八月三十一日(夏休みコドモ科学電話相談終了に寄せて)。

2018-08-31 23:16:19 | Weblog
今日は二〇一八年の八月三十一日で、

本日をもって、ラジオの「夏休み子供電話科学相談」が終わってしまった。

毎年、夏休みの間だけ放送してるのだ。

今年は、あんまり腰を入れて聞けなかった気がする。

聞けた部分も、「小生意気な子供」とか「愚にもつかない質問」とかが多くて、

辟易しこそすれ、あまり感動がなかったかもしれない。

もしかしたら俺が「慣れて」きてしまっているのかもしれない。

まあそれでも、全体で言えば(飽くまで俺が聞けた部分の全体)収穫はあった。


例えば、


時計は何故右回りなの?という質問は新鮮だった。

そんなこと疑問に思ったことなかったから。

それで、答え・・・・・を、回答者が答える前に、瞬間的に自分で考えてみた。

えーっと・・・日時計・・・・が起源だから・・・かな?

回答者の言った答えも、俺が想像していたものと近くて、

でも参った、「日時計は北半球では右回りになる」、というその「北半球」の部分は想定外だった。

そうなのだ、南半球では日時計は左回りになるのだ。世界は劇的かつ意外だ。

では何故、結局「右回り」なのか?というのはつまり、

北半球の方が早い時代に文明が成熟したから、である。いや、あろう。(このことはラジオで言ってなかったが。)

こういうのは全部、推測に過ぎないのだが、でも多分間違ってない気がする。

「日時計」から「時計」を発明したのは恐らく、北半球の人間だったのだ。

それが世界に広がってグローバル・スタンダードになったのだ、きっと。


次。



「何故動物には草食のものと肉食のものがいるの?」という質問は根源的で、悩ましいものだった。

「何故セミは樹液しか食べないの?」という質問もあったのだが、

この二つは根っこの方で同じである。

もっと言えば「何故パンダは笹しか食べないの?」という疑問も、

「何故コアラはユーカリの葉しか食べない(食べられない)の?」という疑問も同じだ。


では我々人間は雑食で、ほとんどの有機物を色々な方法で食べることが出来るけれど、

何故「木」は食べられないのだろう?

我々には、煮ても焼いても「木」は喰えない。セルロース化する前の「竹の子」だけ例外だ。

(ゴボウ?・・・あれは「木の根」ではない。)

鹿とか、牛とかはある程度、「木」を食べるのに。樹皮とか。


この問題はとてもとても悩ましい。


ラジオの回答者たちは、消化器官の違い、とか持ち出して苦しい説明をしていたが、

どうもすっきり答えられてる、とは言いがたかった。


しかし最終的なことを言えば、どんなことにも「答え」があるわけではないのだ。

(当然だが、「進化論」ですべてが説明できるワケもない。)


つまり、

「理由」などない。




それでいいのだ。





ところで「何故セミは樹液しか食べないの?」という疑問はもっともな気もするのだが、

よく考えてみたら草食の昆虫の多くはそうなのだ。

蚊のオスだって、彼らは一生涯、人の血など吸わず、何を食っているか?と言えば

葉っぱの汁である。

バッタだってバリバリと葉っぱを喰っているが葉っぱの70%から90%は恐らく水分であるからして、

あれも葉液を飲んでいるのと同じだ。


カブト虫の幼虫だって地中で木の根から樹液を吸って養分を得ているし、

成虫だって樹脂みたいなところに集まってアレを吸う。


あれは、昆虫にとっては「普通」なのだ。












ああ、何か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・疲れた。


ところで


明日から九月なのか本当に?






明日って八月一日じゃないよね?





大丈夫だよね?


(この件しつこい、と自分でも思う。)













写真は、アタシの花壇2018年8月31日時点リアルタイム。


立ち枯れてしまった人もいるが、まだ咲いてない人もいる。


what a wonderful world。


向日葵たち、


また台風が来るらしいけど、もうちょっとだけ一緒に頑張ろうぜ。








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永遠に続け、八月よ。

2018-08-29 21:56:14 | Weblog

まだ八月の中にいる!

嘘だろ?という気がする。


もう何ヶ月もやってるんじゃないのか八月を・・・・。


だって


今年に入ってからずっと八月な感じだぜ、違う?

台風はいくつ来た?

もう、二十以上は俺には数えられない。そのうち・・・三桁まで行くだろう。

台風123号・・・・・ってか。ぜひ止めて欲しい。


あまりにも八月がいつまでも続くので俺の向日葵たちの中には

立ったまま枯れて行く者も現れだした。

っていうか単に、花の盛りが過ぎてしまったのか。それはそれで、仕様がない。

でもまだ蕾で、咲いてない者もいる。


今うっかり「者」と書いてしまったがいつのまにか俺は向日葵たちを擬人化してしまっていて、

そういうのって妄想的であまり良い兆候ではないかも知れない。

あの人たちはしかし、いつまで自力で立って、この世に存在してくれるだろう?

立ち枯れた姿でもいいから永遠にそこに留まっていてくれはしないだろうか。

・・・・無理だろうな。

枯れた花は萎れ、倒れ、朽ちていくのだ、「それが自然の歌なのさ」なのだ。

それにしても永い八月。

僕等は最早、夏の中でしか生きられない獣なのかもしれない。

もしも万が一、この後に秋が来て、冬が来たとしても我々はきっと、

その寒さとドライさと美しさに耐えられはしないだろう。

ここは「夏の国」なのだ。

夏の中で生まれ、夏の中で死ぬのだ我々は。

死?

まだ死にたくはないが実を言えば最近俺の中であの懐かしの「タナトス」が

その鎌首をもたげて辺りを睥睨している。

「エロイーズ」なら、花壇の向日葵たちのようにとっくに立ち枯れた。

でも

あんな風に立ち枯れたまま生きられるならそれはそれで素敵かもしれない。


永遠に続く八月の、それは象徴みたいではないか。


それにしても・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



あ、でもひとつ、いいことを思いついた。

もし八月が永遠で、九月などこの先、訪れないのだとしたら、

それが意味することはただ一つ。


この私がこれ以上、歳を取ることもないのだ。


ああこれで、少しでも君に近付けるかもしれない。


もしそうならば、

いつまでも続け、八月よ。












追記


もし本当に九月が訪れたならそのときは、


十六日の日曜日に京都・中書島MICAで


アサオカ01とツーマンで片山道郎アコーステイックソロライヴやりますのよ。


だからもし万一・・・・そのときは


京都・中書島に



来ておくれやす。




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八月よ終われ

2018-08-28 21:39:49 | Weblog

永い永い永い八月をまるで無呼吸で潜り抜け


僕達はやがて九月に到達するのだろう


とは言ったものの現時点では


まるで南極点みたいに遠く感じる九月





様々な事象が進展し



同じように様々な事象が後退した



そのどちらだとしても  もう僕には



あまり関係ない出来事のような気がしていた



だって



興味持てないんだったらそれはそれまでだろ



万事に、どんなことにでも深くコミットして行けるワケではない



俺にそんな体力はない


そんな気力もない


そんな時間もない・・・・・・・・・・・・・・・かな?



いや 時間ならいくらでもあるんだ


ただそれが僕に「使えるか」「使えないか」ってだけの話で




それってさ


「もう電車なくなった」っていう物言いと同じで可笑しい



電車は存在するのだけれど、もう自分が乗れる範囲では動いていない




ハァ(タメイキ)



終電と言えば昔・・・・まだ二十歳そこそこだった頃


大阪は御堂筋線の心斎橋で佐治と二人で飲んでて


地下鉄の最終に乗り遅れそうになって


佐治が俺のために身体を張って電車を停めておいてくれたことがあった



ああゆう時の佐治は強引でパワフルで



すごかったなあ


懐かしの我々の「TWO OF US」



しかしあの頃は有り余るほど時間があった気がする


あの膨大な「豊穣な時間」たちは一体何処へ行ってしまったのか




あ、そうか


何処にも行ってないのか 電車と同じで



そこにあるけれど「使えない」だけ・・・・・・・・なのか





むむむ














八月よ終われ








今すぐ

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向日葵復活

2018-08-26 15:02:28 | Weblog

向日葵たち、見事復活しているのがお解かりでショウか。


俺の恐れているような「八月ループ」が起こらない限り、夏の盛りもあと少しなので、

向日葵たちには頑張って持ちこたえて欲しい片山道郎2018年古都にて。


ところでさっきの続き・・・・

その後、海の魚は人間を認識しているだろうか?という疑問を抱いたのだが、

果たして、どうなのだろう?

釣り人は時々、「ここの魚は賢いから餌だけ食われてしまった」みたいなこと言うけど、

魚が「フッフッフッ、釣り人め、針になんか引っかからないで餌だけ食ってやるぜ」

みたいな感じで、針をよけて餌を食ってるとは思えないのだがね、俺には。

大体が・・・・・この海(もしくは河)の外には広大な「陸地」が広がっていて、

そこには陸上生物である我々が暮らしていて、その中の「釣り人」と呼ばれる人々が

自分達(魚)を喰うために針に餌をつけて「釣り」をしている・・・・・・という事実は恐らく、

認識していないであろう、と思う。


でもそういえば時々、水面からジャンプする魚っているよな。

飛び魚なんか、滑空して「飛ぶ」し。


むむむ。そうだ、アマゾン川のピラニアは、

人間が河に手を入れただけで指を食っちまうらしい。

そうなるとピラニアは人間を認識している、と思える。


鯨は?・・・・・・・・・「知能が高い」と聞くけど、どうなのだろう?

イルカは?・・・・・・・・・・サメは何も考えてなさそうだが。


「貝」は?

「貝」たちは一体、どんなことを考えているんだろう??????????????



これを考え出すと結局「答えがない」し、

いつまでもいつまでも、下手したら一生悶々としてなくちゃならないので、


もうどうでもいい


ということにしておく。


そんなこと考えたって何の徳にもならないし、

誰も感心なんか、してくれやしないのだ。



p.s.


一番左の向日葵の茎を、支柱に結んでいるのはデニムの切れっ端なのですよ。

ははは、何となくお洒落・・・・と一人で悦に入っていたりとか。




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向日葵救済作業(園芸はあなどれない)

2018-08-26 12:31:42 | Weblog

壊滅状態だった花壇の向日葵たちを救済した。

写真は救済前の状態である。ひどいでしょう?

これを、支柱を建て直して、折れ曲がった茎を伸ばして凧糸で支柱にくくり付け、

とにかく植物本体にダメージを与えないようにそっとそっと、

デリケート極まりない感じで作業を行ってきた。

そして水をたっぷり与えた。

結果は良好、恐らくは・・・ほとんどが復活してくれる・デ・あろう事を確信した。


さてその作業中。

小さな蟻が、葉っぱから俺の手に、「よっこらしょ」って感じで、登ってきた。

むむむ。全然かまわないのだが、やはり、「蟻は人間を認識していない」のだな、という

思いを強くした。

なんのこっちゃ?と思われるかもしれないが、このことはこのブログで過去何回か、

書いてきたことであるのだ。

つまり、蟻は人間の存在を認識せずに生きているが、例えば蚊は違う。

同じくらいの大きさなのに蚊(の雌)は・・・・人間の血を吸う。だから人が来ると寄ってくる。

蚊は確実に人間の存在を知っている。

最近、ネットの記事で目にしたのだが、蜂(多分スズメバチ)は、

人間を顔で個体認識している・・・・らしい。

すごい。カラスも人の顔を覚えるフシがあるが、蜂は昆虫のクセに、偉い奴だ。

蚊はさすがに、人の顔までは認識しないであろう。

蚊はこの際置いておいて、

我々から見たら同じような大きさ(いや、大きさもだいぶ違うかな?)の蟻と蜂で、

知能(というか単に認識能力というか)に大きな違いがあるのは不思議。


俺の向日葵の猫の額ほどの・・・いや、一畳半ほどの花壇には他にも

アゲハ蝶が訪れていたし、ショウリョウバッタが向日葵の葉を食っていた(追っ払った)し、

小さな蜘蛛が巣を張っていたし、

足元を見たらチラチラッという感じでトカゲが走り抜けた(本当)。リザード!小さいけど何て美しい。

もう何だか小さな生き物だらけで、立派な「環境」であった。

彼らから見たらここはジャングルのような森なのであろう。


同じような感じで宇宙には、

我々が感知できないほどのスケールで、

超・超・超・超・巨大な生き物が上から覗き込んでいても全然おかしくないよな・・・・



などと思うのです。




しかしこの小さな花壇の向日葵たちの復活は、とてもとても嬉しい。

これくらいのことでこんなに充実感と幸福感を味わえるのだから・・・・園芸はあなどれない。







復活後の写真は、また載せます。

(
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今年の八月は終わらない(かも知れない)。

2018-08-24 22:32:17 | Weblog



まだ八月なのか?とついさっき気付いて、愕然とした。

この八月はしかし、色々なことがあり過ぎる気がしている。


アンチビリーの誕生日で、難波の地下街でデ・ジャ・ヴに飲み込まれそうになったのも、

「あの海」で蒼に同化してしまいそうになったのも、

年老いた母と、今は亡き父の思い出話をしたのも、

向日葵の(茎の)補修に必死になっていたのも、

サリンジャーの新訳本を買って読んだのも、

軽い(とは言えキツイ)熱中症で高熱を出して長い長い悪夢にうなされていたのも、

天体望遠鏡で月のクレーターをこの目で見たのも。


全部、今年の八月の出来事だ。

しかも、まだ終わってない、と来た。


まだ八月なのだ、夏、夏、夏、の真っ盛りなのだ。

今日は豊岡でミンミン蝉の鳴くのを聞いた。ツクツクホーシはまだなのか?


そういえば

今日の早朝にはまだ、台風の心配をしていたのだ我々は。

幾つ台風が来た?

逆走台風を含めて?

台風ってこんなにポコポコ生まれては来襲し、

あまつさえ上陸して好き勝手に振舞う「輩」であっただろうか?


否!

否!

否!


奴等のおかげで俺の大事な向日葵畑(一畳半ちょっと)は昨夜、

壊滅的な被害を被った。

今朝見たら、まるでジェノサイド(大殺戮大会)の後・・・・のようだった。胸が痛む。

俺に出来ることは「悼む」ことだけだ。

マゾか俺は。


ああ。


だが、まだ八月は終わってさえいない。

終わる予兆も、ない。

やがて来る(筈の)、九月には何が起こるだろう?

その前に、

・・・・・・・・・・・・本当に八月は終わるのだろうか?


八月三十一日の次の日には知らん顔をしてまた、

八月一日が来るのではなかろうか?




暗転
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言葉はもどかしい。

2018-08-21 21:50:24 | Weblog


前回の日記でも言ったが

サッチモの「WHAT A WONDERFUL WORLD」の訳詞を自分なりに作ってみたら、

とても気に入ったモノが出来てしまったので嬉しくて、

今日は一日頭の中でそれを歌いながら仕事した。


ほとんど脳味噌お花畑状態である。


しかし、久々に英語の翻訳・・・・の(簡単な)真似事みたいなことをやってみて、

やっぱり一人称単数が難しいな・・・・・と思った。

翻訳の場合は、「Iをどう訳すか問題」である。


この問題は翻訳以外の場でも頻繁に出現する。


つまり、自分のこと言う時に、

「僕」じゃ弱すぎる(気が弱い感じ)し、

「俺」じゃあ強すぎて、傲慢な感じ・・・がしてしまうのだ。

「私」だと堅すぎる。「アタシ」だと(男の場合)、オカマ感が漂う。



それぞれの

「弱すぎる自己」


「傲慢な自己」


「堅過ぎる自己」


「オカマな自己」(←あるのか?)


を表現したい時はとても便利なのだが、


それの、どれでもない「素」の自分・・・・として発言したい時にふさわしい自分自身の呼称が、


ないのだ。日本語ってオモシロイ。




同じように


二人称単数も難しい。



「オマエ」だと、親密な感じもするのだが、「上から」感が拭えない。


「アナタ」だと、少しよそよそしい。


「君」  っていう言い方、僕(片山道子)も・・・よく歌詞とかブログでは使うのだが、


現実に使うと、ちょっと気障・・・・・って言うか「架空」の感じが してしまう。


「物語的」・・・・と言うか。でも、だから良い、っていう側面もある。



「アンタ」ってのはちょっと、突き放した感じが し過ぎるし、



兎にも角にも、言葉っていつもいつも、もどかしい。







言葉がもどかしい、と言えば思い浮かぶのが、有名なRCサクセションの名曲



「君が僕を知ってる」(訂正、「たとえばこんなラブソング」だった!)の中に出てくる



「だけど 言葉で何が言える?」というフレーズだ。



中学生だった頃に初めて聴いて、この言葉(概念)に、ショーゲキを受けた。



「言葉」というものの 「もどかしさ」 を、あっさり、ストレートに看破してしまっている。



すごいなあ。





でも今では僕(片山道子)は逆に、


「言葉でしか言えないこと」も、この世界には、(随分多く)あるよな・・・・・・・と思っている。



言葉って複雑で、素敵で、奥深くて・・・・・面白過ぎる。











ワンダフル・ワールドの訳詞の「I」は、ランブルフィッシュの佐治を念頭に、


「俺」にしてみたのだ。



佐治には「俺」っていう一人称代名詞がよく似合っていた。







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8月のあれこれ、そして9月へ。

2018-08-19 14:22:00 | Weblog

アレサ・フランクリンがとうとう逝ってしまった。

体調不良とか、危篤・・とかのニュースはちょっと前から流れていたのだが。

悲しい。

俺がアレサの歌唱に初めて触れたのは1980年代、

恐らく多くの人がそうであったろうと推測するのだが、

映画「ブルース・ブラザーズ」での パワフルな最高の名演、というか名唱、

「THINK!」であった。

後で、アレサは、ベルーシとエイクロイドに深く感謝していた、という話を聞いた。

あの映画の影響力は大きく、

あれで古のブラックミュージックの再評価、というか再ブームが起きて、

アレサたちは「救われた」と感じていたらしい。

映画公開当時の1980年は、R&Bやソウルやブルーズは「時代遅れ」みたいな感じで、相当下火になっていたみたいだ。

確かに・・・1980年前以前くらいの時代って、

「ディスコ全盛」だったかも。クソみたいなディスコミュージック。


まあ、とにかくあの映画は本当に素晴らしい。

ドタバタ・スラップステイック・コメディとしても最高級。

クレイジーなカークラッシュものとしても最高級(今ではあんなのは出来ないらしい)。

そして、古いブラックミュージックへの愛情。

ホンモノの超・大物ミュージシャンが惜しげもなく登場して、演技までする(笑)。

永遠の俺のナンバーワン映画である。何度も何度も何度も観た。

勿論、俺もアレで、ソウルやブルーズの良さに目覚めた。そして彼らのファンになった。

(映画の中の音楽性はブルーズより、だいぶR&B寄り・・だよね。)

今でもそうである。(俺の嗜好性はどちらかというとブルーズ寄りになったが。)


しかし、

今回アレサが逝ってしまったことで、あの映画に出たゲストミュージシャンが

全員、鬼籍に入ってしまったことになる。

むむむ・・・・・時の流れを感じずにはおれない。

アレサよ、安らかに眠って下さい。



昨夜は我々のバンド、「ROCA'66」のスタジオ入りの日、であった。

メンバーと会えるのは、それだけで嬉しい。

ギター赤井は、この盆にまたひとつ苦難を乗り越えてきたらしく、

多少弱った姿で現れたが、ギターは絶品だった。

一緒に演奏しているこちらがゾクゾクしてしまうようなギター。

ベース伊藤も、ドラム飛澤も、

しばらく音あわせしてなかったのに、息ピッタリである。

正確さとラフさを併せ持つリズム隊。

我々四人が「ROCA'66」という名の下に集って、練習して、

ライヴハウスに出演する、というのはとても希少なことだ、と痛感する。

一緒に過ごせるこの僅かな時間は、とても大切なものなのだ。


我々の次のライヴは9月22日、大阪・中津のVI-CODEにて。

演りたい曲、聞いて欲しい歌が、どんどん増えていく。

しかも、研ぎ澄まされていく。

ライヴに、来れたら来て欲しいよ。


と、そのROCA'66のライヴの前に

片山道郎ソロ(アコースティック弾き語り)を、京都、伏見桃山の、中書島のBAR「MICA]で演りマス。

アサオカ01とツーマンで。

2018年9月16日、日曜日。夜7時から。

小さな店での、ほとんどナマ音の、「親密な感じ」のライヴになる、と思うので、

それも来てくれたら嬉しいデス。

さっき、それ用にアコギで一人で練習してたらふっと、

もしかして「WHAT A WONDERFUL WORLD」の日本語詞、俺・・・作れるんじゃね?

と思いついてトライしてみたら、あっさり出来た!

直訳で、しかもちゃんと歌に載せられる歌詞。

我ながらすごくいい訳詞が出来た。それ16日にMICAで演るから、聴きに来て欲しい。






写真は、2018年8月の「ROCA'66」。



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天体観測、そしてほんの少しの追憶。

2018-08-18 14:15:22 | Weblog

小ぶりな天体望遠鏡・・・・を妹が買っておいてくれてた(格安だった)のを先日、

やっと京都に持ち運んだ(妹よ、ありがとう)。

使い方が全然判らないので、まずは大きな目標物から、と思い

昨夜、

月(MOON)に望遠鏡を向けて、もしかしてこれで見えるかな?と覗いてみた。

あんな大きな天体にさえ、なかなか照準が合わなかったが

十数分の格闘の後、見事に月(MOON)に照準とピントが合って、

美しく半分だけ輝く月(MOON)、そのクレーターやなんかを仔細に眺めることが出来た。

・・・・・・・・・ささやかに感動。

当然と言うか何と言うか、その月(MOON)の写真を撮ることは出来なくて(スマホ接続できればいいのにね)、

残念だから、望遠鏡の写真を撮って載せてみた。

月(MOON)の近くに、星が一個、輝くのが見えたので興味本位で(興味以外に何があるのか?)

あれは「惑星」のどれか・・・であろう、と推測し(「恒星」だと遠すぎてちゃんと見えやしないからね)、

そちらにもピントを合わせようと頑張ったのだが、薄ぼんやりとしか合わなかった。

あとでネット調べて見たら、あれは木星だったようだ。

もっと照準合わせとピント合わせが上手くなったらいつか、

土星、そしてその憧れの「輪」を、この目で見るのが

この天体望遠鏡を使っての、俺の、最終目標である。

いつか見ることが出来るだろうか。盆休みが終わって仕事が始まったら

そんなことしてるヒマはないかもしれない。

でもいいや、遠く土星の「輪」に憧れを抱いたまま俺はこの太陽系第三惑星の地表を走り回ってれば

それでいい・・・・のかもしれない。

さてしかし、

いくら「夏休み」とは言え、

最近の俺のこのブログって、小学生っぽいよね?

天体観測、海水浴、向日葵栽培。

一応、「ロック」なのだけれど主眼は。

でも、いいことだ、という事にしておこう。

無限の大宇宙も、神秘の大洋も、植物の生命力も、

全部が全部、ロックンロールにとってさえも、「とても大事なこと」なのだ。

おお、そういえば・・・向日葵の前は「読書」だった。サリンジャーの新訳。

「読書感想文」と取れば(まだ「感想」は、ちゃんと書いてないけどね)、ますます、夏休みの小学生。ははは。

しかし、

二十代、三十代の頃はこうではなかった気がする。

自慢にもならないが・・・・・・・・・

バンドでのスタジオ、ライヴ、ライヴ!の合間を縫って、夜ごとのバーめぐり。

稀には、酔っ払っての乱闘騒ぎ、朝起きたら傷だらけの血まみれだったことも。

難波の路上で(酔っ払って)寝てしまったこともあった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・バイク事故もあったな。

そしてここに「書けない(書きたくない)」ような出来事の数々。

(もちろん、「危ないこと」や、「悪いこと」ばかりではなかったのだがここでは、そういうことだけピックアップして書いている。)

うーん、今の方がいいや。

あの頃はあの頃で楽しかったけどね、もちろん。

でもヒドいこともいっぱいあった。


あの頃があってこそ、の「今」なのだ、とつくづく思う

2018年、盛夏過ぎ。
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「あの海」、2018年8月。

2018-08-16 16:40:18 | Weblog

今年の海は良かった。

こんなの、何年ぶりか?というような大ヒット。

人が、全然いなかったのだ。

この浜辺は、昔海水浴場だったのが廃止になって、今は何もない、という所で、

ここに行き着くまでにすごい細い曲がりくねった道(ロングアンドワインディングロード?!)を

通らねばならないし、着いたら着いたで売店もない、トイレもない、

自動販売機すらない、勿論監視員などいるワケもないから

万一、溺れたら道子はこの海で潔く死なねばならない。それはそれで、良い。

でも、そう、何もない代わりに、人もいないのだ。こんな素敵な海は他にない。

借りてもないのに貸し切り状態。まるでプライヴェートビーチである。

まあ、他に少人数の家族連れが2組くらいいたが、そんなのは視界にも入らない。

下らない音楽を流す奴もいない。

ただ晴れた空と、目の前の瀬戸内海があるだけである。

海!

この岡山県笠岡市の海には毎年来ていて、

以前は、父や母や、祖母や兄妹や甥、姪や、親しい友達を連れてきたりしてきた。

その都度、ビーチボールを持参したり、パラソルを持参したり、

浮き輪、水中眼鏡、ビーチチェア、テーブル、

そしてそして、アコースティックギターや、

ジョニ・ミッチェルを浜辺で聴いたらすごくいいかも・・・と思いついて

ラジカセを持参したり、いろいろと試してきた。

浜辺で聴くジョニ・ミッチェルは勿論、最高に良かったのだけれど、

今回は、

何も持たずに、ほとんど手ぶらで行ってみたのだ。

(ビニールシートと冷たいお茶とお弁当は買っていったのだが。)

これがまた、非常に良かった。

海を十分に満喫するためには、何もいらないのだ、ということがよくわかった。

海では俺は、ギターさえいらないのだ。

酒?そう、酒もいらない。

海水は澄んでいて、暖かい。

ゴーグルも水中眼鏡もなしで、海の中で目を開けたら水中は青みがかって、とてもとても綺麗だった。

浅瀬の浜辺の海中に注ぐ陽光。この季節だけ見ることが出来る景色。

もし買えたとしても・・・・ボートなんか邪魔なだけだ。

ジェットスキーもうるさくて、余計なだけだ。

俺はあんなもの、一生涯、買ったりしないであろう。

手ぶらでいいのだ。

何もナシで、誰もいない海に行く。

こんな素敵なことはない。

とてもとてもシアワセだった。

ふと、

俺が死んだら遺灰を、この海に撒いてもらったらどうかな?という考えが浮かんだが、

まあ、その件は、

今日明日に決めねばならぬ事でもなかろう(そう願おう)、と

思ってそのことはそれ以上考えるのを止めた。


2018年8月12日の海。



写真の真ん中にポツンといるのは、私です。
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