比企の丘

彩の国・・・比企の丘・・・鳩山の村びと
拙ブログの記事のリンク、写真の転用はご自由に。

愛知県奥三河・・・足助の香嵐渓の紅葉を・・・物見遊山

2015-12-15 | 道をゆく 東海・中日本


11月30日、うちのオバサンが仲間と愛知県豊田市足助町の香嵐渓まで紅葉狩りの物見遊山に行ってきました(○○ツリツアーだ)。

愛知県奥三河の足助、矢作川の支流巴川の渓谷の香嵐渓です。
赤い橋は香嵐渓のシンボル待月橋・・・

香嵐渓のモミジは1634年この地の香積寺参道に住職がカエデ、モミジなどを植えたのが始まり。そのご住民の手により植え足され現在は4000本といわれます。
香嵐渓という名前は1930年にこの地を訪れた大阪毎日新聞の社長に足助町長、香積寺住職が命名を依頼して、つけられた名前とか。

紅葉がミゴトです・・・香嵐渓は愛知県奥三河を代表する景勝地です。

足助町の銘菓、両口屋の「中馬柿」(干し柿の中に栗きんとんを詰めたもの)。

足助町・・・江戸時代から矢作川、巴川、松平からの足助街道(現県道39号)、信州に通じる伊那街道(現国道153号)のつなぎ目の町、海辺部と内陸部との商品流通の中継点として問屋が群居して栄えた古い歴史ある町です。2005年に豊田市に合併。
※この街を起点として信州飯田方面に通じる道を古くは信州道、善光寺道、伊那街道、飯田街道(信州方面からは三州街道)と呼びました。別名を中馬と呼ばれる長距離輸送の馬の発着場だったので中馬街道、近代になってからはシルクロード(絹の道)にあやかって塩の道とも呼ばれています。
※銘菓「中馬柿」は塩を運ぶ中馬のターミナルに因んでつけられたのでしょうか。

参考⇒クリック⇒2010年10月30日のブログ「奥三河・足助町・・・塩の道・・・中馬の道
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世界遺産・・・五箇山・白川郷の・・・旅の終わりは・・・飛騨高山

2014-10-05 | 道をゆく 東海・中日本
9月15日、越中五箇山、飛騨白川郷の世界遺産「合掌造りの集落」を尋ねる旅を終えて宿泊地飛騨高山に。ホテルは駅近く。
飛騨高山・・・3度目の訪問です。今回は少し散歩して、メシ食って寝る・・・という予定。高山陣屋前、宮川沿いの朝市にも行かない。

夕飯前にまず散歩。高山駅前からブラブラ歩いているとこんな店が・・・だがし音羽屋(高山市有楽町)。

これが飛騨高山というミステリーゾーン・・・上一之町から三之町、下一之町から三之町。

近世の城下町の中に入ったよう不思議な空間・・・→クリック2010年10月15日のブログ「上三之町の朝

高山市内を南北に流れる宮川(神通川))に流れこむ江名子川という小さな堀割りみたいなところの畔に建つむかしの豪商の館
重要文化財日下部民芸館・・・飛騨の匠の集団の集大成のような木造建築です・・・→クリック2010年10月16日のブログ「豪商の館
※カメラは Panasoni LUMIX DMC TZ-40

高山に限らず地方の夜の閉まりは早い。ウロウロしてると夕飯にありつけません。散歩のはじまりで駅前の居酒屋に決めておいた。
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世界遺産・・・奥飛騨・・・合掌造りの・・・白川郷を俯瞰した

2014-10-02 | 道をゆく 東海・中日本
9月15日、荻町城址から白川郷荻町集落を俯瞰しています。
世界遺産「合掌造り集落」を尋ねる旅、越中五箇山の相倉集落、菅沼集落を尋ね、庄川沿いに白川郷荻町集落にやってきました。ところが国道156号線と萩町集落に入る旧道との分岐点のあたり、渋滞が2㎞ばかり続いて動きません。やむをえず展望台のある荻城址まで車を走らせ、白川郷は展望台俯瞰だけになりました。

どう見ても誰が写しても観光写真でお馴染みの白川郷です。








※Panasonic LUMIX DMC-GH2 14~1400mm。

2001年8月に訪れたときの白川郷展望台荻町城址からのイラストです。
あのころはデジタルカメラなんて持って旅することはなかった。
イラストってイイなあと思う(ヘタでもオンリーワンだから)。

荻城・・・戦国時代の15世紀、白川郷保木脇の帰雲城主内ヶ島氏の家臣山下氏の居城・・・だったそうな。

※俯瞰して見てなるほどと思うことがある。Ⅴ字谷の続く庄川、わずかではあるが荻町は沖積地になっていて、その谷の方向は南北。平坦地の荻集落の合掌造りの建屋はすべて、切妻の方向は谷に沿った南北に、棟に平行な茅葺き屋根は東西を向いています。谷に沿って吹き抜ける風を切妻の部分で受け建屋内に入れて温度調節、東から上がって西に落ちる太陽は東西を向いた茅葺き屋根を照らし雪を溶かす、先人の知恵ですかな。
※荻集落に入り合掌造りをまじかに見ることを諦め、引き返して道の駅で食事します。
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怒る富士・・・神様になった関東郡代・・・伊奈忠順

2012-08-23 | 道をゆく 東海・中日本

8月21日、富士五合目から山を下り籠坂トンネルを抜けて静岡県小山町須走に。
須走(すばしり)から見た霊峰富士です。
火山砂礫(スコリア)の傾斜地・・・砂走り・・・が中腹に見えます。

須走の中心街の北側の裏通り、徳川家康江戸入府以来の関東郡代7代目伊奈忠順(ただのぶ)を祀った伊奈神社です。
いまから400年くらい前の生身の人間、しかも体制側の人を神に祀り上げて民衆側の人々が作った神社です。

話は「宝永の大噴火」からはじまります。1707年12月16日、富士山の東南斜面で大噴火が起り終焉したのは12月31日、降砂は須走あたりで3m50cmを越え、駿河国の小山、御殿場、相模国の山北地区で1~2m、江戸市中で5~10cmを記録したといいます。
このときの幕府側の災害対策総責任者が関東郡代伊奈忠順、農民のために救済、復旧に全力をつくし体制側と農民側の板ばさみになり割腹。農民たちは体制側を慮り目だたぬように村々に小祠をたて暗夜ひそかにお参りしたといいます。幕末になり小祠がまとめられ、ようやく明治の1907年に須走に伊奈神社を建立、1979年現在の地に再建。

非体制側の人々が体制側の人を神様にしたのは熊本県天草にある天草代官鈴木重成鈴木神社、薩摩家老平田靫負と薩摩藩士84名を祭神とする岐阜県海津市にある治水神社とここ。いずれの祭神も割腹という最後を遂げています。

伊奈神社の一隅に立つ伊奈忠順の彫像です。「御厨の父 伊奈半左衛門忠順公之像」と書いてあります。
御厨とは・・・中世平安時代における皇室、有力神社の荘園、いまも地名で残る。御殿場、小山地区は中世は御厨荘園だった。

新田次郎著怒る富士」(文春文庫1980年刊)
1972年静岡新聞に連載。1974年文芸春秋社で単行本。1980年文春文庫で文庫化。2007年新装版発刊。
新田次郎(19012~1980年)・・・気象庁職員から作家に。「怒る富士」は中央気象台富士測光所に勤務した青年期、地元の職員に聞かされた話を暖めて60歳にとき発表したもの。資料倒れするほどの資料を集め検証し現場取材を重ね疲労を覚えたという。

小説は「宝永の大噴火」から始ります。噴火は小田原藩大久保家の領地の御殿場、須走、小山などの駿東59ヶ村から相模の足柄下郡、上郡に甚大な被害を及ぼします。幕府は大久保家の被災所領地を直轄領に変更(大久保家には幕府の他の直轄領を代替地に与えます)。被災地の復興に向けて関東郡代伊奈忠順を任命。
復興資金として全国の士分に対して禄高100石につき2両の義捐金(強制的)を上納させます。全国の士分から集めた義捐金は40万両、そのうち16万両を復興資金に回し、残りは使途不明金に。大奥の運営資金、朝鮮通信使の接待費用、皇室勅使の接待費用に流用されたといいますが定かではありません。
駿東地区で除去した降砂は雨が降れば鮎沢川から酒匂川に流れ出し河床を上げ、大雨が降れば川が氾濫、二次被害を起こします。大規模な川攫い工事も復興のための公共事業になります。この公共事業の請負は伊奈忠順の手の及ばないところで江戸の商人が入札していきます。
さらに幕府の直轄領とした被災地を亡所宣言します。亡所とは領民に税金は取らないから好きなようにせいということです。行政放棄され飢えに苦しむ百姓の悲惨な状況を見て忠順は駿河の幕府米倉から米を持ち出し被災農民に与えます。
これが原因で忠順は切腹しますが、幕府から切腹を命じられたか自ら死を選んだかは不明です。
小説では自ら死を選び、幕府は病死として伊奈家は跡目を認められます。

忠順がお倉米を持ち出し領民を救ったということも切腹したことも記録には残っていないそうです。「徳川実記」には「忠順死ければ養子十蔵に家を継がしめ父の原職を命ぜられる」と書いてあるだけだそうです。忠順が死したのは1712年、それから江戸中期、後期、駿東の民百姓は忠順を神と崇め祠をつくりひそかに詣でてきました。忠順公は記録にはなくても記憶に残り農民の口から口への伝説となりやがて伊奈神社の祭神になります。

忠順の自死が犬死であったか。その後、駿東地区は年に数町歩の田畑が復帰されていったそうです。元に復帰するまで数十年の年月がかかったそうですが百姓は強かに生き延び亡所にはなりませんでした。

義捐金の流用、復興公共事業の指名入札、被災で飢えに苦しむ農村を亡所にして政争、派閥争いに明け暮れる幕府閣僚、政治家。
もう30年も前に書かれた小説ですがいまの社会に問題提起しています。

亡所・・・ふるさとを離れるしかない状況の場所のことを言います・・・帰りたい・・・帰れない。 
(3.11東日本大震災原発メルトダウン・・・避難・・・帰還困難地区・・・が重なって見えます)


関東郡代伊奈一族のことのブログ・・・クリック
新田次郎に関するブログクリック

※コメント欄開いています。
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奥三河・足助町・・・塩の道・・・中馬の道

2010-10-30 | 道をゆく 東海・中日本
10月8日、国道153号線、奥三河の足助町(現豊田市)です。

近世、足助は飯田街道(信州側からは三州街道)の要衝の地。太平洋と内陸を結ぶ物流基地として大いに栄えました。
塩の道」なんていう人もいます。シルク・ロードをもじってソルト・ロードですね。
そしてその塩を中馬と呼ぶ馬で運んだことから「中馬街道」とも呼ばれました。

足助川です。塩の道、飯田街道はこの川を遡って桑田和で足助川と別れ現在の国道153号線平沢の集落にでて伊勢神峠を越え信州方面に向います。
右岸のフェンス沿いの道が塩の道・中馬の道

この町は奥三河の交通の要衝。岡崎に向って七里街道、名古屋高針方面から足助町を通って信州飯田に向う飯田街道、多治見方面に向う美濃街道、田口に向う足助街道、長篠に向う鳳来寺道。道は八方に通じています。

飯田街道・・・わたしの生まれ在所の信州伊那の谷では南北を貫き足助に向う現在の国道153号線を三州街道と呼んでいました。道の呼び方は自分の立ち位置から彼の地を指すのがむかしからの慣わし。したがってこの道は信州側からは三州街道、三河側からは飯田街道、伊那街道なんて呼ばれたようです。

街角の石で作られた道しるべ。
右 ほうらい寺に 左 ぜんこう寺に・・・と彫られています。
信州に向う飯田街道は信仰の道として善光寺道、その逆の信州から足助・名古屋に向う道は宮道(伊勢神宮への道)とも呼ばれました。ほうらい寺道・・・鳳来寺への信仰の道ですが信玄が長篠、三方ヶ原へ軍勢を進めた戦の道でもあります。

足助の街並みです。江戸時代、塩問屋6軒、造り酒屋6軒、穀夜6軒、宿屋10軒と・・・栄え、明治の大合併では1890年早くも足助町として発足しています。大きな町だったのでしょう。



問屋の町「足助」・・・唯一残る塩問屋の店舗「莨屋(タバコヤ)」。現在は休業中。史跡として説明板が掲げられています。
  


人の命を支える絶対的な・・・塩・・・太古のむかしから内陸に入った人たちはあらゆる手段を使って、塩を得るために海に続く交易の道を開きました。周囲を急峻な山で囲まれ、激流が行く手を阻む信州では「塩の道」は舟運が途中で途切れ、その先は人の背、牛馬の背になりました。
ここ足助はその「塩の道」の南信州への始発駅、信州からの物産の中継駅として江戸期から明治の終わりごろまでたいへんに栄えた町です。

三河湾岸の塩は岡崎から矢作川、渡会から支流の巴川に入り九久平の上、平古村の河岸で陸揚げされます。このへんは徳川発祥の地の松平郷・・・家康の祖先は上州新田郷から流れ着いた願人坊主といわれますがたしかなことはわかりません。系図では上州新田郷の平家の血脈といいます?・・・話が横道にそれました。
平古で陸揚げされた塩は15kmの道を馬で足助へ。ここでブレンドされ足助塩というブランドで7貫(26kg)俵に詰め替えられます。7貫にしたのはこれを馬の背に左右2俵、計4俵、104kgにするためです。馬の荷積制限です。1匹100kg前後、馬方は1人で通常3~4匹の馬を牽引しました。

この足助塩をしきったのが塩問屋。もちろん商いは塩だけではありません。内陸へは塩干魚、砂糖、薬。陶器、鉄もの、綿など。内陸からは米、麦、タバコ、生糸、麻、真綿など・・・。総合商社です。

この塩俵を運んだ馬を「中馬」といいました。むかしの街道の輸送手段は駅馬といって荷主から依頼された荷を宿駅ごとに積み替えていくというシステムでした。いまの駅伝競走のタスキみたいです。駅馬システムは幕府認可の権利ものですから一般参入は出来ません。運賃も割高になります。
「中馬」は駅馬から外れた一般参入、主に幕府管理の街道から外れた脇街道。1匹で長距離輸送。経費が安く運賃安価。既得権の勢力と最初は揉めたようです。いろいろあって規制緩和されていきます。
荷主と荷受人の中間に立って商売する運送馬・・・ゆえに中馬と呼ばれたようです。

写真は街角の説明看板から。

足助の町に唯一残る、中馬の宿「馬宿 山城屋」。もちろん当時のままではないでしょう。馬宿は厩が同じ建屋の中にあり、馬方が目の届く範囲で馬が一緒に泊まれるようになっていました。

近世から明治の末まで奥三河の流通の中心として栄華を誇った足助、1907年木曾谷を信州に向う国鉄中央西線が開通すると参信を結ぶ流通の表舞台から静かな町に戻っていきました。

足助をあとに帰るだけ。「塩の道」「中馬の道」「善光寺参りの道」、信玄も進んだ「戦さの道」・・・三州街道を根羽、駒場、飯田、埼玉へと車を走らせます。
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郡上八幡(終章)・・・郡上踊り・・・郡上一揆の声が聞こえる

2010-10-28 | 道をゆく 東海・中日本
10月7日、郡上八幡の町、ウダツ(卯建)の上がった家並みが続きます。
国指定重要無形民族文化財「郡上踊り」の町です。日本三大盆踊り、日本三大民謡。
  郡上のなア~ 八幡でて行くときは
     雨も降らぬに 袖しぼる

と歌われる郡上節の中の「かわさき」ほか全10曲で、7月中旬から9月上旬まで延べ32夜踊られるという。すごいエネルギーです。いまは旅行社の観光の目玉として商品化され8月中旬の盂蘭盆会の4日間の徹夜踊りだけでも観光客が25万人に達するそうです。


何がそこまで奥美濃の小さな町の人たちを惹きこんでいるのでしょう。近世初め初代藩主の遠藤家が領民の親睦のために奨励した念仏踊りが起こりともいわれますがそれだけでしょうか。江戸時代中期この山の奥の小藩に明暦金森騒動という一揆が起こり藩主が改易という前代未聞の結果・農民勝訴で終わります(もちろん百姓側にも犠牲者がでますが)。代わった藩主青山氏が四民融和を図るために奨励したといわれます。

因みに》宝暦金森騒動・・・郡上一揆・・・とは
美濃国郡上藩金森家38000石(飛騨高山藩から出羽上山藩に移封、さらに郡上藩に移封)の1754年、財政逼迫していたのでしょうか。百姓年貢を定免制(数年間の平均収穫から計算)から検見制(1年ごとに収穫調査で計算)に切り替えます。税制改革?です。江戸表の支出がよほど多かったのでしょうか。一説によると殿が将軍の奏者番を拝命したため出費が多くなったいう。支出を補填するために増税という図式です。
郡上藩、80%以上が急峻な山、長良川の流域のわずかな平地が耕作地です。百姓にとって生死にかかわったのでしょう。命がけの抵抗が始まります。抵抗勢力を「立て百姓」といいました。藩側も幕府高官、美濃郡代まで引きずり込み、百姓側は江戸表まで出向いて駕籠訴、箱訴にまで及びます。1758年幕府は老中酒井忠寄ほか5名に詮議を命じ、藩主金森頼錦は領地没収、お家断絶、郡上藩の関係スタッフも死罪、遠島、追放。幕府高官の老中本多正珍ほか若年寄、美濃郡代らが免職など。結果としては百姓側の全面勝訴、幕閣、藩主にまで罪が及んだの江戸時代唯一の判例ですが・・・・・百姓側の犠牲者は牢死21名、死罪14名。命と引きかえの強訴でした。

32夜の盆踊り・・・郡上一揆で命を捧げたお百姓衆に捧げる鎮魂のセレモニーのように思えてなりません(わたしだけの解釈ですが)。
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郡上八幡③・・・水の都・・・宗祇水

2010-10-27 | 道をゆく 東海・中日本
小京都、水の都とかいわれる郡上八幡(ぐじょうはちまん)、町中に用水が流れ湧き水の水舟があります。
水舟とは階段状になった水槽のことです。むかしは檜などで作った木製、のちにコンクリート製などが多くなりました。最初の舟は飲料水に、次の舟はゆすぎ洗いに、最後の舟は汚れ洗いにと・・・順を追った水の使い方をするものです。湧水の豊富な場所でのむかしからの方法です。

郡上八幡といえば宗祇水。湧水と水神様と石造りの水舟。いまでは観光用になって水舟の利用はないでしょうが。

肉桂菓子の老舗のそばから、石積みの小路を降りていきます。坂を下りた右側が宗祇水です。
正面に小駄良木川にかかる赤い欄干の清水橋が見えます。

室町時代の1471年、漂白の歌人飯尾宗祇がこの国の領主東常縁とこの泉の畔で連歌を詠み交わしたといいます。

むかし・・・7年前のイラストです。ナツカシイです。

宗祇水の前、小駄良木川の上流の風景です。背後の山、川の渓谷、川に張り付くように3階建て、4階建ての家が並んでいます。生活の匂いがします。川べりに生活道路、遊歩道があります。この町の人は水と一緒に生活してるようです。
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郡上八幡①・・・私の城下町を俯瞰する

2010-10-26 | 道をゆく 東海・中日本
10月7日、越前永平寺から勝山、大野の街を抜け、九頭竜川沿いに美濃街道を美濃白鳥に、岐阜県に入ると道は越前街道と呼び名を変えます。古来、道は目的地を呼称するようです。長良川沿いに下っていくと郡上八幡の町(現郡上市)に(長良川を上流に向うと白川街道)。

郡上八幡(ぐじょうはちまん)・・・静かな街です。ウダツ(卯建)の上がった家があります。人力車がありました。

郡上八幡の街をフラフラと歩いて、さてヒルは何を食べようかと・・・
向こうからプロレスラーが作務衣を着たような大男が「ウチのお蕎麦いかがですか」と声をかけてきたので、ついていってしまった。
「野菜天麩羅」とお蕎麦1枚、「おろし蕎麦」1枚。
ここの亭主と話をしていて、なんとヒキノ村びとのすぐそばの大×文〇大学のラクビー部(学部?)出身とわかる。ポジションは体格からしてロックだったと思われる。

      「蕎麦正ま〇い」の奥の部屋から見た郡上八幡城。そうだ城に行こう!

郡上八幡城は残念ながら擬城です。豊臣の時代の1559年築城され明治の廃藩置県で廃城、石垣のみに。1933年大垣城を参考に擬城としては珍しい木造で造られた。
擬城ですの登城せずに石垣の上から街を俯瞰しました。
中央を吉田川が流れ、先の長良川に合流します。すぐ下の橋は飛び込みで有名な新橋、その下流の橋は宮ヶ瀬橋。

典型的な山城です。吉田川と小駄良木川に三方を囲まれ、後ろだけが急峻な山の尾根、標高差100m弱ですが急傾斜、重い鎧を着て刀を持って這い上がる、それだけでもヘトヘトになりチャンバラどころではありません。難攻不落です。平和な時代、ここは展望台にはなりますが藩庁として行政事務はできなかったでしょうね。登城するだけでヘトヘト、お勤めどころではありません。

今日は越前勝山の擬城、大野市の擬城、そしてここ八幡城と擬城を眺めました。「私の城下町」「ああ青春の城下町」とか日本人は城が好きですね。江戸の千代田城は1657年明暦の大火で消失、無用の長物といったかどうかは知らないが、再建しませんでした。飛騨高山は天領になって維持費が勿体無いとかいったかどうかはわかりませんが高山城を廃城にしています。

山を降りて街を散策します。
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飛騨高山(終章)・・・天領・・・高山陣屋跡

2010-10-19 | 道をゆく 東海・中日本
10月6日、飛騨高山をあとにする前に高山陣屋跡の門の前に佇みました。

1692年金森家に代わって飛騨国は徳川幕府の直轄領(天領)に。陣屋とは郡代様の行政執行の事務所です。高山郡代は初代伊奈忠篤から1868年(慶応4年)1月最後の郡代新見内膳まで25代177年つづきました。
明治後は陣屋は岐阜県の県政の庁舎として使われ1969年岐阜県教育委員会管理に。
以後、現存する唯一の江戸時代の郡代陣屋として保存するため16年の歳月と20億円を費やして修復、復元されました。



戦国時代、美濃多治見に生まれた金森長近という侍は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、1586年飛騨高山の領主に抜擢された。秀吉亡きあとは関が原の戦いで徳川家康に与し、1600年飛騨高山を改めて封ぜられ33000石で初代高山藩主に。石高は少ないが領国経営に励み銀・銅の鉱山、森林資源で国は大いに栄えたという。6代107年統治したあと、1692年出羽国上山藩に38700石で移封させられた。この国替えの中止を求めて百姓一同が嘆願書を出したいうからよほど善政をしていたと思われます。
金森家に代わって飛騨国は徳川幕府の直轄領に・・・天領です。こんな僻遠の地をなぜ? 銀の資源が狙いだったのでしょう。領地の横取りではありません。大企業の組織変更です。皮肉なことにこのころから銀の鉱脈が枯れ、銅・鉛になったといいます。

飛騨一国の経営ですから郡代という格上の代官(旗本ですが大名並み)があたります。初代郡代は関東郡代の伊奈半十郎忠篤が関東郡代と兼任。高山城の取り壊し、高山藩下屋敷を陣屋とします。敷地28000㎡だったそうですが、のちに1/3ほどに縮小。江戸詰め11人、高山詰め9人、地元採用(1代限り)の地役人32人。徹底した行政改革です。

伊奈忠篤から25代つづいた関東郡代、明治の時代に入る1968年1月(明治元年は9月)、最後の郡代新見内膳は自分の俸禄米を高山・古川の町民に与えて、陣屋の裏門から静かに江戸に去ったと伝えられています。

高山の街をのぞき見たとき、中央政権の江戸からは山が壁のように聳え立ち峠を超え川を渡らなければ辿り着けない僻遠の地でありながら、街は町民文化の発達した上品さを感じます。金森家、高山郡代の領国経営が花開いたという感じがします。

《ただし》善政ばかりではなかったようです。1771~1788年大原騒動という一揆が起こりました。第12代代官大原紹正のとき二度、紹正の子13代大原正純(世襲制ではないがそうなった?)のとき一度、計3度17年にわたるものです。1度目は御用元伐休山、2度目は新田検地の問題です。詳細は省略しますがいずれも百姓側の敗訴で終わって多くの農民が死罪となりました。3度目の大原正純のときの騒動は代官の私利私欲でまるで時代劇テレビの悪代官のように悪行三昧(年貢の過納金の不返金。天明の大飢饉の対策の年貢免除分を私腹に)、これには農民のみならず名主、役人も反抗し、駕籠訴に及んだ農民が出て、正純は八丈島に遠島。駕籠訴に及んだものは御定法で死罪。

高山を離れ、越中街道を富山方面に向かいます。
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飛騨高山④・・・朝市の風景

2010-10-17 | 道をゆく 東海・中日本
飛騨高山・・・この街を歩くなら朝がイイです。
高山陣屋跡、それから宮川沿いに6時半ごろから朝市が立ちます。街の人のための市場です。お魚、肉は並びませんが他のものはだいたい揃ってるようです。

和久峻三原作による法廷ミステリー小説『赤かぶ検事シリーズ』でおなじみの赤かぶは飛騨の名産品です。そのほかにいろいろの漬物があります。




見たこともないキノコが並んでいます。四季の山菜、キノコが楽しみですね。
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