この世には誘いたくなる人、誘いたくならない人がいる。
さぶろうはもちろん後者だ。さぶろうを誘いたいという人はいない。いたためしもない。あきらかに<誘いたくはならない種類>の人間なのである。第一、面白みに欠けている。気難しい。じめついている。男性としての逞しい魅力がない。
でも相手に長所を認めてあげることはできるはずだ。「きみを誘いたい」を口にすれば相手は喜んでくれるだろう。長所を認めて貰えたというところでは。でも、誘いには乗らないということもある。相手にとってはかならずしもそう言って逼ってきた人が「誘われたい人」の領域から外れていることもあるからだ。
「きみを誘いたくない」などと言われたらそりゃ気を悪くするし、失礼なことだろう。だから、こちらも言わないし、言う理由もない。街中の雑踏を歩いていて袖振り合うだけである。誘いたくなる人をも通り過ぎる。
「きみを誘いたくない」は口に出して言われなくともほぼ察しがつく。雰囲気で分かる。だから言われる前にさぶろうは身を退いてしまいことが多い。言われると傷つくので、警戒心が先走っているのだ。狡い。
男性から見た女性。女性から見た男性。どちら側にもそういう人がいるだろう。抱いてみたい人、抱かれてみたい人というのもあるだろう。
同性同士でもそれがある。いっしょに行って楽しい人楽しくない人。話が弾む人弾まない人。気が合う人合わない人。
嫌な人とは不協和音が鳴ってすぐに仲間割れがしてしまう。喧嘩になる。恨む。悪口を言う。貶める。高じると相手の不幸を願ってしまうことにもなる。
誘いたい人はしかしたくさんいればそれだけいいということでもないのかもしれない。八方美人は忙しいだろう。誘われない方がいいということもある。誘われると自分の自由がそれで拘束されるからだ。身動きが取れなくなるのは嫌だ。
でも、誘ってみたい人のジャンルにはいっていたい。それはそう思うだろう。除外されたくはないからだ。無視を人は恐がる。それでしかたなく付き従っているとそれはそれですぐに見抜かれてしまって次からは誘いが来なくなる。
まあまあ難しいことだ。誘ってみたい人には出会いたい。たまさか出会う。こころ浮き浮きしている、こころが毬のように弾んでいる。さあこれから何をして遊ぼう。そこまで。ここで凍結しておく。結果を見ないで原因だけの範囲に留まっている。実践や実行はなし。さぶろうにとってはどうやらそこのところまでがやっとこさの限界のようである。