トラック・ドライヴィング・マン。

2023-04-25 20:34:29 | Weblog

僕は無名のミュージシャンで、

世を忍ぶ仮の姿として普段の平日はトラックに乗って、

作業着などを着て、

運送業者のふりをして暮らしている。

時には少し遠くまで行って、高速道路のサービスエリアにトラックを停めて、

クルマの中で夜を明かしたりもする。

気分は長距離トラック運転手である。

明日はそれで、中国地方(チャイナではない)に出かけて、クルマの中で一泊する。

ふと思い出すのだが、

アメリカ南部の、1970年代に隆盛を極めたサザン・ロックバンド、

レーナードスキナード、という名の素晴らしい音楽集団がいた。

彼らのことを大好きだったのは今は亡き

ランブルフィッシュの佐治くんだったのだが、後に、僕も大好きになった。

その、レーナードスキナードの楽曲の中に

「トラック・ドライヴィング・マン」というのがある。

ちゃんと日本語訳を見たことがないのだが、

サビの歌詞でアイアムアトラック・ドライヴィングマン、と

言っているので主人公はトラック運ちゃんであろう。

ふと思うに

トラック運転手が主人公のロックソング、というのを僕はこれ以外知らない。

そう考えるとやっぱレーナードスキナードは

我々「庶民」に寄り添ってくれたバンドだったのかもしれない。

トラック運転手なんていうのは「庶民」中の「庶民」ど真ん中である。

やっぱサザン・ロックはいいなぁ、と思う。

オールマン・ブラザーズ・バンドだって大好きである。

来日公演だって行った。佐治くんと一緒に行った。

あの時のギターはデイッキー・ベッツだったと思うのだけれど、

デイッキー・ベッツだって最高である。

時期はそれより後になるのだが、

デレク・トラックス在籍時のオールマンを見てみたかったなぁ、という気はするが。

いや、それを言うならデュアン・オールマン在籍時の・・・・・。

これを言い出すときりがない。

 

 

ところで、

ランブルフィッシュの前身バンドの頃から僕は

佐治くんと友達なのだが、

あの頃(高校生だった頃)の彼の書いた歌詞の中に

「夜の ハィウエイを飛ばすだけの そんな人生は もう まっぴらだ」

という一節があって、

これは・・・・疲れたトラック運転手の独白みたいに聞こえる。

これを書いた当時の、彼の・・・真意は違うかもだけど。

 

僕は時々、その歌を思い出す。

そして、トラックの中で歌ってみたりする。

 

とてもヘヴィで、いい歌だったんだよ。

 

「遊び疲れた夜」っていうタイトルだったな。

 

 

 

 

しかし、「遊び疲れる」っていう感覚は・・・・・・若いなあ、と

今では思ってしまう。

 

 

 

 

若くて、怖いもの知らずで。

 

 

 

 

 

 

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文学とロック。

2023-04-24 20:57:32 | Weblog

 

 

「ロック」というのは僕にとって

文学が音楽と言う肉体性を持ったもの、という側面があるのだ。

 

だから「音」が大事なのと同義に、

「言葉」も大事なのだ。同等に大事なのだ。

 

 

だから、今の僕の望みは、

僕の中のすべての文学をロックに捧げたいのです。

 

 

 

そして「音」と一体化する。

 

 

それが不可能なはずはないのだ。

 

 

 

きっとやれると思う。

 

 

だからそれを確認しに来て欲しい。

 

 

2023年の、5月6日に、

 

 

京都・大宮のライヴハウス「夜想」に。

 

 

 

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50年。

2023-04-23 18:45:12 | Weblog

母親が今年で80歳になるらしい。

 

ふむふむ。

それって、つまり、我々の一家が

東京・新宿・戸山ハイツから

広島県福山市に移住してちょうど50年経つ、ということでもある。

僕は新宿の東戸山小学校に50年前の今月、入学して、

一学期を終えて夏休みが終わってしばらく経った頃に、転校したのだ。

 

50年って、すごくない?

歴史だ・・・・。

それはつまり、1973年のことで、

母親は29歳、兄は8歳、僕は6歳、妹は1歳。

(おとーさんの年齢はわからない。なにせ、彼は自分の誕生日を

知らなかったのだ、孤児ゆえに。)

 

1973年と言うと思い浮かぶのが村上春樹の二作目の長編

「1973年のピンボール」だ。

あの作品での1973年が、何故タイトルになる程象徴的だったんだっけ?

・・・・孤独な主人公「僕」が、

神戸で「鼠」と競ったピンボール台(3フリッパーの「スペースシップ」!)

を、東京(しかも新宿だった気がする)で見つけて夢中になって、

その台のハイスコアを記録する程のめり込んで、

でもある日、その台はゲーセンごと消えてしまった・・・・のが

1973年だったんじゃなかったかな。

本を取り出して読んで確認するのが面倒くさいから、

きっとそうだったんだ、ということにしておこう。

 

あと、誰が言ったのだか忘れてしまったのだけれど、

「新宿は1973年(の暮れ)を境に、急速に面白くなくなってしまった」、

という説もあった。

 

チャボさんも確か、「その頃(1973年ごろ)には俺ももう、

毎日新宿の街をうろついてる感じじゃなかった」と言っていた。

 

1973年というのは何だか「分水嶺」的な年・・・なのかもしれない。

 

おそらく・・・1974年正月の新宿では既に、

何かが「終わって」いるのだ。

 

 

あてずっぽうだけど。

 

 

 

 

それはいいとして、あれから50年。言い換えれば半世紀である。

 

僕ら家族の住んでいた都営住宅「戸山ハイツ」は今では

「限界集落」などと言われているらしい。

住人の高齢化率が高く、65歳以上が6割を占めるのだそうだ。

 

奈良の高校を卒業したあと僕は、新宿に「戻る」つもりでいた。

まだ、父の実姉も東京にいたし・・・・・

(父は孤児として育ったのだが成人後、実姉と奇蹟的な再会をしたのです。)

 

でも卒業近くの頃、「東京に行く」と言ったら佐治くんが激高して、

「オマエは俺らと大阪でバンドやるねん」と

強引に説得してくれたので、僕は結局、関西に留まることになった。

そのことは・・・ははは、ちょっと嬉しかったんだってばさ。

 

おかげで色々と、楽しい目に遭ってきた。

 

その、「楽しい目」は今でも、続いているのです。

 

ゴールデンウィークの最終日一日前の絶妙な日程

(2023年5月6日)で、

今やってるバンド「ROCA’66」のライヴがあります。

 

場所は最高に趣味のいい、音もイイ、素敵すぎるライヴハウス

京都・大宮・「夜想」。

 

昨夜はそのROCA’66の練習スタジオで、

今の仲間たちと

爆音で、自作の「持ち曲」を演奏して、心から気持ちよかった。

 

これが「楽しい目に遭ってきた」の続き、でなかったら何なのであろう?

 

 

 

 

まだまだそれが続くことを願う。

 

 

 

今から50年後?・・・・にはさすがに、生きてねえと

 

思うけどさ。

 

 

でもわかんねえな。

 

 

 

50年後、まだバンドやってたりしてな。

 

 

 

 

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我々ROCA’66の、5月6日のライヴのこと。

2023-04-19 20:10:46 | Weblog

っていうか気が付いたらゴールデン・ウィーク間近な今日この頃。

皆さん元気ですか。

俺は・・・落ち込んだりもしたけど、元気です(魔女見習いか俺は)。

さて、ライヴです。

「この歳でバンドなんかやってるわけないだろ」

と言われるような歳の我々ですが、

他人の基準は関係ないです。

バンドやってます、そしてライヴやります。

来たる2023年のゴールデン・ウィーク最終日の一日前、

5月6日 土曜日。

場所は、京都・大宮・「夜想」。

対バンは、RAGADROPS

    ジェロニモレーベル

    ハルオアローン(ビレゾンズ)

 

と、我々ROCA’66の四組。

 

ジェロニモレーベルは多分、もと「だいなし」の上杉君のバンドだし、

RAGADROPSはあのライヴハウス・梅田ハードレインの

初代店長だった「やっさん」のバンド。

そして以前「やってかましたろブラザーズ」の」メンバーだった「やっち」が

このバンドのギタリスト。

昔からよく知ってる、「盟友」達だ、と言っても言い過ぎではない。

 

こないだの難波Meleでのライヴみたいに

全然知らないバンドたちと切磋琢磨するのも

ライヴハウス出演の醍醐味なのだが、

昔からの友達と対バンできるのも、やはり嬉しい。

 

だから絶対来て欲しい。

歳なんて関係ねえ。

我々は「初期衝動」を抱え込んだままで

アホみたいな大人になった。

いや、実はまだ大人になり切れてないかもしれない。

ロック出来ればそれでいいのだ、と けっこう本気で信じている。

いつかは、やれなくなると思う。

やれなくなったら、その時はその時だ。

やれるうちは、やる。

溺れる者がしがみつく「ワラ」みたいな感じで。

 

5月6日の夜想は、

OPEN 18:30  START 19:00

料金は¥2000(+1DRINK¥500)

 

最寄り駅は阪急・大宮だ。駅から歩いて10分もかかりゃしねえよ店まで。

 

我々の出番は3番手、なのだけど、一番初めから来てほしい。

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無為

2023-04-18 21:08:26 | Weblog

「バンドしようぜ」というネットで出てくる短い漫画があって、

時々更新されるから読んだりするのだけれど。

 

いちばん新しい回で、

高校の同級生と主人公が(家電量販店の店頭で)再会して、

「オマエ、バンドは?」の主人公の問いかけに

同級生は「やってるわけないだろ、この歳で」と答えていた。

むむむ。

主人公の年齢設定は40代半ばだったと思うのだが。

そうなのだ。

いろいろうまくいって、メジャーで音楽でメシ喰ってるような人

以外はこの歳で(ああ俺は主人公より10コも年上だ)、

バンドなんかやってるわけないのだ。

そーだよな。

でもなあ。

 

 

まだ

 

やることに

 

「意味」は、あると思いたい。

いや、それは間違いなくあるのだけど。

 

いろんな事が困難になりつつある、と感じてしまう今日この頃。

自由に生きることも、

奔放に振舞うこともとても難しい。

 

僕は昔から・・・「実利」とか「実益」とか「効率」なんかには全然興味なくて、

「空想」とか「無駄」とか「無為」とか、そういうのを

大事にして生きて来た。

 

そのことを悔いる気は、さらさらない。

 

「無為」に生きて、「無為」のまま死ぬのも

 

悪くはない

 

 

と思うのだがどうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「生産性」なんて、クソ喰らえの極致だ。

 

 

 

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読み終えた。

2023-04-16 19:36:32 | Weblog

昨日の朝、本を買いに行って

丸二日かけて、読み終えた。面白かった。

途中で出掛けたり、何行か読んでから眠ったり、

クルマ(トラックではない)の中で数ページ読んだりもしたした。

有意義な時間だった。

 

全体として納得いったのか?と自問すれば、それは、わからない。

 

身も蓋もないことを言えば、

僕が望んでいたのは「第一部」であり、

そこで完結してくれても良かった。

著者による「あとがき」によれば、

そうなる可能性もあったみたいなので。

 

その後の話(第二部と三部)は・・・・・・・・・・・・・面白かったので良し。

読書に娯楽性は大事である。

 

 

結論らしきものも、今回は出た。

論理的整合性に近いものも、あった。

 

おそらく、この本に関してはこの後、

何度か読み返すと思う。

 

簡単に納得できるような話ではなさそうなので。

 

 

 

それはそれとして・・・・・・

 

 

 

 

話は戻るのだが、

僕が何故「ノルウェイの森」をいまひとつ、受け入れられないのか、

その理由が分かった。

 

あれは「緑」の視点が強く反映されてるのだ。

っていうか、「緑」の側から語られているのだ。

 

まぁ・・・・・そりゃそうなるのだろうけど。

 

だから、あまりにも「直子」が報われないのだ。

 

「直子」が浮かばれない、というか。

 

「直子」に冷たい、というか。

 

「直子」に失礼、というか。

 

 

 

 

でもこの「街とその不確かな壁」の第一部においては

 

「直子」はまっとうな扱いを受けてる気がする。

 

「1973年のピンボール」の時みたいに。

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえば

 

この「街とその不確かな壁」では

「直子」という名前は出なかったんだな。

 

 

 

 

 

 

これが村上春樹の最後の長編・・・・・

 

 

ではないな、と思った。

 

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途中経過

2023-04-15 22:12:33 | Weblog

予想以上に面白すぎる読書体験をしている。

村上春樹の新刊、「街とその不確かな壁」。

 

初めの方はたぶん、ほとんど

まんま昔の「街と、その不確かな壁」なんだと思う。

でも70歳を超えた村上春樹が書くそれは、透き通るように美しい。

一行一行、味わい深い。そして、切ない。

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の、

「ハードボイルドワンダーランド」での主人公の、自身の死・・というか

「自身の消失」を受け入れた(覚悟した)後 の透き通った文章と近い。

途中から、話が「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」

の「世界の終わり」と同じだ、と気づく。

そりゃそうだ、「街とその不確かな壁」は「世界の終わり」という小説に

なったのだから当然と言えば当然だ。

同じエピソードが、細部は違う形で語られる。

でも何だかすごく不思議な気がしてしまう。

一度出た、自身の最高傑作とされる小説をこの人は、

書き直している!!!!!

すごい。「別ヴァージョン」っていうか

「本人によるカヴァーヴァージョン」みたいな感じ。

いや、こっちが「オリジナル版」なのか???

それはそれで、すごくワクワクする。

「影」の言葉遣いが違ったりして、面白すぎる。

 

そして

第二部から、主人公は同じで、全く違った世界での物語が展開を始める。

ええええ?地続きなんだ、現実と、「世界の終わり」の世界が。

 

この感覚は、ぶっ飛んでいる。

進化した、今の村上春樹はすごい。

 

もったいないから、ゆっくりとしか読めないから、

まだ全体の半分過ぎまでしか読んでない。

 

でもすごい。

面白すぎる。

 

 

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「街とその不確かな壁」を読み始める前に。

2023-04-15 11:47:09 | Weblog

さっき、雨合羽を着てバイクに乗り、本屋まで行って買ってきたところ。

歩いていける距離にも以前は、大きな新刊本屋があったのだが、

閉店してしまって、今はもうない。

何軒かあった小さな古本屋もみんな潰れてしまった。

本という文化は、本当に危ういのかもしれない。

僕は古本屋の店員であったことすらあるのだ。それはまあいい。

 

道中、思ったのだが、

もしかしたらこれが、春樹さんの新刊を買いに行く、という行為の

最後になるのかもしれない。

だってあの人ももう74歳だし、

この本はあの人の究極の原点回帰のような気がするから。

僕がいちばん初めに春樹さんの本を買ったのは高2の頃だった。

それは多分1983年くらいで、

「羊をめぐる冒険」が出版された直後だった。

友達の実姉が「ミチくんが本好きならこれ読んだらいいよ」と勧めてくれたらしい。

同時期に、まだまだコアなサブカル雑誌だった「宝島」に

村上春樹ロングインタヴューが載って、それが面白すぎて、

僕は一作目の「風の歌を聴け」から読んで行こう、と決めて、

近所の商店街のなかにある中くらいの規模の新刊本屋に行った。

こんな田舎にあんな本あるのかな?と半信半疑だったのだが、

ちゃんと、「風の歌を聴け」が、あった。「羊」もあった。

あの頃から春樹さんは人気作家だったのだ。

といっても、新刊が出たら20万部売れる、という

「本好き」ならみんな知っている、という程度の人気だった。

普通の人は誰も知らなかった。

今みたいなことになってしまったのは「ノルウェイの森」からだ。

僕はその頃は梅田に住むデザイン学校生徒だったので、

紀伊国屋とかの店頭をうっすら覚えている。赤と緑。

で、高校生の頃に話は戻って、僕は「風の歌を聴け」に深く感動してしまい、

続けて「ピンボール」も、「羊」も買い、

それからの人生は、エッセイとかも含めて春樹さんの本が出たら買う、

ということに自分で決めてしまい、着実にそうして来た。

オカネがない時でも、春樹さんの本は無理して買った。

そうするだけの価値はあった。

だから、誰かに貸して帰ってこなかったもの以外は

僕の持っている春樹さんの本は1,2,3作目をのぞいてほとんど初版である。

そんなの自慢にもならないのだが、

マリリン・モンローの遺品の中に、スコット・フィッツジェラルドの

「偉大なるギャツビー」の初版があった、という話を知ってから、

そうだな、50年か100年経てば初版を買った、ということにも

意味が出てくるかもしれないな、と思ったのだ。

その本と同時代を生きた証、みたいな。

今回手に入れた「街とその不確かな壁」も、奥付を見たら初版だった。

これでいいのだ。

とか偉そうに言っても、ある時期からその

「春樹さんの本が出たら買う」行為も、なし崩し的にグダグダになった。

翻訳ものとか、とにかくあの人の出版物は多い。

だから僕が、春樹さんの本を全部持っているわけではない。

でも長編小説と短編集とエッセイ集は、間違いなく買った。

春樹さんは研究本も多くて、その多くも買ったり借りたりして読んだ。

すごくいい研究本も稀にあったが、ほとんどは下らないものだった。

 

しかし、さっき「街とその不確かな壁」の第一ページ目を

ちらりと見てしまったのだが書き出しが

「きみがぼくにその街を教えてくれた」で、

これはやっぱりあれなのだ。

「群像」に載った幻の「街と、その不確かな壁」なのだ。

(以前の作品とはタイトルの句読点が違う。)

研究本の中に、中身を抜粋してくれたものもあって、

僕はその書き出しを知っていた。

やっぱり同じなんだ、これはつまりアレなんだ、

と知った時、ぞくっと寒気が走った。

 

 

 

 

写真は、本屋の店頭にあったポスター・・・・・に私が映る、の図。

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「街とその不確かな壁」は、明日買って読む。

2023-04-14 20:37:05 | Weblog

すっかり世の中のことに疎くなってしまっていて、

村上春樹の新しい長編小説が出ることを昨日、知った。

昨日というのは確か、発売日のはずで。

もう読んだ、という人も大勢いるのだと思う。

 

 

今から書く文章は、資料とかを調べずに、うろ覚えのままで書く。

 

 

 

「街と、その不確かな壁」というのは

一作目の長編「風の歌を聴け」で群像新人賞を受けたあとに

村上春樹が、二作目として書いた中編だったはず。

(後日訂正・書かれたのは「ピンボール」の次だった)

当時の「群像」誌に掲載、という形で発表された。1980年?か。

(後日訂正・「群像」ではなく、「文学界」だったみたい。)

発表はされたものの、

本人が出来を気に入らなかったみたいで、

単行本化もされず、もちろん文庫化もせず、

全集にも入らず、「幻の作品」となっていた。

当時の「群像」のバックナンバーを探せば読める・・・はずなのだが、

文芸誌とは言え雑誌だし、古本屋業界では今では超高値らしい。

僕は、村上春樹研究本でその存在を知って、読みたいと思ったが、諦めた。

 

でものちに この「街と、その不確かな壁」という作品の構想は、

ターボエンジンみたいな「ハードボイルドワンダーランド」

と交互に語られる形で「世界の終わり」へと形を変えて合体して、

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」という

村上春樹作品の最高峰と言われる(僕もそう思う)作品に結実した。

 

初期作品の核心は、「直子」の存在だった・・・・と僕は思う。

 

一作目の「風の歌を聴け」も、文中で巧妙に隠されているが

核心は「直子」だ。よく読み込むとわかる。

二作目の長編「1973年のピンボール」では

ついに「直子」という名前も登場して、彼女のことが語られる。

初期長編においては ほかの登場人物は一切、普通の名前を持たないのだ。

物語の最後で「僕」が再会しているのは疑いなく「直子」だ。

 

三作目の長編「羊をめぐる冒険」では、直子のことは語られない。

「直子」から離れよう、と春樹さんが思ったのかな?

この物語の核心は「鼠」にある。そして不思議な羊。

それでも(「直子抜き」でも)、これは素晴らしい作品だと僕は思う。

とてもとても好きだ。

 

そして次の長編はさっきの「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」。

 

これは「街と、その不確かな壁」の発展形として書かれたはずなのに何故か、

「直子」の影が薄い。

実は昔から、そのことが不思議だった。

「世界の終わり」の方の図書館の女の子はもしかしたら「直子」

なのかもしれないけど、記憶も失っているし、「心」も失っている。

「私の心を探して」とか言う。

「直子」だったとしても、彼女の抜け殻みたいな感じ。

でも「僕」は最後に彼女と森の奥で暮らすことを決断する。

それでも、その不可思議さも、この作品の魅力だ。

 

 

そしてその次の長編が、大売れに売れた、「ノルウェイの森」だ。

ここでは「直子」のことが正面切って赤裸々に語られる。

「直子」と、もう一人の女の子のこと。

もしかして装丁の緑と赤の赤の方は、「赤裸々」の赤なのかもしれない。

緑の方は言うまでもなくもう一人の女の子の名前と、

「陽光」のイメージの緑なのかもしれない。

でもこの作品は、赤裸々過ぎて・・・・たぶん、そうなのだろうけど悲しい。

何かちょっと「直子」の扱い方が違う気がするし。

だから僕は「ノルウェイの森」を、手放しに「好き」とは言えない。

春樹さんにとって(直子にとっても)、大事な作品だとは思うのだけれど。

大売れに売れたけど、それ以前の作品の核心を知らない人には、

読んでも何のことだかわからなかったと思う。

買ったけど読んでない、と言う人も多い、と聞く。

 

 

で、

春樹さんはここで「直子」について語るのをやめてしまった。

 

 

っていうか もしかしたら「語り終えた」のかもしれないな、と

僕は思っていた。

 

その後に出た、いくつもの長編小説は、今挙げた初期の作品に比べたら

ポテンシャルもテンションも「深み」も劣る。

ただ地の文章が濃密で上手いので、面白くは読めるのだが、

結局、何が言いたいのかわからないものばかりだ。

 

勝手に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」

までを仮に「初期作品」とする、として、

僕は春樹さんの初期作品は全部、二十回以上読み直している。もっとかもしれない。

(今は話を長編小説に絞って話している。)

でも「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」以降の作品は、

読み直す気がしない。

「ダンス、ダンス、ダンス」は五回くらい読んだかもだけど。

 

ただ春樹さん、短編小説とか、エッセイとか、

音楽に関したもの、とかインタヴュー集とか、旅行記とか、

ノンフィクション(あのサリン事件のやつ)とか、

僕は実はほぼ全部読んでいるけど、「長編小説」以外の作品は、

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」以降の作品も、どれも素晴らしい。

何回も読み直す価値もある。

 

やはり、長編小説は、作品の核となる

「磁力を持ったモチーフ」が大事なのかもしれない。

 

 

 

 

昨日発売された「街とその不確かな壁」では

モチーフとしての「直子」が再登場しているのに違いない、

と僕は思う。

 

こういう、最初期の作品のリライト(書き直し)を村上春樹が

やる、とは想像もつかなかった。

そろそろ、自身のキャリアの終わり、みたいなことを

意識されたのだと思うのだが、

初期からの読者としてはとてもとても、嬉しい。

 

 

明日買いに行くのだ、雨が降ろうと構わない。

ずっと、長いこと、読みたくて読みたくて、でも無理・・・と諦めていた

あの「街と、その不確かな壁」が何と、

(リライトされてる、とは言え)新刊として出るのだ。

 

 

文学的に、こんなに嬉しいことは、滅多にない。

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予定のこと。

2023-04-12 21:08:50 | Weblog

友達よ、今年(2023年)の6月3日は俺は、

今やってるバンド、ROCA’66のスタジオ入りすることにします。

お昼前後には奈良のお墓に行くつもりではあるのだけど、

夜は大阪某所の音楽スタジオでバンドの練習をする。

これはいいことなんだと俺は思うんだぜ。

何しろ、我々を繋げていたものは「バンド」だったのだし、

それは俺の中で今でも HOLYなものであるのだ。

HOLYっていうのは「神聖な」みたいな意味だと思うんだけど。

過去にどっぷり向き合うと同時に俺は

それを抱えたまま まっすぐ、未来へ向けて動くのだ。

それでいいと思う。

なにひとつ、ないがしろにはしない。

大事なものは大事にする。

感傷は捨てて行こうと思うのだが、なかなか難しい。

だからまぁ、感傷も背負ったままで

俺は今後も行くのだけれど、

とにかくさ、

それだけ言っとこうと思ったんだ今日。

来月・・・いや、2か月後の話なんだがね。

バンドが動き出すとさ、3か月先の予定を決めざるを得ないから。

もお盆のライヴまで決まってるんだぜ。

ははは。

先のこと決めるのが大っ嫌いだったよな俺達。

この6月3日に集まってたのだって、

時間すら決めなかった。

ははは。

 

 

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