(5の2)『美作の野は晴れて』第一部、化石探検など

2016-12-07 08:21:46 | Weblog

(5の2)『美作の野は晴れて』第一部、化石探検など

 今、美作の中心地、今日の津山市街地から見て、その北東部には、神南備山(かんなびさん)、鳥山(とりやま)とある。そして、その北方の深いところには、日本のアルプスほどの威容ではないものの、中国山地の山々がある。その山々とは、山形仙(やまがたせん)、広戸仙(ひろどせん、三角点は爪ヶ城(つめがしろ、地元では「広戸仙」と呼んでいる)、滝山(たきやま)、そして那岐山(なぎさん)へと続く700~1200メートル級の山のことである。その山並みの全体が「那岐連山」もしくは「横仙」と称され、かなりの高さで屏風のように続いている。天気のよい頃であるならば、その那岐山の頂上に登って北を見下ろすと、そこは「山陰」であり、因幡の国、現在の鳥取県なのである。
 あれは、小学校の4学年くらいになってからの旅だったろうか。主観的には、心が浮き浮きしての遠足というよりは、心身ともになかなかに厳しい登山のようなものであった。私たちは先生方の引率で標高794メートルの山形仙に初めて頂上に登った。体育の時間ということではなし、さりとて遠足というのでもなく、それでいてそこそこの緊張感があり、ぼれば、児童たちに某かの達成感を与えてやることができる。このあたりが校長先生を初め、当時の先生方の粋な計らいであったといって良(い)い。つたない記憶によると、そのときは、引率の先生が何人もおられたので、たぶん一学年うち揃っての登山であったのだろう。稜線の尾根に到達してから、頂上のある尾根に続くなだらかな坂を進んでいったところに、頂上はあった。遙かに、東方の中国山系の稜線が連なっているのが見えた。その眼下に美作の大地が広がっていた。鳥取との県境に向かう稜線に沿って眼を移していくと、かなり向こうまで見渡せる、那岐山麓が「氷の山後山那岐山(ひょうのさんあとやまなぎさん)国定公園」の指定を受けているのが頷ける眺めであった。
 次の記憶にあるのは、小学校の中学年くらいの事であったろうか。4月に入ると、空気の暖かさが増してくる。朝から天気のいい日には、そんな春の日差しを受けて、子供たちの活動範囲はぐんぐんと広がっていく。その日は、学校が休みの日であったようで、の仲間で連れだっていたようだ。今顧みると、学校での理科の時間は窮屈であっても、遊びの中で自然の営みには連鎖があることを学べる。その中に、「化石探検」の遊びがあった。それは、西下での子どもの遊びに組み込まれていたのではなく、おそらくは誰かがどこかからかぎつけてくるなりして、「あそこに面白いものがあるそうな」ということであったらしい。
 そんなことで、今までに経験したことがないような、わくわく気分を抱いていた。向かった場所は、西下内のほぼ真ん中あたり、平井地区と流尾地区の境にある、ゆるやかな傾斜のある町道にさしかかる。すると、道から直ぐのところに、平坂ブロック工業(仮の名、コンクリート製品の製造業)の建物があって、その裏手に廻ると、そこは山肌がきれいに削り取られていた。この会社では、コンクリートブロックとか土管の類なんかを作ったり、置いたりするのに広い場所が必要となるからだ。崖の高さは五メートルくらいはあるのではないか。それはかの恐竜王国の福井の「恐竜の壁」ほどの深く切り立った場所ではない。とはいえ、小さいながらも「屏風」のように地面からせり立っている。どんな地層かはわからないが、何かがそこにあるというのが、村の子どもたちの間で話題になっていたに違いない。三兄弟のお兄さんのに頼むと、子供会やFOS(フォス)少年団の活動で日頃から顔馴染みなので、二つ返事で「いいよ」と言ってもらい、仕事が終わっているとき、暫しの間、そこで化石採集をさせてもらう。
 採取した化石の一かけらを掌に載せて、観察していると何かが見えてくる。今振り返ると、記憶半分、後は想像で、こんなやりとりが聞こえてくる。
「なんじゃろうか」
 もう一つの顔が覗き込んでくると、
「シダか、楓でのようじゃなあ」
 二人の頭がすり寄るようにしてくっついた。
あちらでは、今度は別のものが見つかったらしい。
 二人がそちらに歩いて行くと、
「これを見てみな、なんとか貝じゃあないの(ではないのか)」
 これを掘り出したらしい良介(仮の名)君が訊いてきた。
「うーん・・・・・」
 今度は何か生き物のようだ。でも、わからない。
「あんたら、三人で何しよるん」
 すかさず紅一点で姉さん気取りの道子(仮の名)さんがこちらに寄ってきて、良介君の掌をのぞき込む。
「良介君、あんたら知らんの?これはホタテ貝か何かの仲間じゃないの。はっきりは言えんけど。何千年も前の貝なんじゃと本に出とったのと似とるみたい」
 少年たちは、「ふーん」と頷いた。その好奇心と「そんなのが本当にここにあるんか」疑問は、おそらく今も昔も変わっていない。
 濃い灰色の小さな化石の埋め込まれた泥岩は、少し力を入れて握ると、私の掌の中でボロッボロッと壊れた。
「ああ、いけん・・・・・壊してしもうた。ごめんな」
「もろくなっとるみたいじゃな」
 道子さんがしんみりとした表情を浮かべて言った
「大昔は海だったんかなあ、ここは」と私が呟いていると、
「さあなあ・・・・・、僕にはわからん、そん時は人間はおらんじゃったしなあ・・・」
 と言って、健一(仮の名)君が自信がなさそうに首を横に振る。
「そうかあ・・・・・」
 私は、一瞬であったが、人間がいなかった時代のある光景がふっと目の前に浮かんで見えた気がした。
「昔はこの辺は津山海という海じゃった(だった)と、先生が理科の時間にいうとんさったで(言っておられたよ)」
 一番年上の勇二(仮の名)さんが誇らしげに言うと、道子さんも顔を輝かせて言う。
「そうなんよ。あんたらも誰かから一遍位は聞いたこともあるじゃろう?」
「ふうーん。そうなんかあ」、「そうじゃった、そうじゃった」と、他の皆で相づちを打つ。
 なるほどなあ、女の人はよく勉強しとると感心したものだ。
「そういえば、吉井川の河原でくじらの化石が見つかったそうじゃ(そうだ)。あそこが昔海なら、この辺りだって昔は海じゃな」
 その当時、「津山海」のことはほとんど知らなかった。例えば、津山から出土している化石に「ピカリア」がある。大きいものは8センチメートルもあって、新第三紀中新世中期初頭(約1600万~1500万年前)の海を泳ぎ回っていた。そのピカリアは現生ののセンニンガイの仲間にして、今の日本で言うと「西表島(にしおもてじま)などの亜熱帯地域の河口や、干潟のマングローブ域で見られる」(宇都宮聡・川崎悟司『日本の絶滅古生物図鑑』築地書館、2013)とのことである。
 私が小学校を卒業するまでの在学中にも、大人の学友などから話題にされたり、示唆を与えられたりしたことがあったのかどうか、どうしても思い出せない。ちなみに、この海の範囲は瀬戸内海の方から北の地域(新見地域も含め)の広範囲に渡っていようなので、「津山海」という呼び名ではふさわしくない気もする(1989年刊の美作の歴史を知る会編「みまさかの歴史絵物語(1)」の末尾に「約二千年まえの陸地と海のようす」として描かれている)。
 地元の地域がどのように変遷してきたかは、実地に行ってちゃんと見聞していかないと、わからない。地質学には縁遠い生活をしていたのが改まったのは、多分、小学校も高学年になってからだろうか、津山市内の科学教育博物館に遠足か何かで訪れた時ではないかというのが、曖昧な記憶となって残っている。そこに行った目的としては、プラネタニウムを観せてもらうことと、それとは別の部屋にある、博物館の色々な展示を見て回ったように想い出している。あれから数十年を経過して、今では、何から何まで、確かな記憶はとうに失われてしまっているため、自信をもって言えないものの、そのとき、「津山海」についても何かの説明があったのではないだろうか。
 その後も、「津山海」については、ほとんど何も知識なり経験なりが進展することなく過ごしていたのが、突然のことで戸惑ったのは、中学生活を通り過ぎて、工業高専に通い始めた、ある日のことであった。それというのは、学校からの自転車を踏んでの帰り道、
ふとしたことから、ほんの少しだが通学路をそれて、いつもと違う方向に分け入ったことがある。それが、私なりの「津山海」を実感した、初めての経験であった、と言って良い。季節と時間としては、秋深い、美作の山々に西日さす午後であったように想い出される。その場所というのは、津山市茶屋林で道を左に折れ北へ少し行った辺りで、まるで画面のように我が目の前に、西部劇に出てくるかのように茜色に染まっている荒野が広がっているではないか。驚きは、直ぐに感動に昇華していった。どのくらいそこにいたのであろうか、多分5分位の間はその場に座り込んで、西の方角に見えるのは大パノラマ、広大な眺めであったのをはっきりと覚えているのは、その日を境に頭の中に美作の古代の大地が自分流に焼き付いたからなのだろう。
 そればかりではない。日本原の塩手池からはウニ、サンゴ、カキなどの生物のほか、私たち日本人には馴染みのブナやクヌギ、柳、珍しいものではメタセコイアなどの植物の葉の化石が見つかっている。彼らはそこでどのくらい命をつないでいったのだろう。次々と姿を変えて種として生き延びていったのだとすれば、その痕跡も化石の中にどれくらいか読み取れるのだろうか。

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