○○142『自然と人間の歴史・日本篇』南北朝の統一(1392)

2017-08-06 08:47:38 | Weblog

142『自然と人間の歴史・日本篇』南北朝の統一(1392)

 この時期には、もう一つ政治的に重要な出来事があった。南北両朝の統一である。明徳の乱と同年には、大覚寺統(南朝)の後亀山天皇が吉野から京都に帰り、彼が持っている「正当派天皇」の権威を伝える「三種の神器」を、持明院統(北朝)の後小松天皇に差し出す、つまり譲位することでの両朝の歩み寄りがあった。この南朝側からの禅譲により南北朝の和解が成る。
 1336年(延元元年にして建武3年)から56年の長きを経ての1392年、南北朝の内乱は終止符を打たれる。さらに1399年になると、幕府は周防、長門、石見などの六カ国の守護を務めていた大内義弘の勢力を大幅に削減することに成功する、これを「応永の乱」という。この時の義満は、将軍を四代将軍足利義持(あしかがよしもち)に譲っていたのであるが、隠然たる力を維持していた。
 足利幕府の財政基盤強化に、大いに役立ったのが明(みん)との交易である。日明貿易では、幕府の財政を潤そうと考えた。この日明貿易においては、明に対し両国の関係が対等でなく、明はあくまでも献上品(けんじょうひん)にお返しを与えるという形でしか、他国との貿易を認めていなかった。幕府は、これを良しとして、明との貿易を開く。これは「勘合貿易」と呼ばれる。
 1470年、4代将軍足利義持の時に出された『善隣国宝記』に、1401年()に、足利義満から明の建文帝に宛てた国書の紹介がある。
 「日本准三后某(にほんじゅんさんごうなにがし)、書を大明皇帝陛下に上る。日本開闢(かいびゃく)以来、聘問(へいもん)を上邦(じょうほう)に通ぜざるなし。某、幸に国鈞(こっきん)を秉り海内(かいだい)に虞(おそ)れ無し、特に往古(おうこ)の規法に遵(したが)ひて、使肥富(こいずみ)に祖阿(そあ)を相副へ、好(よしみ)を通じて方物(ほうぶつ)金千両、馬十匹、薄様千帖、扇百本、屏風三双、鎧一領、筒丸一領、剣一柄、硯筥一合、同文台一筒を献ず、海島を捜尋し漂寄の幾許の人を還す、某誠惶誠恐、頓首々々謹言。
 応永八年五月十三日」(瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)作『善隣国宝記』)
 わざわざ「日本准三后某」と名乗るのは、足利義満のことである。また、「使肥富に祖阿を相副へ」と述べ、僧侶の祖阿を正使、博多商人の肥富を副使としている。そして国書を司る立場から「特に往古の規法に遵ひ」、つまり遣唐使の派遣に遡り、中国大陸の支配者である明国皇帝に、伺いを立てている
では、明はどのように日本の国書に相対したのかというと、同じ『善隣国宝記』にこう書かれている。
 「大明書・・・・・○爾(ここになんじ)、日本国王源道義、心王室に存し、君を愛するの誠を懐き、波濤(はとう)を○越(ゆえつ)し、使いを来朝せしめ、○流(ほりゅう)
の人を帰し、宝刀・・・・・貢(こう)し、副ふるに良金を以てす。朕甚だ嘉(よみ)す。・・・・・」
文中、「国王であるあなた、源道義」と名指しされるのは、2代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)のことである。要は、「倭寇に捕らえられていた者を帰し、宝刀を献上してきた皇帝は、これを喜ばしく思う」という、一段上から朝貢してきた国をねぎらう体裁だと言えよう。
 このように対等ではない立場の国の間で行われる取引であることから、両国による貿易のやり方は手が込んでいた。つまり、義満は「日本国王」と称し、自国の方からは、献上品を積んできた正式の船であることを証明するものとして、明が国々に与えていたのが「勘合(符)(かんごうふ)」と呼ばれる札(ふだ)を遣うことになる。この「勘合」というのは、一種の割符(わりふ)となっている。そこに記されている片割れの文字は、「底簿(ていぼ)」と呼ばれる台帳の文字としか一致しない仕組みだ。明では、この仕組みにより「勘合」を「底簿」と照合することで、入港してきた船が正式の財を運んできた船かどうかを判断し、そうであるなら品物を受け取り、金銭を支払うことになる。この勘合札がどんな形をしていたかは、1468年(応仁2年)に将軍足利義政(あしかがよしまさ)の命令で明に渡った天与清啓(てんよせいけい)という禅僧が記録した『戊子入明記(ぼしにゅうんみんき)』に写しとった図が描かれている。この日明貿易によって、中国からは主に銅銭(どうせん)、生糸(きいと)が輸入され、こちらからは硫黄(いおう)、刀剣(とうけん)、扇(おうぎ)などが明国に輸出される。
 ここに明(みん)が義満の申し出に応えたことには、経済的事由が相当に介在していたことは疑いない。『明史・日本伝』に、当時の明を苦しめていた、かの倭寇の記事が載っている。
「明初沿海の要地、衛所を建て戦艦を設く、・・・・・寇舶の至るを見て輙ち風を望み逃げ匿る。而して上に統率して之を御するもの無き故を以て賊帆指す所残破せざるは無し。 三十二年、…諸倭大挙して入寇し、艦を連ねること数百海を蔽いて至る。浙の東西、江の南北数千里同時に警を告げ昌国衙を破る。四月太倉を犯し上海県を破り・・・・・縦横に来往し無人の境に入るが如し。…大抵真倭は十の三、倭に従う者十の七なり。」
 つまり、明としては、勘合貿易で倭寇の類をおさえるために、勘合符を発行することでの日本との貿易を解禁したことにもなっていたのだと考えられる。 

(続く)

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