比企の丘

彩の国・・・比企の丘・・・鳩山の村びと
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2017中欧の旅・・・ハンガリーの首都ブダペストで・・・ユダヤ教の礼拝堂「シナゴーク」を尋ねる

2018-02-20 | 道を行く 海外

地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

中央アジア・・・ウラル山脈の南麓あたりから移動してきたマジャル人が建国したというハンガリ―・・・
首都ブダペストをブラブラ散歩・・・ドナウ川の東、ペスト側の町並を歩いています。

ユダヤ教の礼拝堂・・・シナゴーク・・・
エレサレム、ニューヨークに次いで世界で3番目の規模の大きさ、1854~1859年に建設。
間口75m、奥行27m、高さ43.6m、最大収容約3000人。

ユダヤ教徒でなくても見学できます。男性はユダヤ教徒の帽子キッパを被って(貸出)。





ユダヤ系ハンガリー人・・・中庭に第二次世界大戦、ナチ・ドイツの大虐殺で60万人が亡くなったといわれホロコースト記念碑が建てられています。
※撮影日は2017年7月27日。


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2017中欧の旅・・・ハンガリーの首都ブダペストのランドマーク・・・王宮の丘の・・・マーチャーシュ聖堂

2018-02-17 | 道を行く 海外

地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

中央アジア・・・ウラル山脈の南麓あたりから移動してきたマジャル人が建国したというハンガリ―・・・
ラテン系、ゲルマン系、スラヴ系のヨーロッパの中に投げ込まれた「アジアの石」ともいわれます。
首都ブダペスト・・・「ドナウの真珠」「ドナウの薔薇」「ドナウの女王」「ドナウのパリ」・・・世界遺産ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り」の風景。

ドナウ川、ブダ王宮の丘の「マーチャ―シュ聖堂」・・・高さ80mの尖塔が見えます。堂々たるランドマークです。


正式名称は「聖処女マリアの聖堂」、創建は1045年、1255~1269年にゴシック建築様式で本格的に建造、15世紀ハンガリー王国の最盛期の国王「マーチャ―シュⅠ世」が命じて増築して「マーチャ―シュ聖堂」と呼ばれるように。歴代の国王の戴冠式が行われ「戴冠教会」とも呼ばれる。1541~1686年オスマン帝国の支配でモスクに改造、そのご修復が続き1874~1896年に13世紀の設計図や古い絵図を調べて今日の姿に修復した。



ライトアップされたドナウ川鎖橋と王宮の丘のマチャ―シュ聖堂
※撮影日は2017年7月27日。


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2017中欧の旅・・・ハンガリーの首都ブダペスト・・・栄枯盛衰・・・ブダ王宮

2018-02-17 | 道を行く 海外

地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

ヨーロッパの中のアジアの石といわれるハンガリ―・・・古来ハンガリーは多民族が侵入と衰退をくりかえしていた土地、紀元前1世紀にローマ帝国が支配、4世紀フン族(中央アジアステップ草原地帯の騎馬民族?)が席巻、5世紀アヴァール族(中央アジアの騎馬民族)の支配、フランク王国(ゲルマン人の部族)の支配、7世紀にウラル山脈の南麓地帯から移動をはじめたマジャル人が10世紀に国家を形成していきAD1000年に王位についたイシュヴァーン1世がキリスト教改宗宣言を行いハンガリー王国が建国。以来、オスマン帝国、ハプスブルグ帝國の支配の歴史はほぼ1946年まで・・・さらに旧ソヴィエト連邦支配の時代が・・・

ハンガリーの国名の由来・・・フン族の国フンガリーといわれるが俗説。マジャル人10部族…オノグル(10本の矢)がウンガールに変化、先頭にHがついてハンガールに・・・だそうです。
正式国名は・・・マジャロリサーク、英語表記はHungary、日本語表記はハンガリー。マジャル人95%、マジャル語98%、カソリック67%、プロテスタント系25%。マジャル人は幼児に蒙古斑がある、姓が名前の前にあることからモンゴロイド系といわるが学説的には定かではない。


首都ブダペスト・・・ドナウ川から中世の面影を残す王宮の丘・・・ブダ城(ブダ王宮)を見上げています。


1241年木造の砦はチンギスカンの孫バトゥ率いる蒙古西征軍により粉砕され、石造りで再建、14世紀ゴシック様式に改造、17世紀オスマン帝国により破壊、ハプスブルク朝により支配、19世紀火災により再建、20世紀第一次、二次大戦で破壊、1950年代に修復。国立美術館、ブダペスト歴史博物館、軍事歴史博物館などに。


ドナウ川に架かる白い吊橋は・・・エルジューベト橋・・・
ハンガリー王妃エルジェーベトの名を冠した橋・・・長さ378.6m、幅27.1m、1961年着工、1964年竣工。
※画像クリックで旧エルジューベト橋が・・・1898年着工、1903年竣工、1945年ドイツ軍の爆撃により破壊。写真はWikipedia より。
エルジューベト王妃(1837~1898年)・・・ドイツ、バイエルン家の次女に生まれ、16歳でオーストリアハプスブルグ朝の皇后、オーストリア・ハンガリー王国の王妃に。ドイツ語表記でエリーザベト、マジャル語表記でエルジューベト、日本ではエリザベートなどで表記。堅苦しいウイーンの宮廷から逃避して各地を旅し、中でもハンガリー王国のブダペストが特にお気に入りだったという。皇后、妻、母の座を放棄、逃避、自由奔放、狭量、尊大、権威主義、傲慢、浪費・・・評判は良くないが、君主制に否定的で、1867年ハプスブルグ朝がハンガリー王国に自治権を認めたのも、王妃が皇帝を説得したからだともいわれ、ハンガリーが独立国家に歩き出した礎を作った人としてハンガリー人に愛されているそうです。戯曲、映画、ミュージカル、テレビドラマなどでヒロインに。日本では宝塚歌劇で。
※撮影日は2017年7月27日。


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2017中欧の旅・・・ハンガリーの首都ブダペスト・・・ドナウ川の真珠・・・くさり橋の風景

2018-02-16 | 道を行く 海外

地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳
セルビア共和国ノヴィ・サドからハンガリ―に・・・
首都ブダペスト・・・人口1730000人。市街地の中央を中央ヨーロッパの母なる川「ドナウ川」が流れています。
ブダペスト・・・ドナウ川右岸のブダ、古ブダと左岸のペストの町が1873年に合併した町、ブダペストという名前は合成地名です。
1987年世界遺産登録「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り」・・・ドナウと街が一体となった世界遺産です。

ドナウ川右岸、ブダ側の小高い丘陵「ゲッレールトの丘」に登ってドナウ川と「くさり橋」を俯瞰しています。
母なる川・・・ドナウ・・・ブダペストの象徴「くさり橋」・・・左岸上流にハンガリーの象徴「国家議事堂」・・・
ドナウの真珠」「ドナウの薔薇」「ドナウの女王」「ドナウのパリ」・・・ハンガリー、ブダペストを一言でいいあらわす象徴的な風景です。

左岸、くさり橋の後方に「聖イシュトヴァーン大聖堂」・・・イシュトバーン・・・AD1000年即位の初代ハンガリー国王。

橋の袂の両サイトにそれぞれ一対のライオン像が護衛として橋を守っています。ライオンは古いハンガリー民族の紋章。

左岸クラーク・アーダーム広場・・・

ライトアップされた「くさり橋」と「ブダ王宮(ブダ城)」。

ブダ側からペスト側を見る。
※撮影日は2017年7月27日。
くさり橋・・・正式には「セーチェーニ鎖橋」、橋の建設を推進した政治家セーチェーニ伯爵に因んで。1839~1849年、10年の歳月をかけて完成、この橋が架けられるまではブダとペストの街は渡し船が交通手段。ハンガリーがオーストリアハプスブルグ王朝から自治権を勝ちとったのは1867年、ブダとペストが合併したのは1873年、橋の建設はそれに遡ること25年、新しいハンガリーに生まかわる時代でした。全長380m、幅14.5m、第二次世界大戦の1945年ドイツ軍の空爆により完全破壊、1947~19年に完全復元。

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2017中欧の旅・・・セルビア共和国・・・ノヴィ・サド・・・市街地ぶらぶら

2018-02-12 | 道を行く 海外

地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳
セルビア共和国の北部に位置するノヴィ・サドにやってきました・・・
首都ベオグラードに次ぐ第二の都市・・・ヴォイヴォディナ自治州の州都・・・人口350000人。
ノヴィ・サドの地名由来・・・ラテン語で「Neoplanta」(新しい植民地)。

ノヴィ・サドの繁華街・・・(らしい?)・・・をブラブラ散歩・・・

セルビア正教会聖ジョージの正教会聖堂・・・18世紀に建造、19世紀に交わされ、1905年再建。
※正教会・・・キリスト教の教派の一つ、正教会は一ヶ国に一つの教会組織をそなえることが原則、教義は一つ。

セルビア正教会総主教邸。

カトリック大聖堂・・・聖マリア教会・・・1885年建築。

ノヴィ・サド市庁舎・・・1895年建築。

ふたたびノヴィ・サドの夜の繁華街(らしい?)をブラブラ・・・
※撮影日は2017年7月25日。
セルビア・・・ユーゴスラビアから独立した国家。1990年から1992年までのユーゴスラビア社会主義連邦共和国、1992年 から2003年までのユーゴスラビア連邦共和国、2003年から2006年までのセルビア・モンテネグロの構成国。2006年にモンテネグロがセルビア・モンテネグロ国家連合を離脱し独立国家に、セルビアもセルビア共和国として単独国家にに。民族比はセルビア人83%、ほか多民族。宗教はセルビア人のほとんどがセルビア正教、ほかカトリック、イスラム。
ユーゴスラビア・・・1918年からセルビア人クロアチア人スロベニア人王国、1929年からユーゴスラビア王国、1945年からユーゴスラビア連邦人民共和国、1963年からユーゴスラビア社会主義連邦共和国(マケドニア、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビアの6共和国連邦。1991~1993年4共和国ファが脱退して解体。日本ではユーゴとも略称された。ユーゴスラビアとは南スラブ人の国を意味。
ヴォイヴォディナ自治州・・・セルビア共和国の北部を占める自治州。もとハンガリー領であったが第一次大戦後ユーゴスラビアに編入された。住民はセルビア人40%と20余の多民族。


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2017中欧の旅・・・セルビア共和国・・・ノヴィ・サド・・・ドナウ川の畔・・・ペトロヴァラディン要塞

2018-02-11 | 道を行く 海外

地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳
セルビア共和国の北部に位置するノヴィ・サドにやってきました・・・
首都ベオグラードに次ぐ第二の都市・・・ヴォイヴォディナ自治州の州都・・・人口350000人。
ドナウ川右岸、河岸段丘の上に立つペトロヴァラディン要塞に登ります。

ペトロヴァラディン要塞の丘の上からドナウ川、左岸のノヴィ・サド市街地を俯瞰しています。

ペトロヴァラディン・・・紀元前4世紀ケルト人の侵入、紀元前1世紀ローマ帝国の支配、セルビア人の侵入、、5世紀フン族の侵入、5世紀末東ローマ帝国の支配、キリスト教の聖ペテロに因んでペトリコンと名付けられたという。13世紀にハンガリー帝国に、16世紀にオスマン帝国に、17世紀にハプスブルグ君主国支配、その後の変遷はめぐるましく割愛。東欧のジブラルタルと呼ばれる軍事上の要衝でした。


現在の要塞はハプスブルグ王朝「マリア・テレジア時代」の1780年に造営されたものだそうです。





ノヴィ・サドのランドマーク・・・短針が分、長針が時を刻む不思議な時計塔・・・建築年・・・不明?
※撮影日は2017年7月25日。


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2017中欧の旅・・・セルビア共和国・・・ヴォイヴォディナ自治州の州都ノヴィ・サド・・・ドナウ川の畔で

2018-02-10 | 道を行く 海外

地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

セルビア共和国の北部に位置するノヴィ・サドにやってきました・・・首都ベオグラードに次ぐ第二の都市・・・ヴォイヴォディナ自治州の州都・・・人口350000人。

街の真ん中を流れる大河ドナウ川
河岸段丘の上にローマ時代から存在するペトロヴァラディン要塞




※撮影日は2017年7月25日。
ヴォイヴォディナ自治州・・・セルビア共和国の北部を占める自治州。もとハンガリー領であったが第一次大戦後ユーゴスラビアに編入された。住民はセルビア人40%と20もの多民族。
ドナウ川・・・ドイツ南部の森林地帯シュヴァルツ・ヴァルト(黒い森)に端を発し南東方向に流れ、10ヶ国を通って黒海に注ぐ、全長は2850km。「美しき青きドナウ」「ダニューブ川の漣」などの音楽で有名。


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2017中欧の旅・・・セルビア共和国・・・第三の都市・・・ニシュを尋ねる

2018-02-09 | 道を行く 海外

地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

セルビア共和国の南部、ベオグラード、ノヴィ・サドに次ぐ第三の都市・・・ニシュにやってきました。人口19万人。
バルカン半島の中心、古代より西欧と東欧、オリエントとの交通の要衝。
古代、トラキア人の地、ケルト人が侵入、セルビア人(南スラブ人)の侵入、幾多の変遷を経て現在のセルビア共和国に。
ローマ帝国時代、ナイッススと呼ばれコンスタンティヌス大帝生誕の地として有名。
ここでは城塞周辺だけ歩きセルビア第二の都市ノヴィ・サドに向かいます。

ニシュ城塞から・・・街の中心を流れる二シャヴァ川を眺める。
二シャヴァ川の名前はケルト人の支配者ナヴィッソスから。都市の名前は川の名前から。

兜状の建造物はオスマン帝国時代に城塞の中に造られたハマム(公衆浴場)跡。いまはカフェ。

ニシュの城塞跡・・・スタンボル門・・・ローマ帝国時代からあったが、現在の形はオスマン帝国時代の18世紀に築かれたもの。
※撮影日は2017年7月25日。
コンスタンティヌス大帝(272~337年)・・・4世紀のローマ帝国皇帝。ローマ帝国を再統一、キリスト教を公認、その後の発展の政治的社会的基盤を築いたことで有名。

※サッカーJ1「名古屋グランパスエイト」で活躍したドラガン・ストイコビッチ(旧ユーゴスラビア代表)はニシュ出身です。


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2017中欧の旅・・・マケドニアの首都スコピエ・終章・・・アレクサンドロス大王のモニュメント

2018-02-08 | 道を行く 海外

地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

マケドニアのの首都スコピエ・・・を尋ねました。

マケドニア共和国・・・紀元前4世紀古代マケドニア王国の繁栄から・・・ローマ王国の支配、スラヴ人の侵入、東ローマ帝国の支配、オスマン帝國の支配。1931年バルカン戦争によりギリシァ、ブルガリア王国、セルビア王国に分割、第一次世界大戦、二次大戦、1945年ユーゴスラビア連邦マケドニア人民共和国に、27年前の1991年連邦から分離してマケドニア共和国に。マケドニア人のアイデンテティ―を模索している国です。
1963年震度6.1の大地震、死者1000人以上、家屋80%以上が壊滅。世界的な「スコピエ2014」という大プロジェクトで復興計画が進められ多くのクラシカルな建物、モニュメントが復元しています。彫像の街という印象が強いようです。


ヴァルダル川に架かる・・・・石橋(カメン・モスト)の南・・・マケドニア広場の「アレクサンドロス大王」の彫像・・・
高さ25m・・・広角のレンズでも全部入りません・・・背景のビルの屋上部分にも彫像が見えます。

勇敢な騎馬の戦士の像」といい・・・アレクサンドロス大王の像というわけではないらしいが・・・

ピリッポス2世(アレクサンドロス大王の父王)の彫像。
石橋を挟んでアレクサンドロス大王の彫像と対面。
背景のビルのバルコニーにも彫像が。彫像の街です。

ピリッポス2世(BC382~336年)・・・マケドニア王国の君主、軍略、戦術に優れギリシャの弱小ポリスのマケドニアを強力国家に成長させコリントス同盟(スパルタを除くギリシャポリス同盟)の盟主に。さらにペルシャ遠征を目指したが宴席中に護衛に暗殺され、アレクサンドロス三世にその計画は軽装、長槍の歩兵、騎馬隊の混成密集集団による強力な攻撃戦術と共に引き継がれた。
アレクサンドロス大王(BC356~323年)・・・英語読みでアレキサンダー大王、ペルシャ語でイスカンダル。父ピリッポス2世の死により20歳でマケドニア王国君主、コリントス同盟の盟主に。AC332年エジプトを征服してファラオに。ハン二バル、カエサル、ナポレオンらからも歴史上最強の英雄とみなされていたという。父ピリッポス2世から引き継いだ東方への軍事遠征はAC334年に始まり323年バビロン(現イラク)で33歳で死去するまで続く。死因はマラリア説、蜂に刺されて説。
東方遠征は現トルコの小アジアからエジプト、チグリス・ユーフラテス川流域、中央アジアのタジキスタン、ウズベクスタン、インドのインダス川西岸、アフガニスタンまで及び、占領地の融和政策、兵士と占領地の女性との結婚による同化政策、ギリシャ文化と東方文化の融和、現地代官の起用などがとられた。
マケドニア王国の繁栄はアレクサンドロスの死により有能な後継者が不在のまま崩壊。武力による繁栄は永久には続かない・・・夢まぼろし・・・
マケドニア共和国・・・1931年バルカン戦争で三分割される前のマケドニアの約4割(旧セルビア領)であり、5割はギリシャ領マケドニア、1割はブルガリア領マケドニア、人種的にはマケドニア人(4~5世紀に移住してきたスラブ系人)64%、アルバニア人25%。モニュメントにある英雄は古代ギリシャ人。マケドニア共和国の国名呼称も課題となっている。マケドニア人という自認はこれからの課題。
※撮影日は2017年7月24日。

旅は続きます、セルビアに移動。

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2017中欧の旅・・・マケドニアの首都スコピエを尋ねて②・・・城塞跡、モスク

2018-02-07 | 道を行く 海外

地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

マケドニアの首都スコピエ・・・を尋ねました。

スコピエの城塞跡・・・城壁の一部のみ残存、バルダル川の北岸、小高い丘の上に。11世紀ごろに建造・・・だそうです。。

ムスタファ・パシナ・ジャミーヤ・・・1492年オスマン帝国の支配下で建てられたイスラム教の寺院。
オスマン帝国の第9代皇帝セリム1世に仕えた宰相ムスタファ・パシャにより建造。ジャミーヤはイスラム教の寺院。
※撮影日は2017年7月24日。
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