比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

コロナ禍戒厳令前の・・・台湾をゆく・・・台湾とは何か・・・歴史から考えた

2020-06-21 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
・・・彩風人の写真帳・・・
コロナ禍戒厳令前の台湾へ・・・乗り鉄旅・・・
2月21日から始まる台湾の旅・・・臺灣高速鐵路に乗って台北から台南、嘉義、そして阿里山へ。最後の乗り鉄は嘉義から台中へ。
2月26日・・・台中からバスで台北へ向かい・・・台湾の旅は終わります。
撮り鉄中心で、そのほかに見たり聞いたり食べたり・・・の旅でしたが・・・「台湾とは何だろう」・・・ということも考えてみました。



台湾・・・人口23540000人、九州ぐらいの面積。16世紀の大航海時代、その海域を通るポルトガルの船乗りたちは、その美しい陸地を見て「イーリャ・フォルモーサ」(美しい島)と叫んだとか。欧米では長い間、通称フォルモサと呼ばれてきました。ちなみにポルトガル人はあちこちでフォルモーサと叫び、世界でフォルモサの名前は十数か所あるそうです。
台湾」の名前はオランダが統治した17世紀に原住民がオランダ人のことを「タイウォーン」(客人)と呼びそれをオランダ人が「オレたちはタイワン人だ」という意味に間違え「タイワン」と呼ぶようになったといわれます。中国の文書に「台湾」とという表記が見られるようになったのは清国統治時代になってからのことです。
政治的には現在の国名は「中華民国」、オリンピック、スポーツ国際競技のときは「チャイニーズタイペイ」という名前で。

台湾原住民・・・いまから6000年前ごろから海洋民族といわれるマレー・ポリネシア人が海を渡って移住してきました。いつの時代にどこの島からというようなことは不明。民族は多様で言語も風習も違い、そのほとんどが混ざり合うことなく近代まで続いてきました。海洋民族は、台湾にとどまらず福建省から、琉球列島、奄美諸島、鹿児島、宮崎、高知、和歌山、静岡、愛知、千葉へと渡ったといわれますが、台湾を除けば、そのいずれの国でも同化してゆき証明するものはありません。
中国では中華思想により彼らのことを東蕃と呼び、日本統治時代に「高砂族」、中華民国統治に入り「高地族」、1980年「原住民」に改めました。
支配されざる民族・・・日本統治時代には支配されることに対しての反日ゲリラ事件がしばしば起こり、かなりきつい制圧を行いますが、教育を均等に行い日本語は共通語として機能し、生活、文化の同化が進みました。
2016年、蔡英文総統が現住民に対しての積年の不平等な扱いについて謝罪しています。

17世紀はじめ中国が明国の時代、対岸の福建省南部の漢人(福佬人)、広東省北部の漢人(客家人)が移住するようになります。1624年にはオランダが城砦を築いて商館、植民活動を行うようになり、支配は1662年まで28年間続きます。労働力としてさらに福佬人、客家人が移住します。

1662年明国の臣といわれる鄭成功がオランダを駆逐して統治をはじめ清国に滅ぼされる1683年までの21年間統治します。清国は1683年から1895年までの212年間を統治、ひたすら貪り、現住民の多くはは支配されることを嫌い山地に居住。

1895年日本と清国との日清戦争の結果、日本清国より台湾を割譲させ、太平洋戦争で敗戦し台湾が連合国の中華民国の領有となるまでの50年間統治、日本は日本の近代化と同時進行のような形で法を定め行政を整え、教育、治山、治水、道路、港湾、鉄道、電気、水道、農業、林業、工業など・・・植民地の統治ですから慈善事業ではなく、より多くの果実を収穫するためですが、インフラの整備を行います。アメとムチの政策ともいわれますが実態はわたしにはワカリマセン。
いまも八田與一が「治水の父」として崇められ、嘉義農林の野球部監督近藤先生が民族を超える教育をしたことが語られ、一巡査が住民の減税を請願して自死し神様として祀られていること、韓国では爆破された総督府は台湾では残され、数々の歴史的建造物は国定史跡として保存されていること、なにかホットしています。

1945年10月25日、台湾は「中華民国」と宣言、この日を「光復節」と呼びます。
中華民国・・・中国共産党との覇権争いに敗れた中華民国政府、実質的には蒋介石率いる国民党一派と国民党軍が海を渡ってきます。この日から台湾に渡った漢人を「外省人」、それ以前から台湾にいた人を本省人と呼ぶようになります。日本国の残したインフラのすべては中華民国政府にそっくり移行するのですが、日本人の残した財産はすべて国民党、国民党要人の財産として接収されていったといわれます。人口的には13%程度ですが軍隊をもって戒厳令を布いて強権政治を行い1947年2月28日には圧政に対する「2.28事件」が起こり死者推定14000~28000人。永久に語り継がれる事件に。戒厳令は1987年解除されるまで40年間以上続きます。その間に投獄されたもの140000人、処刑されたもの3000~4000人と推定されています。

日本の統治が終わり中華民国国民党の統治に・・・台湾本省人は狗去猪来」(犬去って豚来たる)と言ったそうです。
1988年蒋経国総統の死により李登輝が登場したことから民主化がはじまります。1948年から続いた外省人が無選挙で占める立法院は1991年選挙制になります。

日本でも外国でも・・・知らない国を訪れるとき・・・その地の人をリスペクトする心を持ちたい。

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台湾・・・嘉義市・・・映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」・・・嘉義農林野球部の物語り

2020-06-17 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
・・・彩風人の写真帳・・・
台北からはじまる台湾の旅は・・・台南、そして嘉義に。
台湾中西部の中核都市「嘉義市」・・・いまから89年前の1931年、台湾全島を沸かせた大きな物語りがありました。

2014年公開映画(日本公開は2015年) 『KANO 1931海の向こうの甲子園』・・・

日本統治時代の1931年、甲子園の第17回全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)に初出場、準優勝に輝いた台湾州立嘉義農林学校の野球部の球児たちと教練(監督)近藤兵太郎の物語りです。


昭和6年の甲子園の夏、胸に「KANO」のマークの嘉義農林の先発メンバーは・・・日本人3人、中国系台湾人2人、先住台湾人4人からなる民族の壁を越えたチーム。初戦の神奈川商工戦は3-0、次の札幌商業戦は19-7、準決勝の小倉商工10-2と勝ち進み決勝戦へ。中京商業との決勝戦は0-4で破ぶれます、最初は新聞記者の好奇心に満ちた異民族の混成チームであることへの質問を受け、心なき観衆のヤジも浴びますが、日本人メンバーは「自分たちは友だちだ」、近藤教錬は「彼らは同じ球児だ」と答えます。決勝戦ではスタンドから「天下のKANO」の大合唱が沸き起こります.。

嘉義農林の球児たちのゆかりの地を訪ねました・・・



KANOのピッチャーで4番打者、主将・・・アキラと呼ばれた・・・
レジェンド・・・呉明捷・・・のブロンズが
・・・
町の中心部…中央ロータリー噴水池の中心に・・・1時間に1回転…朝から…ライトアップされ夜まで・・・


呉明捷(1911~1983年)・・・中国客家系台湾人、甲子園での全試合を一人で投げぬいた怪腕。早稲田大学に進み、首位打者、本塁打7本は21年ぶりに長嶋茂雄の8本に破られるまで東京六大学本塁打通算記録、卒業後は東京の台湾拓殖で社会人野球選手として活躍、1945年日本の敗戦で引退、台湾に戻らず中華民国国籍のまま日本に残り、毎日新聞記者、文化部長、千葉日報専務を勤めた。

嘉義市内檜意森活村・・・
林業に携った日本人の旧住宅10棟をを復元した公園施設。日本統治時代に戻ったようなテーマパーク。アイスクリームショップなど。



その中の1棟が映画では嘉義農林の野球部教練近藤平太郎の教員宿舎として撮影に使われました。
その後「KANO故事館」として当時のグローブやバット、ボール、ユニホーム、ゆかりの品などが展示されています。

近藤平太郎(1888~1966年)・・・松山商業学校卒、松山商業野球部コーチとして母校を甲子園初出場に導く。1925年嘉義商工学校の簿記教諭として渡台、嘉義商工に野球部がなかったため請われて嘉義農林学校野野球部の指導を行う。1931年正式に野球部総教錬(監督)就任、春夏計5回の甲子園出場に導いた。厳しいスパルタ練習であったが、日本内地人、中国系台湾人、現住台湾人を問わない教育で人材を育て社会におくっている。




嘉義農林の球児たちが汗を流した嘉義公園棒球場・・・・いまは嘉義市立棒球場、大きなスタジアムに・・・改修中。
※撮影日は2月22日。
★ゆかりの地はそのほかに、郊外の国立嘉義大学(嘉義農林の後身)のキャンパス内の庭園には甲子園の大観衆が合唱したという「天下の嘉農」の言葉を刻んだ大きな野球ボールのモニュメント、準優勝の記念碑、和服姿の近藤監督と甲子園の最奥のフェンスに三塁打を放ったという蘇正生選手の銅像が、校史室には嘉納農林野野球の記録、写真が展示してあります。時間で関係で断念。


近藤平太郎監督の言葉・・・『球(たま)は霊(たま)・・・霊(たま)正しからば、また球(たま)正し
★愛媛県松山市坊っちゃんスタジアムにこの言葉を刻んだ近藤平太郎の顕彰碑が2014年建立されている。


★映画の日本公開は2015年、DVD発売、ぜひ見てみたい映画です。


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台湾・・・阿里山登山鐵路の最高海抜駅「祝山」で・・・台湾の最高峰「玉山」サンライズ

2020-06-16 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
・・・彩風人の写真帳・・・

台湾乗り鉄の旅・・・阿里山森林鐵路、またの名は阿里山登山鐵路・・・

阿里山登山鐵路の最高海抜駅「祝山」で・・・台湾の最高峰「玉山」・・・サンライズ.・・・御来光・・・

阿里山鐵路の祝山車站・・・嘉義車站から77.65㎞、標高2451m、ホームは1面1線、引き込み線が4線。沼平車站から祝山車站まで4.95㎞、1984~1986年台湾国民党政府が阿里山山脈、玉山山脈を眺望する観光路線として敷設した唯一の鐵路・・・玉山の御来光を見る専用駅といっても過言ではありません。
御来光観光は玉山に上がる日の出時刻に合わせて阿里山車站から出る列車に乗って(平日は3便、休日は6便)、日の出が終わると阿里山車站への列車が発車します。

祝山車站に到着・・・只今の温度9℃・・・

階段を上がると展望台があります。今日の日の出時刻、阿里山車站行きの列車時刻が・・・

駅から約10分ばかり歩くと小笠原展望台が・・・(1904年日本人技師小笠原清次郎が踏査した地にちなむ)。


台湾でいちばん高い山・・・「玉山」(3952m)。
台湾が日本国の時代、日本で一番高い山でした。「富士は日本一の山」でなくて2番目でした。
ちなみに台湾の領有権が日清戦争により清国から割譲されたとき麓に住む先住民族が呼んでいた「パットンカン(石英の山)」の名を「新高山」と名づけました。明治天皇の命名だといわれています。
1945年、太平洋戦争敗戦により日本が戦争に敗れ中華民国に領有権が移ったときに「玉山」に改められました。
初登頂は1900年日本人の人類学者鳥居隆蔵といわれています。
★朝早く逆光で、玉山の雄姿を見ることができず、写真はWikipediaより。

玉山の左肩にサンライズ・・・玉山はシルエットだけです。

玉山山脈・・・3952mの玉山を主峰として3000m超級の山が22座、台湾中西部に位置し南北に延長180㎞。★阿里山山脈・・・2663mの大塔山を主峰として2000m超級の山が18座、玉山山脈の西側に位置し南北に延長250㎞。★台湾ではほかに雪山山脈、3000m超級の山5座、中央山脈、3000m超級の山12座、海岸山脈、1000級の山・・があり、合わせて五大山脈といいます。


阿里山山脈が明るくなって・・・きました。

阿里山登山鐵路の旅はオワリ・・・嘉義に戻ります。
※撮影日は月24日。


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草原の国モンゴル・・・終章・・・司馬遼太郎と「草原の人ツェベクマさん」との出会いと別れ

2018-11-10 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
終章は・・・
司馬遼太郎が少年の日に夢想した「モンゴル」・・・司馬さんと草原の人ツェベクマさんとの出会い・・・
ツェベクマさんと司馬さんとの別れで・・・司馬さんの人生の完結・・・


司馬遼太郎モンゴルの話しです。
司馬遼太郎は少年の日、夢想の霧の中でモンゴルに憬れたそうです。大阪外語学校モンゴル語学科に進み、学徒動員で戦車学校を経て満州の戦車隊に、敗戦間際に何故か戦車隊は本土の栃木県佐野市に移動、終戦を迎えます。新聞記者を経て作家に、時がたちモンゴルと日本との国交が回復した1972年の翌年の1973年念願だった憧れのモンゴルを訪れます。そのとき通訳、ガイドを務めてくれたのが国営ウランバートルホテルのフロント主任ツェベクマさん。司馬さんは毅然とした態度のツェベクマさんに心惹かれたようです。1週間の旅行です。帰国後、週刊朝日に「街道をゆく モンゴル紀行」を連載。
旅の終りにツェベクマさんは司馬さんの奥さんのみどりさんにトルコ石のペンダントをプレゼントしてくれます。祖母から母に、母からツェベクマさんに伝えられた形見だそうです・・・一番大事なものを・・・です。司馬さんに心惹かれる何かを感じたのでしょう。

17年後の1990年、ツェベクマさんに知人の鯉渕信一さん(モンゴル語学者、モンゴル国立大学教授、亜細亜大学教授)から電話が入ります。「司馬さんが近夏、モンゴルを訪ねて、ツェベクマさんの半生についていろいろ聞きたいとおっしゃっていますが、いかがでしょうか」という内容でした。ソビエト連邦がペレストロイカで崩壊、衛星国のモンゴルに民主化の波が押し寄せているときです。
司馬さんの前で彼女は過ごしてきた人生を語ります。
1924年ソ連邦シベリヤのモンゴル人のブリヤード族の住む村で生まれ3歳のとき、内モンゴルのホロンバイルに移住、満州国時代に少女期、青年期を過ごします。ホロンバイルのハイラルで日本人の高塚シゲ子という先生の私塾で中等教育を受け、この先生との出会いがその後の人生の指針になります。「人に笑われない人間になりなさい」という言葉が高塚先生の教えだったそうです。ホロンバイルで父の知人の白系ロシア人にロシア語を、初等、中等教育で日本語を学びます。1945年日本敗戦、満州国は中国内モンゴル自治区に。内モンゴルの人プリンサインと結婚、ご主人は日本の東京高等師範学校に留学したインテリ。やがて共産党の躍進、「百家争鳴」「文化大革命」「紅衛兵」の嵐が吹きます。ご主人は高学歴、日本留学、日本語ができる・・・などで目の仇にされ吊るし上げの対照になります。ご主人は身の危険を感じてツェベクマさんと一人娘を生れ故郷のシベリアに脱出させ、そのあと投獄されます。ツェベクマさんはシベリアの従弟の家で世話になりモンゴル人民共和国に移動、ここでは短期滞在をくり返し、労働許可書を得て国営ウランバートルホテルに職を得ます。語学に通じていたのが役に立ちました。やがて国籍取得。母子家庭で一人娘を育て上げます。解放されましたがボロボロになったご主人をウランバートルに呼び、最後を看取りますした。
司馬さんの「あなたの人生は」という質問に「希望だけの人生でした」と答えます。
帰国する前日、司馬さんは「日本にぜひいらっしゃい」と誘います。
司馬さんは1991年雑誌「新潮45」に「草原の記」を発表。

1991年月ツェベクマさん、娘イミナさん(モンゴル国立工科大学教授)とご主人(芸術大学学長)、孫のアマルさんの4人は日本の土を踏みます。司馬さんは娘のイミナさんにいいます。
明日の朝、お茶の水駅の聖橋の上を歩きなさい。お父さんの学んだ東京高等師範学校は聖橋の傍にありました。聖橋はお父さんの歩いた道です

ツェベクマさんは後日、鯉渕さんにこう語ったそうです。
もしも司馬先生に今、”あなたの人生は"と訊ねられたら、”実りある人生でした”と答えることができそうです

1996年2月司馬さんが急死。3月10日「司馬さんを送る会」に出席するためツェベクマさんは再度来日します。3月9日、ツェベクマさんは東大阪の司馬邸を訪れました。みどり夫人は玄関から入ってこられるツェベクマさんを見て「ああ、これで司馬さんの人生は完結したなと思った」と語っていたそうです。

星の草原に帰らん」(日本放送出版協会 1999年刊)・・・作家の工藤美代子さんから鯉渕信二さんのところにツェベクマさんが自分史を書いてみたいから手伝ってほしいという話が1997年ごろありました。鯉渕さんは1972年、モンゴルに日本大使館ができるときお手伝いをしていて、そのときからツェベクマさんとの付き合いが始まった間柄です。ツェベクマさんの記述、お話しを鯉渕さんが整理、構成するという形で見事な本に仕上がっています。
ツェベクマさんの人生は、ロシア領ブリヤード族居住地の、満州国内蒙古の、新中国の文化大革命当時の、モンゴル人民共和国の、民主化後のモンゴル国の・・・近代から現代までの歴史と重なって見えます。
満州国時代の多感な少女期、徳のある日本人女性教師との出会いによって人格が形成されました。
そのことで人生のターニングポイントごとに素晴らしい人に会うことができました。
司馬さんとの出会いは3度、合わせて10数日だろうと思います。
4度目の出会いは東大阪の司馬邸の遺影の前でした。

この三冊の本・・・モンゴルを憧憬した「司馬少年のモンゴル三部作」と呼びたい。
・・・草原の国モンゴル・・・終章・・・終り

※ツェベクマさんは2002年「星の草原」に帰っていきました。

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草原の国モンゴル紀行⑳・・・ウランバートル・・・チンギス・ハーン広場で・・・近代から現代へ・・・この国のかたち

2018-11-09 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅・・・首都ウランバートル(赤い英雄)・・・人口130万人(モンゴル国の人口300万人)。

明7月11日はモンゴル夏の祭典「ナーダム」です。
ちなみに7月11日は革命記念日・・・1921年7月11日・・・モンゴルの支配者であった中国の清王朝が辛亥革命で滅亡後、あとを継いだ中華民国軍の進駐、ロシア革命で敗残し流れてきた白軍を人民義勇軍が駆逐してモンゴルが活仏ボクト・ハーンを立てて実質的に独立した日・・・です。

ウランバートルの中心、チンギス・ハーン広場・・・2017年7月10日・・・
モンゴル政府宮殿前でモンゴル国第五代大統領ハルトマーギーン・バトトルガ氏の就任祝賀式です。
2017年7月7日モンゴル国大統領選決戦投票で当選、野党民主党から出馬。モンゴル相撲、サンボ、柔道界で活躍、実業家。






※撮影日は2017年7月10日。

モンゴル国・・・近代から現代へ・・・100年の歴史

モンゴル国・・・12世紀の末までは中央アジアのチュルク高原といわれる草原に小さな部族が群居していました。そのすべての部族を統一したのがモンゴル部族の長テムジン、モンゴルという国家の誕生です。1206年モンゴル帝国の皇帝チンギス・ハーンになります。日本では鎌倉時代の初め。チュルク高原はモンゴル高原に。モンゴル帝国はさらにユーラシ大陸のほとんどを版図にして、中国に元王朝を建国。その元朝は衰退して1368年北モンゴルに撤退、17世紀初頭、中国東北部に住むツングース系の女真族が中国の明王朝を亡ぼして清王朝を1636年建国したとき清王朝の属国に。以後、清王朝が1911年辛亥革命で滅びるまで支配されます。
辛亥革命のあとは中華民国が当然のように権益を継いで軍を侵入させてきます。1917年ロシア革命、赤軍に追われた白軍の将軍が首都クーロンに侵入、中華民国軍を駆逐します。1921年ソ連軍の支援を得たモンゴル人民革命義勇軍を率いたスフバートルがクーロンに入城。白軍を駆逐。

1921年活仏ボクトハン元首の君主制人民共和国建国、ボドー総理大臣、副総理ゲンサン。
1922年クーデター発生、ボドー処刑。
1923年スフバートル急死。
1924年活仏ボクトハン死去。モンゴル人民共和国に。クーロンがウランバートルに改称。ダンサン逮捕、処刑。書記長にゲンデン。
1936年ゲンデン逮捕、書記長アマルに。1937年ゲンデン処刑。
1939年アマル逮捕、処刑、チョイバルサンの独裁体制はじまる。
1952年チョイバルサン死去。
1953年ソ連最高指導者スターリン死去。ソ連第一書記フルシチョフに、スターリン批判、柔軟路線に。
1952年~1984年ツェンデンバルが独裁政治を継ぐ。
1962年チンギス・ハーン生誕800年祭を企画、フルシチョフの逆鱗に触れ挫折。
※革命、独立のあと粛清の嵐が吹きまくります。革命の指導者をはじめ数万人が粛清されました。革命の指導者の中でチョイバルサンだけが残ります。裏で何があったのでしょうか。
1972年日本・モンゴル国交開始。

1980年代ソビエトで雪融け、ペレストロイカ、情報公開はじまる。
1984年ツェンデンバル書記長解任.一党独裁体制緩む。
1990年一党独裁廃棄。複数政党による国家大ホラル選挙。国家大ホラルが大統領選出、一院制国家大ホラルと大統領制に。スターリン像撤去。モンゴル駐在13万人のソ連軍撤退。、
1991年ソ連邦崩壊。
1992年国名をモンゴル国に国名改称。新憲法発布。
2006年チンギス・ハーン建国800年祭。
2012年レーニン像撤去。
※第二の革命です。無血革命でした。

2017モンゴル紀行・・・旅人から見たモンゴルの風景
はこれでオワリです。
モンゴル国を①から⑳にわたって写真とキャプションで綴るブログ紀行を楽しみました。
長々と付き合ってくださった方にお礼申しあげます。

↓の本はキャプションのネタ本です。
★「地球の歩き方」(ダイアモンド社)
★金岡秀郎著「モンゴルは面白い」(トラベルジャーナル 1993年刊)
★堺屋太一「堺屋太一が解くチンギス・ハンの世界」(講談社 2006年刊)
★山元泰正著「大いなるモンゴル」(明石書店 2007年刊)
★井上 靖著「蒼き狼」(新潮文庫 1964年刊
★司馬遼太郎著「街道をゆく モンゴル紀行」(朝日文庫 1978年刊
★司馬遼太郎著「草原の記」(新潮社 1992年刊
★B・ツェベクマ著 鯉渕信一 構成・翻訳「星の草原に帰らん」(日本放送出版協会 1999年刊


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草原の国モンゴル紀行⑲・・・ウランバートル・・・夏の祭典「ナーダム」・・・街角で

2018-11-09 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅・・・首都ウランバートル(赤い英雄)・・・人口130万人(モンゴル国の人口300万人)。
7月11日はモンゴル夏の祭典「ナーダム」。
街角の風景です。

人々は華やかなモンゴル服(デール)で楽しんでいます。

衣装は違うが・・日本人そっくり・・・幼児のお尻の青い斑、ウラルアルタイ語系という言語を祖としています(未解明ですが)。


オジサンもオバサンも楽しんでいます。


※撮影日は2017年7月11日。


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草原の国モンゴル紀行⑱・・・ウランバートル・・・夏の祭典「ナーダム」・・・モンゴル相撲(ブフ)

2018-11-08 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅・・・首都ウランバートル(赤い英雄)・・・

7月11、12、13日はモンゴル国の祝祭日「夏の祭典ナーダム」。
太陽の恵みを受ける夏、太古から大地の神と先祖の霊に捧げるモンゴル高原の民族の祭り・・・2010年ユネスコ無形文化遺産登録。

ちなみに7月11日は革命記念日・・・1921年7月11日・・・モンゴルの支配者であった中国の清王朝が辛亥革命で滅亡後、あとを継いだ中華民国軍の進駐、ロシア革命で敗残し流れてきた白軍を人民義勇軍が駆逐してモンゴルが活仏ボクト・ハーンを立てて実質的に独立した日・・・です。

国家ナーダムでの最高イベント・・・「ブフ」(モンゴル相撲)です。

起源は紀元前3世紀ごろ? やがて宗教的な儀式へと。現代ではブフリーグが発足し企業が力士を抱えプロスポーツ化しつつあるそうです。朝青竜の兄、白鳳の父はモンゴルのブフ力士、蒼国来は中国内モンゴル自治区のジュニア力士。

全国から勝ち上がってきた力士512名・・・トーナメント方式で勝ち上がって優勝するまで9回戦を戦います。


競技場のどこでも取組みがあります。最大16組まで同時にはじまります。
スタジアムで直接観戦、テレビ中継・・・全国で力士たちの闘いを固唾をのんで観ています。

土俵がありません。寄り切り、押出し、吊り出しがありません。手の平をついても負けになりません。投げ技中心の力技になります。

取組み前の儀式・・・鷹のポーズ。


※撮影日は2017年7月11日。


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草原の国モンゴル紀行⑰・・・ウランバートル・・・夏の祭典「ナーダム」・・・競馬

2018-11-07 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅・・・首都ウランバートル(赤い英雄)・・・人口130万人(モンゴル国の人口300万人)。
7月11、12、13日はモンゴル国の祝祭日「夏の祭典ナーダム」。
太陽の恵みを受ける夏、太古から大地の神と先祖の霊に捧げるモンゴル高原の民族の祭り・・・2010年ユネスコ無形文化遺産登録。
ウランバートルで行われる国の祭典とともに各地方の県、郡、市などでも行われる全国的な祭典です。。ナーダムでのメインイベントは相撲、弓射、競馬です。
ちなみに7月11日は革命記念日・・・1921年7月11日・・・モンゴルの支配者であった中国の清王朝が辛亥革命で滅亡後、あとを継いだ中華民国軍の進駐、ロシア革命で敗残し流れてきた白軍を人民義勇軍が駆逐してモンゴルが活仏ボクト・ハーンを立てて実質的に独立した日・・・です。

ナーダム」のメイン競技「競馬」です。スタジアムから離れた大草原で行われます。
競技者は6歳から12歳までの子ども。距離は馬の年齢別に15㎞から30㎞。わたしたちが見ている日本における競馬の距離は日本ダービーで2400m。天皇賞で3200m、ステイーヤーズステークスで3600m、中山大障害で4100mです。モンゴル競馬の距離は桁が違います。陸上競技でいえばスプリント系とマラソン系の違いです。

馬はモンゴル人の体の一部です。



走るとき左右の足が互い違いで出るのがモンゴル馬の特徴のようです。


※撮影日は2017年7月11日。
★モンゴル馬・・・体高125~145㎝(肩まで)、体重350~400kg、現在見られるサラブレッドなどの西洋馬がおよそ体高160㎝。450~500㎏であるからずいぶん小さい。短足胴長、粗食に耐える、X脚、蹄外向き、蹄固く蹄鉄不要、スプリント系ではなく長距離系、側対歩で走る。
★日本の在来馬は古墳時代の4世紀後半から5世紀に中国の漢、朝鮮半島経由で渡来したモンゴル馬がルーツとされます。 伝来の時期については2~3世紀という説もあります。その血を引く現存の在来馬・・・道産子、木曽馬、野間馬、対馬馬、御崎馬、トカラ馬、宮古馬。与那国馬の8種。
★モンゴル帝国時代、馬は機動兵器でした。五万の騎馬隊には五十万の馬を替え馬に連れて行きました。羊、山羊は食料として、牛、ラクダは兵站物資輸送用に連れて行きます。モンゴル帝国の侵略大遠征は遊牧民の移動そのものであったようです。

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草原の国モンゴル紀行⑯・・・ウランバートル・・・夏の祭典「ナーダム」・・・弓射

2018-11-06 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅・・・首都ウランバートル(赤い英雄)・・・人口130万人(モンゴル国の人口300万人)。
7月11、12、13日はモンゴル国の祝祭日「夏の祭典ナーダム」。
太陽の恵みを受ける夏、太古から大地の神と先祖の霊に捧げるモンゴル高原の民族の祭り・・・2010年ユネスコ無形文化遺産登録。
ウランバートルで行われる国の祭典とともに各地方の県、郡、市などでも行われる全国的な祭典です。。ナーダムでのメインイベントは相撲、弓射、競馬です。
ちなみに7月11日は革命記念日・・・1921年7月11日・・・モンゴルの支配者であった中国の清王朝が辛亥革命で滅亡後、あとを継いだ中華民国軍の進駐、ロシア革命で敗残し流れてきた白軍を人民義勇軍が駆逐してモンゴルが活仏ボクト・ハーンを立てて実質的に独立した日・・・です。

ナーダム」のメイン競技「弓射」です。スタジアムから離れた別競技場で行われます。
弓射はユーラシア大陸を制したモンゴル騎馬軍団の伝統的な武器です。
競技方法は成人男子、女子、未成年。団体、男女など、最長75mから・・・




※撮影日は2017年7月11日。
※モンゴル騎馬軍団の弓射、元寇で博多湾に押し寄せたモンゴル船団の上から射られた弓矢の威力に中世の武士は震撼したそうです。弓はヤナギ科の木と牛や鹿の骨を膠で貼りあわせた合板、短弓で機動性に優れ一回の戦闘で50射以上の矢を発したそうです。

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草原の国モンゴル紀行⑮・・・ウランバートル・・・夏の祭典「ナーダム」・・・ゲルの組み立て

2018-11-05 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅・・・首都ウランバートル(赤い英雄)・・・人口130万人(モンゴル国の人口300万人)。
7月11、12、13日はモンゴル国の祝祭日「夏の祭典ナーダム」。
太陽の恵みを受ける夏、太古から大地の神と先祖の霊に捧げるモンゴル高原の民族の祭り・・・2010年ユネスコ無形文化遺産登録。
ウランバートルで行われる国の祭典とともに各地方の県、郡、市などでも行われる全国的な祭典です。。ナーダムでのメインイベントは相撲、弓射、競馬です。
ちなみに7月11日は革命記念日・・・1921年7月11日・・・モンゴルの支配者であった中国の清王朝が辛亥革命で滅亡後、あとを継いだ中華民国軍の進駐、ロシア革命で敗残し流れてきた白軍を人民義勇軍が駆逐してモンゴルが活仏ボクト・ハーンを立てて実質的に独立した日・・・です。

メインスタジアムで・・・いろいろのショーが行われます。
遊牧民族の移動住宅「ゲル」に組立です・・・数人で1時間足らずで完成させます・・・「ゲル」とは「家」のことだそうです。






※撮影日は2017年7月11日。


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