クールの極致。

2019-08-31 16:26:33 | Weblog

運送屋の同僚でバイク好きな奴がいて、

今年の盆休みは八連休だったのだが彼はその期間のほとんどを

バイク・ツーリングに費やしたという。

九州を廻ったらしいのだ、一人で。クールだ。

僕もバイクは好きなのだが、ツーリングに行くタイプではない。

しかも一人で行く、というのはちょっと想像できない。間違ってもやらない、と思う。

しかし、考えてみたらトラックの仕事なんて一日中ほとんど一人で、

誰とも会話をすることもないし、それが苦痛にもならない。

というかむしろ、一日中一人でいられてラッキー、と思っている。

では何故、休日に一人っきりでツーリング、というのが自分にとってはありえないのか?

わからない。

僕としては・・・そういう楽しい体験は誰かと一緒にしたい気がする。

でも、一人でツーリングなんて・・そりゃ楽しいだろうなあ、と思う自分もいる。

しかし、そういう行為を「自己完結」と捉える人もいる。

誰にも迷惑かけないんだからいいだろ・・という気もするが。

しかしそういえば先述の彼は離婚して独り者なのだ。

配偶者の気持ちは、わからないでもない。奥さんからしたら、その孤独癖は迷惑千万だっただろう。

確かに・・・毎回、連休のたびに一人でツーリングに出掛けられたら寂しいと思う。


もし彼が音楽をやっていたら、一人で弾き語りするタイプだったのだろうか?

もしくは多重録音で宅録とか?

僕自身は、一人で弾き語りの形でライヴに出演することもあるのだが、

何度もやると、精神的に行き詰ってしまう。

内面的に入りすぎることがあって、救いがないのだ。

バンドの場合、メンバーの存在感やその個性が

楽曲に無限の可能性を与えてくれるし、「救い」すら、与えてくれる。

そしてその「救い」は、精神的な広がりにもなって、

ライヴハウスでより多くの人と知り合えたり、共感し合えたりするのだ。


だから僕から見たら、一人で音楽やれる人は強い・・・ように見えることがある。

孤独癖が悪い、なんてことはないのだもちろん。

それはバイクにしても然り、で、

実際かっこいいよね、一人で何日も何日もバイクに乗ってツーリングなんて。


何かで読んだのだが、

ホッキョクグマって、一生を一匹で、過ごすらしい。

夫婦で「つがい」を形成したりもしないんだって。「群れ」もつくらない。

そういう生態の生き物なんだって。

すごいなぁ・・・・・と思う。

クールの極致。



北極だけに、極地の、極致。

・・・・洒落なんだけど、伝わりましたでしょうか?




我々、ROCA’66の次のライヴは

極東の日本と言う島国の、古の首都、京都のライヴハウス「夜想」にて。


9月7日、土曜日。


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昨夜のPARA-DICE(皆さんありがとう)。

2019-08-25 15:59:37 | Weblog

昨夜のPARA-DICEでの3マン・ライヴ企画

「RAW POWER GRNERATION」、とても良い夜になった。

カミナリボルト、らんちゅう、そして我々ROCA’66.

こういう「ここぞっ」っていう企画は、そうあるもんじゃないし、

何かズシッと重い、それぞれのバンドの存在感を強く感じた。

ライヴを、  

会場も、フードも、バンドの音も、外の天神橋筋商店街の雰囲気も、

全部込みで、

本当に「夏フェス」みたいな気分を味わえた。地下だけどさ。


やっぱ、ライヴハウスはいい。

PARA-DICEに行くと俺は何故かついつい、

もう伝説と化してしまった 今はない、数多のライヴハウスのことを思い出す。


思い出すのは全部、過去に、ランブルフィッシュ や ばるぼら で出演させてもらったハコなのだが

新宿の、今はなき旧・ロフトとか

梅田にあったバーボンハウスとか

西成にあったエッグプラントとか

下北にあった何代目かの 屋根裏 とか。

もう一声!

ニューヨークにあった、CBGBとか。


何故それらを思い出すのか?と今考えてみたのだが理由はやはり、

「店側と出演者のやる気」と「得体の知れない、場のエネルギー」だろう。

同質のものを感じるのだ。

何か面白いことが起こる雰囲気。

昔と違って現代はもちろん色々と健康的なのだが、それでいて少し危険な香り。

音楽の作り出す「魔」。


ライヴはやはり、ライフワークに値するほど面白すぎる「仕事」であり同時に、純粋な「お楽しみ」である。

共演者の皆さん、

パラダイスの皆さん、

そして誰よりも

見に来てくれた皆さん。


心から感謝してます。



そしてそして

来る9月7日には、京都の、

ここも愛するライヴハウス、夜想 にROCA’66出演決定してます。


この日は


サヨナラナイフ


がらんどう


虹色エレジー



そして我々 ROCA’66


という

わりにお馴染み・・・というかリラックスできる気味の対バン。


だからと言って、ライヴに緊張感が消えるわけはないが、


昨日みたいなのとはまた一味違う感じで


それはそれで良い夜になる予感。




そして9月は更にもう一夜!



難波メレにて9月28日 土曜日


「ワイルドサタデーナイツ」に出演!



この日の対バンは
  

 ROAR(北海道


 REKT



COOLCAT



NEW WORLD FIRST



FINGER



ザ・マンガンズ



そして我々  ROCA’66.



共演バンド多いな(笑)。我々の出番は、最後だからね。


友達はマンガンズだけで、あとは名前も知らないバンドたちだが、この難波メレも思い切り、活気とやる気の在るハコ。


前回はオーストラリアのスカパンクバンド、RESIGNATORSと一緒に演らせてくれた。


(彼らは今、この瞬間、何をしてるだろう?オーストラリアはこの季節、真冬だよね。)


あれはすごく不思議で楽しい体験だった。


だから、今回も対バンに期待している。



9月は、7日の 夜想と


     28日の難波メレ、




両方に来ておくれよ。


夏前につくった4曲入りCDも、持って行く。



Tシャツも、在庫が少なくなってるけどまだあるから、持っていくし。



CDの収録曲は


 真昼の夜


逢魔


SISTER


追憶の発破’64


             



9月は京都と、難波で逢おうぜ。






写真は昨夜のPARAーDICEでのROCA’66.



撮影はPARA-DICEの、志村くん。





どもありがっと!



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あさって!扇町PARA-DICEにてライヴ!!!!!!!!

2019-08-22 20:37:00 | Weblog
盛夏、盛夏、盛夏!

しかし本当の夏真っ盛りって時期は、過ぎてしまった気がする。

直射日光の加減が少しだけ弱いし何より、夜明けが遅くなってきた。

夏の終わりの始まり。

僕が昔から望んで止まないのは「永遠に続く秋」なのだがそれとて

夏の終わりを過ぎねばそこに到達し得ない。

だから細かく言えば今は

盛夏と夏の終わりの始まりの時期の中間なのかもしれない。

そんなビミョーな時期に、

大阪の扇町PARA-DICEという地下の小さめの音の良いハコで、

PARA-DICEが用意してくれた3マンライヴ

「RAW POWER GRNERATION」が開催される。

これはもう、気分は 小さな「フェス」である。

野外でもないのに何が「フェス」か?というと 

夏のお祭り気分と、

カフェいちれん さんがフード出店してくれるから・・・・である。

フード、あるとすごくいいよね。

そして出演は、

らんちゅう と カミナリボルト と我々 ROCA’66。

この真剣勝負を心から楽しもう、と俺は思う。

ライヴは、我々の存在意義の自己証明である。

物心ついた頃からずっとライヴハウス・シーンに憧れてきたし、

もうすでにライフ・ワークと化しているのでロックは、

死ぬまで演る。

そして、その時その時にしか出来ないこと、その時にしか鳴らせない音を鳴らす。


そういえば

ついこないだ愛する友達に会ったときに彼が

新しく「バイクの歌を書いた」と言っていて驚いたのだが偶然!

俺の最新曲もバイクの歌だ。

俺のは「MOTER BIKE DIARY」という。

そして、ギター赤井と俺とで共作した新曲「EPIPHANY」もやる。


来て欲しい。


扇町PARA-DICEは本当に「個性の坩堝」みたいなハコで、

そんな中の、老兵みたいな我々3組のバンド。

らんちゅう も、カミナリボルト も、

筋金入りの強さと、驚くほどの しなやかさ を併せ持つ。

我々は老兵だからって静かに消えたりはしないし、疲弊もしてない。

伊達でずっと続けて来たワケじゃねえんだ、というところを見せられたら、と思う。







8月24日(土)

para-dice presents『 Raw Power Generation 』

出演: ROCA'66/ らんちゅう / カミナリボルト
 
charge:¥2000+1d...

open:18:00/start:18:30

FOOD : カフェいちれん

*この日は「10枚チケット」使えます!半券10枚持参でドリンク込み¥1500で!!

http://para-dice.net/access.html

https://www.youtube.com/watch?v=f6t7Hk6vDSw&t=444s







写真は我々、ROCA’66 ・・・IN STUDIO。
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行く海の流れは絶えずして。

2019-08-19 21:42:19 | Weblog

15の歳に家を出た。


と言っても家出をしたわけではなく、

円満に、中学卒業後に、遠くの土地の学校に進学して、

そこの学生寮で暮らすことにしただけなのだが、それでも

それ以降

親兄弟と一緒に暮らしてはいない・・・・・・・・・のだがご他聞にもれず、

盆・正月には帰省している。

若かった頃などは帰らないことも多かったのだが、

オトナになってからは結構、行っている。

そう、もう 帰る(帰省)、という感じではなく 行く という感触なのだが。

そうこうしているうちに 大叔母が死に、祖母が死に、父が死に。

僕が子供だった頃の「オトナ」が、減っていくのは寂しい。

きっといつか母がもしも死んだら・・・・とついつい思ってしまうのも寂しい。

もしもそうなったとしても、僕はあの土地に「行く」のだろうか?

きっと行くであろう。

まだ兄もいるし、妹もいるし、大事な友達もいるのだ。

そして、「あの海」もある。

いつ行っても人の極端に少ない、もしくは 誰もいない 浜辺。

大昔は海水浴場だったそうだが、廃止になって久しい。

駐車場もない、売店もない、トイレもない、自販機すらない。

監視員なんかもちろんいない。

毎年、この海に行っている。

まるで私は、何かに魅入られたかのように。

いつか私が死んだらこの海に(遺骨の一部を)流して欲しい。

そんな風にさえ思う海へ、今年も行ってきた。

到着時、見事に誰もいなかった。見渡す限りの無人の浜辺。

台風の通過後で、波が荒く、少し怖かったのだが水に入った。

まるで何かの通過儀礼のように毎年、同じようなことを繰り返している気がするのだが、

海は毎年違うのだ。

海だけではない、

母も妹も、友達も、

刻々と彼らを取り巻く状況は変化している。

あ、俺にしても・・・そうか。

だから行動パターンは毎年酷似していたとしても、中身は全然違うのだ。

海のこともそうだ。

「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」というのは真実だが、

海にしたって、それはそうなのだ。

(ヘミングゥェイの遺作のタイトルは確か、「海流の中の島々」だった。)

そして

海に行った次の日の夜は、毎年そうしてるように、友達と会って、心ゆくまで飲んで、積もる話をした。

彼と二人で話をすることは本当に特別で、

これ以上に楽しいことって、他にはあまり・・・ない。

そんな友達がいることはとても幸せだと実感する。

海の水が毎年違うように我々の話ももちろん、毎年違う。

そして思う。

いつまでこれを続けることが出来るだろう?と。

「最高」が「最高」でなくなるときが来るのだろうか?

そうでなかったとしても、それが突然失われてしまうようなときが?

・・・来るのかもしれない。

でも、もしそうだとしてもそれはずっと先の話だ。

今は、今のことを精一杯やるしかない。

今のこと、近い未来のライヴのこと。

2019年8月24日 土曜日

天満 PARAーDICEにて「RAW POWER GENERATION」。


らんちゅう


カミナリボリト



そして我々

ROCA’66.



真剣勝負の3マンライヴ。




小さなキャパの、音の良いハコで「抜き身」のバンドを見る事の醍醐味、を

味わってもらえると思う。



川の水のように、


海の水のように、


友達との話のように。



言うまでもないが、ライヴも毎回、全然違う。






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ライヴハウスについて(一種の、意思表明・・みたいなもの)。

2019-08-12 19:30:16 | Weblog

ライヴハウスという場所は、

PARA-DICEの志村くんが彼のFBの投稿ページで言ってるように、

昔は確かに、「ヤバい人たちが集うヤバい場所」だった。

そういう時代が確かに、あった。

そういう風だからこそ憧れた・・・と言う面も無きにしも非ずかもしれない。

でもまあ・・・暴力的なのは全然良くなかったと思う。俺はそういうのは嫌いだったし、今も嫌いだ。

実際、喧嘩に巻き込まれる(喧嘩を売られる)ことを覚悟して行かねばならないようなハコもあった。冗談ではなく。

両者ともがアウトサイダーだったから、ロックと不良が結びつくのは時代の必然だったし、

そもそも「お行儀がいい」なんて・・・虫唾が走るようなものではある。

それでも、俺は今みたいなライヴハウスのあり方がいいと思う。

誰でも行ける、怖くない、バカ高くない、子供連れでも年配の人でも気軽に行ける。

敷居が高くない。変な奴も、いない・・・とは言わないが、少ない。非合法なものも、ない(たぶん)。

そして、誤解を恐れずに言えば、誰でも出られる・・・ような気さえ、する。

いや、実際そうなのだ。

出る気があれば、誰でも出られる。これは大事なことだし、すごくいいことだ。

玉石混合(宝石も石ころも混じってるってこと)なのは、ライヴハウスが「怖かった」昔から全然変わってはいない。

昔も、ひどいのはひどかった。今でももちろん、ひどいのはいっぱいある。

でも、楽器も良くなったし

特にチューナー(楽器の調音が出来る機械。チューニングメーターともいう)が

安価で普及してからは、出演者のチューニング状況が明らかに良くなっている。

耳と感覚だけで正確にチューニングって、意外と難しいのだ。

演者は興奮してくると、調音の多少の狂いは気にならなくなってしまうし。いかんことだが。

肝心の楽器だって、リサイクルショップみたいな店で安く買える。

ヤフオクなんかでも安く買えるし、いいものもある。粗悪品のほうがむしろ、少ないかもしれない。

そしてYOUTUBEなんかで、過去の偉大なロックバンドのPVや、

ライヴなんかが、いくらでも見られる。本当に、夢のような状況だ。

しかし、いくらでも手に入る・・・となったら、欲しくなくなってしまうのが人間なのかもしれない。

そういう意味では、現代のほうが不幸だ。

もしも、「手の届かない憧れ」みたいな感触が薄れてしまってるのだとしたら。


でも「憧れ」が、どれだけ強いから、といっても

それを原動力に、自分で素晴らしい・・・と思えるものを作れなければ、

「表現者」になれない、そして「表現」を続けていけない。

それ(音楽)で稼げてなくても「表現者」である、もちろん。それで喰ってなくても。

ライヴハウスに出演する、ということは 他人様の前で、

オカネを取ってライヴする・・ということでもあるのだ。

オカネを取るなら(その時だけでも)、それはプロだ。

少なくとも、その程度のプロ意識は持っていたい、と僕は思う。

かと言って、完璧で、失敗しないのがプロではない。ソツなくやったってしょうがないじゃないか。


冒険的に、誰も今まで演ったことのない、しかもかっこいい音楽を鳴らそう、と僕はいつも思っている。

今まで誰も気付かなかった革新的なコード進行や、新しい音の組み合わせ(新しいコード)や、

誰も聞いたことのなかった美しいメロディ、

そういうものがまるで「徳永家の隠し財産(?)」みたいに、誰にも気付かれずに

どこかで、手付かずで眠っているのだ。それは間違いない。

その「どこか」は。僕の頭の中かもしれない。いや、きっとそうだ。

「メロディ限界説」信奉者や、もうこれ以上新しい音楽は存在しない・・・などと思ってるやつらは

全員、懐メロ歌手になったらいいのだ。

メジャーのバンドマンでもそういうこと(新しい音楽なんて無理)を公言してる奴は、いる。

まったく・・・あきれる。


扇町の、天神橋筋商店街の中にある、気鋭のライヴハウス、「PARA-DICE」。

僕はROCA’66というロックバンドをやっていて、

今月、8月24日の土曜日に、ここに出演するのだが、

この「PARA-DICE」のやつらはそんな「メロディ限界説」なんて、鼻で笑い飛ばすと思う。

色んなやつらが出てて、理解できないセンスのやつらも多いが、

「限界」なんて誰も信じてないと思う。僕はもちろん、信じてない。馬鹿馬鹿しい。


さて、その24日のライヴは

その中でも、「ツワモノ」たちと3マンで共演できる、PARAーDICEプレゼンツの、嬉しい企画だ。

題して、「RAW POWER GRENERATION」。

らんちゅう、

カミナリボルト、

そして我々、ROCA’66。


この3バンドとも、様々な形でずっと音楽を続けて来て、

過去の様々なシーンをこの目で見て、体験してきた奴等の「今」のバンドだ。

そのことはもちろん、我々の誇りだが、それだけではない。


今も持ち続けている、心の中でその炎を保っている「情熱」こそが我々の誇りだ。

24日のライヴでは「現代」のライヴハウス・シーンに、その「情熱」の存在意義を見出そうと思う。




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「感情」について。

2019-08-08 21:19:51 | Weblog

ラジオの、「夏休み子供電話科学相談」。


恐竜に感情はあったのか?という子供の質問に

鳥の係の回答者(鳥類学者?)は「あった」と答え、

恐竜学者のひとは「僕は、なかったと思う」と答えた。


面白い。


感情、というのはある程度、脳が発達していないと生じない種類の現象では、ある。

だからハマグリとかの貝類には感情はないであろうと推測される。

きっと、昆虫にも感情はないかもしれない。

では鳥はどうだろうか。何か無表情なんだけど。

でも例えば、猫だってそんなに豊かな表情は、ない。

少なくとも・・・細かい感情の変化を猫の表情から読み取ることは難しい。


では、猫には細かい感情があるのだろうか?

・・・わからない。

猫になってみないとそのことは、わからないのだ。


でもそんなこと言えば

僕は「君」に、どんな感情があるのかわからない。

表情から読み取れる(ような気がする)時もあるし、

でも、何を考えてるのかさっぱりわからない、ということも多い。


もっと言えば

僕には、僕以外の人間の感情は、わからない。

「他者」のことって、結局、わからないのだ。


そういう意味では恐竜だろうがハマグリだろうが虫だろうが猫だろうが「君」だろうが、

わからない、という意味では大して変わりはないのだ。


更に言えば


この僕にしたところで、感情など、もしかしたら・・・・ないかもしれないじゃないか。


思うんだけど、人が「感情的になってる時」って逆に、

何も考えてないことが多いんじゃないかな、反射的行動として激高してるだけで。


「必死になってるとき」ってのも、何も考えてない。


あと、

「目がハートになってる時(恋してるとき)」も、

実は何かの「魔」に操られてるだけ・・・・って場合が多い気がする。


そう思わない?


俺達って実は「必然」と「運命」と「本能」と「魔」に振り回されてるだけで、

「感情」って実は後付けなんじゃないかな。


ただし、「哀しみ」だけは

真っ直ぐに落ち込んでいく蟻地獄のようなもので、そこから抜け出すのは至難の業だ。


往々にして人生にはそういうことがある。




でもそれ以外には我々に「感情」って ない・・・もしくは薄いんじゃないかな。


そう考えると何か、昆虫とか貝とかの気持ちが、わかるような気がしてくる。

彼らだってたぶん、俺達と同じように、その時その時で「何か」に必死になって

そんな風に生きているのだ。


きっと、それだけなのだ。



それで全然、いいと思う。


感情の  ある/なし なんて、  どっちだっていいのだ。







写真は、今朝見かけたアブラゼミ。
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RAW POWER GENERATION 2019年8月24日 PARA-DICE

2019-08-07 22:00:56 | Weblog

ライヴハウスは最高に素敵。

我々はそれぞれに、てんで好き勝手に「自分達の楽曲」を鳴らす。

自作の歌を歌う。

コケるときもある。そりゃ、ある。

だが、想像を遥かに超えて上手くいくときもあるのだ、往々にして、あるのだ。

その、上手くいったときの創造性の爆発度といったら。

至近距離で、

爆音のアンプの音はほとんど生音、直で。

わりに小さめで、音の良いハコならでは・・・の「快楽」が、そこにはある。


都市の中で日々を生き抜きながら

しがみつくように、もしくは軽やかに戯れるように、

もしくは、呼吸をするように自然に・・・・・・・・・・・・・・・・・

様々な形で音楽を続けている奴等。


音楽を続けていられることは、僕にとってはこの上ない僥倖であり、喜びである。


高校生の頃の俺達(ランブルフィッシュの原型バンドの頃)の夢・・・というか、希望は、

大阪のライヴハウスで演れるバンドになりたい・・・・というものだった。

ただそれだけだった、それ以上は何も考えていなかった。


と、いうことは僕はいまだに、「叶えられた夢」の中にいるのだ。

これはすごいことだ。

醒めない夢、

もしくは 目覚めたあともまだ続いてる夢。


それが、「今」なのだ。


今月、灼熱の8月のライヴは24日、

大阪のど真ん中、天満(扇町)のライヴハウス、PARA-DICEにて

「RAW  POWER  GENERATION」。

らんちゅう と、 カミナリボルト  と、我々 ROCA’66 の3マン。


この組み合わせの対バンは、今まで一度もなかったし、これからも・・・・あるかどうかわからない。

(たぶんないだろう。)

一生に一度きりの電光石火かもしれない。

そしてこれが、何かの起爆剤になるかもしれない、ならないかもしれない。

でもとにかく、

我々は未だ、「未知」に挑戦できるのだ。

わくわくして、ドキドキして、胸騒ぎがして、緊張する、そんな気分を味わえるのだ。

ツワモノ共と夢の中。それって、最高に贅沢。


切磋琢磨して切磋琢磨して切磋琢磨して、

臨む。


我々は

大阪のど真ん中の小さな音の良いライヴハウスで、奇跡の萌芽の現出を目論む。

ご来場し、目撃せんことを。






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自己コントロールについて思ふ。

2019-08-04 17:58:49 | Weblog

どんなに体を鍛えて

(身体の)各部を自由に動かせるように訓練した人でも

自分の意思で呼吸を止めて死ぬことは出来ない(らしい)。

同じように、「止めよう」と思っても心臓の鼓動を止めることは出来ない。

そのあたりは「自動操縦」なのだ我々の体は。

自動操縦を切りかえて手動にするスイッチも無い。

そして、

「眠り」は、さあ、眠ろう・・・と思ってもすぐには眠れないのが普通だ(例外はいるが)。

逆に、極度の寝不足でもないのに不意にストン、と眠ってしまうようなことも(病気の人と赤ちゃん以外は)ない。


僕は今、自己コントロールについて考えている。


髪の毛だって、「伸びろ」と念じても(ほとんど)意味がない。

背だってそうだ。


「好み」みたいなものだって自己制御はできない。

好きなものには惹かれるし、嫌いなものは嫌いだ。

理由は、あるときもあるし、ないときもある。





・・・・・・・・・・それにしても眠れないときって、本当に眠れないよね。


そして、夢も、もちろん制御できない。


嫌な悪夢って、本当にひどい。現実よりつらい。


そしてそうだ、こないだも言ったけど、「記憶」も、自己制御できない。

どうしても忘れられないことが多い反面、

素敵で素晴らしかった体験の多くを僕は(我々は)忘れながら生きている。


何故嫌なことが忘れられないのか?

それは「失敗」を繰り返さないようにするために脳が、

教訓のために強く記憶しているからだ、と脳科学の本に書いてあったのだけれど、

まあそれは、そうなのかもしれない。


しかしなあ。


教訓のため、自己保存のため、とはいえ、嫌な記憶ばかりを抱えたままで生きていかなければならないのだとしたら、

人生は過酷だ。


よかったこと、素敵だったこと・・・も多少は覚えている、もちろん。

でも、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと、あったはすなのだ。

素敵だったことを覚えていないのはもしかしたら、

今後も「それ」を求めていくべき・・・と無意識に思っているからかもしれない。

素敵だったことの思い出で記憶メモリーが溢れかえったら、それで満足しかねないから。

うーん、どうだろう?


しかし逆に、「痛み」の記憶って、残らないようになっているのですよ。

肉体的な痛み。

その理由はたぶん、生きていく意欲を減退させないため、だと推測するんだけど。


脳って不思議。自己制御って不思議。


こないだのブログで

人間は「本能」が薄い、というようなことを書いた。


でもこういうことを考えていると、

強烈な「生存本能」というものの存在を感じずにはいられない。


自分の意思で息を止めることを阻むのも、きっと 根っこは「生存本能」なのだ。



そうかー。



それならば我々は、生きるために歌おうではないか。



ROCA’66、次回のライヴは2019年8月24日、土曜日。


バキバキにやる気のあるハコ、

大阪・天満のPARAーDICE。


そこで、関西ライヴハウスシーンの重要バンドである


らんちゅう  と  カミナリボルトと


我々ROCA’66の3マンライヴ。


華もあるし、轟音もあるし、熱情もありマッス。


こないだ作成したCDも、持って行きます(写真参照)。







しかしライヴって考えてみたら


「自己コントロール」の一種の極致、というか。



そーゆー場だよね。


どれだけ、「なりたい自分」に近づけるか。


勝ち負けは無いが、勝負だ。




来てくだサイ。


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