。常盤としても、このまま放っておいたのでは遮那王自身の身はもちろんのこと、夫・長成卿の身にもどのような類が及ぶかしれない。そこで、ある人物が思い浮かんだのでしょう。
その人物とは藤原基成。元陸奥守。陸奥守の任期が切れた後もそのまま奥州に住みつき、その娘を奥州平泉藤原氏三代・藤原秀衡に嫁がせ、自らも政治顧問格として平泉で権勢を振るう人物。
この藤原基成は、常盤の夫長成とは極近い親戚なんです。奥州平泉ならば、京の都から遥かに遠く、また17万騎ともいわれる大軍勢を擁し、いかな平家といえども、地理的政治的軍事的に、簡単には手を出し難い相手。遮那王を逃がすに、これほどうってつけの場所はない。
また藤原基成にも、遮那王に対してはある種の負い目があったのではないかと思われます。というのは、基成の弟に藤原信頼という人物がいるのですが、この人物、実はかの源義朝、遮那王の父義朝と結託して平治の乱を起こした張本人だったのです。
いってみればこの信頼のせいで、義朝は敗死したともいえるわけで、弟の行為が遮那王達を過酷な運命に追いやってしまったことを、ずっと気にかけていたのかもしれません。
だから基成は、遮那王を平泉に預けたいとの連絡を受け、必死になって秀衡を説得したのではないでしょうか。秀衡にしてみれば、せっかく朝廷や平家とも、駆け引きをしながら上手くやってきたのに、徒となるかもしれない源氏の子倅をなんで預かる必要があるのか?と思ったことでしょうが、あるいは基成の心情に配慮しつつ、最終的には、源氏と平氏双方への“保険”世の趨勢がどちらに転んでもうまく切り抜ける“切り札”として、遮那王=後の義経を預かることとしたと思われます。

こうして遮那王=義経は鞍馬山を脱走し、金売吉次なる金属商人(実在不明)に伴われ、一路平泉を目指します。遮那王16歳。その波乱の生涯の本格的なスタートでした。

義経 ~その1~ 勧進帳

2013-01-06 16:29:38 | 義経
義経には数多くのエピソードが伝えられていますが、ほとんどが後世に創作されたものと思われます。「勧進帳」はその中でも、有名なエピソードの一つで、特に弁慶の見せ場です。

兄・頼朝に追われる身となった義経。山伏姿に身を窶し、遥か奥州平泉へ落ち延びようとします。途中、吉野山中で静御前と別れ、一行はどうやら、山伏達の助けを借りて、山中の道なき道を奥州まで目指したようです。平泉藤原氏は白山に多大な寄進を行っていますから、おそらくは白山系修験のサポートがあったのではないでしょうか。それ以外にも熊野系、出羽三山系等々の修験との連携があったと考えると、面白くなってきますね。

ちなみに吉野で別れた静御前はその後捕えられ、鎌倉へ護送されます。その時御前は、義経の子を身籠っており、その子を鎌倉で出産しますが、男の子だったために…。
鶴岡八幡宮で奉納の舞を舞った際、「しづやしづ」と義経への恋慕の想いを切々と謡いながら舞う御前。居並ぶ源氏の諸将を前にしての、その命懸けの舞に感銘を受けた北条政子が御前を解き放ち、御前は晴れて自由の身に。その後御前がどのような生涯を過ごしたのか、詳細は伝えられていません。

さて、勧進帳ですが、義経一行は奥州へ向かう途中、現在の石川県にあったとされる安宅の関所に差し掛かります。関守の富樫左衛門は、義経一行が山伏に変装しているとの情報を得ており、この一行を怪しんで尋問します。一行は東大寺再建のための勧進(寄付を募ること)の旅をしているとのことだったので、当然、東大寺からその依頼を受けたことを証明する書状(勧進帳)を所持しているはず。関守・富樫はそれを見せるよう迫ります。それに対して弁慶は、見せることはできないが読んで聞かせるとして、やにわに一巻の巻物を取り出し、スルスルと開きながら朗朗と読み上げます。
実はこの巻物にはなにも書いていない、まったく白紙なんです。その白紙を目の前にして、いかにも書いてあるかのように朗朗と読み上げるところが、見せ場の一つとなっているわけですね。
関守・富樫の激しい追及をなんとか躱し、関所を通ることを許された一行でしたが、富樫は、一人の若い山伏(実は義経)が腰に下げていた笛に目を留めます。山伏にしては高価な笛に不審を感じた富樫が呼び止めます。
これはマズイ!と感じた弁慶。とっさに手にした金剛杖を振り上げると、義経に振り下ろします。
「この愚か者め!貴様のせいで、あらぬ疑いを掛けられたのだ!」
何度も何度も杖を打ち下ろす弁慶。黙ってじっと耐える義経。弁慶の目には、薄らと涙が…。
これを見た富樫は失礼を詫び、酒を振る舞う。弁慶はお礼として舞を舞う。
立ち去る一行を見送る富樫の目にも薄らと涙が。富樫にはわかっていたんです。彼らが義経一行であるということを。

忠義のためとはいえ、主人・義経を激しく打擲した弁慶は、泣いて義経に詫び、自分を討ってくれと懇願します。これに義経は逆に礼を言い、弁慶を許します。

従者は主人を思い、主人は従者を思う。この美しき主従関係。関守・富樫はこれに打たれ、わかっていながら一行を逃がす。こういう話、日本人は好きですね。でもばれたら富樫さん、ヤバいんじゃない?とは誰もいわないんだな、これが(笑)

これと同種の話は忠臣蔵にもあります。大石内蔵助が京・山科から江戸へ下向する際、探索の目を逃れるため、「日野家用人・垣見五郎兵衛一行」と偽り、江戸へ向かいますが、途中で本物の垣見五郎兵衛一行と鉢合わせしてしまうんです。大石達の宿に本物の垣見五郎兵衛が、大胆にもたった一人で乗り込んでくるんです。大石と垣見とは一対一で対峙するのですが、要は垣見が、相手が大石内蔵助であるということに気づいて、これが討ち入りのための秘密行であることを察し、見逃すわけです。おまけに垣見が所持していた通行手形を、「偽者には必要ない」と言って大石に渡すんです。良い話でしょ?(笑)

そこにある種の共感があるからこそ、見逃したくなる。義経への共感、赤穂義士への共感。日本人の魂を揺さぶり続ける物語に、日本人の心性が見える気がしますね。

それにしても義経は人気が高い。かくいう私も好きですが。

さて次回は、義経の…何について書こうかなあ(笑)