□29『岡山の今昔』江戸時代の三国(渋染一揆など)

2016-12-20 20:20:01 | Weblog

29『岡山の今昔』江戸時代の三国(渋染一揆など)

 1825年(文政8年)、幕府の「天領」であるところの勝北郡植月北村で一揆が起こりつつあった。津山藩領内の勝南郡金井村などにおいても、近くの村々を誘っての一揆が隠されつつあった。これらは、暴動となっていきつつあったところを、幕府の意を得た、津山と龍野の両藩が差し向けた兵によって鎮圧された。
 1856年7月10日(安政3年6月9日)には、神下村の万作が子位庄村を訪ね、3日後の強訴(ごうそ)に参加するよう要請した。そして迎えた1856年7月15日(安政3年6月14日)、今度は岡山藩内の被差別民による一揆が起きた。彼らは、前日の夜からこの日の早朝にかけて、吉井川左岸の下流域である八日市河原(ようかいちがわら、現在の瀬戸内市長船町)に二十数村から約1500人が集まった。藩が被差別民に課した差別政策の撤回を求め、家老の一人伊木(いぎ)氏の陣屋のある虫明(むしあけ、現在の同市邑久町内)へ嘆願するためであった。その日の夜から16日朝にかけて双方の代表者が交渉し、午後になって嘆願書を主の伊木若狭守に提出することができた。
 これより先の1855年(安政2年)、岡山藩は領内に倹約令(全24条)を出していた。さらに翌1856年(安政3年)、「別段御触」として、被差別民に対し一般農民とは別に、次の5か条を追加していた。
「一、(25条(別段1条))
 衣類無紋渋染藍染ニ限り候義勿論之事ニ候、乍然急ニ仕替候てハ却て費ヲ生シ迷惑可致哉ニ付、是迄持かかり麁末之もめん衣類其儘当分着用先不苦、持かゝりニても定紋付之分ハ着用無用、素藍染渋染之外ハ新調候義は決て不相成事。
一、(26条(別段2条))
 目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申、尤絹類相用候義ハ一切不相成事。
一、(27条(別段3条))
 雨天之節隣家或ハ村内同輩等へ参候節も土足ニ相成候てハ迷惑可致哉ニ付左様之節ハくり下駄相用候義先見免シ可申、尤見知候御百姓ニ行逢候ハ、下駄ぬき時宜いたし可申、他村程隔候所へ参候ニ下駄用候義ハ無用之事。
一、(28条(別段4条))
 身元相応ニ暮し御年貢米進不致もの之家内女子之分ハ、格別ニ竹柄白張傘相用候義見免可申事。
一、(29条(別段5条))
 番役等相勤候もの共、他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申、勿論絹類一切弥以無用之事。」(なお、全29か条は、例えば大森久雄『概説・渋染一揆』岡山問題研究所、1992に収録されている)
 この追加5か条の骨子としては、一番目で、今後新たにつくって着る衣類を「無紋渋染・藍染」に限ることにした。この渋染というのは、柿の渋でもって染めた衣類のことである。また、紋付は着てはならないことにした。その3番目で、雨の時には、土足では迷惑をかけるので「くり」(栗)の下駄をはいてもよいが、知り合いのお百姓に出会ったときは、下駄をぬいでおじぎをしなさい。しかし、他の村に行くときには、下駄を用いてはならないというのであるから、要は「おまえたちは最低の身分だから、何をするにもどこへ行くにも心してそのように振る舞へ」といいたかったのであろうか。
 そのため、同藩内53か村の被差別の判頭(はんがしら)たちが談合し取りまとめた惣連判の嘆願書を藩に提出したところ、藩はこれを差し戻してきていて、この閉塞状況を打ち破るために、このような強訴をしてでも、藩の法令のうち追加5箇条の分を撤回させることが必要であったのである。この一揆は、争点になった衣類の名を取って、「渋染一揆」(しぶぞめいっき)と呼ばれる。
 その彼らの一揆嘆願書には、こうあった。
 「(えた)ども、衣類有合之品、其儘当分着用致すべし、尤も新(あらた)ニ調(ととの)候儀は、無紋(むもん)渋染(しぶぞめ)・藍染(あいぞめ)之他、決て着用相ならず候様仰せつけなされ、恐れ入り奉り、下賤成ルる共に候得共、御田地御高所持仕、御年貢(おねんぐ)上納致、殊ニ非常ニ御備(そな)ニも相成居(あいなりおり)申者候得(そうらえ)ば、右体之衣類仰せ付けなされ候ては、老若男女至迄、情気落、農業守も打捨て申すべき程之義、心外歎歎(なげ)かしく存じ奉(たてまつ)り候。(著者不明『禁服訟歎難訟記』より)
ここに「」とは、我が国中世・近世における身分の一つ。「御田地御高」云々とあるのは、検地帳に定める石高の登録された田畑に見合う年貢をちゃんと払ってきてきているとの自己主張であった。また「非常ニ御備」とあるのは、非常の際に人馬などの動員にも応じた来たことを述べた。それなのに、この仕打ちを受けるとは何事でしょうか、との抗議なのであった。
 この一揆においては、結局、藩の法令を撤回させることはかなわなかった。この闘いの帰結は、形の上では双方の痛み分けであったのかもしれない。とはいえ、藩側にそれを厳格な形で強制することを許さなかった、つまり実際には当該部分を空文化させた点で、被差別民側はかつてない運動の成果を挙げることができた。強訴の指導者の12名が囚われの身となり、うち7名が牢死に追い込まれた。残りの5名は獄中でなんとか生き延び、1859年(安政6年)釈放処分となった。ともあれ、当時の被差別民たちの人間の尊厳をかけての勇気と、緻密な戦略があわさったことで切り開いた意義は大きく、備前における「解放運動」の輝かしい一里塚といえる。

(続く)

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