♦️573『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の個人崇拝(スターリン)批判

2017-08-16 09:02:52 | Weblog

573『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の個人崇拝(スターリン)批判

 1953年にスターリンが死んだ後のフルシチョフ政権の時代(1956年~1964年)のとっかかりに、ソ連のみならずその後の国際共産主義、世界の民主主義運動にとって歴史的出来事があった。
 1956年2月25日、ソ連共産党第20回大会で(正確には、すべての大会議事が終了した後に開かれた非公開の会合において)、フルシチョフの「秘密報告」によりスターリン批判が行われた。このときの党第一書記フルシチョフの秘密報告「個人崇拝とその結果についての報告」の構成は、(1) スターリンによる党規範の破壊、党幹部の解任など」、
(2)1941年6月の独ソ戦開始期に外交・戦争指導の誤りがあったこと、そして(3)多くの無実の人々に対する弾圧(ただし、ブハーリンやトロツキーの復権、農民への抑圧などには論及されていない)である。
 それにしても、なぜ公開ではなく、秘密での報告になったのだろうか。それについては、ソ連共産党内にまだスターリンの息のかかった者たちが残存していたこと、当時国民の前に公(おおやけ)にすると混乱、軋轢(あつれき)などが生じるかもしれないことなど、他にも幾つかの理由なり背景があったのかもしれない。これらを、「時期遅し」もしくは「中途半端」などと笑うことはできないのではないか。特に、戦中・戦後を通じて天皇(大元帥としての)と軍部の戦争責任をきちっとした、国際的にも理解してもらえるだけの形と内容で明らかにできていない日本の歴史家、さらに誤解を恐れずに言えば日本社会全体にも当てはまる論点でもあると考えられる。
 参考までに、この報告のとっかかりの部分は、つぎのように伝えられている。
 「同志諸君!(スターリンに対する)個人崇拝は、このような恐るべき状態に達していたのである。そしてその第一の原因は、スターリン自身が、考えられるすべての方法によって、彼自身の人格の賛美を奨励したからである。このことは無数の事実によって裏付けられる。スターリンが自己を賛美し、初歩的な慎みさえ欠いていたことを示す最も顕著な実例の一つは、1948年に出版された「スターリン小伝」である。(中略)もしスターリンがこの本の著者であるなら、なぜ彼は自分の人格をあれほど称賛し、また輝かしいわが共産党の十月革命後の全期間を、すべて“スターリンの才能”による行動にしてしまわなければならなかったのか。(以下、略)」(江上波夫 監修 『新訳 世界史資料・名言集』 山川出版社 より。
 なお、この後、報告全文(テキスト)は、共産党の各機関、下部組織に下ろされ、党員集会及びコムソモール集会で伝達される予定になっていた。ところが、その党内手続きが完了するのを待たずに米国国務省にすっぱ抜かれてしまう。数ヶ月後には、米国内のチャンネルで公開されてしまう。もはや、秘密は保たれなくなってしまった、仕方がないというのであった。とはいえ、ソ連国内では、ゴルバチョフ政権の1989年になって正式に公開されるまでは一般公開とはなっておらず、1956年以降もペレストロイカに至るまでの間、ソ連の「地下秘密出版」等からの紹介という形でしか入手はならなかった。日本で邦訳が最初になされたのは1977年と見られ、ソ連の「地下出版」からの翻訳出版物と銘打たれている(現在、この本は閲覧可能である)。
 この報告の中でさしあたり今ひとつ注目すべきは、スターリンが第19回党大会において党幹部会メンバーを25名に大幅に増やそうと目論んでいたことを明らかにしていることだ。このときのスターリンは古参の幹部のなかから気に入らない人を一掃し、自分の息がかかった新人を幹部に登用することで、自らの権力基盤を盤石なものにしたかったようで、これが事実とするなら、彼の権力維持への情熱は晩年まで続いていたことになるでしょう。なお、ここで用いた資料は、ニキータ・フルシチョフの「秘密報告」のほか、例えばフランソワ・フェイト著・熊田亨訳「スターリン以後の東欧」岩波現代選書、1978、423ページにも同様の論述がみられる。

(続く)

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