最近の学生さんの制服はブレザーが多いんですかね?私なぞは中学も高校もいずれも学生服、いわゆる「学ラン」という奴でした。
学生服のメーカーで特に有名だったのが、「カンコー学生服」。この「カンコー」って、どういう意味か知ってますか?
これはすなわち「菅公」つまり菅原道真公のことです。
菅原道真公は宇多天皇の信任を受け、家柄としては破格の左大臣にまで出世、嵯峨天皇の御代にも左大臣の地位にありました。
しかし時の右大臣・藤原時平の讒訴を受け、延喜元年(901)大宰府員外帥に降格、遥か鎮西の地に左遷されてしまいます。
一族もまた配流となりますが、このとき道真公の正妻、いわゆる「菅公夫人」のその後の消息がよくわかっていないのです。
中央の記録には残っておらず、京に残ったとする話も伝わっているようですが、どうもはっきりしない。
しかし我が岩手県には、この菅公夫人が娘二人と息子(五男敦茂公、菅秀才)、従者一人を引き連れて落ち延びてきたとする伝承が残っているのです。
そしてその、「菅公夫人」の墓と伝えられる石碑も、土地の人々に守られ、現在まで残されています。
場所は現在の岩手県一関市東山町田河津(たこうず)地区、墓と伝えられる石碑は風化が激しく、かつて書かれていたであろう文字は判読できません。田河津地区は山深き地。今でこそ大きな道路が通っていますが、平安の昔などはおよそ里人を寄せ付けぬ深き山中であったでしょう。
そのような場所に、都の高貴な夫人の墓が建てられている不思議。落ちてきた人々故なのか、いずれにしろなにやら寂しさを感じさせます。
もっとも現在では、墓の周辺はすっかり公園として整備されており、観光地化されて昔ほどの寂しさはなくなっているようです。道真公ゆかりの太宰府天満宮や京都の北野天満宮などから梅の木が送られ周辺に植樹されているとかで、すっかり綺麗に整備されているようです。
どうなんですかねえ、静かに眠らせてあげたい気もしますが……。
菅公夫人は「吉祥天女」に習合されて、土地の人々から篤い信仰を受けていたようです。吉祥天女は弁財天より前に、七福神に列せられていたとされる仏教の神で、いわゆる「福の神」です。
この吉祥天と菅公夫人が何故結びついたのか。はっきりとは言えませんが、道真公の家系では代々吉祥天を篤く信仰してようです。また道真公の母親は「天女」であるとする伝説があることなどから、道真公の夫人と吉祥天とが重ね合わせられたのかもしれません。
ところで、吉祥天といえば思い出すことが一つ。
それは、岩手県一関市舞川地区の山中に御鎮座される、舞草(もくさ)神社のことです。
舞草神社の御祭神は白山神です。かつてこのお山には神社に併設して寺も建てられており、十一面観音が祀られていました。
その由来から、神社の御鎮座される山を、「白山岳」あるいは「観音山」と呼ぶのですが、実はもう一つ呼び名があるのです。
それが、「吉祥山」というんです。
吉祥天もかつてはお山で祀られていたということなのでしょうか。そういえば菅公夫人の墓近くには、「山神社」が御鎮座されているとか。
田河津は山深き地。かつては山の民が暮らしていた土地であり、そこで祀られていた神は、古くはおそらく白山神であったとみていいのではないかと思われ、かつて白山神が祀られていたであろう山神社の近くに吉祥天(菅公夫人)が祀られているという不思議。
単に「神仏習合」の名残に過ぎないのか、それとも白山神と吉祥天との間には、なにやら深き関連があるのか。
いささか、気になる処ではあります。
東北はナガスネヒコの昔から流刑地であり、中央に居られなくなった人々、逃亡者が落ち延びてきた地です。菅公夫人以外にも様々な方々が落ち延びてきたことでしょう。
その中には、菅公夫人の如くに、都で栄華を極めた,尊き人々もおられたことでしょう。
東北とはそのような人々の「無念」が眠る地でもあるのです。
菅公夫人の墓。私は訪れたことはありませんが、いつかは訪れてみたい。都で栄華を極めたものの、その晩年を奥州の草深き地で寂しく過ごした、栄枯盛衰、流転の人生に想いを馳せてみたい。
そんなことを思う、今日この頃。