比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

10月12日の台風・・・10月15日越辺川の・・・八幡冠水橋は

2019-11-17 | 冠水橋・潜り橋・渡し場
10月12日の大型台風19号・・・この地区は瞬間風速最大12m、降雨量/h最大23㎜ぐらい、テレビのdボタンでわが村の気象状況を刻々と見ながら夜を過ごしました。さいわいわが住宅地には被害がなかったものの町の南西を流れる越辺川周辺では町の避難指定地に避難した人たちもいました。越辺川に流れ込む小さな支流で増水があり水の様子を見に行ったかたが事故にあわれたと聞いています。
10月15日・・・台風一過の3日後、坂戸市島田地区の越辺川島田冠水橋、それから川島町八幡の八幡冠水橋を見に行ってきました。

八幡冠水橋・・・越辺川左岸の天端の上からの風景です。冠水橋は無事でした。

2㌧以下、幅1.9m以下が車両通行許可です。向こう岸は坂戸市小沼、いまでも現役の生活道路です。
上流側に設けられた流木除けには、大きな木材はありませんが灌木が絡みついています。

冠水橋の下から上流の風景です。上流はコハクチョウの越冬地です。
※撮影日は10月15日。


※コメント欄閉じています。

10月12日の台風・・・10月15日越辺川の島田冠水橋は

2019-10-24 | 冠水橋・潜り橋・渡し場
10月12日の大型台風19号・・・この地区は瞬間風速最大12m、降雨量/h最大23㎜ぐらい、テレビのDボタンでわが村の気象状況を刻々と見ながら夜を過ごしました。さいわいわが住宅地には被害がなかったものの町の南西を流れる越辺川周辺では町の避難指定地に避難した人たちもいました。越辺川に流れ込む小さな支流で増水があり水の様子を見に行ったかたが事故にあわれたと聞いています。

10月15日・・・台風一過の3日後、坂戸市島田地区と東松山市宮鼻地区をつなぐ越辺川島田冠水橋の様子を見に行ってきました。
越辺川右岸、島田地区の天端の上からの風景です。冠水橋は無事でした。増水は天端の数m下まで押し寄せたです。

冠水橋の上流側につけられた流木除け、流れてきた柳の枝が引っかかっています。

この地点から数㎞下流、越辺川と九十九川、都幾川の合流点(東松山市正代地区、早俣地区、あずま町・・・大規模商業施設)が大きな範囲で浸水しました。

坂戸市島田地区の堤防下・・・水神様、馬頭観音、庚申塔があります。
※撮影日は2019年10月15日。
参考》2014年6月の長雨で破壊された島田冠水橋。
※撮影日は2014年6月16日。
島田冠水橋・・・全長77m、巾2.6m、車幅1.8mまで可、車重制限1.5t。
完全な木の橋に見えますが桁行だけH鋼が使われているようです。国道407号線高坂橋から600m下流、高坂橋がいつ完成したのかわかりませんが、完成するまではこの橋が使われていたのでしょう。時代劇のロケーションによく使われましたが、実際はむかしは橋などなく、大正時代までは「島田の渡し」だったそうです。
ここは日光街道(八王子千人同心街道とも)、川越・松山を結ぶ往還道(片柳街道)など・・・交通の要衝。石井下宿、橋を渡ると西元宿という地名が残っています。


※コメント欄オープン。

越辺川の冠水橋・・・赤尾落合橋と長楽落合橋の今

2015-07-08 | 冠水橋・潜り橋・渡し場
7月5日、越辺川に架かる島田橋の復旧の様子を見に行きました。そしてその下流にある赤尾落合橋長楽(ながらく)落合橋を探索。
赤尾落合橋は坂戸市赤尾と東松山市正代(越辺川と都幾川の合流点)をつなぐ木造冠水橋。長楽落合橋は東松山市正代と川島町長楽をつなぐ木造冠水橋。
落合とは川と川の合流点、川俣とか出合とかいろいろな地名があるようです。

坂戸市赤尾集落の堤防の上から赤尾落合橋を見ています。
上流の島田冠水橋は復旧しましたが、ここは廃橋になったようです。

もとは生活道路(市道?)でしたが、いまはクローズに。
(撮影日は2015年7月5日)

2014年6月撮影の赤尾落合橋です。


2009年10月16日の赤尾落合橋。         2009年10月16日の長楽落合橋

冠水橋・・・埼玉県の荒川水系のみでいう土木用語らしい。河川の低水域を河川敷内で跨ぐ橋。最近は四国四万十川流域に架かる橋がその土地で沈下橋と呼ばれ観光として目玉になっているため普通名詞として定着化しつつあるようですが、地域により潜水橋、沈下橋、潜り橋などと呼ばれていました。統一した呼称は無かったようです。
越辺川の冠水橋・・・最近は島田橋、赤尾落合橋、八幡橋だけになっていましたが、いまは島田橋、八幡橋のみに。越辺川にコンクリート橋が架橋されるようになったのは最近50年間のこと。1960年代は冠水橋は珍しいものではありませんでした。
車社会になり大型トラックによる流通が主流になり一般家庭の移動手段も車中心になり、無用の長物のようになりましたが、橋は人と物の流れを作る道の一部、飛び石橋、丸木橋、流れ板橋、船橋、渡し船、冠水橋と歴史が流れています。遺しておきたい歴史的土木建築遺産です。
赤尾という地名・・・赤羽とか赤坂とか関東ローム土の色による地名もありますが鉄分を含んだ赤い土からの地名由来もあります。この集落には金山彦神社があります。縁起書はないようですが金工集団の神様のようです。川を渡った東松山市正代(しょうだい)にはむかし小代(しょうだい)鋳物師集団がいたそうです。川島町大字長楽に金山という小字があったそうですがいまでは地図から消えています。




昨年6月の豪雨で流失した・・・越辺川の・・・島田冠水橋が復旧

2015-07-07 | 冠水橋・潜り橋・渡し場
昨年の6月、梅雨が長く続き増水した越辺川、坂戸市島田東松山市宮鼻をつなぐ島田橋が流失、今年の5月、復旧していました。

復旧の開通式は5月28日。長さ77m、幅3m。

重量1.5㌧、車輌幅1.8mの制限。



前回の設置は1995年、流失は2014年、木橋は腐食することから耐用年数は15年程度と想定されているが20年近く流失を免れていました。付け替え工事は国の河川災害の復旧の適用を受け、国の補助金、坂戸市、東松山市の負担金で施工されました。

2014年6月16日ブログ掲載、長い梅雨の増水で流された島田冠水橋

2007年9月8日ブログ掲載島田冠水橋です。


島田冠水橋・・・全長77m、幅3m、車幅1.8mまで可、車重制限1.5t。
完全な木の橋に見えますが桁行だけH鋼が使われているようです。国道407号線高坂橋から600m下流、高坂橋がいつ完成したのかわかりませんが、完成するまではこの橋が使われていたのでしょう。時代劇のロケーションによく使われましたが、実際はむかしは橋などなく、大正時代までは「島田の渡し」だったそうです。
ここは日光街道(八王子千人同心街道とも)、川越・松山を結ぶ往還道(片柳街道)など結ばれる追分・・・交通の要衝。石井下宿、橋を渡ると西元宿という地名が残っています。島田はその二つの宿に挟まれた臨時宿場・・・間の宿といわれたようです。

比企の川を跨ぐ木造冠水橋・・・島田橋・赤尾落合橋・長楽落合橋の風景

2014-10-19 | 冠水橋・潜り橋・渡し場
比企の郷、越辺川・都幾川、いまも低水位の川を跨ぐ冠水橋があります。関東の川のほとんどは大正明治年代から昭和のはじめまで舟による渡しでした。、やがて幹線道路は高水位まで跨ぐコンクリートの永久橋が造られ生活道路は木造の冠水橋にかわっていきました。その木造冠水橋も橋脚はコンクリートとか鉄骨にかわり、時代とともにコンクリートの永久橋にかわっていきます。
さて、わたしの家からさほど遠くない越辺川の島田橋、赤尾落合橋とそれにつながる都幾川の長楽落合橋・・・木造の冠水橋でした。
今日はその木造冠水橋の今むかしの風景を紹介します。

2014年10月8日・・・台風18号通過後の島田橋の様子です。
6月の長雨で損壊した島田橋のままです。左岸に打ち上げられた橋桁は撤去されています。

2014年6月16日ブログ掲載、長雨で流れた島田橋です。

2007年9月6日ブログ掲載の島田橋です。

島田橋が架けられたのは明治時代の初期ではないかといわれています。それまでは島田の渡しでした。
川越児玉往還、八王子千人同心街道の要衝です。1920年上流に高坂橋が掛けられるとその役目を終えて、周辺住民の生活道路になります。

2014年10月8日の赤尾落合橋・長楽落合橋の様子です。
手前が赤尾落合橋、向こうの白い看板のあたりが長楽落合橋なんですが、いまはどちらも見る影もありません。。

2009年10月16日ブログ掲載赤尾落合橋です。

2009年10月16日ブログ掲載の長楽落合橋です。

時代が変われば橋の様相も変わる。島田橋は再築の予定はあるようですが生活道路の役割は終えているようです。赤尾落合橋、長楽落合橋は2009年の損壊以来再築の動きはないようです。

ちなみに・・・島田は越辺川右岸の坂戸市の集落名、赤尾は越辺川右岸の坂戸市の集落名、長楽は都幾川左岸の川島町の集落名、落合は2つの川の合流点であることから。

《どうでもいいことだが》冠水橋という言葉は埼玉県(荒川水系)のみの固有の呼称のようです。土木用語では潜水橋。各地で呼称が違います。最近は沈下橋が一般用語のようになりつつありますが(Wikipediaの記載もそう)、沈下橋は四国の四万十川のみの固有の呼称です。潜没橋(京都)、流れ橋(京都、岡山)、沈み橋(九州)、潜流橋、潜り橋、などなど・・・。時代劇の殺陣シーンでお馴染みの京都の木津川に架かる上津谷橋は1953年渡船場廃止の代替で架けられたもの。チョンマゲの時代には木造潜水橋はなかったのではないかと思います。

梅雨の大雨・増水で・・・島田冠水橋が流れる

2014-06-16 | 冠水橋・潜り橋・渡し場
梅雨の長雨が続いて川が増水しています。
数日前の新聞の埼玉版に坂戸市と東松山市のあいだを流れる越辺川の島田冠水橋が流失したことを伝えていました。

坂戸市島田の堤防の上から見た島田冠水橋。

木製の橋脚は残っています。

対岸で少年が記念撮影?をしている。

鉄骨の橋台が左岸・右岸ともに基礎からえぐられています。

流された橋桁は向こう岸に乗り上げたようです。

島田冠水橋・・・全長77m、巾2.6m、車幅1.8mまで可、車重制限1.5t。
完全な木の橋に見えますが桁行だけH鋼が使われているようです。国道407号線高坂橋から600m下流、高坂橋がいつ完成したのかわかりませんが、完成するまではこの橋が使われていたのでしょう。時代劇のロケーションによく使われましたが、実際はむかしは橋などなく、大正時代までは「島田の渡し」だったそうです。
ここは日光街道(八王子千人同心街道とも)、川越・松山を結ぶ往還道(片柳街道)など・・・交通の要衝。石井下宿、橋を渡ると西元宿という地名が残っています。

越辺川の右岸、島田集落、堤防際の石仏群・・・観世音菩薩、地蔵尊、馬頭観音、水神様など。
 

《参考》
2007年9月8日のブログ→クリック→台風一過・・越辺川・・島田冠水橋

《リンク》
6月11日のブログにこんなのがあった→クリック→時代劇のロケ地 ”島田橋” が流失

武蔵国・・・嵐山渓谷・・・を久しぶりに歩いた

2013-07-05 | 冠水橋・潜り橋・渡し場
武蔵の国の嵐山渓谷・・・大平山の山麓を歩いています。
渓谷の中に塩沢冠水橋が見えてきました。

橋の路面にはこの地方ではよく見る緑泥片岩がタイル状に貼られています。
欄干はありませんが木目調の地覆があります。

都幾川の支流・・・槻川・・・キレイな水の流れです。「嵐山渓谷」という京都の嵐山モドキの名前がついています。





大平山の裏側の駐車場まで、もと来た道を引き返します。

塩沢冠水橋・・・長さ37m、コンクリート造りの沈下橋です。

嵐山渓谷・・・昭和3年(1928年)この地を訪れた本多静六博士(近代造林学、造園学の父、日比谷公園、大沼、卯辰山、羊山、大壕公園などを手がけた)が渓谷の美を絶賛して「武蔵の国の嵐山なり」と叫んだことからとか。






秋の巾着田で・・・新ドレミファ橋を見た

2010-12-01 | 冠水橋・潜り橋・渡し場
11月28日、巾着田の中をブラリ歩き。日曜日ですが人影はわずか。バーベキューの家族が数組・・・散歩する人が数人、ハイキングの人が数組。高麗川の河原(低水敷)に中を歩いていたら見慣れない冠水橋がありました。ヒガンバナの咲くころに合わせて造った流れ板橋のようです。橋の上からの上流の風景です。

きれいな景色です・・・人工物がないからです。左は武蔵台地の水食崖(バケ)。

もとはドレミファ橋という石橋があったところです。
左が新しい流れ板橋、右がむかしのドレミファ橋(飛び石橋とも)。

むかしのドレミファ橋・・・写真右で見るようにコンクリートの円柱を飛び石のように並べ、それを鍵盤に見立ててドレミファ橋といったようです。水位が上がると水面下に潜るので潜り橋、沈下橋ともいわれます。奈良の明日香に万葉にも歌われた飛鳥川石橋が、京都の賀茂川と高野川の合流点に飛び石橋あるそうです。調べてみたらこの近くの飯能市の入間川の吾妻峡に飛び石橋(跳ね石橋)がありました。新ドレミファ橋・・・ドレミファ橋という標識がありましたが名前にはマッチしないですね。コンクリートの円柱を並べたのは同じですがその上にスパーンごとに短い板を渡して板の片側と円柱とをワイヤーロープで繋いであります。水位が上がると板が浮き上がり流れには乗るがワイヤートープで繫がっているので流れないという仕組み。水位が下がると板を人力で元に戻します。むかしからある流れ橋の原理です。違うかな?固定してあるのかもしれない。都幾川のほうにはいくつか流れ橋がありますがもっと原始的で単純です。メンテナンスのことが気になります。飛び石橋は台石が壊れないかぎりメンテナンス不要でしょう。流れ橋は木の板とワイヤーロープ、連結部分の鉄材がどのくらい耐久力があるのでしょうね。少なくとも飛び石によけいなものがついてるわけですから、その部分だけよけいにお金もかかっていますし、その部分が消耗します渡るとき幼い子どもや老人が危ないって・・・どちらも同じようなものです。むかしのドレミファ橋とか全国の沈下橋、冠水橋でどのくらいそのために事故があったのでしょうか。ヨソモノですから、いいとか悪いとかいえません。面白いものを見ました。むかしといまを比較して・・・う~ん・・・むかしのドレミファ橋の写真を見ると何となノスタルジックで・・・ネットではむかしのドレミファ橋を懐旧する声が多いです。
《参考》左が飛鳥川の石橋、右が京都の飛び石橋。

武州小川町・・・かたくりの里の・・・流れ橋

2010-03-26 | 冠水橋・潜り橋・渡し場
小川町のかたくりの里に行ってきました。小川町道の駅・埼玉県立伝統工芸館に車から槻川の畔に。

流れ橋・・・左岸、下流から見た。名前はないようだ。
この橋を渡るとカタクリ、ニリンソウの自生する仙元山の麓です。
右岸の台座は自然石の野面積にコンクリートで補強。左岸は自然石にコンクリート補強。


厚い板が2枚、鉄枠で締めてあります。厚さは三寸か、その倍かもしれない。

右岸から見た。2枚の板はそれぞれワイヤーで左の大木に繋がれています。大雨で増水すれば浮き上るがワイヤーで流失しない仕組み。水が引けばふたたびヨイコラショと元に戻せばいいのです。考えましたね。村びとたちの山仕事のための道だったのでしょうか。


落っこちても自己責任です。

流れ橋の100mくらい上流、右岸にコンクリート製らしき台座が?むかしの流れ橋の跡かな。

かたくり山はカタクリが満開です・・・それは次回に。

都幾川の冠水橋・・・稲荷橋の風景

2009-10-17 | 冠水橋・潜り橋・渡し場
越辺川と都幾川にかかるダブル落合橋を見てから都幾川の稲荷冠水橋にやってきました。
歩く健康法のためですが・・・河川敷を歩けば何かが落ちている・・・

高坂駅方面、東松山橋から県道41号線、関越高速道をくぐってさらに西へ、都幾川の堤防上の道から川に向かいます。都幾川の右岸は東松山市高本地籍、左岸は下唐子地籍。写真は左岸から。

稲荷橋の上流側に東松山市上水道送配水管橋。その向こうの低い橋が稲荷冠水橋。

全長70m弱、幅2.7m、1955年竣工の埼玉県初のコンクリート製冠水橋。四万十川の沈下橋もそのころできたものが多いのだそうです。四万十川の風物詩・・・沈下橋も50年くらいの歴史なんですね。
四万十川では沈下橋、埼玉県では冠水橋、呼び名が違います。

橋の上を車が通っています。欄干はありません。コワイ
橋脚も橋面もアール(曲線)がついています。水に対して抵抗を少なくしてる?

下流から見た稲荷橋。山の麓に見える集落にお稲荷様があることから橋の名前が。

向こうに見える山は米山、岩殿、物見山の比企丘陵、比高70m~100m。川の作った沖積地が豊かな水田地帯になっています。葛袋、神戸(ごうど)の集落が続きます。交通量は非常に多いです。普通の橋と変わりません。

欄干の端に反射板がついているのは夜間通行用か。 夜に通るには勇気が要る

むかし子どもたちが自転車で、片道10km近い道を、この橋を渡って東松山市民プールに行きました。市民プールはいつの間にか財政難で廃止になってたようです。

河川敷の中を胡桃の木を探してキョロキョロしながら散歩。フライフィッシングしてる人がいます。カッコいい 

フライフィッシングというと、
映画「リバー・ランズ・スルー・イット」(1992年公開)
・・・映画ポスター。
甘いマスクのブラッド・ピットという俳優が大自然の中でキャスティングするシーンを思い出した。筋は覚えていません