新91◻️◻️46の1の3『岡山の今昔』藩札交換の経緯とその効果(1870~1872) 

2021-08-27 22:41:20 | Weblog
新91◻️◻️46の1の3『岡山の今昔』藩札交換の経緯とその効果(1870~1872) 

 さても、幕末期での金融は、どのようにして明治の世の中に受け継がれていったのだろうか。そのとっかかりとしての1867年(慶応3年)に発行された太政官札(だじようかんさつ)というのは、発足したばかりの明治政府により発行された紙幣で、10両、5両、1両、1分、1朱の5種類の金種があった。
 当初は13年間の発行期限と目される。そうはいっても、成立したばかりの、まだホヤホヤの新政府に信用の担保を求めることや、偽札が出回ること、戊辰戦争の資金調達に大量に使われることでの混乱も指摘されていく。
 つまりは、新政府が当面の出費を賄おうとする意味合いが強く、経済の裏付けなしに発行された不換紙幣であった。そのため、その価値は短時間で下落することで、発行中止に追い込まれる。
 そこでの1869(明治2)年5月、今度はこの札を、新たに発行される金貨と交換するという兌換方針を発表するも、同時に小額面の民部省札(額面としては2分、1分、2朱、それに1朱の4種類)を不換紙幣として発行したことから、こちらでも貨幣価値の下落は止まらない。
 そして迎えた、1871年(明治4年)に行われた廃藩置県(とはいっても、幕府の「天領」であったところは、1867年(慶応3年)に公取され県となっている訳なのだが)となり、これに合わせて同年に公布された新貨条例布告による貨幣単位「円」の導入と、それまでの一切の藩札は適用なり流通が禁止されてしまう。
 
 なお、かかる条例の中身だが、主には、こうなっていた。
 その(1)としては、新貨の呼称は、「円」とし、1円の100分の1をもって「1銭」、1銭の10分の1を「1厘」とする、つまり10進法を採用。
 (2)の金貨としては、20円、10円、5円、2円、それに1円を本位貨とし、そのうち1円金貨を基本と定め、各金貨とも無制限に通用するものとする。
 (3)としては、銀貨は、50銭、20銭、10銭、5銭。また銅貨は、1銭、半銭、1厘はすべて補助貨とし、銀貨の通用限度は10円、銅貨のそれは1円とする。
 (4)としては、新貨幣と、旧体制下での通用貨幣との交換比率は、1円につき1両と定める。
 (5)としては、当分の間、貿易上の便宜を図るため1円銀貨を製造して貿易銀となし、開港場において無限通用を認める。一般取引についても相互の話合で無制限通用力を有するものとしてよい。
 それに(6)として、貿易銀と本位金貨との交換比率については、当分、銀貨100円につき金貨101円とする、つまりは金銀法定比価は約1対16というところか。


 果たして、これらの定めなりを極大雑把にいうと、金本位制を標榜するも、その実は銀と二本立て、それでいて、そのことを実効たらしめる環境づくりとは切り離されていることから、名ばかりの部分が多く出ざるを得なく、そのため、1875年(明治8年)に「貨幣条例」と改称されたものの、1897年(明治30年)10月の「貨幣法」の施行まで存続するのであった。

 それと抱き合わせというか、同時期での相場によって新政府の新札(円建て貨幣としての「明治通宝」、ほかにも新銅貨)との交換が始まる。

 しかして、これらのおよその動静についての、現在の金融当局による回顧には、例えば、こうある。
 「次に、藩札については、1871(明治4)年12月の布告によって、廃藩置県時点の同年7月14日時点の「相場」または実勢価格に、よって政府紙幣と引き換えるという方針が示された。
 この時点での藩札の総額は39,094千円であるが、大蔵省による「精密の調査」の結果、明治政府か引換義務を負った金額は24,935千円となり、その後、明治政府は藩札と政府紙幣の引換えを順次進めていった。」(大森とおる「明治初級者の財政構造改革・累積債務処理とその影響」、日本銀行金融研究所「金融研究」2001.9)


 「次に、半分と札については、1871(明治4)年12月の布告によって、廃藩置県時点の同年7月14日時点の藩札の総額は39,094千円であるが、大蔵省による「精密の調査」の結果、明治政府が引換義務を負った金額は24,935千円となり、その後、明治政府は藩札と政府紙幣の引換えを順次進めていった。
 外国債については、総額4,002千円のうち、明治政府が債権者に対して、「現金即償」という条件を提示して交渉した結果、支払金額を、3,688千円に圧縮のうえ現金償還した。このうち887千円はその後債務者(各藩の旧藩主)に対しての追徴や、抵当物件を接収のうえ払い下げるなどの形で対応したので、明治政府の継承額は2,801千円となった。
 以上から、明治政府が継承した旧藩の内国債務は、藩○、藩札24,935千円の合計53,364千円であり、外国債の2,801千円を含め、明治政府の債務継承額は56,165千円となる。この結果から藩債、藩札のそれぞれ切り捨て率のほぼ全額が償還されたと考えてよいであろう。」(大森とおる「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」、日本銀行金融研究所「金融研究」2001.)
 
 そこで、およそこうなると、大まかな傾向ということでは、「早く藩札交換しないとどんどん目減りしても埋め合わせがないよ」との意味合いから、旧藩札価格とされるのは暴落の様子になっていく話になりかねないのであった。
 因みに、例えば、この時点での岡山藩においては「廃止札員数銭札1059万3098貫文」(当時の貨幣単位での数字)であったというのだが、このような次第で交換された札は、京橋河原で1872年(明治6年)に焼却処分となったという。
 その後も、新政府の思惑に沿って事が進んでいくうちには、大いなる国民生活の変動が避けられないことでもあったのではないだろうか。


(続く)

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46の1の3『岡山の歴史と岡山人』藩札は終幕へ(1853~1872)


 さて、話は岡山藩の金融にたち戻るが、札場(さつば)を巡る状況の19世紀前半は、不明らしいのだが、1850年(嘉永3年)頃からまた怪しくなってくる。相場の下落が始まり、1854年(安政元年には金1両が600匁(もんめ、1匁は約3.75グラム)まで下がる。

 参考までに、元禄(げんろく)の頃の鋳造貨幣の方は、金貨はいわゆる計数貨幣にて、小判(1両)、一分(ぶ)金、二朱(しゅ)金の三種類、それら三種の交換比率は1両=4分=16朱とされていた。その後、何度も改鋳などが行われ、金の含有率がへ減らされてきていた。かたや銀貨は、概ね関西以西での使用であったらしいのだが、それらは重さを測っての秤量貨幣であって、丁(ちょう)銀、豆板(まめいた)銀に分かれていた。

 これに臨んだ藩は、札価格の10分の1を切り下げたり、債務支払いの3年間凍結(モラトリアム)を布告したりで収拾しようとしたのであったが、そんなことでは「火に油を注ぐ」の類いであったという。


 かくて、城下の栄町での同年旧暦11月5日には、またもや取り付け騒ぎが起こる。どういうことかというと、モラトリアムに怒った人びとが、口々に「正銀」への引替を要求して、札場に座り込む。それというのも、藩庫にある準備銀は少なく、需要を賄い切れないのだから、ほとほと困っていたところへ、どうした巡り合わせなのか地震が起こる。


 これの余波であろうか、人びとも落ち着きを取り戻し、衝突の事なきを得たのだと伝わる、これを岡山では「安政の札つぶれ」と呼んでいる。
 その後も、一難去ってまた一難が起きていくも、1867年の明治維新により、備前岡山藩主の池田章政らが全国にも進んで版籍(はんせき)を天皇に「奉還」するに及んで、それまで長らく続いてきた「チキンレース」というか、政情は新国家の管理下での整理へと焦点が移っていく。

 

 なお、全国からの藩札については、できるだけ早く処理しないといけない。そこで、1871年(明治4年)12月の布告により、政府紙幣と引き換えるという方針が示された。その際は、同年7月14日時点の「相場」または実勢価格による。同時点での藩札の総額は、39,094(千円)とされ、これを大蔵当局が査定し、明治政府が引き換えの義務を負うことになった金額は、24,935(千円)だとされる。
 以降、政府は、かかる交換を順次進めていく(詳しくは、例えば、大森とおる「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」、2001年9月の日本銀行金融研究所「金融研究」に掲載)。


 加えるに、こうして、「道をはき清めながら」ということであったろうか、「殖産資金の供給と政府が受け継いだ紙幣の償却をねらい、1872年(明治5年)には、国立銀行条例が公布された。それをうかがわせるのが、預金や貸付、為替、割引などの業務ばかりでなく、「国立銀行券」としての紙幣を発行する権利が付与された。
 これを念頭に、岡山でも第22国立銀行が1877年(明治10年)に設立される。資本金は5万円、1000株にて、岡山市街の船着町で開業する。その発起人としては、7人のうち5人が旧士族が並ぶ。やや細かく紹介すると、旧藩主池田家(池田慶政、茂政、章政)のが62%、旧一般士族の持ち分(新庄厚信、河原信可、桑原越太郎、武田鎌太郎、花房端連、杉山岩三郎、村上長毅の面々)が29%。
 そして旧平民(広岡久右衛門、橋本藤左衛門)としての9%となっていたという(詳しくは、例えば、大森とおる「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」、2001年9月の日本銀行金融研究所「金融研究」に掲載)

 

続く)

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