□『美作の野は晴れて』第二部1、新しき学舎

2008-08-25 22:36:21 | Weblog
□『美作の野は晴れて』第二部1、新しき学舎

 春四月、みまさかの空は晴れて、遙かに淡く「横仙」の山並みを望みつつ、その上にはところどころに白い雲が幾筋かなびいて見える。自宅からは自転車で因美線の高野駅まで行く。
 国道53号線に出てからは、上村から茶屋林へとゆるやかに昇り、そこからは楢への長い長い下り坂を下っていく。下り切ったところを加茂川が北の方角から南へと流れている。架かっている橋は、旧い道でいうと◎橋、新道でいえば桜橋。かつて江戸期の頃は勝北の北部の年貢米などがここを通る高瀬舟で運ばれていた。この楢の河岸に設けられた高瀬舟の宿駅は、江戸期に吉井川支流の加茂川に入った行路の上限であり、ここを通ってそれらの荷物や人が吉井川へとつながり、そこから下り、下って瀬戸内の海に出ていた。その橋のたもとには、勝加茂西上及び西中の庄屋の寄進の石灯籠が2基、幾多の風雪を経た今も建って、道ゆく人などを見守っていることだろう。
 そこで自転車を預かり店に置き、改札口を通り津山方面行きの列車に乗る。2両編成であったろうか、その車中には多くの学生や通勤客、そして鳥取から鮮魚の行商に通っているおばさん達など多彩な人々が乗っている。
 列車の中は、朝っぱらから「ワイワイ、ガヤガヤ」。特に女子高生達の話には、朝から教科書を広げたり、言葉も「ポンポン」飛び出している。行商のおばちゃん達は余裕のある会話に興じておられる。そうした朝の人々の息づかいと醸し出す生活の臭いを感じながら、それらの人々とともに因美線の終着駅である津山駅に向かう。
 途中、列車は高野本郷、押入(おしいれ)と続く田園地帯を抜けていく。押入から河辺(かわなべ)に入った辺り、西から流れてきた加茂川が南西へと大きくカーブして後、出張川を越えるところにさしかかる。この辺りは湿地帯で、川辺にショウブや葦(あし)の類が濃い緑で生い茂っているのが見下ろせる。
 兼田橋(かねだばし)が架かる辺りで川幅を増した加茂川を左に眺めつつしばらく行って東津山駅に滑り込んでいく。この駅の隣にはレディーミクストコンクリート製造工場がある。東津山駅を出てからは、僕らを乗せた列車は僕らとともに来た加茂川が、西から来て袋状に大きく湾曲しつつ南へ進路をとってきた吉井川本流に合流し流れ込む中州地帯にさしかかる。そして、そこを過ぎると、列車は吉井川鉄橋を渡り津山駅に滑り込んでいく。列車はここで津山線・岡山行きに切り替わる。
 ホームに降り立つと、中国勝山・新見方面から来た列車も別のホームにいたりして、ごった替えしている。そのまま歩いて地下道に降り、また上って改札口に向かう、新学期の学生の群れに僕もいた。改札口を出て、駅舎の屋根が尽きると、津山駅の玄関から外を見渡して、その一瞥(いちべつ)を向ける。そこには、岡山・福渡方面(津山線下り)、姫路・林野方面から一足先に津山に降り立った人々の群れが、市中に向けて長い帯をつくっているのが見える。
「さあ、今日からは新しい日が始まる。」
 ごったがえす人々に混じって歩き始めると、朝の太陽が自分の額を柔らかく照らしてくれているかのように暖かく感じるのは錯覚なのだろうか。駅前の信号を渡って南町の明宝会館(映画館のある建物)を左に折れ少し行ったところに、自転車預かり場があった。そこに前もって家から二時間ばかりかけて中古の自転車を漕いできて、預けてある。今日からは、この自転車で沼にある学校まで通うのだ。
「おはようございまーす。」
「おはようさんー。気をつけてなあ。がんばりんちゃいよ。」
 預かり所の初老のおばちゃんが声をかけてくれた。店の人にかけ声よろしく自転車を引き出し荷物を荷台にゆわえ付けてから乗り、明宝会館に戻してその四つ筋を左に折れると、再び駅前通りに出る。一緒の列車で駅を降りた高校生達の北上する人並みはまだとぎれることがない。新見線で新見方面からやって来た人並みとも合流しているのだろう。人々は朝の喧噪とともに吉井川にかかる今津屋橋へと歩を進めていく。
 その後から、僕は駅前の通りのアーケードの緩い傾斜道を登り抜けて、その橋に自転車を進めていく。すると、橋に取りかかる辺り、急に視界の上部におおいなる石垣が飛び込んでくる。桜祭りの装いであろうか、無数の桜が林立している間間には薄桃色に朱の枠を施した「ぼんぼり」が見えている。見事な傾斜でせり上がりを見せる石垣の高さはかなりのもので、幅は百メートルは優にあろうか。往事は、あの石垣の上に20余もの櫓、そして五層の天守閣を備えた城郭が聳えていたという。自転車に乗る身の眼下には、欄干越
しに川幅の増した吉井川の蕩々たる流れがあり、その上流側向こうには城見橋、今井橋と連なって、視界は一遍に開けてくる。
 「ここはみまさかの国、津山にようおいでんさったなあ。これから津山のどこへ行きんさるんかのう。」
 誰がそう話しかけてくるのだろうか、それとも春の風がの声を「声なき声」として運んでくるのだろうか。僕は学生服の襟詰めがもう汗ばんで来ているのを感じたものだ。
「津山城下町 お城の松に
ぴんとはねたる 威勢を見せてよ
宮の川風 そよそよ吹いて
袂(たもと)ちらちら 大橋涼みよ
君と松原 夕日が落ちて
鐘が鳴ります お城のお山よ

鶴の山から 遠近(おちこち)見れば
山また山に 朝霧こめてよ
久米の佐良山 さらさら小雪
小雪白雪 朝日に解けてよ
津山城下町 お城の松に
ぴんとはねたる 威勢を見せてよ」
津山民謡 石井楚江作詞/佐藤吉五郎作曲

 今津屋橋は朝から車の往来が多い。思い荷物を積んだトラックが列をなして渡橋するときは、「ウァンウァーン」という音を出してきしむ。この橋は生きているのだ。橋を渡るとまず船頭町がある。川沿いのこの辺りは高瀬舟(たかせぶね)の船着き場があったところだ。それから進んで、左側は小姓町、右側には河原町、道は下りになり、鶴山(かくざん)通りに入る。道の両側はアーケードとなっていて、そのまま東から来た旧出雲街道と交わるところ(別名「ローズ交差点」)、街名で言えば京町まで来ると、左に一番街の入り口があって、そのトンネルのようなアーケードにかなりの人並みが吸い込まれていく。通勤客に混じって、鳥取から来たおばちゃん達はおそらくそっちへ入っていくのだろう。その一番街をずっと進んで行き、その先には銀天街が続いており、この二つを合わせて津山の一番の繁華街を形づくっている。
 ローズの交差点を通り過ぎ、大手町のオフィス街を右手に見ながら、僕は自転車を自動車に接触しないようにゆっくりとペダルを漕いでいく。ゆるゆる行く本当の理由は、もう一つあって、それは進んでいくうちやがて人混みがなくなるまでは何かしら往来の人々と同じ空間を共有しているみたいで、なんとはなしに気分が高揚して誇らしく、また華やいだ気分に浸れたからだと思う。
 大手町交差点の下で信号待ちをしているときには、左に山下児童公園とその奥の当時の中央病院があり、右には中国銀行、電電公社、その先には津山市役所といった頑丈な建物をそれとなく眺める。信号が青に変わると、「さあ、ここから津山文化センター前の大通りまで上りだ」という気持ちになる。気合いを入れて、力を入れてペダルを踏み込む時には、同じ列車で降りた学生の群れの先頭に前の列車で降りた人々も加わった人並みが歩道に幾つもの団子状となってとぎれなく北へと続いている。もう鶴山通りのゆるく長い坂は通勤と通学の人並みでしばしの間埋め尽くされているのだ。
 長い勾配のある坂は、自転車で登り切るにはきつかった。途中で、自転車を降りて歩きに切り替える。すると、通りをはさんで右手前方に津山文化センターの偉容が見えてくる。多分、一見ギリシァ建築かとみまがうようなコンクリート組みだが、屋根の稜線から箱状の下部構造につながるところには、神社建築で見るような「くい」がせり出している。あれは、炎か何かを模しているのだろうか。
 長い坂をようやく過ぎると、大きな交差点にぶつかる。それからさらに北上し、右手に北町、左手に椿高下(つばきこうげ)を眺めながら、自転車を進めて行くと、山北交差点の辺りでまず津山高校への人並みが左に折れて吸い込まれていく。
 その後は道は下りとなって、そのまま山北の交差点にさしかかる。そこで、工業高校と美作大学、短期大学へ通う人達はそのまま北上するかたわら、商業高校に通う学生は右に折れてすぐの薄桃色の木造校舎群に吸い込まれていく。
 僕らは交差点を右折して、そのまま衆楽公園を通り過ぎ、さらに東へと進んでいく。この辺りまで来ると、人通りはぐんと少なくなって、少し寂しくなる。この公園は、江戸明暦の頃、造られた。ときの森家二代藩主長継が「御対面所」として賓客をもてなすために築造させた。それは、近世池泉廻回遊式(きんせちせんかいゆうしき)の大名庭園と伝えられる。ここは、春は新緑、夏は松と池の蓮を中心とした濃緑の世界が広がる。秋は紅葉、そして冬は雪景色と、京都の仏洞御所を模した四季折々の景色を楽しませてくれる。その当時から一般に無料公開されている。市民や学生たちの憩いの場となっているところだ。
 新大橋の下流で吉井川と合流する地点から流れを北上してきた宮川を高専橋で渡り、その後はこの川沿いを北に延びてきた道と交差するところに到達する。ここで宮川沿いに進んできた同く北方へころに向かう自転車やバイク、徒歩の人達とポツリポツリと出会うことになる。その交差点を左にカーブしてからは弥生町、さらにその北側にある沼地区へと北上していく。
 高専橋をそのまま東に進むと、看護婦さんや看護士さんを育てる津山キリスト教高校があって、そこにも人並みが吸い込まれていくので、ここまで来てさらに北に向かっているのは大半が高専生と見てよいだろう。この辺りから高専に行く道にはもう一本があり、それはこの橋を過ぎてもう少し東に行き、三叉路へ出たら左に曲がってから、しばらく進んでから弥生団地に向かう道に入る。そして、その道は工業高専正門へとつながって行く、それは学生により「高専坂」と呼ばれており、いわば僕らの通学の本道(ほんみち)である。
 僕を含めて大半の高専生達は、本道ではなく、高専橋を過ぎたら直ぐ北に向かう道をたどっていく。この当時の北上する道は農道のようであって、ゆく者は道すがら田んぼとポツリポツリと点在する農家を眺めながら進んでいく。4月の初旬、その田んぼや畑には一面と言っていい程の麦が植わっていたようだ。いつでもどこでも農家の朝は早い。
 そのとき、この周りはすっかり農村の風情で、勝北町内に比べると後ろに津山市街がかいま見えるだけに、僕には何かしゃれた雰囲気が感じられた。吹く微風が、なんとなく、「きょうは ええ天気じゃのう。」と新参の僕に語りかけてくるように感じられた。そ
の時刻では、ちらほら見える人々もこざっぱりした身なりで、時折トレーラーを引いた耕耘機とかが通ったりする。ほぼ平坦なため青い麦が絨毯のように広がり、山間の棚田(たなだ)ということではないものの、日本のどこにでもあるような農村の原風景がそこには広がっていく。
 そして、5メートルくらいの道幅の一本道を一キロメートルほど北上したところで、右手に丘が望めるようになる。その小高い森の上から白いコンクリートの建物群抜き出ていて、かつ横に長く伸びている。それはかなり大きく見える。
 こんもりした森の上に白いコンクリートの建物群が連なっていて、なかなかの「壮観に違いない」としばし見とれそうになるのを我慢して先に進む。
「はる かくざんの はな におい
あき しゅうらくの つきにふす
れきしのあとは しげけれど
しんりをきわむ ひとさみし」
 入学式のとき、先輩方が謳っていた校歌の一節が浮かんで消えた。僕達はその場所に通うことになる。ほどなくして丘陵の下にたどり着くと、丘陵から沼の住居跡に続く傾斜に沿って勾配の急な上り道が緩い右カーブを描きつつ上へと伸びている。ここを上がると、工業高専の正門に向かう道と、そのままさらに上って沼の住居跡を望む場所に向かう道とに分岐する。津山駅前から「沼の住居跡」行きの中鉄バスに乗る、北園町から上河原、そして沼に入ってこの最終停車場にまで進んでくる。停留所のすぐ前には工業高専の裏門がある。これまで入学試験のとき、試験結果の合格発表のとき、そして補欠入学が決まって後入学式と教科書を回に母ととも来たときの都合3回、その裏門を通った。
 そこからもう少し上がったところには、二千年位前の遺跡なのだろうか、弥生人の住居跡がある。ちょっとした高台になっていて、そのときまだ上っていなかったが、バス停車場からはこんもりとした中に1棟の古代式縦穴住居が復元創建されていた。僕は坂が急な勾配になると自転車を降りて、歩いて上っていく。しばらく上っていくと、そこはもう正門の前である。ようやく坂を登り切ってからその前で振り返ると、かなり丈のある木立の間から木漏れ日とともに、津山盆地と町並みが見える。沼から西に向かって上河原、小原、総社方面、南北に広い小田中(おだなか)丘陵の中心部へと眼を向ける。そこには津山藩の時代の防衛線であった「いだ川」が流れており、その流れに沿って北上して行くと、同
じく総社(そうじゃ)の山懐に行き着く辺りは煙って望める。と、あれは神楽尾山(かぐらおさん、標高308メートル)だろうか。あの小高い山の麓には「天剣神社」の社
殿があある。
 また、国道53号線を十キロメートルばかり日本原(にほんばら)、または行方(ぎょうほう)・馬桑(まぐわ)方面(北東)に津山駅前から中国鉄道バスに乗って行ったところ、加茂川の清流を左にしながら野村に架かる新桜橋を渡り、それから津山市楢(なら)の長い坂を上りきった地点に出る。そこは茶屋林(ちゃやばやし)と呼ばれていて、そこの停留所から道を少し北にそれた山道をたどっていくと、松林の間から急に視界が開けてくる。
 そこからの大パノラマは今でも眼(まなこ)に入っている。その場所は断崖状になっていて、そこに立って北西を向くと、中国山地の山懐から出たところ、遠くに滝尾の駅と鉄橋が見える。それから眼を西から南へ移していくと、そこには人間がまだいなかった、いにしえの津山海(つやまかい)を彷彿とさせるかのような景観が広がっていた。とりわけ、太陽が西に傾く頃には、あたりからの夕景色が光のコントラストを見せてくれる、太古の雰囲気を堪能できる場所だ。ここ津山市沼からの眺めは、その絶景に比べれば、平らかで小振りであるものの、なかなかのものだ。西から南を順に望むと、浅いすり鉢状になった盆地の中に市街が白金の日光に映えて広がっているのが見てとれる。
 えもいわれぬフワフワした感慨とともに眺望にしばし見とれていたが、その間にも額には汗が噴き出してくる。詰め襟の学生服の下の肌着も汗だくのようだ。顔を再び正門の方に向けた。「今日からは、君たちを生徒としてではなく、学生として扱います」と。入学式のとき、校長の言葉が脳裏によみがえってきた。僕は、そのうちに弾んだ息を落ち着いたのを見計らってから、おもむろに新しい学舎(まなびや)の構内に入っていった。

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