気がついたら私は、真夏の真っ只中にいる。
だが、いつの間にそんなことになっていたのだろう?
私にはまったく覚えが無い。
いつもいつも、耳鳴りのように私に付きまとっているある種の音は、
蝉の鳴き声として今や、実体を持った。
ふとカレンダーに目をやれば、なんと明後日から八月だという。
そんな馬鹿な。
フジロックも終わっている。
・・・そうだ、フジロックのことだけはかすかに覚えている。いや、行ったのではない。
ラジオで聞いたのだ、インターFMで。
リアルタイムではないが、怒髪天のライヴも聞いた。増子兄ィが苗場で、ジョージとシャウラと喋ってるのも聞いた。
大トリのキュアーは、近所のバー、MICAで、ライヴ配信の画像を見た。これはリアルタイムだ。
そして、そんな風にして明日で2019年の7月は終わろうとしている。
待っているのは灼熱の八月である。
今年の八月は私を、どんな風にして打ちのめすのであろう?
夏が過ぎ去ったとき、私の中に一体、どれだけのものが残っているだろう?
不完全燃焼した焚き火みたいに、残り火だけが燻っている・・・てなことにならないことを祈る。
しかし私はこれ以上、何を望むのだろう?
夏が終わってみないとわからない。
でも
夏は、終わることさえないかもしれない。
一旦始まってしまった物事を終わらせるのは至難の業なのだ、この世界においては。
何一つ、終わってはいない。
「あれ」も、「これ」も、「それ」も。
でもそれは、喜ぶべきことなのかもしれない。
何もかもが続いている。
たとえそれが、慣性だろうが惰性だろうが、かまうものか。
私が大昔に心から望んだものは、それだったのだ、つまり、「継続」だ。
・・・・・・・・・望みは、叶えられたのだろうか?
そうかもしれない。
もし、そうであったなら この次に、私が望むべきことは
「夏の終わり」なのだ。
夏よ、安らかに終われ。
出来ることなら、明日にでも終われ・・・・・・・・・・・・暑いの、もう飽きたからさ。
暗転
写真は、最盛期の、私の今年の向日葵。
このあとは枯れていくだけである。だがそれもまた愛おしい。