◎30の2『自然と人間の歴史・世界篇』秦による中国統一

2017-09-26 22:45:36 | Weblog
◎30の2『自然と人間の歴史・世界篇』秦による中国統一

 紀元前221年、秦の始皇帝が当時の中間地帯を統一した。その秦だが、初めは当時の中国の一番西にあった。紀元前771年、秦が初めて諸侯の列に加わる。紀元前714年、平陽(陝西(せんせい))に遷都する。紀元前627年には、晋(しん)の襄公の軍がが、秦の繆公(ぼくこう)の軍を破る。紀元前578年、晋が、斉、宋などの諸侯と秦を討とうと動く。紀元前408年には、魏(ぎ)が秦の河西地方をとる。紀元前364年には、韓、魏、趙を石門(陝西)で秦を大破するのであった。
 だが、秦はひるまない。その軍団は鍛え抜かれていく。他国と覇を競うには、東へと出ていくしかない。紀元前359年、商鞅(しょうおう)が中心となり、いわゆる「第一次変法」が実施に移される。秦が新しく生まれ変わることになっていく。紀元前350年、咸陽に遷都し、商鞅のいわゆる「第二次変法」が行われる。紀元前338年にかれを重く用いていた孝公が死ぬと、それまでの強権政治に嫌気がさしていた部下達が商鞅を失脚させ、彼は刑死する。紀元前333年、秦に対抗するため、遊説家の蘇秦(そしん)が合従(がっしょう)策を説いて回る。紀元前330年、秦が魏を攻撃し、戦いに敗れた魏は河西の地を秦に与えてしまう。
 紀元前328年、張儀が秦の宰相となり、秦に敵対する諸侯による合従策(がっしょうさく)を崩す動きをする。紀元前325年、秦が王号を採用することで、恵文王と号す。紀元前310年、張儀による連衡策が進み始める。紀元前259年、皇太子の政(後の始皇帝)が生まれる。紀元前256年、秦が周(東周)を滅ぼし、ここに周の王統が絶える。紀元前249年、呂不韋(りょふい)が秦の宰相となる。紀元前247年、政が秦王に即位する。秦王が、呂不韋を退け、代わりに李斯(りし)を重用する。呂不韋は、実は彼の父親であった。紀元前233年、戦略かとして功のあった韓非子(かんぴし)を捕らえ、自殺せしめる。紀元前230年には、秦が韓(かん)を滅ぼす。紀元前228年には趙(ちょう)を、紀元前225年には魏を、紀元前223年には楚(そ)を、紀元前222年には燕(えん)を滅ぼす。
 そして迎えた紀元前221年、秦は斉を滅ぼし、ついに中国統一を果たす。初めて皇帝号を用いることとし、郡県制を全国に施行するにいたる。統一国家としての秦は、度量衡の統一政策を行うとともに、漢字を隷書体(れいしょたい)へと進展させることを行う。度量衡や貨幣の統一にも進んでいく。前220年には、始皇帝が北巡を行う。前210年、東方への巡幸いを行い、古から天帝のおりるところとされていた泰山(たいざん)において、封禅(ほうぜん)の儀式を行う。紀元前213年、始皇帝の長男で将軍の蒙恬(もうてん)は匈奴を討つ。紀元前214年、李斯が丞相となる。万里の長城の建設を開始する。南越を攻撃し、広東、広西を支配するにいたる。紀元前213年、「焚書」(ふんしょ)を行う。続いての紀元前212年、今度は「坑儒」(こうじゅ)を行う。
 前210年に始皇帝が巡幸中に没すると、一体何があったのだろうか。丞相の李斯が宦官を含む勢力が二世皇帝を擁立する。遠征していた父思いの蒙恬は、偽りの命令を受け、自殺するのであった。紀元前209年、陳勝と呉広による挙兵があり、項羽(こうう)や劉邦(りゅうほう)らも挙兵する。紀元前208年、宦官の趙高(ちょうこう)が丞相となる。紀元前207年、今度は趙高が二世皇帝を殺し公子嬰をたてる。その公子嬰が趙高を殺すという具合に、政治の中枢が崩れていく。紀元前206年、秦の都が、楚の項羽によって占領されると、秦の宮殿はことごとく灰になる。公子嬰が劉邦に降り、秦が滅亡する。

(続く)

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