風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

BABYMETAL [ YAVA (ヤバッ!)] 2017

2017-08-31 04:20:14 | 今日のメタル











この歌唱力にキレッキレのダンス・パフォーマンス。素晴らしいですねえ。



大分大人になってきて、ベイビーとは言い難い感じになってきましたが、さて、どこまで続けるのか。


いや、このままどこまでも続けるというのも有りか。


企画モノとしてはそろそろ限界?という感じもしますが、アーティストとしては、これからの展開に興味が惹かれ、まだまだ面白い存在ではないかと、思ったりもします。



ベビメタはどこまで行けるか。興味深い。

Gipsy Kings [Inspirasion] 鬼平犯科帳エンディング・テーマ Full Ver.

2017-08-30 04:56:03 | 時代劇











これはフル・ヴァージョン用に編集した映像です。こうしてみてみると、28年の間に少しずつ映像が入れ替わっているんですねえ。でも描かれているものは皆、日本の四季と江戸情緒。


池波正太郎先生がラテン・ミュージックが好きだったから、ということで相応しい音楽を探して出会ったのが、この曲だったそうな。抑々時代劇にラテン・ミュージックを合わせようという発想が大胆かつユニークで、この曲を選んだセンスも素晴らしい。


後にも先にも、これを越えるエンディング・テーマは存在しません。つくづく、演歌にしないでよかった(笑)



ここに写っている方々が、「仕出し」と呼ばれる俳優さんたちで、これほど多くの仕出しさんを使って撮られたエンディングは珍しいそうです。普通のテレビドラマのエンディングは1日2日くらいで撮るのですが、第一シーズンのエンディングは、撮影に1ケ月くらいかけているそうです。



本当に良いものを作ろう。そんな意気込みが、この映像を見るだけでも伝わってきます。



『鬼平犯科帳』、つくづく、凄いドラマでした。

エクラン演技集団

2017-08-29 05:01:07 | 名バイプレーヤー





ちょっと前の『鬼平犯科帳』などを見ておりますと、「エクラン演技集団」というクレジットをよく見かけます。

主に京都映画撮影所(現・松竹撮影所)で撮影された時代劇に出演していたエキストラ、いわゆる「仕出し」と云われる方々が所属するグループのようです。


江戸の町を歩いている、名もなき市井の人々。あるいは斬られ役などを担当するのが「仕出し」と飛ばれる俳優さんたちです。歩くだけの役にしても、こういう人たちはただ歩けばいいというものではありません。侍には侍の、商人には商人の、職人には職人のそれぞれ歩き方というものがあるし、大八車を引いたり、駕籠を担いだり、その籠も町駕籠と大名駕籠では担ぎ方が違うわけで、そうしたことが全部できないと務まらない仕事なんです。


ほとんどは役名もつかないような人々を演じるわけですが、でもこういう「名もなき」人々にリアリティがなければ、ちゃんとした時代劇は作れないわけで、まさに縁の下の力持ち、こういう方たちがいてこそ、時代劇は成り立つのです。



普段は役名もつかないような役ばかりですが、ときどき役名がついて、セリフのあるような役がつくときもある。そういうときはその俳優さんの個人名がクレジットされます。

必殺シリーズなどでよく見かけるお名前、松尾勝人、美鷹健児、東悦次などの方々が、このエクラン演技集団に所属する俳優さんたちでした。この方たちのお名前はよく見かけましたね。


こうした方々の演技は、監督が一々指導したりしないので、年長の俳優が若い俳優に伝えていかなければなりません。しかし、イマドキは仕出しになろうという若い人がおらず、この世界にも高齢化の波が押し寄せています。



上述した松尾勝人さんが2007年に逝去されると、それと軌を一にするように、エクラン演技集団は解散し、残った俳優さんたちは、現在松竹撮影所に所属する俳優として、単発の時代劇に出演されています。


主役級の方々もそうですが、こうした名もなき方々の存在なしに、時代劇は成り立ちません。本当に今は時代劇存続の危機、瀬戸際なんです。


なんとか、しなければ……。

カモシカを見た!

2017-08-28 09:50:13 | 歴史・民俗










日曜日の昼下がり、山間の住宅地、狭い道路をゆっくり車で走っておりますと、路上の真ん中にカモシカが立っているのに遭遇しました。


カモシカは悠然と走り出し、一気に左側の斜面を駆け上がり、私の目の前から消えていきました。



田舎町ですので、野生動物に遭遇することはままあります。キツネやタヌキ、テンの類いを見たこともあるし、キジは庭先をとっとっとっと横切っていくし。


2メートルくらいもあるヘビが道をふさいでいたこともあるし、出会ったことがないのは、サルとクマくらいですかね(笑)


ただクマに関しては、数年前より目撃情報が多発しており、注意しなければなりません。




カモシカやシカには複数回遭遇しておりますが、何度出会っても「畏怖」のようなものを感じてしまいます。厳しい大自然の中を生き抜いてきた「威厳」のようなまのが、なんとも厳粛な気持ちにさせるのかもしれません。




古来日本では、シカやイノシシのことを「宍(シシ)」と呼んでいました。宍とは宍肉、つまり食用肉を表し、それが転じて狩猟の対象となる動物を指していたようです。


アイヌの祭り「イ・オマンテ」は、クマの霊をあの世へ送り返す儀式ですが、これは美味しい肉と温かい毛皮を届けてくれたクマにたいし、感謝と畏敬の念を込めて行わられる祭りであり、クマはアイヌに有難いプレゼントを送ってくれる「神」でした。



アイヌ文化に縄文文化の痕跡を見ることができるならば、シカやイノシシのように、人間の食料となってくれる動物はやはり「神」だった、と見ることができるのではないでしょうか。


実際、最新の研究では縄文時代にイノシシの霊をあの世へ送り返す祭りが行われていた、とする説もあり、「イ・オマンテ」は縄文日本において広く行われていたようです。



日本では古来より、地を這うものはすべて「ムシ」でした。だからヘビもムシであり、なかでもマムシは、強い毒をもって人の命を奪う、人の生き死にを左右する強い力を持っているということで、ムシのなかのムシ、「真虫(マムシ)」と呼ばれ、恐れられ敬われた。




神羅万象すべてに命があり、神が宿るとするのが、日本古来の自然観、神観念です。現代生活に追われる中で、我々はそのことを普段は忘れているかのようですが、実は忘れちゃいない。こうして威厳ある動物たちに出会う度、そのことを思い知らされます。


私は日本人なんだな、とうことを実感させられます。





でもできれば、クマにだけは出会いたくないですが……(笑)





俺の名前は引導がわりだ、迷わず地獄へ堕ちるがよい

2017-08-27 04:27:30 | 名ゼリフ










時代劇の最大の見せ場は殺陣。テレビ時代劇でよくあるパターンとして、悪党どもが集まって悪だくみをしているところへ主役が颯爽と登場し、決めゼリフを決めて雑魚どもをバッタバッタと斬り倒し、最後に悪党の親玉を斬るというパターン。


決めゼリフの中でも特に有名なのが、高橋英樹主演『桃太郎侍』のセリフでしょう。


【ひとつ人の世生き血を啜り、ふたつ不埒な悪行三昧。みっつ醜い浮世の鬼を、退治てくれよう桃太郎】


よくできた数え歌です。そしてもう一つ有名なのが、里見浩太朗先生主演による『長七郎江戸日記』の決めゼリフ。



【俺の名前は引導がわりだ、迷わず地獄へ堕ちるがよい】





里見先生演じる松平長七郎長頼は、三代将軍徳川家光の弟で、将軍継嗣争いに敗れ切腹した、駿河大納言忠長卿の忘れ形見なんです。つまり将軍家の血筋。

その名を聴いても改心せず悪足掻きをするならば、止むを得ん、もはやこれまで。斬る!


そういう意味合いが込められている、よくできたセリフです。



ところで、こういう殺陣シーンの場合、主役は一人で何十人という敵を相手にします。


何十人もの敵を一人で相手にして、勝てるわけないじゃない⁉だから時代劇なんて嘘だ‼なんて声が聞こえてきそうですが、



いやいや、これがそうでもないのですよ。





俳優の宇梶剛士さんは、若い頃日本最大の暴走族「ブラックエンペラー」の名誉総長だった人物。その喧嘩の強さは伝説的だったらしい。

中でも、数百人対一人の喧嘩に勝ったという話は強烈です。宇梶さんによれば、数百人といっても全員を相手にする必要はないそうです。敵が何百人いようとも決してひるまず、静かに敵と対峙する。そしてここだというときに一歩前へ出る。

そうすると、宇梶さんの「気」に押されるように、敵が後ずさったそうです。そのうち緊張に耐えかねた敵の一人が角材を振り上げて襲ってきた。この角材を宇梶さんは余裕で取り上げ、5,6人の敵を返り討ちにします。


このことがきっかけで、恐怖が数百人全員に伝染していき、その数百人が一斉に逃げ出してしまった。宇梶さんはわずか5、6人を倒しただけで、対数百人の喧嘩に勝ったわけです。


先日紹介した宮本武蔵対吉岡一門の果し合いにしても、武蔵は敵の大将を最初に打ち取ってしまうことで、敵に敗北感を味合わせたわけです。あとはとっとと逃げるだけ、全員を相手にしなくても、勝負には勝っている。



だから桃太郎にしても長七郎にしても、本当は悪の親玉を最初に倒しちゃえば、余計な雑魚さんたちを斬る必要はなくなるわけですが、そこは様式美の世界ですから、親玉は最後に斬るという約束事が決まってる。

それでも往年の時代劇スターさんたちは、様式美の見せ方がうまかった。例えば後ろに敵がいたとしても、斬りこめない「気」を発しているように見せることができた。

宇梶さんの例にあるように、こちらの発する「気」が相手の「気」を上回っていれば、文字通り相手は「気圧されて」しまうわけです。だから後ろから斬りかかろうにも、「気」に圧倒されて動けなくなってしまう。


往年の時代劇スターさんは、そういうことの見せ方がうまかった。だから様式美の中に迫力があった。

様式美というのは「上手く」ないと面白く見せることができません。ヘタな役者が様式美の上っ面だけを真似ても、まるでリアリティのないつまらないものになってしまう。


時代劇がつまらなくなった原因の一つが、ここにある。





今、CS時代劇専門チャンネルを見れば、往年の里見先生や英樹さんの雄姿を見ることができます。この方々はやっぱり、様式美の見せ方がうまいですね。良い時代でした。


今回の表題のセリフは、そんな時代劇が一番良かった時代を想起させる、


ちょっと切ない、セリフです。

思うこと

2017-08-25 14:28:00 | つぶやき





どこかの選手がどこかの選手の足を、わざと蹴ったとか蹴らないとか、一部で騒ぎになっていたようですが、そんなもん、結局は




当事者にしか分からんよ。


そんなに誰かを悪者にしたいのかね?悪者にして騒ぎ立てて、つるし上げる。自分一人じゃできないが、あの人もこの人もやってる。だったら


自分もやっていいじゃん?



祭りだ祭りだ!参加しなくちゃ損々。ってな感じで、「楽しく」参加するわけです。



自分は正しいことをしている?悪を糺している?いいえ、あなたのやっていることは、ただの



私刑(リンチ)です。




本当のことは当事者にしかわからない。あなたはただ、あの選手を悪者にしたいだけなのだ。悪者にすることで、自分の中にある「何か」を納得させたいだけなのだ。

そんな身勝手な理由で、まだ10代の一高校生を、将来ある若者を悪者に仕立てて、満足ですか?



自分の心に問いかけてみてください。あなたがしたかったことは、本当はなんだったのか、と。







こいつはマグナム44といって世界一強力な拳銃なんだ。お前のドタマなんか一発で吹っ飛ぶぜ。楽にあの世へ行けるんだ、運が良けりゃな。さあどうする?

2017-08-24 04:07:35 | 名ゼリフ






声、山田康雄。




1970年公開の映画『ダーティ・ハリー』。



マカロニ・ウエスタンで世界的名声を得たクリント・イーストウッドが、ハリウッドに凱旋して撮った作品で、イーストウッドはこの作品で自他ともに認めるハリウッド・スターの仲間入りを果たしました。


演じるハリー・キャラハン刑事はイーストウッドの生涯最大の当たり役となり、シリーズ化もされて5作品が製作されています。









サンフランシスコ市警察のハリー・キャラハン刑事(クリント・イーストウッド)は、悪党を捕まえるためなら法を破ることも辞さない男。そのため署内でも鼻つまみ者でした。

折しも、「さそり」を名乗る猟奇殺人犯による連続殺人事件が発生。ハリーは苦労の末犯人(アンディ・ロビンソン)を捕まえますが、逮捕の仕方が法に則っていないということで釈放されてしまう。犯人の人権擁護を語る判事に、「同じことを被害者の家族に言えるのか⁉」と詰め寄るハリー。
「さそり」はずる賢く立ち回り、なかなかシッポを出さない。そんな「さそり」を執拗に確実に追い詰めるハリー。

追い詰められた「さそり」は、幼稚園バスをジャックして逃走を図りますが、そんな「さそり」をハリーは静かなる怒りと強靭な意思で、確実に追い詰めていく。

ハリーと「さそり」との、最後の対決が迫る!







ハリーという男は、いつも苦虫をかみつぶしたような顔をして、何かうんざりしているような、諦めているような空気を漂わせながら、それでも悪を倒すことを辞めようとしない。


己の中の「正義」と、現代社会における「正義」とのギャップ。もしもハリーが開拓時代のアメリカに生まれたら、さぞや活躍する場もあったであろうに、生まれてきた時代を間違えてしまった男の、ある意味悲劇とも云える、かもしれません。


犯人の「さそり」がベトナム帰還兵であったり、「人権」を巡る考え方の違いなど、当時のアメリカ社会の抱える問題点をさりげなく描きつつ、アメリカの「正義」とはなんなのか?ということを多角的に描いている……なんて屁理屈はさておいて(笑)


とにかく、当時40歳のクリント・イーストウッドがめっちゃカッコイイ‼それに尽きる‼



それでいいじゃん(笑)



カッコイイと言えば、ハリーが使用する拳銃、「44マグナム」ですが、これは狩猟用に開発された拳銃で、普通の拳銃に比べて火薬量が多く、弾が当たった時の衝撃力、破壊力、殺傷力が大きい。ただその分、射手に帰ってくる反動も大きく、下手な撃ち方をすると簡単に腕や肩がいかれてしまう。だから劇中で描かれているような、片手で撃ったり連射したりなど、普通は不可能だと云っていいんです。

ただ、このデカい拳銃を身長約190センチで手足の長いイーストウッドが持つと、実に絵になった。説得力があった。

イーストウッドだったら、片手で撃てるんじゃないか、連射出来るんじゃないかという説得力があったんです。


とにかくねえ、44マグナムを構えてすっくと立つその姿はメチャメチャ絵になった、説得力があった、そしてなにより、


カッコよかった。


このシリーズの人気の秘密を語る上で、この点は絶対外せないでしょうね。





ところで表題のセリフですが、これは映画の冒頭、本筋とは関係がない銀行強盗の犯人に、ハリーが銃を向けながら言うセリフなんです。

まず、自分は5発撃ったのか、6発全部撃ち尽くしたのか数え忘れた、みたいなことを言った後に、表題のセリフへ続くわけです。


要するに、ハリー刑事に向かって銃を撃つか撃たないかを、犯人に選択させているわけです。もし6発全部撃ち尽くしていたら、犯人はハリー刑事を撃って逃げることが出来るかもしれない。しかし5発だったらまだ1発弾が残っているから、ハリー刑事は正当防衛ということで、犯人を撃ち殺すことが出来る。



さあ、どうする?と犯人に究極の選択をさせているわけです。これはハリー刑事の度胸の良さを表すとともに、その犯人の特質をしっかりと見極めながら言っているので、そうした悪人を見る「目」の確かさも同時に表しているわけです。

さらに言えば、犯罪者に対してはこのような意地悪なことを平気でしてのけられるという点で、悪に対する強い怒りや憎しみを感じつつも、ハリーという男のサディスティックな面も透けて見え、ハリーという男がどういう男かということが、このセリフでほぼ見えるようになっている。


観客にハりーという男を一発で理解させる。そういう役割も持った非常に深いセリフでもあるわけです。



単にカッコイイだけじゃない、非常によくできたセリフだと思いますねえ。




さて、このセリフ実は冒頭だけではなくて、ラスト・シーンでも同じセリフが語られるんです。


最後、「さそり」を川っぷちに追い詰めたハリーが、「さそり」に向かって、まったく同じセリフを言うんです。



冒頭の銀行強盗は、ハリーに銃を向けることを諦めました。実はその時、ハリーの銃には弾はのこっていなかったんです。ハリーは相手が撃ってこないことを見越した上でこのセリフを言っているんです。



では「さそり」はどうでしょう?やはり諦めたでしょうか?そしてハリーの銃に、弾は入っていなかったのでしょうか?


答えは……言わなくても分かりますよね(笑)





映画のオープニングとエンディングと両方に全く同じセリフを持ってくる。まさにハリーという男を象徴し、この映画全体を象徴する、



見事なセリフだな、と思いますねえ。





悪を倒す行為はカタルシスを得やすい。人間はそういう風にできているようです。


しかしいくら悪を倒しても、この世から悪はなくならない。



だからハリーは、いつも苦虫をかみつぶしたような顔をしているのかもしれない。自分のしていることに果たして意味はあるのだろうか?



それでも、悪を倒すことを辞めることができない。それがハリー・キャラハン。



ある意味、とても哀しい男、なのかもしれません。

まるごとれにちゃん

2017-08-23 03:46:19 | ももクロ











なんだろう?この映像を見ているだけで泣けてくる。



杏果のソロとは違う、もちろんあーりんとも違う、れにちゃん独特の、感謝と笑顔と、涙の世界。




ももクロのメンバーはそれぞれ「個」が強い。その強い「個」が反発し合うことなく一つに融合してももクロになっている。



そりゃももクロが「強い」わけだ。



モノノフさんたちへの日頃の感謝を込めた、高城れにソロ・ライヴ、「まるごとれにちゃん」。



8月30日、DVD&Blu-Ray発売!

ねぶたの話

2017-08-22 10:22:05 | 岩手・東北





東北や信越辺りには、「ネプ流し」などと呼ばれる行事があるそうな。



「ネプ」とは眠気、睡魔のことで、農作業などを行っている最中に眠気に襲われると仕事に差し支えるし、事故にも繋がりかねない、そこでこうした「睡魔」を川に流して、無事農作業が終えられるよう祈った。これがネプ流しであり、青森県で主に行われるねぶた祭はこれをルーツとし、そこに盆行事など様々な習俗が混合しつつ規模が大きくなったものであろう……とするのが、今のところの定説のようです。



しかしこれには異論もあります。その中でもあまり相手にされていないものの、面白い説としてあるのが「アイヌ語」起源説です。


アイヌ語で「何か?」ということを云う際に、「ネプ」ということがあるのだそうです。これは普段は使わない、アイヌ語の雅語にあたる言葉なのだそうで、普段使わないということは、よほど大切な「何か?」を表すときに使うのでしょう。



日本には古来より「言霊信仰」があります。言葉は力を持ち、言ったことが現実になってしまう。だから悪いことを口にしてはいけない。

これは人の名前などにも影響するようで、日本では古来、他人の名前を直接呼ぶことを憚る傾向が強かった。特に地位ある人の本名をそのまま口にすることは禁忌とされていたようです。


本名が知られてしまうと、呪いをかけられてしまう恐れがあるからだそうで、これは逆に、悪霊退治にも有効なんです。悪霊の本名がわかれば、その名を呼ぶことで悪霊を退散させることが出来ると考えられていました。



言葉は力を持ち、悪いことを言うとそれを引き寄せてしまう。だから大切な人物や物事を直接口に出して言ってはいけないのです。



さて、ここで先ほどのアイヌ語説に戻ります。ネプ流しの「ネプ」が、アイヌ語でいう「何か?」であるなら、ネプ流しとはつまり、直接口に出してはいけない「なにか」を流す。という意味になります。



この「何か」は、ぶっちゃけなんでもいいわけですよ。自分の「厄」でもいいし、災い成す悪魔悪霊、妖怪の類いでもいい。そうしたものを相手に気づかれないようにそっと、依代などに付けて川に流した。その時に直接「厄流し」だとか「邪霊流し」だとかを口にしてしまうと、相手が気づいて戻ってきてしまう。だから直接口にすることを憚ったわけです。


あるいは、大切なご先祖様を船に乗せてあの世に返す、精霊流しにも当てはまりますね。流すときにご先祖様の名を口にすると、ご先祖様が戻ってきてしまう。だから口に出さずにそっと流す。



うむ、こう考えた方が、「眠気」なんて無理矢理っぽい説を持ってくるより分かりやすい気もしますがねえ。どうなんでしょうねえ。







さて、この「何か」は貴いものである可能性も当然出てきますね。ご先祖様も貴いですが、例えば


「神」といったようなものも、この「何か」に当てはまることは容易に想像できますね。



ユダヤ教やキリスト教でも、神の名はみだりに口に出してはならないとされています。言霊信仰のようなものはユダヤ人にもあったのでしょうか。


ねぶた祭りの山車は今でこそ巨大な人型を乗せて街中を練り歩きますが、最初からあんな巨大だったわけではないでしょう。明治の頃には川に流していたとも聞きますから、川に流せる程度の大きさではあったのでしょう。



ならそれ以前は、もっと小さかったとも考えられるし、乗せていたものも、今のような人型ではなかったかもしれない。


神の依代、例えば神輿のようなもの、あるいは


アーク(聖櫃)のようなもの、だったかもしれない。




青森県には、例の「キリストの墓」伝説で有名な戸来(へらい)村がありますし、県内には古代ヘブライとも称される意味不明の歌詞をもつ民謡「ニャナドヤラ」が伝えられています。まあ、「キリストの墓」は100%いや200%偽物にしても、戸来村自体はその村名からしてもユダヤ、ヘブライを連想させるし、「ダビデの紋章」など、古代ユダヤを連想させる痕跡が残っています。


遥かなる古代、北東北にユダヤ人がやってきて、その文化の痕跡をあちこちに残していたとするなら、あるいはねぶた祭りにも、その痕跡を探ることは可能なのかもしれない。



ほんの思いつきです。かなり未整理な部分も多く、ほとんど妄想の域を出ておりませんが、なにかのヒントにはなるかもしれません。



ま、一時のお慰み、暇つぶし程度に読み飛ばし下さい。







真田幸村と伊達政宗ですね。竜虎激突!