この数日間、歯の痛みに悩まされながら生きていた。
歯・・・・いや、虫歯ではないのだ多分。
歯の根元あたりが化膿したのだ推測するに。
ここのところ疲れ果てていて、抵抗力も衰退していたのかもしれない。
そういうのって最大級の激痛ではないのだがそれに準ずるくらいの「準・激痛」ではある。
痛み止めの効果が驚くことに、長続きしない。
クスリが、効いた瞬間もわかるし、切れた瞬間もわかる。
感覚がそんな風に変に研ぎ澄まされていた。
その中で考えたのだが、
「痛み」って純粋に個人的なものだ。
これは、僕にしかわからない。他人には伝わらない。
例えばこれがもしも仮病で、「痛い」というのが嘘であったとしても
そのことの真相は、僕にしかわからない。
しかし痛いのは困る。
「痛い」、という以外のことが考えられないのだ。
「痛い」ということを考えたってなんの足しにもならないのだが考えてしまう「痛い」と。
痛みに意識が集中する。すると余計過敏になって、痛みを感じやすくなる。
悪循環なのだ。
痛みの記憶って、残らないようになっている、と何かの本で読んだのだが、
確かに具体的な身体感覚としての激痛は思い出せない。
子供の頃、ジャングルジムから落ちて脱臼した時はとても痛かった。
医者の話では脱臼は骨折よりも痛いのだそうだ。
8年くらい前に骨にひびが入った時も痛かった。
「骨にひび」は、医者によれば「骨折」ということになるのだそうだ。
無理して歩こうとしても歩けない。「痛み」に支配されたような気分だった。
激痛は身体感覚のすべてを凌駕するのだ。
しかし、「痛み」って何のためにあるのか?
身体からの重要なサイン、っていうのはわかる気もするが、
ただのサインがこれほどの苦しみになるなんて、おかしくないか?
最大の激痛は、歯医者で麻酔なしで虫歯を金属製のドリルで削られていて、
ドリルの先が神経に触れた時の痛みだと思う、今まで味わったものの中では。
しかしあれだって「神経」を殺してしまえば感じないのだ。
あれほどの激痛が、だぜ。
もう、わけわかんないよな。
そしてもっと言えば「痛み」だけではなく、すべての感覚が実は
「痛み」と同じように、純粋に個人的なものなのである。
快感も、空腹も、悲しみも、飢餓感も、切望も、絶望も、愛おしさも。
つまり我々は自分で思ってる以上に、
個人的な宇宙に生きているのだ。
ああそうですか。
何でもいいよ、この痛いのさえどっか行ってくれたら。
追記・もう痛みは去りましたゆえ、ゆめゆめご心配なさらぬように。
私は元気です。