♦️100『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(魏の屯田制へ)

2018-01-21 19:11:11 | Weblog

100『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(魏の屯田制へ)

 196年、中国の地では、大きな時代の移行期の時期にさしかかっていた。後漢の献帝を戴いた曹操は、尚も力を伸ばしていく。208年、華北をほぼ平定した曹操は、さらに南進しようと遠征軍を発し、呉(ご、中国読みはウー、222~280)の孫権(そんけん)と、これに合流していた劉備(りゅうび)の連合軍と揚子江(ようすこう)の赤壁 (せきへき、現在の湖北省嘉魚県) で対峙する。そのときの戦いを「赤壁の戦い」という。
 この戦いにおいては、呉の総督である周瑜(しゅうゆ)の部将黄蓋が曹操の水軍を全滅させる。曹操の軍が大船団を構えているところへ「火攻めの計」を用いて火矢を放つ。折からの強風でその火勢が煽られたので、さしもの曹操軍は大混乱に陥った。多くの船が戦うどころはなくなる所へ、呉軍がここぞとばかりに押し寄せ、陸でも劉備の軍に攻め立てられ、全面敗退を喫し、魏軍は命からがら華北へ逃れたという。
 曹操は、赤壁での大敗北から色々と学んだ。その一つが、呉の都の建業を目指し復讐(ふくしゅう)の遠征軍を送る時に補給線が絶たれ、戦力が減殺されるのを如何にして防ぐかであった。そこで、同じ196年、参謀の韓浩らの提言に従う形で、この補給線に沿って兵隊を募って駐屯させることにする。具体的には、、「黄河と准水間の河川沿ぞいと、さらに前線の揚子江北岸等の灌漑(かんがい)工事にあたるため軍民を派遣し屯田を行わせた」(貝塚茂樹「中国の歴史・上」岩波新書、1964)という。
 後漢末の治世では、「黄巾の乱」(こうきんのらん、184年に太平道(黄巾賊)を率いる張角(ちょうかく)が起こした反乱)を契機に荒れ果てた土地がかなりあり、また流民も発生していたので、営農が止まっていた。そのことで、それまでの後漢王朝の「人頭税」という方法で税をかけていたのが、「戸籍台帳」に登録されていない住民が激増したため、その徴収額は激減していた。
 ここにいう屯田制だが、前例がなかった訳ではない。秦(しん、中国読みでチン、統一王朝としては紀元前221~206)の時代には、兵士に田地を与えて自給自足させ(兵戸)、同時に辺境の防備に充てようとするのを軍屯(ぐんとん)といっていた。新しいやり方では、入植させた農民に農具や牛を貸与するとともに、その見返りとして収穫の半分以上(一説には6割とも)を上納させるという一種の小作方式(これを民屯という)をとる。
 この制度の導入当初、かかる屯田を耕作する住民は戸籍登録されることなくして、特別に「屯田民」と呼ばれていた、ともいう。これにより、税収は、だんだんに上向いていくのであった。歴史学者の貝塚茂樹氏の言葉を借りるなら、「この屯田制は魏(ぎ、中国読みはウェイ、220~265)の南方進撃作戦の基礎となったばかりでなく、荒廃していた華北の農業を復興する原動力となり、次に来る晋(しん、中国読みでジン、西晋は265~316、東晋は317~420)の占田制(せんでんせい)に始まる中国中世独特の国家的農地所有制の先駆をなした」(同)ということだ。やがて、中国は魏・呉・(しょく、中国読みでシュー、221~263)蜀の三国鼎立時代を経て晋の時代に入っていく。
 そこで、晋の時代に入ってからのこの制度のありようなのだが、尾崎康氏はこうまとめている。
 「魏の屯田策は呉・蜀と闘う兵士の食糧確保のために戦乱で荒廃した土地に兵士や流民を入植させたものであるが、晋代には豪族化・貴族化が進んで荘園が激増していたから、土地の所有制限がいよいよ必要になって占田・課田法を行った。この制にはわからないことが多いが、官位によって土地と佃客(でんきゃく)との所有量を制限しようとしたことは明らかで、また戸籍を整えて人民に土地を給付し、一戸ごとに課税するようにして、農民の土地所有面積を平均化し、国家の租税収入の安定化を図るものでもあった。これは隋唐の均田制の先駆をなすが、大土地所有制限の効果のほどは疑わしい。」(尾崎康「貴族社会の形成ー魏晋南朝の政治と社会」:伊藤清司・尾崎康「東洋史概説Ⅰ」慶應義塾大学通信教育教材、1976)

(続く)

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