比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

初夏の上田塩田平・・・古刹前山寺の一角にひっそりと・・・小さな美術館「残照館」

2022-06-07 | 絵画、彫刻
信州上田の・・・六文銭の写真帳

5月14日、藤の花の花見に近辺の散歩。
上田市前山293・・・信州上田塩田平の前山寺の参道のそばにひっそりと立つ小さな美術館「KAITA EPITAPH 残照館」・・・
1979年窪島誠一郎さんが開設した夭折の画家たちの作品を集めた美術館「信濃デッサン館」の再出発(2020年)です。
★開館は毎週土曜、日曜、月曜。開館時間は11時~4時まで。入館料は無料。


KAITA EPITAPH 残照館」・・・中心は夭折の天才画家村山槐多・・・
EPITAPH(エピタフ)はギリシャ語を語源として墓碑銘のこと・・・

※撮影日は5月14日。

戦没画学生慰霊美術館「無言館」・・・その無言館に先立つ1979年に前山寺の一角に窪島誠一郎さんが収集した天才画家村山槐多をはじめとする夭折の画家たちの作品1000点余を展示するため開設した「信濃デッサン館」・・・1997年開館した「無言館」と相乗効果して入館者は順調でしたが、そのごの社会情勢の変化などで財政が苦しくなり、2018年信濃デッサン館を休館、2019年閉館。県立長野美術館が「尿をする裸僧」をはじめとする33点を購入、357点を窪島さんからの寄贈を受け、再開。運営は財団法人戦没画学生慰霊美術館。

村山槐多・・・1896~1919年、愛知県出身、明治、大正時代の洋画家、詩人、作家、愛知県出身の洋画家、従兄の山本鼎の影響を受け洋画家を目指し、山本鼎が長野県上田に住んだため信州を旅した。美術院展金賞受賞、スぺイン風邪により22歳で死去。

※「尿する裸僧」村山槐多2015年の制作・・・県立長野美術館サイトより。

豆 cafe enjyu が併設されています。ホッとひといき、いかがですか。


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「命輝いて - 大銀杏と子供」・・・日本画・・・の紹介です

2021-05-30 | 絵画、彫刻
今日は日本画を紹介します。

いつも私のブログに訪問してくださっているのりさんのブログ・・・曲がり角の向こうに・・・
2021年5月29日のブログ・・・☟の画像をクリックして見てください。


2021年4月29日のブログ・・・も・・・☟をクリックして見てください。
    これで精一杯!! 大銀杏
★原画のサイズはF20号(725×606)

優しさをありがとう・・・


※信州上田市塩田平の「無言館」の館主窪島誠一郎さんは「絵は愛するものしか描けない」と詩に書いておられます。

のりさんが制作の動機にわたしのブログが少し関わっていることをブログのキャプションで触れておられます。お役に立ててうれしいです。
のりさん・・・ありがとうございました。

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木彫りの皿・・・ウスユキソウ・・・「エーデルワイス」の歌が聞こえる

2019-11-20 | 絵画、彫刻
信州上田の姉から林檎、大根などと一緒に段ボールの中にそっと包まれていた木彫りの皿の贈り物です。
上田の木彫り工芸・・・大正時代から昭和初期にかけて活躍した洋画家山本鼎が提唱、推進した農民美術運動の流れをくむ工芸です。

木彫りの皿のテーマは「ウスユキソウ」です。

Edelweiss, edelweiss,           高貴な白い花・・・エーデルワイス
every morning you greet me.        朝・・・いつも・・・あなたは逢うたびに
Small and white, clean and bright,    小さくて、白くて、清らかで、輝いていて、
you look happy to meet me.        わたしを幸せな気持ちにしてくれる・・・
                                           (1965年公開映画「サウンド・オブ・ミュージック」より)

山本鼎(1882~1946年)・・・洋画家、静岡県生まれ、16歳から上田市に、木彫り職人を経て東京美術学校へ、1919年上田市神川小学校で農民美術練習所を開講、農村地帯の農閑期の収入を得るため木彫り工芸を推進した。農民美術といわれるこの運動は全国各地の農村地帯に広まり、この運動の中で北海道八雲町の「木彫りの熊」が生まれたといわれます。大戦で途絶え戦後この活動を続けたのは上田のみに。

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ヒマラヤの青い罌粟・・・を画いた・・・堀文子さんを偲んで

2019-02-14 | 絵画、彫刻
1月5日、日本画家の堀文子さんが亡くなられました。100歳だったそうです。
わたしが堀文子さんを知ったのは・・・2000年10月放映のNHK「アーティストたちの挑戦 ヒマラヤ 高き峰をもとめて 日本画家 堀文子」を視てからです。そのとき堀文子さん80歳・・・好奇心旺盛、挑戦する老婦人として強く印象に残りました。
あのときいくつかの作品を見て強く感動したことをおぼえています。

堀文子さんのことをもっと知りたくて図書館で本を読みました。

村松友視極上の流転 堀文子への旅」(中央公論社 2013年刊)

堀文子・・・1918年東京都麹町区平河町に6人兄弟の4番目三女として生れる。父は泉州堺の豪商の子、中央大学の西洋史の教授、母は信州松代藩の学問所の学者の孫。麹町あたりといえば江戸時代の旗本屋敷を中心とする山の手、明治期にはいり武家屋敷が高・中産階級の住宅に。屋敷は500坪。ちなみに現在の国会議事堂は1936年建造、文子の少女時代にはありませんでした。男尊女卑の上流階級、母の家からの女中頭、子ども1人に女中1人。5歳のときに大正大震災。永田町小学校(現麹町小学校)から府立第五高女(現都立富士高校)へ。1936年府立第五高女卒業試験の日に陸軍のクーデター2.26事件・・・屋敷の庭を軍隊が進軍していくのに遭遇。自立を目指して女子美術専門学校(現女子美術大学)へ。父は働き口の狭さから反対したそうです(美術学校卒では教師ぐらいしか就職口がありません)。卒業後、教師の職業が合わないと自覚して東京帝国大学農学部作物学教室の記録描写係りとして就職(月給20円)。自立して神楽坂のアパートに、住人の芸者さん、お妾さんなどと交流、山の手のお嬢さんから世俗を知る女性に変身していきます。東京大空襲・・・平河町の屋敷は全焼、やがて敗戦(兄弟はともに戦死)、一家は戦前の上流階級から180度転換、青山に移りバラックの建物で生活。文子は一家の大黒柱に。出版物の挿絵、絵本などの仕事を生活の糧にして、画家としての制作活動も始めます。外交官と結婚、父の死、病弱だった夫と死別。虚脱状態のあと文子の一所不在(流転)の人生が始まります。1961年エジプト、ギリシア、ローマ、パリ、ニューヨーク、メキシコへと3年間の旅に出ます。旅行中の家族の生活費、旅先の滞在費は10数年間の挿絵、絵本の仕事の蓄積で、当時の外国旅行は外国での身元引受人が必要であったため無名の文子の絵画を高く評価してくれていたAIG(AIU損保保険)の社長(展覧会で見て感動して青山のボロ屋に尋ねて来てくれた)に頼み、その人が身元引受人を引受けてくれ3年間のフリー航空券までプレゼントしてくれたそうです。帰国後、大磯に転居、アトリエを、軽井沢、イタリアにもアトリエを、アマゾン、インカ、マヤなど諸外国を歩きます。2003年にはブルーポピーを探して標高4500mのヒマラヤ(ネパールのドルポ山中)を歩きます。

東京の山の手麹町の上流階級のお嬢さんから、戦争で何もかも失い、挿絵、表紙絵、装丁、絵本の仕事で一家を養い、絵描きとして描きたいものを画くことに挑戦し続けた、やがてそれが花開いた・・・素晴らしい人生だった・・・と思います。

文子さんのモットー・・・「群れない・・・慣れない・・・頼らない」・・・噛みしめたい言葉です。



堀文子さんを偲んで・・・「幻の花ブルーポピー

白馬村神城で                       中国雲南省で


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暮れの贈りもの・・・スウェーデン織をいただいた

2018-12-28 | 絵画、彫刻
暮れのある日・・・うれしい贈りものが届きました。
趣味で続けられているというスウェーデン織の小さな額です。

壁に飾りました。上のスケッチはスイス・ツェルマット・・・ゴルナーグラートから見たモンテローザの山々。
下がスウェーデン織の小品です。可愛いです。





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初夏の上野の森・・・世界遺産申請中の国立西洋美術館で・・・カラヴァッジョ展を見た

2016-06-11 | 絵画、彫刻
6月7日、東京、上野の森の国立西洋美術館。開催中の「カラヴァッジョ展」を見に行きました。
会場の国立西洋美術館はユネスコ世界遺産登録に向けて申請中です。

前庭にあるロダンの彫刻「考える人」です。
緑豊かな西洋美術館の前庭には、いろいろなブロンズがあります。
前庭ですから鑑賞は無料。待ち合わせの場所にもイイです

人類史上最速のスプリンター・・・ジャマイカの英雄ウサイン・ボルトの勝利の雄叫びではありません。
ギリシア神話の英雄「弓をひくヘラクレス)」・・・フランスの彫刻家ブールデルの作品です。


さて、「カラヴァッジョ展」です。
カラヴァッジョ展入館券、ショップで購入した絵葉書から「バッカス」「トカゲに噛まれた少年」。
(美術展に行ったときはいつも入館券と買い求めた絵葉書をスキャンしてブログに入れこんな絵でしたと紹介することにしています)
  
カラヴァッジョ展は6月12日までです。

美術のことは素人でほとんどワカリまません。俄か勉強で・・・胡散臭い薀蓄ですが
カラヴァッジョ(1557~1610年)・・・・・・ポスターに「ルネッサンスを越えた男」と有るようにルネッサンスの終ったあと16世紀後半のイタリアの画家です(ルネッサンス・・・ヨーロッパで中世と近世の間、ペストの流行(14世紀中ごろ)から宗教改革の終息したころ(16世紀中ごろ)、おおむかしのギリシア、ローマの古き良き時代の文化を再生しようとする一連の運動をいうようです・・・文化大革命とはちょっと違います)。ルネッサンスの画家といえばダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが知られていますが、ルネッサンス後の画家・・・すぐ思い浮かべられません。カラヴァッジョ、レンブラント、ルーベンス、フェルメール・・・だそうです。さてカラヴァッジョの絵を見てみます。写真のように非常にリアル、光と影、遠近・・・すべて完璧。ただ画家であるとともに無頼の徒であったようで倒錯、背徳の匂いがします。中世から近世の画家たち・・・そのころ絵画は一般大衆のものではありません。一部の金持ち(王侯貴族、高僧)がパトロンでした。いまのように大衆がネットオークションで絵を買うという時代ではありませんでした。したがって絵の題材は宗教画、神話にもとづいた絵、パトロンの依頼の肖像画などに限られています。その中で画家たちはたまには庶民の姿も描いていたようです。画きたいものを画きたかったでしょうね。そんな時代の背後を見るのが好きです。

国立西洋美術館》・・・フランス・スイス国籍の近代建築の巨匠といわれるル・コルビュジェの設計によるもの、2015年5月ユネスコの諮問機関イコネス(国際記念物遺跡会議)が「ル・コルビュジュ建築作品群(世界で17作品)」の世界遺産登録を勧告。これを受けてフランス政府が推薦、2016年7月に登録可否の審査が行われることになりました。

秋の安曇野・・・ラベンダー畑の広がる・・・「ちひろ美術館 安曇野」

2015-10-01 | 絵画、彫刻
9月22日、黒部立山アルペンルート・・・信州大町側から室堂往復のコース。
こういうコースは朝早く行って、早く帰るというのが・・・渋滞に巻き込まれないで・・・イイ
午前中に降りてきて、稲穂、蕎麦の花のひろがる安曇野の・・・ちひろ美術館へ。

1997年設立の「ちひろ美術館 安曇野」。
広々とした緑の公園から正面玄関へ・・・山々に囲まれた素晴らしいロケーション。

正面エントランス・・・フロントロビー・・・中庭。

 ※絵はちひろ美術館のパンフレットより。
ちひろ・・・いわさきちひろ・・・岩崎千尋・・・ってご存知ですか。名前は知らなくても、
←のような絵を子どものころいちどは見たことがあると思います。

いわさきちひろ(本名松本知弘、旧姓岩崎 1918~1974年)画家、絵本作家。陸軍築城本部の勅任建築技師の父岩崎正勝(長野県梓川村出身)、母文江(松本市出身)の長女として母の赴任先(教師)の福井県武生市で生まれる。母文江は旧制奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の第1回生。そのご東京で育ち旧制第六高等女学校(現都立三田高等学校)、同補習科、洋裁学校で教育を受ける。幼い時から絵をよくし洋画を岡田三郎助に、書を小田周洋に師事。書は師の代理を務めるほどだったという。20歳で結婚、夫の勤務先の旧満州大連へ、夫の自殺により帰国、ふたたび絵、書を学ぶ。1944年(25歳)、母が主事をしていた大日本女子青年団の「大陸へ花嫁を」の活動で「満蒙開拓女子義勇軍」に書の教師として同行、同年、東京での書の教え子の叔父の旧満州陸軍の将校の手配により帰国(どのような理由をつけてか不明)、終戦の前年であり、このようなことは旧満州の高級軍人、官僚の子女には行われていたようです。このことが無かったらその後の運命はどうなったでしょう。東京に戻った翌年の1945年、岩崎家は空襲で全焼、父母の故郷信州へ疎開。同年の8月に敗戦。教養ある父母の下で経済的に何不自由なく育ったちひろ。神国日本の不敗を信じていた岩崎家、敗戦後の情報の変化で大きな転機が訪れたようです。ちひろは日本共産党に入党、自立を目指して上京、母方の親戚の神田神保町の箔押屋さんの二階に下宿して共産党系の人民新聞に勤務。丸木位里、赤松俊と交流。父母は満州引揚者のための開拓地松川村へ入植、開墾を始めます。
1950年、同じ党員の松本善明(のちに弁護士、衆議院議員)と結婚。雑誌・新聞のカット、広告のポスター、表紙絵、絵本の挿絵などで生活を支え、しだいに絵本作家としての地位を築き、油彩から水彩に、書の技法を取り入れたボカし、滲みなどちひろの世界をひろげていきます。惜しむらくは56歳の若さでこの世を去りました。
ちひろ美術館」・・・ちひろの子、松本猛がちひろ没後の3年目の1977年練馬の自宅を改装し「ちひろ美術館」を開設。20年後の1997年、祖父母の開墾した地、安曇野の松川村に「ちひろ美術館 安曇野」を設立。


館内でお絵画きする子ども・・・ちひろの世界・・・そのものです。

館内に絵本カフェ・・・芝庭にオープンカフェ。

ラベンダーの畑。美術館の一部です。

優しい時間が流れます。
一日ノンビリしていたい公園みたいな美術館です。


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山梨県立芸術の森公園・・・山梨県立美術館・・・で・・・芸術に浸る

2015-05-27 | 絵画、彫刻
山梨に来ると、ここにきてノンビリと息抜きしたくなる・・・山梨芸術の森公園・山梨県立美術館
1978年開園、山梨県立農事試験場跡、6㌶。
木が生い茂り、噴水があり、芝生広場があり、バラ園があります。ブロンズがさりげなく置かれています。みんな有名な作家です。
彫刻は何気なくポ~ッと見ているのがいちばんです。
ここは半日はノホホ~ンとできそうです

山梨県立美術館・・・壁面の肖像はこの美術館に所蔵されている世界の名画「種まく人」を画いたフランスの画家ミレー(1819~1875年)。
彫刻は「ケンタウロス(半人半獣)」アントワーヌ・ブールデル(1861~1929年)。

山梨県立芸術の森公園・・・噴水広場。
裸のフローラ」アリスティド・マイヨール(1861~1944年)。

山梨県立館壁面の肖像は山梨県の生んだ俳句界の巨匠飯田蛇笏(1885~1962年)。
前にある彫刻は・・・「叙事詩」ブールデル。

芸術の森公園バラ園の中に・・・「踊り子」ヴェナンツォ・クロチェッティ(1913-2003年


ハラが減った・・・何か食おう
美術館内にあるレストラン「アート・アーカイブス」・・・「ミレーの種まく人 アートドリア)・・・です。

ブランチだから軽食でよかったのだけど、これをオ-ダーして写真を撮りたかったのだ

イタダキました


芸術の森公園のこと・・・1978年、当時の山梨県知事(田辺国男)が「山梨に文化を」と県民文化ホール芸術の森公園をセットで企画したもののようです。なぜミレーか、語るとながくなります。いまこうして見るとミレーの農民芸術が山梨の風土にあってるかなとも思えます。ちなみに「種をまく人」は当時2億円(安田海上火災のゴッホの「ひまわり」は1987年58億円)。購入資金は県営発電所売電収益を議会承認、通産省許可を得て、そのた寄付金で。
壮大なハコであり中身ですが、これを無駄と考えるか、県民に文化をと考えるか、人それぞれです。私は後者をとります・・・・時の財政状態によりますが。
ミレーの絵としてはほかに「落ち穂拾い 夏」「羊飼い」があります。
こうした絵が世界に散らばってる状態がいいことか、画家の故郷に置くべきか、考えはいろいろですが、個人のコレクトでなく世界の文化遺産と考えて私たちが見られることは幸せなことです。
山梨に行ったら、ぜひ寄ってみてください。

東京ぶらぶら・・・「ルーヴル美術館展」・・・六本木から・・・渋谷道玄坂へ

2015-04-06 | 絵画、彫刻
国立新美術館です。開館は2007年、設計は黒川紀章。東京都港区六本木7丁目、総敷地面積・・・30,000㎡、建築床面積・・・12,500㎡、延べ床面積・・・48,000㎡、 戦前は陸軍歩兵連隊兵舎、戦後は東大生産科学研究所。

3月30日「ルーブル美術館展」を見にきました。



↓チケットの絵は17世紀のオランダの画家フェルメール(「青いターバンの女」で有名)の「天文学者」。
    

←絵葉書から・・・16世紀のイタリアの画家ティツィアーノ(「ウルビーノのヴィーナス」で有名)の「鏡の中の女」。

ルーブル美術館のことは知りません(フランスに行ったことがないので)。今回の出品は16世紀から19世紀中ごろまでの風俗画が中心のようです。この時代の芸術はパトロン(王侯貴族、基督教会、大富豪)の庇護の下で発展しました。したがって宗教や神話からテーマを得たものが多いようです。これらの絵画から近代絵画(ロマン主義、バルビゾン派、印象派など)に移行していくのは19世紀初頭からです。
参考ルーヴル美術館展ー国立新美術館のサイトルーヴル美術館展の公式サイト


六本木から渋谷道玄坂へ・・・ハシゴ酒ではなく・・・ハシゴ美術展。
渋谷東急BUNKAMURA ザ・ミュージアム「ボッティテェリとルネサンス展」(フィレンッェの富と美)。

15世紀から18世紀ごろまで栄えたイタリア・フィレンツェの銀行家・政治家のメディチ家(フィレンツェの事実上の支配者、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロのパトロン)の庇護の下で絵を描いたボッティチェリ(1445~1510年「ヴィーナスの誕生」で有名)の絵画展です。展覧会のハシゴはいささか疲れたので詳細説明は割愛。
参考ボッティチェリとルネサンス展公式サイト

谷川岳の南麓に佇む・・・天一美術館を尋ねた

2014-05-21 | 絵画、彫刻
5月17日、みなかみ町谷川の天一美術館を尋ねました。
天一」とは創業1930年の天ぷらの老舗「銀座天一]のこと。
なぜ、ここに銀座天一が美術館を・・・ということはおいておいて。

      すばらしい美術館です。
     
     入館券の絵は岸田劉生の「麗子像」(油彩)です。

階段を上れば美術館の前庭、右に玄関が。背景は谷川岳連峰マナイタ倉の残雪・・・ですが今日は霧の中。


麗子」に逢いに来ました。

絵葉書から・・・岸田劉生の左から「麗子像」(デッサン・彩色)、中央は「村娘」(水彩)、「麗子像」(水彩)。



まな娘に対する「いつくしみの心」に感動しました。絵が上手いとか下手とかは絵と向きあうとき問題じゃないです。

建物は皇居新宮殿の基本設計(いろいろあって辞任)、奈良国立博物館などを手がけた設計家吉村順三の最後の作品。
美術館から中庭に・・・シンプルな造形の館が静かな石畳と水と周囲の樹木と谷川連峰の自然とマッチして、いい気分です。

収蔵品は岸田劉生、梅原龍三郎、安井曾太郎、藤田嗣治、藤島武二、熊谷守一、佐伯祐三、青木繁、中川一政、ロダン、ルオー、ルノワール、マティス、ピカソ、南画、浮世絵、陶磁器(新羅、高麗、李朝、鍋島、伊万里)・・・ほか。

岸田劉生(1891~1929年)・・・東京銀座に明治時代のジャーナリスト、実業家岸田吟香の子として生まれる。洋画を黒田清輝に師事。バーナード・リーチ、柳宗悦、武者小路実篤、高村光太郎、萬鉄五郎らと知り合い画壇に。38歳で急逝。
代表作「麗子像」は長女麗子さんをモデルに画き、東京国立博物館、東京国立近代美術館収蔵はじめ70点あるといわれる。
銀座天一・・・1930年、矢吹勇雄が創業した天麩羅店。矢吹は銀座百店会の発起人の一人、タウン誌「銀座百点」の発刊にも関わっている。店は政財界、文化人に贔屓にされ国賓、外国要人の来店でも有名。美術館のあるみなかみ町谷川は昭和12年に政財界の重鎮が探し求めた別荘地、矢吹も請われて別荘をもったゆかりの地。
矢吹コレクションはかつての宰相吉田茂に「矢吹君、日本美術の逸品を守れ」といわれたことから始まったといわれる。