比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

彩の国の春・・・北本自然観察公園の散歩・・・茂みの中から不意に・・・トラツグミさんが出てきました

2018-02-28 | 生き物大好き 冬・春の野鳥
1ヶ月ぶり、今シーズン2度目の北本自然観察公園の散歩・・・北本市荒井5-250。
北本自然観察公園は荒川河畔の里地里山谷地多をそのまま残し自然の生きものが自然のママに生きられるように環境を整備した公園です。
散歩するのもヨシ、野の花、野の鳥など観察するのもヨシ、みんなが楽しむ公園です。


茂みの中から不意にトラツグミさんが至近の距離に出てきました・・・
※撮影日は2月26日。
今日はルリビタキさんに逢おうときましたが逢えず・・・そのかわりにキジさんやトラツグミさんに逢うことができました。
一期一会・・・今日も自然の中で生かされています・・・今日の日に・・・ありがとう 


謎多き神々の国・・・諏訪・・・謎の造形「万治の石仏」( まんじのせきぶつ)

2018-02-28 | 道祖神・石仏・石神
信州上田の・・・六文銭の写真帳

神話の時代から謎多き国・・・諏訪・・・昨年の春5月、諏訪大社上社からその御神体の守屋山まで尋ねました。伝説の世界・・・よくワカリマセン。
2017年初冬、ふたたびの諏訪・・・諏訪大社下社周辺を尋ねました。

万治の石仏」・・・です。諏訪大社下社春宮から徒歩5分・・・和田峠から流れ落ちる砥川の畔に鎮座しています。
万治とは・・・江戸時代初期の年号(元号)、石仏に「万治三年」(1660年、德川四代将軍家綱の時代)と刻まれていることから。
石材は諏訪地方に多い安山岩(火成岩)。高さ2.6m、横幅3.8m、奥行3.8m、胴回り11.85m、顏高0.65m・・・石仏をイメージするとかなり大きい。
1974年芸術家の岡本太郎が尋ね、その姿を見て感動、雑誌、講演で紹介したことから有名になったようです。諏訪出身の小説家新田次郎が小説「万治の石仏」を発表しています。
石仏を見て想う心(哲学)は人それぞれと思いますので画像に対するキャプションはつけません。

                    
※画像クリックで建立由来の伝説の説明板が。






※撮影は2017年11月28日
※駐車場、トイレは諏訪大社下社春宮で。駐車場から砥川を渡って川沿いに5分。住宅地が近いのでお静かに。


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謎多き神々の国・・・諏訪・・・諏訪大社下社春宮を尋ねる

2018-02-27 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳

神話の時代から謎多き国・・・諏訪・・・昨年の春5月、諏訪大社上社からその御神体の守屋山まで尋ねました。伝説の世界・・・よくワカリマセン。
2017年初冬、ふたたびの諏訪・・・諏訪大社下社周辺を尋ねました。
諏訪大社とひと口に言いますが諏訪大社には上社と下社があり、それぞれ2社、全部で4社、それぞれが同格です(ちなみに諏訪神社系は全国で25000あるそうです)。日本でいちばん古いといわれますが創建年もよくワカリマセン。何しろ裏づける文献が何一つなく、すべては伝説のようです。どうして上下か・・よくワカリマセン。上社は上諏訪に、下社は下諏訪にありますが?

さて下諏訪にある下社春宮です。主祭神は建御名方神の妃の八坂刀売神であるといいますがよくワカリマセン?・・・江戸から中山道(国道142号線)和田峠から下りてきて下諏訪宿の温泉街(江戸時代、中山道、甲州街道合流点)に入るあたり。

諏訪大社下社春宮・・・御手洗川に架かる・・・下乗下馬橋(太鼓橋)。
※梁行1.5間、桁行5.5間、棟高5.35m、1578年、1736年に改修の記録が見られますが造営年は不明。

大鳥居・・・神楽殿幣拝殿の屋根が見えてきます。

神楽殿・・・大きな注連縄・・・1681年-1684年ころ造営。

中央に幣拝殿、左右に片拝殿・・・国の重要文化財。1779年造営。二重楼門造り。
幣拝殿の奥には本殿はありません・・・諏訪大社は造営した本殿を置かない神社です。春宮は奥に杉の大木があり神の依り代・・・御神木とされています。
※幣殿とは幣帛を奉る社殿。拝殿とは拝礼を行なうための社殿。両社が一体となっている幣拝殿、片拝殿が左右につく様式は諏訪神社系に多く見られる。
※画像クリックで説明板。

春宮一之御柱・・・奇祭御柱祭り(県無形民俗文化財)、7年周期(6年に一度)。
※撮影は2017年11月28日
謎多き諏訪国・・・大化の改新で律令国家となった日本、東山道信濃国・・・いまの長野県ですが、諏訪地方はその信濃国から分離して721年諏訪国になります。理由はよくワカリマセン。731年ふたたび信濃国に再編成されるのですが理由はよくワカラナイようです。
天皇を中心にした大和王朝は、中央集権化を進め、地方国家を版図に取り込んでいきます。
出雲地方を治めていた大国主命も天照大御神が進める合併案を承諾(国譲り)したのですがその息子建御名方神は断固反対、天皇の使者建御雷之男神と争い敗れてこの地に逃げ込んだといわれます。古事記に書かれている話ですが日本書紀には書かれていないそうです。
その建御名方神が建てたのが諏訪大社といわれるが・・・縄文時代に遡ってこの土地の守り神が祭神だという説もあり・・・
あれこれ考えると頭が痛くなりました。
さて謎多き神々の国「諏訪」を尋ねています。


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2017中欧の旅・・・ハンガリー・・・ブダペスト紀行の終章は・・・大河ドナウのほとりで・・・ズキンガラス?・・・カササギ?

2018-02-25 | 生き物大好き 夏・秋の野鳥
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

中央アジア・・・ウラル山脈の南麓あたりから移動してきたマジャル人が建国したというハンガリ―・・・
首都ブダペスト・・・世界遺産「ブダペストのドナウ」のほとりで。
大河ドナウ」はドイツの「黒い森」に流れを発しルーマニアの「黒海」に流れを注ぐ。2860㎞、本流10ヶ国(支流を含め流域国17ヶ国)・・・重要な国際河川です。
ハンガリーの首都ブダペストの旅も終り・・・ボンヤリとドナウ川の畔で佇んでいると日本では見馴れない鳥さんがいました。カササギの亜種かと思ったが・・・ネット検索でググってみました。ズキンガラス(頭巾鴉)の写真がいちばん似ているような気がします。両種ともにカラスの仲間です。※いずれにしても悠々たる大河ドナウの流れに比べて見れば、どうでもいいことです。





※撮影日は2017年7月28日。
ズキンガラス・・・スズメ目カラス科カラス属ハシボソガラス種ハシボソガラス亜種、ウラル山脈以西のヨーロッパ全域にみられる。灰色ガラスともいうらしい。
カササギ・・・スズメ目カラス科カササギ属カササギ種、ユーラシア大陸に広く分布。佐賀平野にいるカササギは豊臣秀吉の朝鮮侵攻(慶長の役)の撤退の際に佐賀藩・柳河藩が持ち帰った人為移入鳥だというが、飛鳥時代に中国からの移入説も。北海道苫小牧、室蘭周辺でも観察されているがロシア貨物船のデッキに乗って移入といわれる。いずれも定かではない。


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2017中欧の旅・・・ハンガリー・・・ブダペスト紀行⑬・・・世界遺産「ドナウ河岸」の・・・自由橋界隈

2018-02-24 | 道を行く 海外 中欧・東欧
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

中央アジア・・・ウラル山脈の南麓あたりから移動してきたマジャル人が建国したというハンガリ―・・・
首都ブダペスト・・・世界遺産「ブダペストのドナウ河岸」の風景。
ブダペスト市内、ドナウ川に架かる9本の橋。北から6番目、南から4番目、緑色に塗られた美しい橋・・・「自由橋」です

1894年着工、1896年竣工、1945年ドイツ軍が退却時に爆破。1946年架け替え、長さ333.6m、幅20.1m、オーストリア皇帝・ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフ1世にちなんでフェレンツ・ヨ―ジェフ橋(マジャル語)と名付けられたが、第2次大戦後にヨ―ジェフ公の人気の無さゆえか自由橋に改称された。

※画像クリックで旧フェレンツ・ヨ―ジェフ橋が・・・写真はWikipedia より。



ブダ側・・・橋の袂の南側にホテル・ゲッレールト・・・

ペスト側・・・橋の袂の南側にブダペストコルヴィヌス大学・・・

ペスト側・・・橋の袂の南側。大学の奥にブダペスト中央市場・・・
※撮影日は2017年7月28日 FUJIFIRM X-T10 14~140㎜。



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2017中欧の旅・・・ハンガリー・・・ブダペスト紀行⑫・・・ゲッレールトの丘・・・自由の像

2018-02-23 | 道を行く 海外 中欧・東欧
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

中央アジア・・・ウラル山脈の南麓あたりから移動してきたマジャル人が建国したというハンガリ―・・・
首都ブダペスト・・・ドナウ川の左岸、ペストの街の側からブダ側のゲッレールト山を観ています。

ゲッレールト山(マジャル語でゲッレールト・ヘジでヘジは山。英語表記ではhill、丘と訳される)・・・標高235m、ドナウ川からの比高約150m。
山の名前「ゲッレールト」は11世紀初めの初代ハンガリー国王イシュトヴァーンがキリスト教布教のためにイタリアから招いた伝道師の名前に因んで15世紀につけられた。それ以前はケレン山(9世紀にここに定着したマジャル人ケレン族から)。正式名は「ケレン山」。



ブダペスト市街を一望できる丘・・・19世紀ハンガリーがオーストリアハプスブルグ王国から独立する動きのある時代この山はハプスブルグ王朝の重要な監視塔として、第二次世界大戦ではナチスドイツとソ連軍との攻防戦で、1956年ソ連の事実上支配下にあったハンガリーの内乱で介入したソ連軍の大砲基地として、この山はいつの時代も軍事上の拠点となりました。

山上の「自由の像」 ・・・台座26m、塑像14m・・・シュロの葉をかざした女神像。
第二次世界大戦の1945年、ソ連軍がナチスドイツと激戦の末、勝利し、ハンガリー人民のハンガリー王国からの解放を記念して1947年に建立したもの。
ナチスドイツに加担して枢軸国となったハンガリー王国はナチスの支配下に、ソ連軍の勝利でハンガリー人民共和国になって今度は事実上ソ連の衛星国に、1989年ハンガリー、オーストリア国境の鉄条網撤去、ハンガリーが体制変換するまで続きます。
像の記念碑にはこのようの記名されていたといました。

解放者である ソビエトの英雄達を
記念して 感謝する
ハンガリー人民
           1945年
  
1989年このように改められたという。
ハンガリーの 独立と自由と幸福のために
命を捧げた者達 全てを記念して

※撮影日は2017年7月28日。


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2017中欧の旅・・・ハンガリー・・・ブダペスト紀行⑪・・・世界遺産「ドナウ河岸」の・・・国会議事堂

2018-02-23 | 道を行く 海外 中欧・東欧
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

中央アジア・・・ウラル山脈の南麓あたりから移動してきたマジャル人が建国したというハンガリ―・・・
首都ブダペスト・・・世界遺産「ブダペストのドナウ河岸」の風景。左岸ペスト側のの上流・・・
世界一美しいといわれる「ハンガリー共和国国会議事堂」・・・1904年竣工。

16世紀以来オーストリアハプスブルグ王朝の版図に組み込まれていたハンガリー、1866年ハプスブルグ王朝が普墺戦争に敗戦してからオーストリア帝国に陰りが出て1867年ハンガリーはオーストリア帝国から自治権(軍事、外交を除く)を獲得(体制はオーストリア・ハンガリー帝國)。1873年ブダ、古ブダ、ペストの町が合併して首都ブダペスト市に。1880年国会議事堂建設計画決議、1885年着工、1904年完成。1918年第一次世界大戦に敗れハンガリー人民共和国に。ハプスブルグ家の支配は終るが・・・このあと、第二共和国、王国、人民共和国、共和国にと変遷。









※撮影日は2017年7月28日。
※ネオゴシック様式建築、高さ96mのドームを中心に左右シンメトリー、間口268m、奥行き123m。

※コメント欄閉じています。

2017中欧の旅・・・ハンガリー・・・ブダペスト紀行⑩・・・楽の都・・・ハンガリー国立歌劇場見学ツアー

2018-02-22 | 道を行く 海外 中欧・東欧
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

中央アジア・・・ウラル山脈の南麓あたりから移動してきたマジャル人が建国したというハンガリ―・・・
首都ブダペスト・・・ドナウ川の左岸、世界遺産「アンドラーシ通り」・・・「ハンガリ国立歌劇場(マジャル アーッラミ オペラハーズ)」。
1858年創設、ネオ・ルネサンス様式建築、アンドラーシ伯の要請により着工、1884年こけら落し(建築年が資料により違いがあります?)。客席数約1200。キャパはウイ―ン、ミラノ、パリなどに劣りますが世界一美しいといわれる堂々たるオペラハウスです。

オペラハウスの顏・・・正面玄関(ファサード)・・・日本でいえば歌舞伎座・・・

エントランスホール・・・

舞台…1階の桟敷席・・・

バルコニー・・・エルジューベト王妃も愛したという貴賓席もあります。

天井のシャンデリア・・・

劇場内パフォーマンス・・・オペラ役者熱唱・・・見学者参加パフォーマンス
※撮影日は2017年7月27日。
※「ハンガリー狂詩曲」の作曲者リスト・フェレンツはオーストリア系ハンガリー人、ドイツ語移民系の地域に生まれたためハンガリー語を話せず、活動拠点がドイツであったがハンガリーを愛しハンガリー人としてのアイデンティティを持ち続けたという。「ハンガリー狂詩曲」はハンガリーに住むロマ(ジプシー)の民謡から想を得たといわれている。ブタペストにある音楽大学は1875年リストの尽力によりハンガリー王立音楽院として創設、1925年にリストの名を冠したリスト・フェレンツ音楽専門学校に、2000年リスト・フェレンツ音楽大学に。
ブラームスの「ハンガリア舞曲」・・・ドイツ人のブラームスがハンガリーのロマの民謡から採譜編曲したもの。
※チェコの作曲家マーラーは1888年ハンガリー国立歌劇場の音楽監督を務め「交響曲第一番」を初演。


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埼玉県秩父の谷が生んだ偉大な俳人「金子兜太さん」・・・が亡くなられました。

2018-02-21 | 語り継ぐ責任 あの戦争
埼玉県が生んだ偉大な俳人「金子兜太」(かねことうた)・・・が20日亡くなられました。
2015年7月16日のブログをリライトして・・・哀悼・・・

金子兜太さん・・・金子さんにとって俳人とは「ニンベンに非・・・人に非ず」と母に止められていたそうですが、知らず知らずのうちに入った道のようです。
旧制熊谷中学、旧制水戸高校、旧制東京帝国大学、海軍主計中尉、日本銀行員・・・俳人は裏の顔です(俳人では食っていけませんから)。

●金子兜太・半藤一利対談「今、日本人に知ってもらいたいこと」(㏍ベストセラーズ 2011年刊)
●わが俳句人生 金子兜太「語る兜太」(岩波書店 2014年刊)
●金子兜太「私の骨格 自由人」(NHK出版 2012年刊)の中の文と写真です。

           緑陰に秩父の人の話し声・・・・・・という俳句と釜伏峠あたりの写真が写されています。


金子兜太(1919~2018年)・・・98歳、母の実家の埼玉県比企郡小川町で生まれ幼少期を中国上海、少年期を父の故郷の埼玉県秩父郡皆野町で過ごす。父は開業医で伊昔紅と名乗る俳人、秩父音頭再興の人(美の山公園にブロンズ像が建てられています)。

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
山なみの一と隅明し蚕の眠り

旧制熊谷中学、旧制水戸高校、東京帝国大学繰り上げ卒業、1943年日本銀行入行、3日間で退職、海軍経理学校へ、海軍主計中尉に任官、1944年南太平洋ミクロネシアのトラック島第四海軍施設部に赴任。施設建設のために応募した工員を管理。トラック島は米軍の飛び石作戦の埒外にされたため上陸されることもなかったのですが補給ルートを断たれたため孤島となって終戦を迎えます(米軍にほっとかれた)。そのため食料は自給自足、2年で5回収穫できる薯を栽培、食べられる野草、小動物、昆虫はすべて食べて飢えを凌ぎます。多くの人が餓死と栄養失調、ときどきある機銃掃射で死んで行きます。トラック島にいた兵士50000人のうち30000人以上が戦闘ではなく餓死したといわれます。生き残ったのは「運」だけのようです。やがて敗戦、捕虜として労働、1946年11月最後の引揚げ船に乗って日本に向かいます。島に眠る戦没者の墓碑が船の上の自分を見ているような思いがしたといいます。

海に青雲生き死に言わず生きんとのみ
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

日本銀行復職、旧帝大卒ですからエリートコースに乗れたのでしょうが、当時の日銀の中の組織の閉鎖性に抵抗して、身分給廃止、学閥人事廃止、生活給確保を訴え日本銀行従業員組合初代専従事務局長に。労働協約も作ったそうです。それが影響してか福島、神戸、長崎の支店を回り、最後は日銀本店の巨大金庫の鍵を預かる文字通り金庫番で勤めを終えます。
組合運動に身を投じたのは南の島で非業の死を遂げた戦友、工員たちへの思いだったからでしょうか。

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
人体冷えて東北白い花盛り

死の戦場知らぬ政治家得意顔


金子兜太さんの思い・・・
次世代を生きていくみなさん・・・先人たちが経験した愚かな(砲撃で肉が飛び原爆で焼けただれ南の島で餓死した)戦争を反面教師として正しい歴史認識をしてください・・・
そんな思いが込められていたように思えてなりません。

・秩父人の 魂叫びつづけて 兜太逝く      比企の村びと
・荒川の 魂叫び 兜太逝く             縄文人
・出でては 土に鍬を 取りだんべいなぁ       縄文人




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