我々はみんな、狭い世界で生きている。
当然と言えば当然なのだが、遠い遠いところに暮らしている人とは、
なかなか知り合うチャンスがない。
特に、ネット環境みたいなのが世の中に定着する以前は、なかった。
僕等みたいな年代の奴らは当然、その時代の生き物だ。
僕は東京で生まれて・・・・7歳の時に福山へ一家で引っ越した。
その福山で中学校で一緒だった土井健と知り合って一緒にバンドを組んだ。
知り合ったきっかけは1980年の福山市民会館での
甲斐バンドのコンサートに別々に、お互い一人っきりで行っていたことだった。
会場で一瞬、彼とすれ違ったのを覚えている。目も合ったと思う。
会釈ぐらいはしたかもしれない。会話はしてないと思う。
後から思ったのだが、あのことは、とてもとても大きな出来事だった。
ポイントは、お互い一人だったことだ。
その頃の僕は今から考えるとすごく子供で、
自分の将来の選択を自分でコントロールすることが出来なかった。
中学卒業後は、周囲の意向で、奈良の高校に行くことになったのだ。
二つ上の兄が先にその高校へ通っていたこともあったし。
でも後から考えたらあれは必然だったかもしれない。
3年間の寮生活が始まる。
その高校で、まず軽音楽部で一緒だった岩佐と出会う。
岩佐、佐治、庄司、三太、モ吉は中学も一緒で、
その中によそ者の僕が入り込むことになった。岩佐が紹介してくれたおかげだった。
そして彼らとバンドを組んだ。「ネクスカ」。
寮に住んでいたのは僕だけだった。
僕は実は、高校を卒業すれば東京に戻る、と決心していた。
それは子供の頃からの希望であった。
でもその決心は、佐治の「オマエは俺らと大阪で一緒にバンドやるねん」
という強引な説得で簡単にひるがえった。
人生のこの辺りからやっと、、自分の住む場所は自分で好きに選べるようになってきた。
僕はつまり、東京に戻っても良かったし、大阪に出ても良かったし、
福山に戻っても良かったのだ。
でも佐治の誘いに乗って嬉々として、大阪に住むことにした。
イメージ的には、あまり好きな都市ではなかった。お笑いと、やくざの街?
でも佐治が、大阪に憧れていたのだ。それが伝染した。
大阪で僕は初めはデザイン専門学校に入って、そこの寮で暮らしたが、そこは最悪だった。
僕以外の寮生がみんな地方から出て来た金持ちのボンボンで、
僕は学校のスケジュールがきつくてバイトもできず、超貧困生活。靴下を買うのさえ躊躇した。
一年くらい経ったあたりで完全に・・・モノになりそうもないデザイン授業と周囲と貧困に飽き飽きした。
そして2年目の春休みに、寮を出た。そして奈良のスナックで住み込みバイトをして
お金をためて、大阪の天王寺近辺にワンルームマンションを借りた。
そのマンションから専門学校には通い続けるつもりだったのだが、
その専門学校の友達から、アメリカ村の古着屋でのフルタイムのバイト、という話が
舞い込んできた。(当時のアメ村はなかなか・・よそ者には、敷居が高かったのだ。)
うーん・・・デザイナーにはなりたいんだよな、と悩んだのだが
ちょうどその夏に佐治と二人で行った合宿免許の2週間の旅で
バンドに、とにかく全生活をかける、という風に頭が切り替わったので、
夏休み後はもう二度と、学校には行かず、その後は毎日アメ村で働いた。
そうこうしているうちに佐治も、奈良から大阪に出て来た。
天王寺近辺に住もうぜ、と以前から言っていたので、
我々の部屋は歩いても15分ほどの距離だった。
この時代は、バンド(ランブルフィッシュ)もまだ全然人気もなく、
大阪に出てきて間もなかったので他に友達もいなかったが、
一応は働いているので専門学校時代よりは経済状態もはるかにマシで、
佐治と二人でブルースバーとかを飲み歩いた。
この時代は本当に楽しかった。
1988年6月3日が訪れてしまうまでは。
同じストーリーを何度も語っている。それは自分でもわかっている。
でも書けば書くほど、忘れていたような小さな、些細な事実が出てくるので
自分で面白いのだ。
そして
僕は今、自分が関西に暮らしていることが不思議なのだ。
子供の頃、すっごく嫌いだったのに。
そして縁があって、今は
奈良に住んでいるドラマーと、大阪に住んでいるベーシストと、
同じく大阪に住んでいるギタリストと4人でバンドをやっている。
僕は京都在住だ。
全員、関西のライヴハウスで知り合った。
メンバー以外にもライヴハウスで、対バンやハコのスタッフやそれぞれのお客さんとか、
あまりにも多くの、面白すぎる人たちと知り合った。
こんなに沢山の友達が出来るなんて、子供の頃は考えもしなかった。
関西に来たのは正解だった、といつの頃からか思っている。
関東にも今でも・・・・何人か、友達、と呼べる人がいる。
それは過去にバンドで、東京ツアーに行ったときに知り合いになった人たちだ。
福山にも、あの頃のバンドの人たちがいる(消息不明な人もいるが)。
我々は狭い世界に住んではいるが、心はそこを飛び出すことが出来る。
今は特に、こんなネット環境もある。
僕が何処にも行けなくても僕の言葉は電線や無線を通してネットに乗って、
君に届いて・・・・いるはずなのだ。
届いてる?
元気?
大丈夫????????
また近くで会おうね。話とか、しようね。酒も、飲もう。
手が届きそうなほど、近くでさ。