新13『美作の野は晴れて』第一部1、幼年期の想い出2

2014-10-09 21:20:48 | Weblog

13『美作の野は晴れて』第一部1、幼年期の想い出2

 その頃の思い出に、病気の母の見舞いがある。母が当時入院していたのは津山市京町の渡辺病院であった。その頃の母は、体調が全体にすぐれなかったと聞いている。母は流産の経験もあるように聞いているが、そのためであったのか、詳しいことは今でも何も知らない。病院には、父に連れられていったのだろうか。祖母か祖父であったのかは、依然としてはっきりしない。病院のベッドで、見舞客があったのだろうか、いいこをしているかなどと、そのとき誰かに聞かれたようでもある。
 後年、母は私への手紙で、そのときのことを次のように回想している。
「泰司がお腹に居る時分私の心は間違っていました。朝五時に起き兄弟を送り出し家の仕事田圃の仕事が辛い体がえらい事ばかり思い父さんにも不足ばかり思っていました。お腹が大きくなるにつれ足が痛くなり、筋が引きつり立っているのが苦痛になり泣く思いをしたり○で○○居ました。おばあちゃんが私の為信仰をして下さり私も其の時般若心経とノリトを覚えました。お墓にお祀りしてある地主様に詣でていました。二十三才から三十三才迄良く病気をしました。
・・・・・
 ぐずくず言いながらも家の炊事や洗濯掃除等は何時もしておりましたが、何時も沈んだ顔をして頭も重く産後も血の道と言って頭が痛くふらふらしていました。両親にも父さんにも子供達にも心配をかけました。肩がこり歯が痛み二十九才の時全部抜いて総入歯をしました。
 関本の親父さん(おじいちゃん)は二十九才のとき、母が三十三才の時他界されて一層辛くなり、とうとう胃が悪くなり体全体が悪いような気持ちで三ヶ月も入院しました。
 今振り返って見て、我が家の両親に大変心配をかけ親不孝をしました。渡辺病院で一時は湯呑み一杯のおかゆだけ位食べ注射で生きていた様に思います。眠れなくなりやせて血圧の上が八〇(ミリ水銀柱・引用者)位になっていました。
 一度倒れた時、子供達と一緒に暮らしたいと思いながら恐怖心を取越心配して淋しい思いをしていました所隣に入院しておられた真庭郡の久世光孝の女の先生が『甘露の法雨』と「生長の家」(せいちょうのいえ、谷口正春を始祖とする新興宗教団体・引用者)の本を持って来て人間は神の子なんですよ。心配を恐怖心と不平不満が病気を造っているんですよ明るい顔をしなさい。鏡に向かってニッコリした顔を想い出して持ち続けなさいと教えて下さいました。
 其の時帰って少しでも皆様の御役に立とうと想ってフラフラしながら帰りました。タクシーから降りて多美雄さん宅から我家まで父さんについて帰って来るのがやっとでした。以後も恐怖心があってふらふら道の真ん中が大変長い間歩けませんでしたが、私は神の子完全円満神の子が歩いている(繰り返しの符号あり)。又住吉神社様様(繰り返しの符号あり)と小声で唱えありがとうを念じました。夜は『甘露の法雨』を上げました。」(2000年5月の母からの手紙より)
 病院での母の姿は少ししか思い出せない。覚えているのは、ベッドの上に半身を起こした母が、その細くなった手で、「元気でやってるか」と私の頭を撫でてくれたことである。
 その病院に滞在中は、一緒に連れてきてくれた家族が「帰るぞ」という時まで、一人で病院の外にも出かけた。近くの道ばたか建物の中で、将棋を指していたおじさんたちと知り合いになったことである。中に名人風のおじいちゃんがいた。なんとなく凛とした風格が漂っていた。小さな貸本屋もあって、そこで本を、20円だったろうか小遣い銭をもらって借りてきて、病室の母のそばで読んでいたらしい。その店は、鶴山(かくざん)通りを横切って50メートルばかり坂を下った所にあった。店の中は今でも、おじさんの物珍しそうな表情と狭苦しく本が置かれていたのを覚えている。
 母が病気というので子供心に辛いとは思っていなかった。たぶん、津山市内に住む親戚や、祖父母がまだ元気でいてくれたおかげで、そのような気持ちに陥らずに済んだのだろう。後年、母に聞いたところ、母はこのとき宗教法人である『生長の家』に入信した。東洋と西洋とが合わさった神の中に、自分の命の源を見つけたのである。そして、いつまでもこのままではいけないと、決意を固め、退院して、家に帰った。
 家では、安吉(やすきち)おじいさんの「心配するな。必ず直してやるからな」との励ましを受けて勇気づけられた。あるとき『このようなことではいけない』と意を決して立ち上がり、カド(住みかの始まるところの意で庭を指す)西の田圃に続く坂道をよろよろとふらつきながらも登っていったそうである。
 このとき母の身体には神様が宿っていて、母を立ち直らせたそうである。私がつい4年前まで母に甘えていられたのは、このときの子供2人を残して死にたくないという、母のなんとしても生きていこうとする決意の賜であったろう。
 「七五三」は、子供の成長を願って神社なり仏閣に行くことになっている。だから、これを「お宮参り」ともいう。あれは7歳、小学校に入りたての時ではなかったか。そのお参りに祖父と一緒に津山の神南尾山(かんなびさん、津山市の南にある山で標高は356メートル)に登った。津山駅で降りて、そこから歩いていくには、幼い子供の足では遠すぎる。やはり、7歳になってから連れられて言ってもらったのだと思う。どのような順路であの山に登ったのかは、残念ながら覚えていない。
 それはおそらくまだ夏ではない、春たけなわの、ある晴れた日のことだった。山頂に登り、神社の社(やしろ)に参拝を済ませた帰り道に、初めて雲海というものを目にした。雲の上の面は様々隆起があるものの、全体としてはなだらかな線となっていた。目の前や眼下に、みまさかの山と野があった。この山の頂上からは、吉井川を挟んだ北向かいにある神楽尾山(標高308メートル)の頂上も見ることができるといわれる。ここからの津山の町並みも「春霞」(はるがすみ)の中にもやっと霞んで見えた。
 それから勝北町勝加茂西にある城の山商店(仮の名)主催の潮干狩りツアーで、村の人たちと一緒に祖父と母、兄と私で出かけたことがあった。行き先は倉敷市の児島湾の下津井か、「高州の浅瀬」の辺りだったのか、詳しい方は教えてほしい。中国鉄道バスの前で祖父、母、そして兄と一緒の写真が残っている。まだ、幼稚園に通っていた、6歳頃のことなのかもしれない。
 初めて見る海はだだただ広くて、とらえどころがなかった。そのときは浜であさり採りに夢中になっている。ジョレンやシャベルなどの大きな道具は使ってはならず、小さな熊手を使って砂地を掘ったのではなかったか。まだ幼かったので、潮の満ち引きなんかの理由はわかっていないし、大勢の人たちが同じことに夢中になっている、その物珍しい光景の方にこそ興味をそそられたのかもしれない。あさり取りを終えて、家族に付いてバスに戻る途中か何かで迷子になった。祖父に付いて歩いていたつもりが、ふと気が付くと別人だったのだ。
『ちがう、おじいちゃんじゃない!』
電光石火というか、体中に稲光のような衝撃が走った。
それから、大変な不安に駆られてやみくもに捜し回ったことを覚えている。
 その帰りであったか定かではないものの、上村のバス停留所でバスを降りて何気なしに渡ろうとした。その途端、「シューン」というトラックのブレーキが地面にきしむような音で鳴り響いた。目の前で白い煙も上がったような覚えもある。僕は目の前が真っ白になった。私の心臓はどっくんどっくんと音を立てた。
「危ないじゃないか」
びくついて身を縮めている耳に運転手の罵声が飛んできた。やせ型の運転手の顔は怒気に包まれていた。
 トラックが去った後、私はしばらく道を渡れなかった。何が起きたのかはまだ、よくわからなかったし、そもそも頭が働かなかった。運転手さんからひどくしかられた関係上、危なく命をうしないそうだったのだとまでは、わかっていた。でも、何でそうなったのかは、特にそこに到るまでの自分のこうどうに対する客観的評価ができない。まるでしおれた花のような気分になった。道路の面をしばらく眺めて、息が落ち着いてから、祖母や母と渡ったようだ。
 手元に1964年(昭和34年)3月25日付けの保育証書が残っている。「右は本園で1ケ年間保育したことを証します」とある。満6歳と8ヶ月の春のことである。ちなみに幼稚園には2年通う人もいた。

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