※『美作の野は晴れて』第二部5、夏の風物詩1

2014-10-12 06:36:56 | Weblog
※『美作の野は晴れて』第二部5、夏の風物詩1

 1966年(昭和41年)の夏には、日本原高原で国際ジャンボリー大会があった。正式な名は「第4回日本ジャンボリー(ボーイスカウト国際交歓野営大会)」といった。FOS(フォス)少年団の一員か仲間として、8月5日から9日にかけての開催期間中のいずれかの日に、仲間と一緒に出かけたのだろう。
 ここで日本原高原といっても、馴染みのない方もおられるかもしれない。そこで、場所からいうと、国道53号線(1960年(昭和40年)に「一般国道53号」に改称)の日本原のバス停を通り過ぎるともう奈義町である。そのまま10分くらいバスに乗って東に行くと、「上町川」のバス停にさしかかる。そこを過ぎて少し行った辺り、バスは急に左に大きく曲がってゆるゆる傾斜のある道を降りていく。
 バスに乗っていて右を見下ろすと、なだらかではあるが、すりばち状の緩い傾斜となっていて、その景色は雄大である。左に曲がりきったところで、バスは今度はバスは思い切り右にカーブを切って、今度は元来た方向と逆を緩やかに上っていく。私は、これを勝手に「すりばち坂」と呼んで、自分の知りおきし名所の一つに数えていたものだ。
 その後、この天然の難所を過ぎたバスは自衛隊前、北吉野、さらに滝本へと東進していく。まだご存知でない読者も、一度この辺りを進んでみたら、アメリカノ西部劇の舞台にも似た、日本の自然らしからぬ、その雄大な景色に驚くのではなかろうか。
 日本原高原とは、この辺りでは知る人ぞ知る、西部劇に出てくるような大草原である。乗合バスが日本原のバス停を出た辺りから、バスからは左側、方角からは北に中国山麓に到るまでの地帯を指す。津山盆地の北東部に南北約10キロメートル、東西約3キロメートルくらいのところに広がった、概ね平坦な丘陵地帯をいうのである。
 その歴史を顧みるに、天文年間(1532年~1544年)の頃、、この地を訪れ、この地を気に入って住み着いたと伝えられるかの福田五兵衛(ふくだごへい)の墓碑銘(日本原の市街地の西外れにあるという)に曰く、「霊仙信士、元文五申年九月初六日、此霊者国々島々無残順廻仕依○諸人称日本五兵衛、是以所日本野ト申候、日本野元祖、俗名、福田五兵衛」と彫り込まれている、とのことである。
 これと同じ話ような話は、『東作誌』にも載っている。
「広戸野は一に日本野と言う。北の方野村滝山のふもとより、南の方植月北島羽野まで平原の間およそ三里、人煙なく、当国第一の広野なり。その中筋を津山より因州鳥取への往来となり、昔はさらに人家なかりしを、正徳のころ市場に五兵衛という農民、日本廻国して終わりに此の野に供養塔を築き、その側らに小さき家を建てて往来の人を憩わしめ、あるいは仰臥したる者などを宿めて、もっぱら慈愛を施せしかば、誰言うとなく『日本廻国茶屋』と呼びなわせしを、後に略して日本と許り唱うるごとくなれり。後にその野をも日本野と称するも時勢と言うべし。」
 ついでにいうと、この辺りは、1879年(明治12年)の明治の氏族移民事業で開墾が始められた。当時勝北郡長の安達清風が音頭をとって、政府から資金などを借り受け、士族の有志40人余りが山かした。牧畜や蚕の食べる桑の葉の栽培も含む多角的経営を目指したが、清風の死後になると、うまくいかずに挫折した。原因としては、強度の酸性の土壌、川筋から孤立した灌漑が出来にくい乾いた土地であることがまずあり、これに地域風としての「広戸風」に晒されたことも加わったためと見られている。特に、土壌については、この原に足を踏み入れてわかったことだが、この平原の土は黒くほこりっぽい。これは津山盆地の東北部(勝北町(現・津山市)と勝田郡奈義町)に特有の地層で、第三期層上に洪積世の砂礫層が積み、さらにその上に地元で「黒ぼこ」と呼ばれる火山性の黒色土壌の層が重なっていることらしい。
 その後、1909年(明治42年)、その大部分が陸軍の演習場となり、第二次大戦後の連合軍占領期にはアメリカ軍が進駐していた。1955年(昭和30年)には、当時の勝北町に属する地域集落がその地を「日本原」と公称した。またこの年、当時の北吉野村、豊田村、と豊並村の三か村が合併しての奈義町(なぎちょう)が誕生した。1963年(昭和38年)の日本への基地返還の後は陸上自衛隊演習場として今日に到る。なお、国道53号線から南側の地域は、現在は演習場ではなく、農地の用に供されている、といわれる。
 今日のジャンボリーには、皇太子夫妻がみえるというので、その頃のバス道はまだ舗装されておらず、ほこりが立つようではいけないから、道には塩が撒かれたと噂されていた。開会式の会場への途中、入り口の辺りの沿道は人が鈴なりのようにたむろしていた。日章旗を振っている人もかなりいたようだ。その中を、やがて先導の車が近づいて来て、その後に夫妻が乗った黒塗りの立派な自動車の窓の中から、皇太子妃が笑顔で、軽く会釈をしながら手を振っている姿が見てとれた。
 私はそれまで、皇族の皆さんは私たちには想像もつかないようないい暮らしをしているのではと思っていた。しかし、彼女の姿を見た後は、皇太子妃というのは楽な仕事ではないなと思った。車窓から見えた彼女の頬は色白で、やせこけているようで、子供の眼にも見ていて痛々しく写った。
 会場は、自衛隊の演習場で駐屯地の一部だったのだろう。広い会場のあちこちには風船や幟、それにアドバルーンのようなものが立ち登り、それが草原の赤土と夏の日光の照り返しによってきらめいて見えた。どこからやってきたのか、音楽隊もブラスバンドを組んで勇壮ながらきらびやかな音楽を奏でていた。
 普段ならば、その演習場には一般市民は入れない。その祭り会場からずっと北の方角に眼を向けると自衛隊の模擬演習を観るこみとができた。遙か前方に戦車が進む後に数人の兵隊さんが付いて歩く。薄茶色い土の膚かに土煙が立ち上がる。何のためにやっているのかは分からなかった。そうこうするうちに、戦闘服を着込んだおじさんたちは、しだいに北へ遠ざかっていった。上空ではを飛行機が信じられないような低いところを飛んでいた。刺激的な味のするコカコーラを初めて買って飲んだのも、このときである。

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