ふと思ったのだが
我々は時間に縛られながら生きている。
昔、薬師丸ひろ子が歌った、来生たかおの曲で
「都会は秒刻みの慌ただしさ 恋もコンクリートの籠の中」
という歌詞があったが(あ、作詞は来生のお姉さんの方か)、
冗談抜きで我々の人生は「秒刻み」なのだ慌ただしさが。
「秒刻み」というのは時計で測る、もちろん。
ストップウオッチでもいいが、正確な、そういうものがなければ
「秒刻み」などという概念は、ない。
しかし。
「時計」というものが海外から輸入されて普及しだしたのは
当然ながら明治以降であろう。
それどころか
「秒単位」まで正確な時計、といったら昭和・・・・そう、
「クオーツ時計」の出現は1960年代後半である。
それの普及は1970年代だ。
それ以前はゼンマイの「機械時計」なので、
精巧なものでも一日に30秒以上、狂った。
一日に30秒狂ったら、一週間で3分以上狂う。
それで普通だった。
あ、もちろん明治以前は「機械時計」すらなかった。
どうやって時間を計っていたのか??????
その答えは、太陽の動きを観察するしかなかったのだが、
当然それでは季節ごとに時間が伸び縮みしてしまう「不定時間」でしかなかった。
夏と冬では昼間と夜の長さも全然違うのだ。
でも当時の人たちは「そういうものだ」と受け入れながら生活していた。
それで結構、不自由なかったのだ。
つまり、「秒刻みの慌ただしさ」というのは当然ながら、
現代的なものでしかないのだ。
僕はほとんど本気で、「時計がなければ時間なんてないだろう」、
という説を唱えているのだが、
実際、「秒」が測れなければ「秒刻み」なんてあり得ないのだ。
思うに大正のモダンガールたちは例えば「10分遅刻」なんてことは
経験してないであろう。
そこまで「時間」にシビアではなかったと思う。
もっとさかのぼれば
江戸時代の人たちは「30分遅れ」みたいなこともなかったはず。
いや、もしかして1時間くらいは遅刻ではなかったかもしれない。
それはもちろん、「時計」というものが存在しなかったからだ。
その反面・・・・というか何と言うか、
我々の時計は年々、その正確さを増して行く。
近年のいわゆる「電波時計」は100万年に一秒の誤差、
なのだそうだ。
あのね、そういうものの言い方自体「狂ってる」と思うんだがね俺は。
まああいいけど。
しかしね、
精神世界界隈では「電波系」って言ったらある種の狂人を指すんだよ。
ということは
「あまりにも正確なもの」は
「狂ってるもの」と紙一重なのかもしれない。
でも僕は実は
「秒刻み」という言葉が何故か、とてもとても好きなのです。
時間に追われるのはすごく嫌なのだけどさ。
なんでかな。
時計がなければ時間なんて無いだろう、と確信しながら
それでも
時計という存在が好き・・・・というアンビバレントのせいかしら。