新3『美作の野は晴れて』第一部、早春2 

2015-11-10 08:59:00 | Weblog
3『美作の野は晴れて』第一部、早春2

 3月下旬にもなると、美作の野は急に色あでやか、かつ賑やかになる。野や山麓に経っていると、若葉が風にそよいでいるところもある。ところどころの田圃には蓮華の花が咲いた。畑には、菜の花の黄色が広がる。菜の花は、とてもいいにおいがする。それらの花蜜を蝶や蜜蜂やテントウムシが吸いにくる。彼らは花にとりついては前足と口とをせわしなく動かしている。その蝶や蜜蜂やテントウムシを狙うカマキリや蜘蛛もやってくる。空高くからは、もっとも蜜蜂と同じ属の雀蜂がかれらの巣を狙ってくることもある。
 トカゲや雀は、土の中のミミズやダニの類をほじくり出して食べる。カマキリや蜘蛛を狙う時もある。なかなかどう猛な小動物だ。けれども、彼らには天敵がいて、それは『我が輩は猫である』のあの猫である。猫はトカゲや蜘蛛や鼠を食べる。猫がヘビやトカゲを口にぶら下げているのを何度か見たことがある。猫という動物は、どこか独立独歩の雰囲気を醸し出しつつ、生きているようだ。あくまでも「万物の霊長だ」と威張る人間に媚びへつらうことをしない。さすが、猫君である。ところが、今時のペットとしての猫君は、どうも違う野ではないかとも見える。我が家で飼ったことはないのでどういう挙動をするのか知らないが、その頃の田舎で目にいた猫はすべてが「放し飼い」なのであった。したがって、かれらはいろいろな獲物を狩りしていた。
 ところで、学校の砂場の中や土の中に隠した生き物を咀嚼した後の残骸をはき出しているのがよく見つかる。猫たちの糞はどうなるのか。それは、自分の縄張りのある区域の、その猫にとってのトイレに未消化のまま吐き出されていることが多い。我が家にいた大きな猫はたまに鼠やへびを加えていることはあっても、それを家に持ち込むことはできないように仕付け躾けていた。大きなお腹を上にして、天気のいいときは縁側で昼寝をしたり、冬の寒いときはこたつの上で丸くなったりしていた。いつも、ゆったりしていて、時折大きく口を開けてあけ、長いあくびをしている。彼の頭の中を覗いたことはないが、何を考えているのだろうか。朝晩の餌をやっていたので、『我が輩は猫である』ではないが、「飢え死にすることはない」と特別の心配はなかったものと見える。
 生物たちが死ぬと、自然の中のちっぽけな小さな死骸となる。すると、放っておくと彼らよりさらに小さい微生物たちが蝟集してきて、分解してしまう。微生物たちは、樹木や草花の落葉についても分解する。自然の循環は人間の目(肉眼)には見えない部分が多い。分解されなかったものは、その場所とか、川とかによって流された場所に堆積していったのだろう。生物たちが活動する場所もまた自然の連鎖の中にある。山や草むら、水田内や周辺の水路、沼や池、川などが生物を育んでいる。あるものは水の中に飛び込み、あるものは水の中から出て草むらに分け入り、またあるものは水にこだわって泳ぎ回っている。そこには、彼らのそれぞれの営みがあるのだ。この辺りの村に生まれた子供は、自然の営みを垣間見ながら育つ。大自然で生き残るためには、自らも強くならざるをえない。
 あれは小学校1~3年生くらいだった、早春の頃であったろうか。ある日のこと、学校で交通安全の講習会が開催されたことがあった。勝北町の交通安全協会の人たちだったのではないか。何人かで学校のグラウンドに来て、消石灰を引いてコースがつくられ、そこかしこに交通信号が並んだ。勝央警察署のお巡りさんも来ていて、その人の指示で「てきぱき」と準備が進んだ。
 交通安全教習が始まると、歩いていて死角のあることや、「右左右」の確認の必要性を学んだ。耳には、交通安全の歌が響いてくる。
「わたろわたろ 何見てわたろ
信号見てわたろ
赤青黄色 青になったらわたろ
赤はいけない 黄色はまーだだよ」 (作者を知らず)
 それを眺めながら、先生たちの表情が心なしか緩んでいるようだった。
 その頃の学級編成では、学年で2クラスが基本であった。それでも、「特殊学級」と呼ばれていた学級のあることが、なんとはなしに知られていた。少なくとも、欧米のような「挑戦者」(チャレンジャー)との呼称にはなっていなかった。
 あれは、小学5年生か、6年生のある日のこと、どなたかの先生が私に連いて来るように仰った。学校で一番大きな建物の中、講堂を挟んだ廊下の向こう側にある、その建物の2階に上るのは初めてだったので、「おおっ、こんな場所があるのか」と気持ちになって、なんだか胸が圧迫されるようなというか、何かしら緊張を覚えた。
 先生が私をそこへ案内する理由については、前もってこれといって伝えてもらっていない。ただ「ついて来なさい」ということではなかったか。先生からすると、たぶん、前もって説明するより、行ってみればわかる、とのことであったかもしれない。いまでも、その広い階段の様子を覚えている。分厚く広い板の階段であった。それまで登ったことはなかったようでもあるし、掃除当番で掃除したときに上がっていった気もする。こんなところに何があるのという、驚きの気分であった。
 広い階段を登りきると、直ぐのところにやや大きめの部屋があった。先生が扉を開けて入られ、私はその後ろから、先生にくっつくようにして中に入った。驚いた。教室の中には、普段見られない人たちがいた。何人かと目が合った。中にはほほえんでくれている人もいる。あちらも何人かの人はめずらしそうな視線に出会った。低学年まではクラスで一緒だった山中君(仮の名)の姿も見えた。
 知っている人を見つけたことで、私の頭の歯車がゆっくりと動き出した。平たく言えば、「ああここが...あの場所か。なるほど、そういうことだったのか」と合点がいった。そこで何をしたのか。しばらく居て、なにやら話しをして、それから、どのくらいその部屋に居て何をしたのかはわからない。いまじっと目を閉じると、あの頃はまだ自分の極々周りのことしか見えていなかった。病気で通常の授業についていけない人もいる。これは、自分のことを「一般」グループに数えているだけの者にはわからない。それからは、残念ながら心の奥底にしまい込んでしまった。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

コメントを投稿