□52『岡山の今昔』明治時代の岡山(封建制の終焉、地租改正の改定)

2017-08-31 09:26:50 | Weblog

52『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(封建制の終焉、地租改正の改定)

 さらに明治新政府は、秩禄処分、次いで地租改正を行った。こちらは、従来の田畑貢納の法を廃止するものである。地券の元となる土地の調査を行い、土地の代価を決め、それに基づき地租を課すことになった。1871年(明治3年)から準備が始まる。1872年(明治5年)8月に田畑の貢米・雑税米について近接市町の平均価格をもって金納することを認める。同年9月、租税頭より「真価調方之順序各府へ達県」が出される。1873年(明治6年)6月になると、石高の称を廃止する。地租は従来の総額を反別に配賦して収入とすることに決まる。同年7月の「上諭」とともに、地租改正条例と地租改正規則が公布される。
 これらの諸法令の施行により、土地の所有権の根拠(いわゆる「お墨付き」)を与えるもので、その所有者には「地券」が新政府によって発行される仕組みだ。この地券には、地番と地籍とともに、その次に「地価」が書いてあって、これが江戸期までの検地でいう「石高」に相当する、課税の際の「土地の値段」となる。つまり、「この地券を持っている人は何割の税金を払うように」法令を発すると、この地価に税率を掛けた額が税金となって、これを支払うのが義務として課せられる。政府としては、これで安定的な税収が見込める。最初の税率は、地価の100分の3と見積もる。その上で、作物の出来不出来による増減をしないことにしている。地租の収納方法は物納を廃止し、一律に金納とした。この地価の水準は、当時の「収穫代価のおよそ3割4分」に相当するものとして算定されている。
 この政府の決定に基づき、美作の地でも地租改正の作業が進められていく。ところが、これがなかなか思うように進まなかった。その例として、『津山市史』に、北条県での事例が次のように記されている。
 「こうして地租が徴収されるのであるが、この調査の過程で問題が多かったのは、一筆ごとの面積と地価についてであった。言ってしまえば簡単であるが、測量にしても、「田畑の反別を知る法」が10月に示され、種々の形の面積の出し方が教えられた。
 『北条県地租改正懸日誌』の11月7日の項に、「人民は反別調査の方法も知らない。延び延びになるので測り方を示した。これが地租改正の始まりである」と書いている。11月になって、やっと地租改正の仕事が動き出したのである。
 それから2箇年後、8年(1875年)12月3日、北条県は地租改正業務を終了させた。山林の調査は多少遅れたけれども、地租改正事務局総裁大久保利通ら、「明治9年から旧税法を廃して、明治8年分から新税法によって徴収してよい。」との指令が到着したのは、同9年(1876年)1月4日であった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第六巻、「明治時代」1980)
 地租改正のその後であるが、1878年(明治10年)に税率が100分の3であるのは高いということになり、100の2.5に変更されたり、追々の米価騰貴もあって金納地租の率が低減していったのである。

(続く)

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□51『岡山の今昔』明治時代の岡山(封建制の終焉、行政組織)

2017-08-31 09:24:31 | Weblog

51『岡山の今昔』明治時代の岡山(封建制の終焉、行政組織)

 そして迎えた1868年8月29日(旧暦7月14日)、まずは長州、薩摩、肥前、土佐の知藩事四人(土佐は代理の板垣退助)に対し天皇から廃藩置県が伝えらる。ついでかねてから廃藩を建白していた名古屋、熊本、鳥取及び徳島の四藩の知藩事が呼び出される。同様に天皇から通達があった。午後2時には、在京知藩事の島津忠義・毛利定広ら五六名が皇居大広間に集められ、明治天皇の前で右大臣三条実美(直後に太政大臣)が廃藩置県の詔書を読み上げる。それには、こうあった。
 「廃藩置県の詔
 朕(ちん)惟(おも)うに、更始の時に際し、内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙(たいじ=交際)せんと欲せば、よろしく名実相副(そ)い、政令一に帰せしむべし。朕曩(さき)に諸藩版籍奉還の議を聴納(ちょうのう)し、新に知藩事を命じ、おのおのその職を奉ぜしむ、しかるに数百年因襲の久き、あるいはその名ありてその実挙(あが)ら
ざる者あり。何を以って億兆を保安し万国と対峙するを得んや。朕深く之を慨す。よりて今更に藩を廃し県となす。・・・・・」
 この措置により、例えば備中松山藩を例にとると、新政府から蔵米2万5千石を受けて6万1千石に復された。
 1871年(明治4年)には、備後福山県を含め、深津県が成立する。その深津県は小田県となり、1873年(明治6年)には岡山県と合併させられる。岡山県は、さらに1876年(明治9年)になると備後を分割して西隣の広島県に譲り渡す。それとともに、とともに、美作の津山・鶴田・真島の3県を合併した北條県を吸収し、ここに「備前・備中・美作」の三国で成り立つ新生「岡山県」が誕生した。
 それから時が流れてての1890年(明治23年)には、市町村制の実施があった。この措置は、その2年前に発布された市町村制の第2条で、「町村は法律上一個人ト均ク権利ヲ有シ義務ヲ負担シ凡町村公共ノ事務ハ官ノ監督ヲ受ケテ自ラ之ヲ処理スルモノトス」と定められたことに基くので、自然人としてではなく、法律の上で、権利義務の主体であるという資格、つまり法人格を与えられたものである。これにより岡山県下の旧来の町村々は分合されて一つの新しい町村となり、その村に個人の人格と同一の、法律上の人格を与え、町村は個人とひとしく、権利義務の主体となったのである。
 例えば、美作の中心地・津山においては、宮川を挟んで西側が苫田郡津山町、東側が苫田郡津山東町にそれぞれ区画割りされる。これに関連するところでは、例えば院庄では、院庄(いんのしょう)、神戸(じんご)及び戸島(としま)の三か村が合併して、院庄村(現在の津山市院庄)となる。続く1900年(明治33年)、今度はその津山町と津山東町が合併して、津山町ができ、山下に市庁舎(現在・郷土資料館)が置かれる。なお後日談だが、これら津山近辺の区割りは、後の1929年(昭和4年)に、苫田郡の津山、津山東両町と、苫田郡の院庄、西苫田、二宮村及び久米郡福岡村が合併して津山市となるまで続く。また勝北、勝南の両郡については、北吉野村、豊田村、豊並村(以上は現在の奈義町)、植月村、古吉野村(以上は現在の勝央町)、吉野村(現在の勝央町及び美作市)、勝田村、梶並村(以上は現在の美作市)、新野村、広戸村(以上は勝北町を経て、現在の津山市)、広野村、滝野村(以上は現在の津山市)の13か村となる。これらのうち新野村は、新野郷の中心地域であった山形村、西上村、西中村、西下村、東村(東上村、東村)として編成替えされた。

(続く)

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