比企の丘

彩の国・・・比企の丘・・・鳩山の村びと
拙ブログの記事のリンク、写真の転用はご自由に。

日本が・・・アメリカに・・・戦艦ミズーリ号で降伏調印した日

2017-09-02 | 語り継ぐ責任・・・あの戦争

2010年9月2日のブログ記事の再掲載です。

9月2日・・・きょうは何の日・・・日本が・・・アメリカに(正しくは連合国に)・・・戦艦ミズーリ号で降伏調印した日

1945年8月14日 太平洋戦争の末期、日本が連合国に対してポツダム宣言(無条件降伏勧告)受諾をスイス政府を通じてアメリカに伝えた日。
8月15日 昭和天皇がラジオ放送を通じて国民にポツダム宣言の受諾つまり無条件降伏を告知した日。
9月2日 昭和天皇は「降伏文書調印に関する詔書」を発し、日本国政府を代表して重光葵外務大臣、梅津美治郎陸軍参謀総長が東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号甲板で降伏の調印を行った。
1952年4月28日 サンフランシスコ平和(講和とも)条約・・・連合国側と日本との戦争状態の終結条約・・・国際法上はこれが終戦。ちなみに沖縄はなお占領状態で日本国に帰属せず、日本国になったのは20年後。沖縄の人はこの日を「屈辱の日」とよんだ。

9月2日 VJ DAY(Victory over Japan Day) ・・・戦勝国アメリカはトルーマン大統領が9月2日の調印式後、ラジオ放送を通じてこの日をVJ Dayにすることを宣言した。
連合国側の対日戦勝記念日は
   フランス、カナダ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドは9月2日。
   英国のみ8月15日。
   ロシアは2010年7月連邦議会で9月2日とすることを可決決定。
   中華人民共和国は9月3日を抗日戦争勝利日、ベトナムは9月2日を国慶節。
   韓国は8月15日を光復節、北朝鮮は8月15日を解放記念日。

勝った!勝った!」という側には戦勝記念日はあるが、「降参・負けた」といった側には「終戦の日」というあいまいな言葉はあるが敗戦記念日がない・・・。

9月2日 降伏調印のためアメリカ戦艦ミズーリ号上に立った日本国全権大使、片足の外交官重光葵はこう言っている。
   「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」・・・


あの戦争の終結・・・むかし歴史の勉強で・・・大化の改新・虫5匹(645年)、鳴くよ鶯‣平安京(794年)、イイ国創る・鎌倉幕府(1192年)・・・なんて覚えさせられたが記憶力が悪いので覚えられなかった(実際には歴史の勉強とは年号をおぼえることではない・・・なぜ・どうしてということを理解し、将来に生かすことだ)。日本国が壊滅的な敗戦国になったのは1945年8月・・・これだけは覚えてもらいたい・・・そしてそれが何故・どうしてという・・・原因・理由を理解してもらいたい。悲惨で愚かで屈辱の歴史(無条件降伏)であり忘れたい歴史であるが二度と繰り返しててはならぬ歴史であり「歴史に学び・・・将来に生かすために」。
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1945年8月15日・・・「終戦」ではなく「敗戦」の日・・・「終戦の詔勅」の対訳

2017-08-15 | 語り継ぐ責任・・・あの戦争

1945年8月15日・・・午前12時、天皇の「終戦の詔勅」のラジオ放送(玉音放送)がありました。
まだ小さい私はド田舎で聞いていました。ラジオの性能が悪かったかのか、雑音しか聞こえず聞こえても何のことかわからなかった?
近所に疎開してきていたオバサンがいて「戦争が終わったんだ」と知らせてくれました。
これで東京に帰れる」と嬉しそうでした。
とにかく戦争が終わったんだ・・・明日からは敵が攻めてこないのだ・・・ということぐらいしかわからなかったです。
父は日中戦争に次ぐ二度目の応召中、兄たちは学徒動員。米軍爆撃機も見たこともないド田舎。農村ですから食い物は自給できました。
東京が空襲で焼け野原になった、沖縄が陥落した、戦艦大和がやられた、広島や長崎に新型爆弾が落とされた・・・なんて知りません。もうじき神風が吹く・・・なんて思っていたかも・・・
小学校には朝鮮半島からの労働兵(強制労働?)駐屯・・・逃亡して捉えられて梁にぶら下げられて竹刀で殴られていたのを窓から覗いて怒られたことを覚えています。
戦争が終わり朝鮮兵たちはいなくなり(朝鮮兵を殴っていた日本兵はそれより早く姿を消したそうです)、天皇陛下の御真影が収められていた奉安殿は壊されました。出征兵士たちが村に帰ってきます。特攻隊帰りもいます。

さて「終戦の詔勅」です。読んでみました。難解な熟語とカタカナの文語体の文章です。ワカリマセン? 教育漢字や当用漢字で育った私には「読めない」「意味がワカラナイ」。当時の大人はみんなわかっていたのだろうか。
いろいろなネタを読んで私なりに対訳してみました。まだ意味がワカリマセン。

大東亜戦争終結の詔書終戦の詔勅)

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
          ※私(朕)は深く世界の大勢と日本の現状を考えたうえで緊急の措置をもって現在の情勢を収めようと思い、ここに忠実・善良なるあなたたち(爾)国民に伝えます
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
          ※私は日本国政府に米・英・中・ソの4国に対してその共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを指示しました。
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
          ※そもそも国民の平穏無事(康寧)を図り世界繁栄の喜びを一つにすることは代々の天皇家の遺してきた手本であり私の常々(拳々)心にとめてきたことです
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
          ※先(曩)に米英二国に宣戦をした理由も日本の自立とアジア各国の安定を願うからであり他国の主権を侵し領土を侵略することは、もともと私の思うことではありませんでした
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス
          ※しかしながら戦争は四年を過ぎ、陸海軍の戦い、官僚の努力、国民の活動、最善を尽くしているが戦況はよくならず、世界の大勢も日本国に有利になっていません
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
          ※そのうえ敵は新しい残虐なる爆弾(原子爆弾)を使用して多くの罪なき非戦闘員をも殺し、その被害の範囲は測ることができないほどです
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
          ※このうえなおも交戦を続ければ、しまいには日本国は滅亡するだけでなく、人類の文明をも破滅させるでしょう
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
          ※そんなことになれば私は多くの国民を守ってき代々の天皇家の対してどう謝罪すればよいのでしょう、以上が政府に対してポツダム宣言を受諾するよう指示した理由です
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
          ※私は日本とともにアジアの解放に協力してくれた友好国々に対して残念だと思う心を表さずにはおられません
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
          ※日本国民として、戦場で斃れた人、職場で殉職した人、天命を全うせず命を失った人々と遺族に思いを寄せれば身も心も引き裂かれる思いです
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
          ※さらに傷を負い被害に遭い家や仕事を失った人々の健康と生活をも深く心配しています
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
          ※これからの日本の受ける苦難の道はたいへんなものだと思います
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
          ※国民の想う心は私もよくわかります。でも私は現状に即して「耐えるところは耐え我慢するところは我慢して」世界の未来のために平和を築いていきたいと思います
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
          ※私は国家国体を守ることができ、忠実・善良な国民の真心を信じ、常に国民と共にあります
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
          ※もし感情の激するままに問題をおこしたり仲間同士を排斥したりして、情勢を悪化したりすれば道を誤り世界から信用を失うことになり、私はしてはいけないことだと思います
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
          ※国が家族のように一つになり国の不滅を信じ責任が重く道は遠いですが総力を将来の建設のために傾け道義を大切にその思いを固く守り国体を奮い立たせ世界の本流から
             遅れないようにしてください

爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
          ※国民の皆さん、これらの私の真意を思い実現してください           

御名御璽
          ※文章ではなく上の写真のように、天皇の署名捺印のこと。

昭和二十年八月十四日

この中でわかったこと。
其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告」・・・ポツダム宣言(無条件降伏を提示)受諾を内閣に指示したということ。無条件降伏とは「負けました」と相手にいうことです。終戦ではありません。ポツダム宣言クリック
★「残虐なる爆弾」・・・広島、長崎に落とされた核兵器のことです。「人類ノ文明ヲモ破却スヘシ」とも書いてあります。その通りです。次に核兵器が使われたとき・・・人類の滅亡です。核シェルターなんて気休めです。
★「非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク」・・・昭和天皇の気持ちだったのでしょうか。非命とは天寿を全うしない人の命。あの戦争で320万人余が太平洋でアジアの国々で大陸で北の大地で・空襲で・・・亡くなったことに思いを馳せればこの言葉の意味がわかってきます。
海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍」・・・鎮魂のメロディーが浮かんできます。

タラ・レバ・・・ですが・・・
ポツダム宣言」日本には7月26日に来ています。そのとき即答していレバ・・・
広島・長崎の原爆も。ソ連軍の8月9日からの中国東北部(旧満州)への進攻も・・・なかったかも?

出版社「理論社」の元社長小宮山量平は長編小説「千曲川四部作」の中でこう書いています。
・・・今更のように惜しまれる命の散華であった。せめてあの東京大空襲以前に《天の声》があったなら、欲を言えば昨秋のレイテ沖海戦の直後に、そして第二次の学徒動員の前後に、「戦争の完遂に関する声明」ではなく「戦争終結の詔勅」の如きものが発せられタラ・・・


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今日は何の日・・・72年前の4月7日・・・日本帝国海軍の戦艦「大和」の最後の日

2017-04-07 | 語り継ぐ責任・・・あの戦争

今日は4月7日、72前の4月7日は・・・太平洋戦争において世界最大の不沈戦艦といわれた日本海軍の戦艦「大和」が鹿児島県薩摩半島の南端の坊の岬から南400kmの海域で米海空軍の機動隊にメッタ打ちにあい沈没した日です。

桜、桜」ト叫ブ声・・・桜、内地ノ桜ヨ、サヨウナラ・・・
吉田満著「戦艦大和の最後」(講談社文芸文庫 1994年刊)より。

俺ト結バレタア奴ノ仕合セハモウ終ッタ、俺ハコレカラ死ニニ行ク。

進歩ノナイ者ハ決シ勝タナイ。負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ・・・

ホトバシル鮮血二・・・ 
撒キ散ラサレタル肉片ハ・・・

徳之島ノ北西二百哩ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス、水深四百三十米
今ナオ埋没スル三千ノ骸、彼ヲ終焉ノ胸中果シテ如何。


吉田満著「戦艦大和の最後」(講談社文芸文庫 1994年刊)より。



1945年4月6日
15時20分・・・戦艦大和「天一号作戦」により徳山沖を出発。
1945年4月7日
6時00分ごろ・・・大隅半島を通過・・・乗組員は陸上に見える桜の花を見て日本に別れを告げたという。
12時34分・・・鹿児島県薩摩半島の南端の坊の岬から南に400km、米軍の艦載機が嵐のように襲いかかってきます。
12時45分・・・1本目の魚雷が左舷に命中・・(最終的には13~14本の魚雷が命中していることが日米各部署の記録により推定される)。
14時10分・・・第2艦隊最高司令長官伊藤整一中将は作戦中止、総員退艦を命令。
14時23分・・・戦艦大和沈没・・・戦死者2740名 生存者269名(276名とも)。 
    
日本側の戦力は戦艦大和、巡洋艦1隻、駆逐艦8隻、米軍の戦力は空母11隻、艦載機386機。
日本側の損害は・・・戦艦大和、巡洋艦1隻、駆逐艦4隻、戦死者合計3700人。
米軍の損害は艦載機10機、死者12人。

天一号作戦」・・・九州方面へのアメリカ海軍機動部隊の来襲を受けて1945年3月20日に大本営により下令され、3月26日に連合艦隊により天一号作戦が発動された(Wikipedia)。

(半藤一利著「あの戦争と日本人」より)・・・戦艦「武蔵」がレイテ沖海戦で沈没した時、日本海軍は事実上、精神的にも壊滅したんですね。
そして残った大和はどうするか。
巨大戦艦の使い道はもうないんだけれど、このまま降伏してアメリカに戦利品としてとられて、ハワイ沖に浮かぶ先勝記念艦として見世物になった、なんていうことになれば、耐えがたい屈辱以外のなにものでもない
・・・
(以下略)。

そこでとられた作戦が天一号、沖縄方面に出撃してアメリカ艦隊と一戦を交える・・・特攻作戦のさきがけ・・・「自殺行」です。燃料は片道だけだったともいわれていますが定かではありません。
戦略も戦術も何もなく精神力も通用しない、作戦というのに値しない戦いでした。

海ゆかば・・・水漬く屍・・・」・・・鎮魂の歌が聞こえてきます。
今なお、坊の岬沖の海中深く英霊たちが・・・


※コメント欄オープンしています。
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今日は何の日・・・75年前の12月8日・・・日本がアメリカと戦争を始めた日

2016-12-08 | 語り継ぐ責任・・・あの戦争

今日は日本がアメリカと戦争を始めた日・・・75年もむかしの出来事です。
歴史」とは「いつ、どこで、だれが、何を、何故・・・どうやってやったのか」(5W1H) ・・・を正しく認識して、それを今日・未来に生かすことです。


何回かブログに掲載しました。できるだけ客観的に起きたことだけ文章にしたつもりです。
過去のブログを一編だけでも読んでいただけたらと思います。

★2015年12月8日のブログです・・・クリック→「1941年12月8日・・・74年前・・・資源のない国が・・・あの戦争をはじめた日
★2014年12月8日のブログです・・・クリック→「今日は何の日・・・今から73年前・・・日本が戦争をはじめた日
★2006年12月8日のブログです・・・クリック→「太平洋戦争開戦・真珠湾攻撃
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新田次郎の奥さん・・・藤原ていさんが亡くなられました

2016-11-22 | 語り継ぐ責任・・・あの戦争


2016年11月15日、小説家故新田次郎さんの奥さんの藤原ていさんが98歳で亡くなられたことが新聞で報じられていました。
2016年8月29日、藤原ていさんのことをブログにしていました。そっくりそのままですが追悼の意味をこめて再掲載します。



満蒙の国から決死の逃避行・・・流れる星は生きている・・・新田次郎の奥さん藤原ていの遺書

いまから71年前の8月は、米軍爆撃機により6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾が落とされ、9日にソ連が旧満州国(現中国東北部)への進攻を開始、15日に日本が連合国側からのポツダム宣言を受諾して無条件降伏・・・日本が戦争に敗れた日。

もう71年も前の8月、日本に原子爆弾が落とされたとか、日本が戦争に敗れたとか、旧満州国とか、中国、東南アジアにいた日本人、満州国にいた日本人の引揚げ、シベリア抑留、中国残留孤児とか、遠いむかしの歴史の話しになりました。知らない人のほうが多いでしょうね。

日本人としてぜひ語り継いでもらいたいあの戦争の話しをカテゴリー「語り継ぐ責任 あの戦争」として取り上げてきました。
今回は、旧満州国でソ連参戦から、連合国への無条件降伏、その直後から日本に帰国までの一人の婦人の手記を紹介します。

その婦人の名は藤原てい・・そのとき27歳。満州国新京市(現長春市)の観象台仁勤めていた技手の藤原寛人(後の作家新田次郎)の奥さん。
8月9日のソ連参戦、その日の夜10時半に日本への引揚げ準備開始、6歳の正弘、3歳の正彦、生後1ヶ月の咲子を連れて10日1時半新京駅集合、10時新京駅出発、12日北朝鮮宣川駅到着、収容所とした農学校に入所。15日天皇陛下の敗戦の詔勅を聞く。17日米ソの同意により朝鮮半島に38度線が引かれ北はソ連仁南はアメリカの支配下に。これにより交通手段が遮断され宣川の日本人は停滞を余儀なくされます。8月18日夫寛人が宣川に、10月28日寛人はソ連軍の捕虜としてふたたび満州に(シベリア行きは免れ中国八路軍の雑役として延吉市で過ごします)。日本人の集団はここでわずかな所持金で約1年間の収容生活を送ります。子どもたちは幼児です。0歳児の咲子さん。噛み砕いた大豆を口移しで与えます。長男の正弘がジフテリアにかかったとき朝鮮人の医師の血清処置で救われます。夫の残したロンジンの時計、売れば300円くらいのものを医師は1000円で買ってくれ医療費にしてくれます。子どもたちを日本に連れて帰るために行商、物乞いもします。それが夫との約束だったからです。目立たないところに食物を捨ててくれる朝鮮人の婦人もいました。
宣川で冬を過ごし春を過ごしまた夏がやって来ます。汽車で平壌経由で38度線近い新幕まで行き、そこから38度線を徒歩で越えて90㎞先の南朝鮮の開城を目指そうという話しが進められます。
1946年8月1日宣川駅発、平壌に。8月3日新幕駅に。
そこから徒歩の旅がはじまります。7歳の正弘。4歳の正彦の手を引っ張って、1歳児の咲子はリュックの中に。山を越え丘を越え川を渡り、咲子には噛み砕いた大豆を口移しに。8月11日開城の避難所に収容され、8月26日釜山港発、9月12日博多港上陸

諏訪の実家にたどりつき、夫寛人も帰国、中央気象台に復職。ていさんは全身衰弱で這いずるまわるような毎日。夫の給料はていさんの治療のためのペニシリン購入費に。死を覚悟して夫や子どもたちへの遺書として満州からの逃避行の経験をノートに書き綴ります。
ようやく体力が回復して普通の生活が見込めるようになったとき遺書として書き綴った2冊のノートを夫に見せます。
俺に預けてくれ」といった藤原寛人の手配によってこの遺書が本になったのは1949年。

    藤原てい流れる星は生きている」(日比谷出版 1949年刊)
        20世紀の日本人から21世紀の日本人への遺言です。
※タイトルは北朝鮮の宣川で1年間を過ごしたとき何かと親切にしてくれた北朝鮮の保安隊の金さんというかたに教えてもらった歌の一節です。南方で日本部隊にいたとき覚えたといいます。この歌を作詞した日本兵も作詞した日本兵も終戦間際に戦死したそうです

        わたしの胸に生きている
        あなたの行った北の空
        ごらんなさいね 今晩も
        泣いて送ったあの空に
        流れる星は生きている


戦争を肯定するのでもなく、否定するのでもなく、旧満州国、旧朝鮮半島という日本の植民地政策を批判するのでもなく、ただ戦争で起った普通の人の苛酷な経験をそのまま書いた手記(小説形式でフィクションも混じっている?)です。

流れる星は生きている」は大ベストセラーになりました。ノンキャリアの気象台の技手の藤原寛人を国民的小説家新田次郎に導いたのもこの書がきっかけでした。
藤原てい(1918年~)・・・長野県諏訪郡湖東村笹原(現茅野市、標高1100m)生まれ。典型的な信州諏訪人。誠実で、気性激しく勝気、ストイック。幼子3人を抱えて無事帰国したのは執念、根性、母である本能。

※併せて読んでほしい本を紹介します。
新田次郎望郷」(文藝春秋 1965年刊)
藤原てい旅路 自伝小説」(読売新聞社 1981年刊)
藤原咲子父への恋文」(山と渓谷社 2001年刊

新田次郎に関するブログクリック


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あの戦争の遺跡・・・信州・・・松代の「大本営」

2016-11-02 | 語り継ぐ責任・・・あの戦争

あの戦争の遺跡シリーズ」として二つのブログを最近ブログアップしました。
あの戦争の遺跡・・・彩の国・・・吉見百穴の・・・軍需工場跡 2016年10月31日
あの戦争の遺跡・・・信州上田・・・仁古田の山中の・・・軍需工場跡 2016年11月1日
いずれも終戦間際に穴を掘った話です。このブログはその続きです。

いまから72年前の1944年11月11日11時、長野県松代町(現長野市」で最初の発破とともに大工事(略号で「マ工事)が着工されました。総工費2億円(今の金で2兆円?。戦艦大和の建造費が1億3000万円ともいわれます)。朝鮮人7000人、日本人3000人、敗戦時までの9ヶ月で延べ300万人の労働力をつぎこみ計画13㎞(2.4㌶)の75%約10kmの地下壕を掘ったそうです。

松代の「大本営」です。大本営とは戦国時代の大本陣と同意語、戦さにおける最高司令官の陣取る場所です。この時代の日本の戦争の最高司令官は天皇。
太平洋戦争が敗色濃厚、皇居の安全も考慮して日本の真ん中に巨大防空壕を築き天皇を守り日本を防衛(本土決戦)しようという作戦でした。

1945年8月15日、日本敗戦、天皇の御座所松代の大本営に遷されることなく終わりました。

その後、松代大本営は長いこと放置されていましたが地元高校の沖縄訪問から沖縄戦研究班が生まれ、やがて戦争史跡としての公開運動が起こり1990年長野市によって公開に至りました。

このブログは2011年5月16日に松代の大本営を訪ねたときのブログ(5月27日アップ)から抜粋、リライトしたものです。

2011年5月16日、公開されている象山壕に入りました(無料)。壕はそのほかに地震観測所に使われている舞鶴山と皆神山があります。


総延長約6km.エプロン姿のボランティア?のご婦人が団体さんにガイドをしていましたのでご一緒させていただきました。淡々とした説明ですがいいお話しでした。当時は圧縮空気による振動式掘削機、ロッドによりあけられた穴にダイナマイトを詰め発破をかける作業が続いたそうです。不発ダイナマイトがあり、これによる事故が多かったといわれます。金槌と鏨による手堀りも同時進行で行いました。
壕を掘りますから掘った岩を外に出すわけです。フォークリフトもパワーシャベルもダンプカーもない時代です。モッコで担ぎ、トロッコを押して、炭鉱のボタ山のようなものが築き上げられます。ズリ山です。敵機に見つかるといけないので学徒・児童が山から木の葉を取ってきて被せたそうです。このズリは戦後、米軍の厚木基地や三沢基地の建設資材に利用されたそうです。


ようやく表に出ます。ホッとする瞬間です。

工事は西松組、鹿島組が請け負い東部軍工兵隊の指揮の下、熱海鉄道教習所、産業報国隊、勤労奉仕隊、学徒、児童の勤労奉仕、それに朝鮮半島からの労働者(7000人とも)です。強制連行労働者といっていいかどうかは解釈の分かれるところですが一応は労働契約がされていたといいます。実態は過酷な労働と発破や落盤による事故、劣悪な食料事情による栄養失調、現場請負の親方のタコ部屋搾取もあったようです。朝鮮人犠牲者の数は1000人とも200人とも300人ともいわれますが確かな数字は終戦時の混乱の中で闇の中に消えました。一方では地元住民との素朴な交流もあり戦後もその交流が続いたそうです。


もう71年もむかしのことです。負けた戦争の不条理さ,役に立ったかわからない巨費を投じたこの未完の設備、そして全国にあった朝鮮人の労働、日本人にとって語りたくない、目をつむりたい、見ないフリをしたいことです。
案内のご婦人(戦争も戦後も知らない世代の人のようです)が最後に誰かの言葉を引用して話されました。
真実に目を瞑るものはほんとうの盲目になる」・・・
わたしたちの先輩が経験した失敗の歴史を次の世代に語り継ぐことがわたしたちの責任です。
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あの戦争の遺跡・・・信州上田・・・仁古田の山中の・・・軍需工場跡

2016-11-01 | 語り継ぐ責任・・・あの戦争

5月16日、信州上田市の県立上田千曲高等学校の一隅にある」「上田飛行場跡碑」を尋ねました。
上田千曲高等学校のグランド入口でしょうか。あの戦争に敗れたときまであった上田飛行場(熊谷陸軍飛行学校上田分教場)の正門跡です。
正門跡の数m左に上田飛行場跡の石碑・・・長文の碑文が刻まれています。


このブログはその続編・・・上田市の西の山中に秘かに造られた軍需工場の話しです。

いまから70年前、太平洋戦争の末期、日本は敗色濃厚、制空権も制海権もアメリカ軍に制圧され、日本本土は連日のように空襲の雨にさらされます。
特に軍需上場の集中する名古屋地区は集中的に空襲の標的になり、さらに1944年12月7日に名古屋地区を襲ったマグニチュード8の東南海大地震により壊滅的な打撃を受けます。特に被害の大きかったのは三菱重工業名古屋航空機製作所本社大江工場、道徳工場、瑞穂工場など。この地震では多数の学徒勤労動員生徒が犠牲になりました。12月13日の大空襲では日本の航空機エンジンの約4割を生産していた三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場が集中的に攻撃されました。
三菱重工業飛行機製作所では第五製作所を上田地区に移転させるべく地下工場建設を1945年6月にはじめました。その名は略号で「ウ工事」。敗戦の2か月前です。工事は朝鮮人労働者4400人、上田・小県地区の勤労奉仕隊が従事。敗戦の日まで50m~100mのトンネルが20数本が掘削されていたといいます。
場所は上田市仁古田東塩田八木沢川辺・・・いまは仁古田の山中に洞窟の跡が戦争遺跡として残されています。

上田市仁古田の三菱重工業飛行機製作所工場跡です。
国道143号線(上田~松本線)仁古田交差点から県道177号線を舞田方面に、道路際に案内板があります。
壕内の崩落が激しく中には入れません。

説明パネルです。

71年前のことです。すでに歴史遺産になりました。わたしたちはこの遺産から何を聞きだせばいいのでしょうか?

※上記2枚の写真は「上田六文銭」さんにお願いして9月21日に撮ってもらいました。
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あの戦争の遺跡・・・彩の国・・・吉見百穴の・・・軍需工場跡

2016-10-31 | 語り継ぐ責任・・・あの戦争

10月24日、埼玉県吉見町の古代人遺跡「吉見の百穴」を尋ねました。
「吉見の百穴」のもう一つの遺跡、いまから71年前の1945年太平洋戦争の末期に作られた「軍需工場中島飛行機大宮製作所の分工場跡」を紹介します。

写真中央の横穴遺跡より少し大きい洞窟がその軍需地下工場入り口です。

見学を許されるのは入口付近のみ。入口は狭いですが中は横幅約3.5m、高さ4.0m。

工事は日本敗戦が決定的な1945年1月からはじまり、朝鮮人労働者約3500人、内地人1000人が従事。
計画は「吉松工事」と呼ばれ、トンネルの総延長8400m、総面積10000坪(約3㌶)。

敗戦1ヶ月前の7月に工作機械が搬入され生産開始、飛行機エンジンの主軸、シリンダーなど各部品が約300個ぐらい生産されていたといいます。
1945年8月15日敗戦、そのとき計画の80%が完成。

場内の説明パネルです。



資源大国アメリカと戦争をはじめた鉄も石油もほとんど生産のない日本、制海権、制空権、すべてを握られ国ごと手当たりしだい空爆にさらされた日本。最後の最後までよくやったというかあがいたというか・・・複雑な思いです。

夏草に覆われた「あの戦争の負の遺跡」です。

71年前のことです。すでに歴史遺産になりました。わたしたちはこの遺産から何を聞きだせばいいのでしょうか?

※この工場の本体であった中島飛行機大宮製作所は戦後に富士重工業大宮製作所となり、いまはイトーヨーカドーを中心とするショッピングセンター「ステラタウン」になっています。
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満蒙の国から決死の逃避行・・・流れる星は生きている・・・新田次郎の奥さん藤原ていの遺書

2016-08-29 | 語り継ぐ責任・・・あの戦争

いまから71年前の8月は、米軍爆撃機により6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾が落とされ、9日にソ連が旧満州国(現中国東北部)への進攻を開始、15日に日本が連合国側からのポツダム宣言を受諾して無条件降伏・・・日本が戦争に敗れた日。

もう71年も前の8月、日本に原子爆弾が落とされたとか、日本が戦争に敗れたとか、旧満州国とか、中国、東南アジアにいた日本人、満州国にいた日本人の引揚げ、シベリア抑留、中国残留孤児とか、遠いむかしの歴史の話しになりました。知らない人のほうが多いでしょうね。

日本人としてぜひ語り継いでもらいたいあの戦争の話しをカテゴリー「語り継ぐ責任 あの戦争」として取り上げてきました。
今回は、旧満州国でソ連参戦から、連合国への無条件降伏、その直後から日本に帰国までの一人の婦人の手記を紹介します。

その婦人の名は藤原てい・・そのとき27歳。満州国新京市(現長春市)の観象台仁勤めていた技手の藤原寛人(後の作家新田次郎)の奥さん。
8月9日のソ連参戦、その日の夜10時半に日本への引揚げ準備開始、6歳の正弘、3歳の正彦、生後1ヶ月の咲子を連れて10日1時半新京駅集合、10時新京駅出発、12日北朝鮮宣川駅到着、収容所とした農学校に入所。15日天皇陛下の敗戦の詔勅を聞く。17日米ソの同意により朝鮮半島に38度線が引かれ北はソ連仁南はアメリカの支配下に。これにより交通手段が遮断され宣川の日本人は停滞を余儀なくされます。8月18日夫寛人が宣川に、10月28日寛人はソ連軍の捕虜としてふたたび満州に(シベリア行きは免れ中国八路軍の雑役として延吉市で過ごします)。日本人の集団はここでわずかな所持金で約1年間の収容生活を送ります。子どもたちは幼児です。0歳児の咲子さん。噛み砕いた大豆を口移しで与えます。長男の正弘がジフテリアにかかったとき朝鮮人の医師の血清処置で救われます。夫の残したロンジンの時計、売れば300円くらいのものを医師は1000円で買ってくれ医療費にしてくれます。子どもたちを日本に連れて帰るために行商、物乞いもします。それが夫との約束だったからです。目立たないところに食物を捨ててくれる朝鮮人の婦人もいました。
宣川で冬を過ごし春を過ごしまた夏がやって来ます。汽車で平壌経由で38度線近い新幕まで行き、そこから38度線を徒歩で越えて90㎞先の南朝鮮の開城を目指そうという話しが進められます。
1946年8月1日宣川駅発、平壌に。8月3日新幕駅に。
そこから徒歩の旅がはじまります。7歳の正弘。4歳の正彦の手を引っ張って、1歳児の咲子はリュックの中に。山を越え丘を越え川を渡り、咲子には噛み砕いた大豆を口移しに。8月11日開城の避難所に収容され、8月26日釜山港発、9月12日博多港上陸

諏訪の実家にたどりつき、夫寛人も帰国、中央気象台に復職。ていさんは全身衰弱で這いずるまわるような毎日。夫の給料はていさんの治療のためのペニシリン購入費に。死を覚悟して夫や子どもたちへの遺書として満州からの逃避行の経験をノートに書き綴ります。
ようやく体力が回復して普通の生活が見込めるようになったとき遺書として書き綴った2冊のノートを夫に見せます。
俺に預けてくれ」といった藤原寛人の手配によってこの遺書が本になったのは1949年。

    藤原てい流れる星は生きている」(日比谷出版 1949年刊)
        20世紀の日本人から21世紀の日本人への遺言です。
※タイトルは北朝鮮の宣川で1年間を過ごしたとき何かと親切にしてくれた北朝鮮の保安隊の金さんというかたに教えてもらった歌の一節です。南方で日本部隊にいたとき覚えたといいます。この歌を作詞した日本兵も作詞した日本兵も終戦間際に戦死したそうです

        わたしの胸に生きている
        あなたの行った北の空
        ごらんなさいね 今晩も
        泣いて送ったあの空に
        流れる星は生きている


戦争を肯定するのでもなく、否定するのでもなく、旧満州国、旧朝鮮半島という日本の植民地政策を批判するのでもなく、ただ戦争で起った普通の人の苛酷な経験をそのまま書いた手記(小説形式でフィクションも混じっている?)です。

流れる星は生きている」は大ベストセラーになりました。ノンキャリアの気象台の技手の藤原寛人を国民的小説家新田次郎に導いたのもこの書がきっかけでした。
藤原てい(1918年~)・・・長野県諏訪郡湖東村笹原(現茅野市、標高1100m)生まれ。典型的な信州諏訪人。誠実で、気性激しく勝気、ストイック。幼子3人を抱えて無事帰国したのは執念、根性、母である本能。

※併せて読んでほしい本を紹介します。
新田次郎望郷」(文藝春秋 1965年刊)
藤原てい旅路 自伝小説」(読売新聞社 1981年刊)
藤原咲子父への恋文」(山と渓谷社 2001年刊

新田次郎に関するブログクリック


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今日は何の日・・・71年前・・・日本が戦争に負けた日(終戦の日ではない)

2016-08-15 | 語り継ぐ責任・・・あの戦争

8月8日、天皇がビデオ・メッセージをつうじて「象徴としての務め」についての気持ちを表明しました。
年齢・体調を考慮しての「生前退位の想い」です。長文のためここに掲載することは割愛しますが推敲を重ねた文章のように思われます。
国民の象徴という立場、皇室典範の改正・・・いろいろ問題があるようですが、一刻も早く天皇の思いを実現してあげたい。
普通の人なら60歳定年退職、年金生活、それが83歳の現在公人としては現役です。



戦なき 
  世を歩みきて 思い出づ
     難き日々を 生きし人々
※天皇が皇太子時代に作られた歌だそうです。
この人、明仁殿下は「いくさ世」から「いくさ無き」時代を過ごした世代の一人・・・「戦争の不条理」を身をもって体験している、ごく普通の人のように思えてなりません。
ここに昭和天皇が敗戦の年の1945年9月9日に、当時11歳であった皇太子(現天皇)に送った手紙を紹介します。
・・・半藤一利著「あの戦争と日本人」(文芸春秋 2010年刊)より。

「手紙を有難う しっかりした精神を持って 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます
 国家は多事であるが 私は元気で居るから安心してください 今度のような決心をしなければならない事情を早く話せば良かったけれど 先生とあまりにもちがったことをいうことになるので ひかえて居ったことを ゆるしてくれ 敗因について一言いわしてくれ
 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである
 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
 明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があったが 今度の時はあたかも第一次大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考えず 進むを知って退くことを知らなかったからです
 戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民を殺さなければならなくなったので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである
 穂積太夫は常識の高い人であるから わからない所あったら きいてくれ
 寒くなるから 心体を大切に勉強なさい」


※この手紙はジャーナリストであり今上天皇の学友である橋本明が発掘したもの。
※この手紙は天皇の皇太子に対する私信であり、公人としてではなく私人として本音を語っていることに瞠目。苦悩が滲み出ています。
穂積太夫・・穂積重遠、東京帝大法学部教授、法学部長、最高裁判事、1945年8月7日から1949年2月まで東宮(明仁皇太子)の東宮太夫兼侍従長、ご学問所総裁、東宮教育係常任参与、父は穂積陳重、明治・大正時代の法学の先駆者。日本最初の法学博士、東京帝大法学部長、母は渋沢栄一の娘歌子。


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