<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

セルビアの勢いが止まらない

2016年06月25日 20時40分27秒 | Weblog

うわあああ、とうとう挽回されてしまった。第4セットを取られていよいよ第5セット。フルセット。セルビアの勢いが止まらない。ドキドキドキドキ。6点ビハインド。後がないバレーボール女子日本。勝って欲しいなあ。

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日本女子バレーよガンバレ

2016年06月25日 20時27分20秒 | Weblog

ワールドグランプリ2016をテレビ観戦しています。バレーボール女子日本対セルビア戦。セルビアは前回オリンピック準優勝チーム。いま第4セット目。日本2点リード。接戦です。肝を冷やします。

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われわれは一人残らず人間修行を完成させて行く

2016年06月25日 19時36分16秒 | Weblog

「皆無一不成仏」 かいむいつふじょうぶつ。一として仏に成さざる無し。一人として仏に成さないということがない。      日蓮宗経典「千日尼御返事」より

「一人として仏に成らざる無し」と読んでもよさそうだが、あくまで仏の力によってということになれば、「成さざるなし」と受けた方がいいかもしれない。しかし、力強い宣言である。さぶろうはこれを聞いて顔がほころぶ。

「成る」であれば授けられた仏性によって仏に成っていく。「成す」であれば、まったくの他力によって、仏の慈悲によって、われわれが仏に成っていく。どちらにしてもわれわれのゴールは成仏である。われわれは一人残らず仏陀に成って行くのである。人間修行が完成を見ていくのである。それまでの長短はあっても。われわれはメクラメッポウに、行方も定めずに生きているのではないのである。

この語句の前にはこうある。「法華経に値はずばなにかせん。大悪も歎く事なかれ。一乗を修行せば提婆が跡をもつぎなん」

法華経に遇ったのである。何を恐れることがあろう。たとい大悪を犯していようとそれが成仏の妨げになることはない。あなたは仏陀の教えるこの最高の教えを信じ修行している身。歎きは無用である。あの悪党のダイバダッタですら成仏の保証を約束されたではないか。

(これはさぶろうの解釈文であるから、不正確である)

 

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草取り再開

2016年06月25日 19時13分59秒 | Weblog

僕は夕方麻痺の左足に装具をつけて思い切って外に出た。ロフストランド杖を右手にして。左手には丸椅子を携えて。雨は止んでいた。しばらくゆっくりゆっくり散歩をした。そしてとうとう椅子を移動させながら草取りを始めた。30分ほども続行した。やったあ! である。快感が走った。この男はやはり螻蛄である。土遊びをしていると機嫌がよくなるのである。まっこと田舎者である。

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ここは儚いところだから儚い夢を見る

2016年06月25日 17時18分02秒 | Weblog

あなたに会いたかったのです」それを語るおんなの人をこしらえる。やさしいおんなの人を紙粘土で造る。わたしは創造者。わたしはその人にそれを語らせて一人でよろこんでいる。そして「わたしもあなたに会いたかったのです」と返事を返す。ふたりは意気投合をして腕を組んで歩く。道は浜辺に出る。海の響きが聞こえて来る。日射しがあるのでその人はアンブレラを差す。ついでにわたしもそこに入れてもらう。赤い浜木綿が咲いている。浜木綿がわたしたちを見て挨拶をする。「いいですね」「お似合いです」「仲がいいですね」「あなたたちは相思相愛?」などと口を挟んでくる。わたしはその人の手をわたしの上着のポケットに押し込む。そして握りしめる。

わたしは創造者であって想像者。ただの想像者。イマジネーションの中だけで愛を囁いているに過ぎないけれど、それでいい。それくらいの儚さの中に住んでいてよろこべる。ここはもともとが儚いところ。無常界。朝顔のような一日花。朝に咲いて夕べには枯れる。ここは儚いところだから儚い夢を見て過ごす。わたしは熟知者。現実にすればもっともっと儚くなってしまうことを熟知している。

浜辺が尽きた。さあ、もう帰ろう。わたしは紙粘土を毀して砂浜に埋めてしまう。波が寄せる。紙粘土はひらひらの花片に変わる。1億年の向こうから波が寄せて1億年の先に花片を消してしまう。すべての出来事が沖へ沖へと返って行く。もう何事も残っていない。事実、何事も起こってはいなかったのだ。

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わたしは死後を生きている

2016年06月25日 16時55分15秒 | Weblog

今日、アメーバのわたしのブログ(waoh0888)にも書いたことだが、もう一度書き直してみる。うまく言い得ることができない。

わたしは死後を生きている。此処でそれを生きている。死の前のわたしはちっともそれを知っていない。悲しんでばかりいる。恐れてばかりいる。不安なままでいる。けれどもわたしはそのわたしの死後をここに生きている。わたしはここにいるわたしをどうにかして知らせてあげなくてはならない。でもその方策は分からない。死ぬ前のわたしがそうであったように。でもわたしは此処でこうして生きているのだ。死んだままではいないのだ。新しく生きているのだ。わたしの前世がわたしに繋がっている。消えてしまったように見えていたのだがこの道は大きな道でちゃんと連続していたのである。こんなに明々白々な事実なのにそれを死ぬ前のわたしに納得させられないでいる。怯えたままにさせている。

長さを何処で区切るか。それによって大きくものの見方が変わってしまう。大概はわれわれは一つ人生の誕生から死滅までを見ている。そこまでが長さだと思っている。でも違う。違うのじゃないか。長さを拡大していくことはできるのではないか。100回も1000回も生死を繰り返しているのかもしれない。だったら一度の生き死にはその100分の1,1000分の1でしかない。連続で見るか。単体でみるか。総合で見るか。変化の一つずつで悲しみ喜びを終了させているけれども、変化はたとえば海の満ち引きのようなものではないか。潮が引いたから海が死滅するということはなかったではないか。それを浜辺の貝の殻は死滅に見てしまったのではないか。

わたしは死後を生きている。あの時見ていた空がそこにある。空からは雨が降っている。雨雲が覆っている。地上には小川が流れている。小川の岸辺には葦が生い茂っている。葦の中からは小鳥が飛び立っている。わたしは此処で新しく生きている。

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まるで赤ん坊

2016年06月25日 06時53分32秒 | Weblog

わたしは我が儘です。体内の我が儘細胞が増殖をしていくばかりです。まるで赤ん坊です。駄々を捏ねます。赤ん坊もわたしですが、赤ん坊をあやすお母さんお父さん役もわたしです。お父さんお母さんは「困った困った」を言って顔を見合わせています。「あなたが叱らないからですよ」とお母さんがお父さんを詰ります。「お母さんが甘やかしすぎたんじゃないか」という具合で夫婦喧嘩になります。我が儘が通らないと不機嫌です。腹を立てます。顔が尖ります。必ず人を責めます。礎盤鉢を喰らうので、人が近づきません。いよいよ感情家になります。ぶつくさぶつくさ言わないでいる間には寂しさが襲って来ます。自己蔑視に苛まれます。どこまでも自己本位なのです。相手が自分に合わせていてくれないと我慢がなりません。相手だって自分を立てますから、諍いに発展します。それもつまらないのです。結局は忍耐忍耐を強いられることになります。ストレスになります。体があちこちでストレス障害を起こして、ここでも自己主張をします。胃が痛みます。腸が下痢をします。血糖値が上がります。いきなり低血糖にもなります。ふらふらします。大元の原因はわたしが我が儘だからです。甘えん坊だからです。70年間を生きてまだこの地点です。甘えん坊の蔓草が藪を為して伸び放題になっています。まるでちっとも克服していないのです。

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我が家での一夜が明ける

2016年06月25日 06時35分30秒 | Weblog

おはようございます。我が家の一夜を明かしました。わたしの布団に寝ています。落ち着きます。わたしは古いからベッド人間ではありません。装具を嵌めているときにはロフストランド杖を突いて歩けるのですが、面倒だからついこれを外してしまいます。するともう室内も歩けません。圧を掛けるとずんぐり腫れている足の甲が痛みます。お尻を付けて両手を脚にしてしかトイレにも行けません。で、これも面倒臭いので夜中の排尿は溲瓶を使いました。それから打撲しているところの痛みが蘇ってきています。あちこち打ち付けていたんですね。内出血した痕が黒ずんでいます。触ると叫び声になります。まあ、この分じゃしばらくは安静をしているしかありませんね。我が儘さぶろうが自由を手放して焦っています。ふふふ、胡瓜が勢力を張って隣の梅の木に登り詰め、梢のとっぺんで巻き毛を揺らして「ここまでお出でお出で」をしています。

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