429『自然と人間の歴史』国際連合の結成(1945)
1941年8月、第二次世界大戦後の世界の枠組みの相談が始まる。これは、1941年12月の太平洋戦争勃発前のことであった。この時は、連合国側の二人の首脳、イギリス首相チャーチル・アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトによって、大西洋上における会談において協議が始まった。その内容は大西洋憲章として発表された。それには、「一層広範かつ恒久的な全般的安全保障システムの確立」が含まれていた。
1942年1月には、「連合国共同宣言」(Declaration by United Nations)がなされる。これを、アメリカ合衆国のフランクリン・ローズヴェルト大統領が提案し、26カ国が調印した。さらに1943年10月のモスクワ宣言があり、戦後世界の枠組みづくりの検討が進んだ。同年11月のテヘラン会談で新組織設立のための国際会議開催が決まった。
1944年8月~10月に専門家によるダンバートン・オークス会議が開催される。この期間中に国際連合憲章草案が作成された。ここでは安全保障理事会の拒否権問題で米ソが対立した。1945年2月のヤルタ会談で両者が歩み寄る。同年4月に始まったサンフランシスコ会議で、6月に国際連合憲章が採択された。ポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏があった8月14日よりも前のことで、当時の日本はファシスト勢力の最後の陣営として、連合国とまだ戦争状態にあった訳だ。
およそこのようにして準備された国際連合は、その後の51か国の批准によって1945年10月24日、正式に発足した。その本部は、ニューヨークに置かれている。その母体は戦前の国際連盟ではなく、第二次世界大戦での「連合国」であったことから、国際連盟はこの展開に係わることなく、翌1946年に静かにその不遇の幕を閉じた。なお、1945年11月には、ニュルンベルクにおいて国際軍事法廷が始まる。この法廷は、翌年の10月にゲーリングら「主要戦争犯罪人」24名を裁いて結審する。さらに1947年2月のパリ講和条約で、ドイツ以外の旧枢軸国イタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーの諸国と、連合国4か国との関係が正常化された。
新しく設立された国際連合の国際連盟との違いは、当時の2大国と目されていたアメリカとソ連の二大国が原加盟国として参加したこと、紛争解決のために国連としての武力行使を容認し安全保障理事会を設けていること、総会の評決を多数決として、決定を出しやすくしたことにある。これらの中で最も特徴的なのは、安全保障理事会の常任理事国が5つの連合国を中心に運営されることになっていることであり、しかも5大国一致の原則で国際的な安全保障の問題の解決にあたろうとしている。
そのシステム上は国連軍の編成も可能となっており、国連憲章第7章は、国際平和を破壊したり、侵略行為があった場合の、一定範囲、すなわち紛争の抑止・平和回復のための武力. 行使を認めている。 そのために必要な軍隊が明確な名称は与えられていないが、 「国連軍 」(俗称) で、国連に参加している国の軍隊を集めて、国連の命令を受けて動くものとなる。しかし、2017年春の現在に至るまで、しかし、正規の国連軍が過去において組織されたことがない。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
427『自然と人間の歴史・世界篇』平和を夢み戦いなどに命を捧げた人々2
日本が積極的に関与した戦争(正式には第二次世界大戦の呼称だが、「大平洋戦争」も用いられる)も終盤になると、敗色濃厚になる中、多くの若く尊い命がむざむざと失われていった。次々と出撃していったかれらは、その時、何を考えていたのだろうか。それを伝える文章が戦後の日本にかなり多く遺された。それは、戦争の悲惨さ、愚かさを現代に伝えて止まない。その中から、幾つか紹介しよう。
上原良司(、うえはらりょうじ、1922年~45)は長野県北安曇郡七貴村(現在の池田町)に医師の上原寅太郎の三男として生まれる。風光明媚な穂高町有明に幼い頃を過ごす。1941年(昭和16年)、旧制松本中学校を卒業後に上京し、慶應義塾大学予科に入学する。実家は、比較的裕福であったのだろうか。1942年(昭和17年)に慶應義塾大学経済学部に進学する。1943年(昭和18年)12月には、学生徴兵猶予停止により大学を繰り上げ卒業し、陸軍松本50連隊に入営する。1944年(昭和19年)2月には、特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校を入る。
1945年(昭和20年)3月6日、「特攻」要請をうける。そして迎えた5月10日の出撃前夜、陸軍報道班員に『所感』を託す。翌5月11日午前6時15分、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として他の隊員たちと『男なら』を合唱したあと、三式戦闘機「飛燕」(ひえん)に搭乗し知覧基地から出撃、約3時間後に沖縄県嘉手納の海域に展開する米国機動部隊に突入し、戦死をを遂げる。戦後明らかにされた彼の『所感』には、こうある。
「栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、 かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。 既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で」(戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』、岩波文庫)
これを読んで驚かされるのは、広い視野をもって当時の戦況をつかんでいること、そして目前に迫りつつある困難にひるまない強靱な精神のことであろう。さらに、後事を託されているのは、広く日本人なのであった。この年にして、類稀な智者であり、勇者であった。誠に惜しい人を亡くしたものである。2006年、故郷の池田町に上原の記念碑(石碑)が建立された。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
382の1『自然と人間の歴史・世界篇』スペイン内戦(1937)
1937年に入り、スペインの内戦は最終段階の「マドリード防衛戦」に突入していく。スペイン内戦の特色として、さらに国際義勇兵の活躍があげられる。さて、スペイン内戦は、一面では中央集権に対する地域自治の闘争でもあった。内戦開始後まもなくバスク地方は自治政府をつくり、保守的なカトリック教徒も共和国を支持していた。2月、ハラマで激しい戦いがあった。1937年4月、制空権を掌握したドイツ空軍のコンドル兵団は、バスク地方の町ゲルニカを爆撃した。スペインの画家パプロ・ピカソは、このゲルニカへの非人道的な爆撃に抗議して、『ゲルニカ』を完成させた。以後、バスク地方を制圧したフランコ軍はバスクの自治を奪い、バスク語を禁止した。カトリック教徒も共和国を支持する限り厳しい弾圧にあった。
同4月、政党統一令でファランヘが成立する。5月には、バルセロナで五月事件が発生する。共和国の敗北内戦中フランコ側がともかく統一を保ちえたのに対して、共和国側は構成要素がしだいに分裂し始めた。スペイン共産党の勢力伸張は、同時に当時のスターリン的な政治指導の誤りをスペインにも持ち込むことになった。ソ連における「粛清」がスペインでも行われ、反フランコ勢力の内部に致命的な分裂を生じた。1937年5月のバルセロナにおける市街戦で、政府軍が敗北を喫す。共和国側は、以後カバリェロ内閣にかわったネグリン内閣となるが、もはや大勢を挽回できなかった。1937年11月、共和国政府はバレンシアに移転する。1938年1月、フランコはブルゴスに最初の内閣を樹立する。7月から11月にかけて、エブロ川で最後の大きな戦いが繰り広げられる。1939年1月バルセロナは陥落し、2月イギリスとフランスはやむなくフランコ政権を承認するに至る。そして迎えた3月、マドリードも陥落して、反乱軍が首都を占領するに至り、内戦はフランコを頭目とするファシスト側の勝利に帰した。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
375『自然と人間の歴史・世界篇』有効需要の原理の発見(カレツキ)
ところで、ポーランドのミハウ・カレツキは、ケインズとは独立して、しかも、ケインズの『一般理論』が出る前の1933年に発表の著作である『景気循環理論概説』で、「カレツキ乗数」の導出を試みている。これについては、次のような簡単な説明によってなされており、かれはこれをマルクスの再生産表式からヒントを得て、ケインズが発見されたといわれる有効需要の原理を発見していた。
前提として、次のような閉鎖的な経済を考える。社会は、第一部門としての投資財の生産部門、第二部門としての資本家用の消費財の生産部門、そして第三部門としての賃金財生産部門から成り立っているとしよう。ここでの前提は閉鎖経済ですから、政府部門と外国との関係はない。前提により、労働者は裸一貫で暮らしていることから、貯蓄はしない。
第一部門(生産財生産部門)での産出量の価値Aは、この部門での利潤(a)と賃金(α)の和に等しいから、
A=a+α・・・・・・・(1)
第二部門(資本家用消費財生産部門)での産出量の価値Bは、この部門での利潤(b)と賃金(β)の和に等しいから
B=b+β・・・・・・・(2)
第三部門(労働者用の消費財生産部門=賃金財生産部門)での産出量の価値Cは、この部門での利潤(c)と賃金(γ)の和に等しいから、
C=c+γ・・・・・・・(3)
全経済でのD(粗国民所得)=d(総利潤)+δ(デルタ)=総賃金
(D=d+δ=A+B+C)
ここで労働者は上記の前提により、かれらの稼ぎの全部を貯蓄するから、
C=α+β+γ・・・・・(4)
(3)と(4)から
c=α+β・・・・・・・(5)
また、A+B=(a+α)+(b+β)=a+b+α+βなので、
これを(5)式を入れて、
A+B=a+b+c
A+B=d又はd=A+B・・・・・(6)
一方、
B=G(定数)+λ(ラムダ)×d・・・・・(7)
ここでλ(0<λ<1)とは資本家の消費性向(所得のうち消費にまわす割合)である。
(6)と(7)から
d=G+λd+A・・・・・・(8)
d-λd=G+A・・・・・・(9)
d(1-λ)=G+A
d=(G+A)/(1-λ)・・・・・・(10)
さらに、総利潤dの国民所得Dに占める割合(=利潤分配率)をπ(パイ、(0<λ<1))とおくと、
d=πD
πD=(G+A)/(1-λ)・・・・・・(11)
D=(G+A)/【(1-λ)π】・・・・・・(12)
ここでDの変化率△Dを取ると、Gは定数なので関係が無くなり、
△D=【△A+1】×【1/【(1-λ)】×【1/π】・・・・・・(13)
ここでの【1/【(1-λ)】は、「カレツキの乗数」と呼ばれているのだが、これはそっくりそのままケインズのいう有効需要の式なのである。結論とするところは同じながら、着眼点はあくまで階級的である。
なお、同じことだが、次のような簡易な導き方も流布されているところだ。
政府部門のない閉鎖体系で、労働者がその所得をすべて消費する(賃金=労働者の消費)とすれば、
利潤P=投資(I)+資本家の消費(C)・・・・・・(1)
ここでCが固定的部分B0と利潤に比例する部分を合わせての、λ(ラムダ)×(掛ける)P(0<λ<1)とおくと、
C=B0+λP・・・・・・(2)
(1)と(2)から、
P=B0+1/1-λ・・・・・・(3)
さらに、利潤Pの国民所得Yに占める割合をπとすると(P=πY、0<π<1)、次の式を得る。
Y=1/(1-λ)π×(B0+1)・・・・・・(4)
この(4)式の1/(1-λ)πが、「カレツキの乗数」である。この式での注目点とては、それが資本家の消費性向λばかりでなく、利潤分配率πにも依存していることであって、かれはこれをマルクスの再生産表式から導き出した。
経済体系を、投資財生産部門Ⅰと資本家の消費手段生産部門Ⅱと賃金財生産部門Ⅲに分かれているとする。各部門の産出量の価値Vは、利潤Pと賃金Wの和に等しい。
V1=P1+W1
第三部門の産出量は、一部はそれを生産した労働者によって消費され、残りは他の生産部門の労働者によって消費される。したがって、
P3=W1+W2・・・・・・(5)
第Ⅰ部門と第Ⅱ部門の産出量の価値を合計すると、
V1+V2=P1+P2+W1+W2・・・・・・(6)
(5)式を(6)式に代入すると、
V1+V2=P1+P2+P3・・・・・・(7)
となる。
この(7)式は、経済全体の利潤が、投資財の産出量の価値と資本家の消費財の産出量の価値の和に等しいことを示す。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
374『自然人間の歴史・世界篇』有効需要の原理の発見(ケインズ、その例)
(4)いわゆる「乗数効果」の説明②
いま企業A、B、Cがあるとしましょう。企業Aが設備の更新か在庫の積み増しのために新たに10億円の投資をしたとしましょう。このためA企業がB企業に設備と材料を発注することになると、企業Bでは新たな労働者を雇い入れます。それから企業Cから企業Aからの注文の品を生産するに必要な原材料を購入しないといけません。それを購入するのに5億円、支払う労働賃金に4億円、あとの1億円が企業Bの儲けであったとしましょう。
これが企業Cにまで下ると、企業Bから5億円で受注してから原材料に2.5億円、賃金に2億円、儲けは5000万円となります。このような取引と生産活動の連鎖が途切れなく続いた結果として、企業Aの設備更新がなされたことになります。この10億円分の投資によって、企業Bまで下ると発生した原材料需要はは5億円、次いで企業Cまで下ると2.5億円.....ということになり、社会全体の原材料需要への波及額としては最初のA社の投資額10億円に等しくなるまで増大したことになります。
一方、このA社の10億円の投資によって、企業Bまで下ると発生した所得、つまり賃金と利潤の合計額は5億円、次いで企業Cまで下ると2.5億円.....ということになり、社会の所得の合計が最初のA社の投資額10億円に等しくなるまで増大したことになります。これが投資の第一次所得効果(「投資部門で発生した第一次所得」としての所得の合計)と呼ばれるものです。
次に投資の第二次効果の話ですが、10億円の投資により発生した「投資の所得の第一次効果」としての10億円は、その投資財関連の資本家と労働者が所得として受けとります。
いま社会全体の平均した限界消費性向を0.6とすると、その10億円のうち6億円を消費し、残りの4億円を貯蓄することになります。そういうわけで6億円分の消費財を購入するのですから、さきの投資財生産の場合と同じ理由から、新たな消費需要に向かいます。そこでいま、その6億円分の需要が、それと同額の6億円分の新たな消費財生産を誘発するものとすれば、この生産は、生産額と同じ額の6億円のさらに新たな所得を生み出すでしょう。最初の消費財需要増加→消費財生産増加→所得増加ということであり、これが「第二次の所得効果」です。
同様に、限界消費性向を0.6とすると、かれらはその獲得された6億円のうち3.6億円を消費し、残りの2.4億円を貯蓄することになるでしょう。そういうわけで新たに3.6億円分の消費財を購入するのですから、それがさきの投資財生産の場合と同じ理由から、新たな消費需要に向かうことになるでしょう。そこでいま、その3.6億円分の需要が、それと同額の3.6億円分の新たな消費財生産を誘発するものとすれば、この生産は、生産額と同じ額の3.6億円のさらに新たな所得を生み出すでしょう。二番目の消費財需要増加→消費財生産増加→所得増加ということであり、これが「第三次の所得効果」です。
その連鎖は、理論的に、次から次へと所得の新たな発生がゼロとなるまで続きますから、そのときどきの所得増加額の合計は、つぎのように見積もることができるでしょう。
すなわち、消費財需要増加→消費財生産増加→所得増加過程が繰り返し、それは追加の所得増加がゼロになるまで続くと、
10+6+3.6+・・・・・・・=10×1/(1-0.6)=25億円ということになります。
また、このとき、消費の増加額に着目すると、その合計額はつぎのようになるでしょう。
6+3.6+・・・・・・・=6×1/(1-0.6)=15億円ということになります。
さらに、このとき、貯蓄の増加額に着目すると、その合計額はつぎのようになるでしょう。
40+24+14.4+・・・・・・・=40×1/(1-0.6)=10億円ということになります。
以上をまとめると、つぎのようになります。
(1)政府による最初の投資である10億円は、その投資乗数分(k=2.5)だけの所得の増加を引き出しています。
(2)そして、その所得の増加を通じ、最初の投資である10億円と同額だけの貯蓄の増加が実現されることになるでしょう。
(5)いわゆる「乗数効果」の説明②
投資の持つ乗数効果の数学的説明には、つぎのようなアプローチもあります。
Y=C+I+G
ここでYとはGDP(国内総生産)、Cとは民間消費、Iとは民間投資、Gとは政府投資といたしましょう。
C=α+βY
ここでCというのは一国の消費関数、α(アルファ)は基本消費、β(ベータ)は限界消費性向と呼ばれるもので、たとえていうとGDPが1万円増えれば消費支出はβ万円増えることになります。
0<β<1のことを限界消費性向といいます。
この2つの式からCを消去すると
Y=α+βY+I+G
この式を変形すると
Y-βY=α+I+G
(1-β)Y=α+I+G
したがって、Y=α/(1-β)+{【1/(1-β)】(I+G)}
この式で第2項に目を向けましょう。そこで1/(1-β)のことを乗数(m)といいます。この式で投資Iが100万円増えるとYは100万円増加することになるでしょう。
(以上は、丸尾泰司HP「戦後日本の政治経済の歩み」より引用)
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
373『自然と人間の歴史・世界篇』有効需要の原理の発見(ケインズ、あらまし)
まずは、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズ(1883~1946)に従い、ある国での経済活動、外国との貿易のある「開放経済」を考えてみましょう。今期の生産活動で総生産物価額(総生産量と価格の積)=X(未知数をあらわすエックス)だけの財とサービスが生産されたとします。この生産に見合う需要を考えると、輸出(E:Export)と輸入(IM:Import)の差額であるところの外国貿易差額(E-IM)、政府部門の需要(G:Government)、今期の生産活動のために消耗された部分を補填(ほてん)するための需要(D:Demand)、労働者と資本家の消費需要(C:Consumption)、そして次期以降の生産能力を拡大するための新投資需要(I:Investment)の合計になります。
X=D+C+I+(E-IM)+G
ここでDを差し引けば、今期の純生産物の価額つまり=国民所得(Yieldここでは広義:国民総生産や国民総支出のことを意味します。))となります。
Y=X-D=C+I+(E-IM)+G
ケインズの定義によると今期の国民所得(ここでは広義:国民総生産や国民総支出のことを意味します。)のうち消費されないものを貯蓄(S)といいますから、
S=Y-C
ここで左辺は国民供給(National Supply)で、右辺は国民需要(National Demand)ということになります。Cは消費財の購入に充てられるもの、Iは生産財の購入に充てられるもので、この2つが合わさってその国の国民総需要、つまり有効需要のYを形成するのです。これを言い換えまして、Yの大きさは、消費プラス投資、つまり有効需要(effective demand)の水準に合うように決定されるといっても構いません。
S=I+(E-IM)+G
税金の概念を入れてつぎのようにしてもよろしいでしょう。
S=I+(E-IM)+(T-G):①式
ここに税収(T:Tax)は政府消費CGと政府貯蓄SGに分けられ、また政府支出Gは政府消費CGと政府投資IGに分けられますから、
T-G=(CG+SG)-(CG-IG)
T-G=SG-IGとなります。
そうすると、総投資をI(=IP+IG)と、総貯蓄をS(=SP+SG)ということがわかります。
もう一度①式に戻って
S-I=(E-IM)+G
ここで政府部門を捨象すると、
S-I=(E-IM)
つまり一国の貿易差額、つまり近似的には経常収支ということになりますが、これはマクロ的なISバランス(貯蓄と投資の差額)に事後的に等しくなります。
次に、閉鎖経済、つまり貿易のある場合の需給の関係については、どうなるのでしょうか。上の式につきその基本的な関係をみるために、もう一度(EX-IM)=(S-I)+(T-G)の式に立ち戻りましょう。いま外国貿易と政府部門の需要を捨象しますと、
S=I
これが閉鎖経済(外部とのやりとりを捨象)の下でのケインズの需給一致の均衡式(demand equal to supply market equiliblium)と呼ばれるものです。参考までに、彼の『雇用、利子および貨幣の一般理論』の第6章において、貯蓄と投資については次のように説明されています。
その原文は、次のとおり。
「Provided it is agreed that income is equal to the value of current output,that current investment is equal to the value of that part of current output which is not consumed , and that saving is equal to the excess of income over consumption,the equality of saving and investment necessarily follows. In short-
Income=value of output=Consumption+Investment.
Saving=income-consumption
Therefore, Saving=Investment.
これの訳は、次のとおり。
「所得は経常産出高の価値に等しいということ、経常投資は経常産出高のうち消費されない部分の価値に等しいということ、および貯蓄は所得の消費を超える額に等しいということが承認されるならば、貯蓄と投資との均等性は必然的に生まれてくる。
要するに、まずは、生産されたもの:総生産=産出物の価値=消費+投資
これが所得になって分配されると、定義によって総所得=消費+貯蓄
両方とも左辺は総生産=総所得ですから、
消費+投資=消費+貯蓄
この式より貯蓄=投資」
さて、話をもう少し進めてみよう。今期に生産された財とサービスの生産物が今期に売れ尽くすには、貯蓄と投資が等しくなければなりません。ところが、実際には過剰生産で売れ残りが生じているのが大抵なのではないでしょうか。これは国民所得統計ではそれを製品在庫投資ということにしておいて、在庫品増加で説明するのです。この統計上での操作ですが、実社会によくある、いわば「つじつま合わせ」のようなものといっても構いません。このような約束の下ではある需要があればそれだけの需要を賄う量の財とサービスが生産され、供給されるということになるでしょう。
参考までに、ここで「投資」とは、固定資本、運転資本、そして流動資本をすべて含むというのがケインズ「雇用、利子および貨幣の一般理論」の立場ですが、この広い意味だと、彼の有効需要の理論との関係が論理的に矛盾したものとなってしまいます。これについては、経済学者の宇沢弘文の著作に、こんな説明がなされているところです。
「もしかりに、総供給額額Yと総需要額Xとが等しくなかったとしよう。このとき、総需要額は消費C、投資I、政府の財政支出Gの和である。
X=C+I+G
総供給額Yと総需要額Xとの差額Y-Xは当然在庫投資の一部になっているはずであるから、ケインズの意味での投資はIではなく、
I'(ダッシュ)=I+(Y-X)
となっていなければならなかったはずである。したがって、総需要も、Xではなく、じつは
X'(ダッシュ)=C+I'(ダッシュ)+G=C+I+G+(Y-X)≡Y
となる。すなわち、総需要額Xは総供給額Yに恒等的に等しくなってしまって、有効需要は不確定となってしまう。ケインズが批判した新古典派理論の場合とまったく同じになって、有効需要の理論は妥当しなくなるわけである。」(宇沢弘文『経済学の考え方』岩波新書、1989より引用)
統計の数字を読み取る場合には、こうした理論の実際との乖離点に留意することが必要となります。
これでマクロ経済の現状把握についての基礎の基礎ができましたので、次へとすすみましょう。ここで再び「閉鎖経済」(外国との関係を捨象)を想定し、貯蓄が国民所得に平均貯蓄性向(s)を乗じたものだといたしましょう。そうなると、
S=sY=I
Y=(1/s)I
つまり新投資が決まると、需給が均衡に向かうように働き、Y=(1/s)Iが先ず決まります。そして、生産技術がいま短期分析で一定の場合でいうと、その生産技術に体化した雇用量が決まると考えるのです。
まず設備投資ですが、供給能力の最適化という観点から国民総生産(GNP)の期待成長率に依存して決まる面がない訳ではありません。好況期においては、中小企業も含めて作れば売れるれるので、投資を増やしていくでしょう。
しかし、競争が激しい不況期においてはこの図式はあてはまらないと思います。
設備投資のもう一つの側面は、それが生産財への最終需要となって一国レベルでのYを押し上げることです。
(3)「乗数効果」の説明①
ところで、この式のなかのsは、平均消費性向をaとすると(1-a)と置き換えられます。
Y=(1/s)I=(1/1-a)I
そこでいま新投資需要Iが政府によって投入されると、その需要を満たすためにY=Iだけの産出高が生まれます。そうなると、aIだけの消費需要が派生し、それを満たすように同額の派生所得が生まれます。aIの所得からはaの2乗×Iだけの派生需要、そしてそれを満たすための新たな産出高が見込まれます。結局、Iだけの投資需要の追加は、
I+aI+aの2乗I+・・・・だけの需要と所得を生み出す理屈になります。
一般に、初項がa、公比がr(rの絶対値<1)の無限等比級数の合計Aは
A=a + ar + ar^2 + ar^3 + ar^4 +...+ ar^n-1 + ar^n + ... ①
(3)式の左辺と右辺に r をかけます.
rA=ar + ar^2 + ar^3 + ar^4 +....+ ar^n + ar^n+1 + ...... ②
ここで①の両辺から②の両辺を差し引きます。②の方が最初の項aが多いだけなので次のように整理できます。
A - rA = a ③
従って、次のとおりになります。
a
A = --------- ④
1 - r
これから、初項が1、公比がa(aの絶対値<1)の無限等比級数の合計Sは次の通りになります。
S=1+a+a二乗+・・・・・+aのn-1乗=(1/1-a) ⑤
(以上は、丸尾泰司HP「戦後日本の政治経済の歩み」より引用)
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
369『自然と人間の歴史・世界篇』世界大恐慌(その経緯と原因)
1929年10月24日の木曜日、ニューヨーク株式市場での「この日の出来高はなんと1289万4650万株に達し、その多くが、持ち主の夢と希望を打ち砕くような値で取引された」(ジョン・K・ガルブレイス著・村井章子訳「大暴落1929」日経BP社、2008)とある。それから4日を経た28日の月曜日、この日のニューヨーク株式市場(タイムズ平均)は49ドルもの大暴落になった。「この日一日の下落幅は、市場がパニックに落ち込んだ前週一週間分を合わせたよりもおおかった」(同)とある。次の29日、「出来高は暗黒の木曜日を大きく上回り、下げ幅は月曜日に匹敵する急落ぶり。そしてどちらの日にも劣らぬ強い不安感と先行き不透明感が市場を覆った」(同)と伝わる。ちなみに、それより1か月余り前の9月3日のピーク時の株価は、381ドル17セントであったのに、である。
その後の株式相場の推移はどうなったのかというと、かかる大暴落の開始から34か月後の1932年7月8日には41ドル22セントとなって、9月3日のピーク時からの下落率は89.2%とであった、多くの投資家にとっては「いったいどうしてこのようになった、なってしまったのか」という程に、まさに悪夢であったことであろう。
そこで、この一連の出来事がなぜ起こったかであるが、元々、株価というのは、「暴騰すれば必ず暴落する」のが原則だから、それ自体は別に驚くことに当たらない。瞠目(どうもく)すべきは、もと別のこと、すなわち暴落後の株式の不況が恐ろしく長期化したこと、それから前代未聞の規模と長さを持った経済恐慌・不況がその後にやってきたことであった。大恐慌後の不況がなぜさけられなかったのか、その原因がどんなものなものであったのかの原因を巡っては、多くの説が出されてきた。ここでは、それらの中からガルブレイスの分析を中心に紹介したい。
彼によると、「恐慌長引いたことととくに関係がふかかったのは、次の五点と考えられる」(同)とのこと。その1としては、所得分配、富の30%が富裕層に集中しており、株投資の失敗により消費も投資もかなりの額が減少した。その2は企業構造の問題があった。ガルブレスはここで「とくに問題なのは、下流側の事業会社から支払われる配当を、上流側の持株会社が発行した社債の利払いに充てるやり方」(同)であるとし、「何かの事情で配当が止まったら、社債は利払い不能となっていずれ債務不履行は避けられず、ひいては上から下まで全体が破綻してしまう」(同)と懸念する。
その3としては、銀行システム銀行は脆弱で連鎖倒産が多発した。預金者は預金を引き出せなくなり消費も投資も激減した。その4は対外収支であって、アメリカと貿易、資本のやりとりで関係する債務国との間で、起こりうる、「債務国にしてみれば、いつまでもゴールドで支払い付けることは不可能である。となれば対米輸出を増やすか、対米輸入を減らすか、でなければ既発債のデフォルトを起こすしかない」(同)という訳だ。さらに5番目として政策の隘路(あいろ)があった。
そんな中で最も注目されるのは5番目の指摘であって、その背景には、専門家の経済知識が適切でなく、インフレ懸念などからの財政均衡論が、当時のエコノミストや政府アドバイザーの頭の中を牛耳っていた。「財政の均衡というのは論考の結果ではなく、よく言われるように信念の問題でもないこれは、一つの基本原則なのである」(同)と断罪する。あわせて、1933年2月、ハーバート.C.フーバー大統領(共和党)が次期大統領のフランクリン・D・ルーズベルト(民主党、1932年の大統領選挙でフーバーを破る)に渡した有名な書簡がある。そこには「通貨の変動や切り下げを行わないこと、必要とあらば増税を行ってでも財政均衡を実現すること、国債の増発を控えて政府の債務をこれ以上増やさないこと。以上の点を直ちに実施すれば、国は安定するでしょう」と書かれていた。
では、この恐慌によって、労働者の状態はどのような影響をうけたのだろうか。デイヴィッド・A・シャノン編の当時の記録に、こんな要約がある。
「1930年代の恐慌は、最初は賃金構造に衝撃をあたえなかった。賃金に影響をおよぼすまえに、失業と労働時間の削減とによって数百万人の所得がまず減じたのであった。製造業における賃金が目だって下降しだしたのは、1930年の代4四半期に入ってからだった。1時間あたり59セントという29年平均からすると、この当時の賃金下落は時間あたり約1セントであった。
翌年の1931年には、時間給は緩慢ではあるが着実に下がって、同年末には約3セント低下した。これを週給でみると、失業のために、はるかに急速であった。
全国産業会議委員会に提出された諸産業の1929年における平均週給は、28.50ドルをこえていたのにたいし、30年には25.74ドルに低下し、31年には22.64ドルにすぎなくなった。
恐慌が急速に拡大するにつれて、労働時間も削減され、1929年には48時間以上であったのが、30年には44時間、31年には40時間をやや上まわるだけという程度にまで短くなった。さらに31年の9~12月にはわずか38時間となった。」(デイヴィッド・A・シャノン編・玉野井芳郎、清水知久訳『大恐慌』中公新書、1963)
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
370『自然と人間の歴史・世界篇』1929年世界大恐慌(金本位制離脱へ)
振り返って、1929年(昭和4年)10月には、アメリカのニューヨーク株式が大暴落した。こうなると多くの企業はものが売れないし、資金の調達も返済もままならなくなっていく。アメリカの企業の生産活動が急降下し、物価が下落し、同国の経済はその4年後の1933年(昭和8年)までに国民総生産がほぼ半減してしまう。これを「1929年世界大恐慌」と呼ぶ。ときのアメリカ大統領のハーバート・C・フーバー(在任1929~33)とそのブレーンたちの頭の中には、この降って湧いたような難局に対し、為す術を知らなかった。ところが、相手方の民主党も、如何せん、頭の中は空っぽに近かったらしい。あの融通無碍が売り物のフランクリン・D・ローズベルトルーズベルト党首も、1932年選挙戦末期にこう述べるに留まっていた。
「党綱領では、何があっても健全な通貨安定を維持すると謳われております。その意味するところは明白であります。7月30日に行われた綱領を巡る討議の席で、私は、通貨の安定は国際的な要請であり、一国の国内事情で左右されるべきではないと述べました。ビュートでもシアトルでも、私はこの方針を確認しております。」(ジョン・K・ガルブレイス著・村井章子訳『大暴落1929』日経BP社、2008)
つまりは、この前代未聞の困難に立ち向かう経済学を知らなかったものだから、共和党と民主党の双方とも、当時支配的であった自由主義経済学(正確には、「新古典派」と呼ばれる)の教義に従うことしか考えられなかった。そして、このような「緊縮財政なくして景気回復なし」との立場は、その後の不況をますます深刻なものにしていった。ちなみに、この後、アメリカの経済がようやく立ち直りの方向に向き始めるのは、1932年11月にルーズベルトが現職大統領を破って大統領に当選し、翌年の途中から採用するに至った積極的財政政策(ジョン・M・ケインズらの唱える有効需要政策)によってであった。
当時、日の出の勢いで成長していた筈のアメリカがこうなのだから、これに追随する国での大恐慌の影響は尚更だった。1931年(昭和6年)9月にまずイギリスが金本位制を停止し、1カ月後にカナダもこれに同調した。イギリスが金本位制から離脱した理由は、「イギリスはドイツに金を貸していたが、この年の夏、オーストリアとドイツで金融恐慌が激化して、ドイツにあったイギリスの資金が凍結されてしまった。それを見て、イギリスに投資をしていたフランスやスイス゛がイギリスから資金を引き揚げにかかった」(中村隆英『昭和経済史』岩波セミナーブックス)ことがある。また、アメリカの金兌換停止は、それから1年半ばかりたった1933年(昭和8年)3月のことだった。翌1934年(昭和9年)1月には公定の金価格は1オンスが20.67ドルから35ドルに引き上げられた。このことは、固定価格価格標準が1ドル=金20.67分の1であったのが、1ドル=金35分の1に切り下げられたことを意味する。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
315『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの工場法
ここで、当時の労働者がどのような状態に置かれていたかをみておこう。そもそも「一般工場法」と呼ばれるものは、欧米で最初に生まれた。これは、個別資本ではままならない、労働条件や労働時間などを政府の力で規制するものである。イギリスでの労働者の保護立法は、1802年の工場法(正式には徒弟の健康と道徳に関する法律)以後、たびたび制定されている。エリザベス救貧法の教区徒弟制度の一環としてのものであった。1819年にオーウェンの努力で紡績工場法(木綿工場法)ができた。これとても、繊維という特定の業種に限られていた。9歳以下の労働の禁止と16歳以下の少年工の労働時間を12時間に制限された。加えるに、監督官制度が無かったために実効力には乏しかった。そのような状況の中で、労働者の要求も高まり、またシャフツベリーなど工場主の立場からも普遍的、実効的な労働者保護立法の必要を主張する人々の運動が続いた。
これらが力となって、ホイッグ党のグレイ内閣の1833年に、一般的な(どのような工場にも当てはまる)工場法の制定が実現した。これは、選挙法改正(第1回)(1832年)、奴隷制度廃止などの自由主義的改革の一環としての制定経緯を持つ。この1833年工場法の下では、12時間労働、9歳以下の労働禁止、13歳未満の児童労働は週48時間、18歳未満の児童労働は週69時間、一日最高9時間労働、18歳未満の夜業禁止、工場監督官・工場医の設置などが定められた。それまでの婦人労働、児童労働、深夜労働など、ありとあらゆる形での労働力酷使の状態、つまりは「掠奪経営」による労働力の消耗が烈しかったのが、この立法で改善に向かう根拠を与えられた。加えて、監督官が工場の労働実態を立ち入って調査し、工場主や少年、婦人、労働者の供述を受けることで工場経営が透明性を増した。監督官の主張が明確に述べられる特徴を持ち、半年毎に議会によって公表されることにより、これをもって実効性のある労働時間制限ができ始める仕組みであった。イギリスでの草の根運動はこれ以後、8時間労働制の実現へと進んでいく。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
348『自然と人間の歴史・世界篇篇』ロシア革命(1920~1928年)
この時期は資本主義から社会主義への過渡期と言われた。過渡期の価値法則について、レーニンはブハーリンの「過渡期経済」(1920年刊)に寄せて、「商品・資本主義的制度の均衡の範疇としての価値は、商品生産が著しく消滅して均衡が存在しない過渡期には殆ど役に立たない」と書き、人々の理解を求めた。一方、彼の「自然成長性にかわって意識的な社会的規制者があらわれるならば、商品は生産物に転嫁してその商品的性格を失う」については、「不正確。生産物にではなくなにか別のもの、たとえば、市場を通らないで社会的消費に入っていく生産物に転化する」と脚注している。
対外関係では、1918年4月6日、日本軍がソ連領土のウラジオストークに上陸・侵攻する。7月2日には英仏軍がムルマンスクに上陸・侵攻する。領土的野心を抱いてのンの派遣であったことは疑いない。1920年1月29日、ウラジオストークで日本との休戦条約が締結された。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
347『自然と人間の歴史・世界篇』ロシア革命(1917~1919年)
ソビエト権力成立期(1917~1919年)から幾つか述べてみたい。1917年3月12日、2月革命でツァーリズムが倒壊された。1917年11月7日、社会主義革命で臨時政府が転覆された。普通はこれを「10月革命」といっているが、当時のロシアでは旧暦を使っており、その古い暦によるとその日は10月25日に当たる。だから、新暦では11月7日が革命の起こった日ということになる。
次に紹介するのは、その最初の日の模様であろうか、ジャーナリストのジョン・リードが伝えたルポルタージュの一節である。この他にも、音楽でもって再現する試みもなされているところであり、ショスタコーヴィチの交響曲第12番『1917年』第1楽章「革命のペトログラード」は、アップ・テンポでその慌ただしい成り行きを表現している。
「電話交換嬢たち」
「2時半、ユンケル(=士官候補生)は白旗を掲げ、生命の安全を保証されるなら降服すると申し出た。この申し出は受け入れられた。数千の兵士と赤衛兵は喚声を上げて殺到し、窓や戸口や壁の穴からなだれ込んだ。止める間もあらばこそ、5人のユンケルが殴り殺され、斬り殺された。残りの約200人は、目立たぬよう小さなグループに分けられ、ペトロパブロフスクへ護送された。その途中、ひとつのグループは暴徒に襲われ、さらに8人のユンケルが殺された。赤衛兵と兵士の犠牲は100人を越えた。
電話交換局は午後まで持ちこたえていたが、午後になってボリシェヴィキの装甲自動車が姿を現わし、水兵たちが交換局に強襲をかけた。おびえた交換嬢たちは金切り声を上げて、あちこち走り回った。ユンケルは自分たちの制服から目立つ肩章や記章を剥ぎとり、ひとりのユンケルなどはウィリアムズ(=外人記者)に向かって、変装用に外套を貸してくれればどんな事でもすると言った。
「彼らに殺されます! 殺されます!」と、ユンケルたちは叫んだ。というのは、彼らの多くは冬宮で、民衆に向かって武器を取らない事を誓っていたのである。アントーノフを釈放するなら仲裁に入ってやろう、とウィリアムズは言った。この申し入れはただちに実行に移された。アントーノフとウィリアムズは、大勢の仲間を殺されて気が立っている水兵たちに向かって演説をし、ユンケルたちはもういちど放免されたのだった。ただ、少数の者は恐怖に駆られて屋根づたいに逃げようとしたり、あるいは屋根裏部屋に隠れようとしたりして、発見され、街路に放り出された。
疲れて、血だらけで、勝ち誇った水兵や労働者たちは交換機室へなだれ込んだが、大勢のかわいい娘たちを見て、二の足を踏み、無様な恰好でもじもじした。娘たちのなかで傷付けられたり、辱められたりした者はひとりもいなかった。おびえた娘たちは初め部屋の隅にかたまっていたが、やがて身の安全を悟ると、侵入者たちをいじめ始めた。
「いやらしい! 汚ない、無知な連中よ! 馬鹿な連中よ!」
……水兵や赤衛兵たちは弱りきっていた。
「けだもの! 豚!」
娘たちは憤然とコートや帽子を身につけながら金切り声で叫んだ。なにしろ勇敢に局を防衛したユンケルたちに弾薬を運んだり、負傷者の手当をしたりした経験はロマンチックだったのである。ユンケルはたいてい高貴な家柄の出で、愛するツァーリの復位の為に戦っているのではないか! それに比べれば、この連中はただの労働者や百姓、いわゆる「暗愚の民」に過ぎない。
軍事革命委員会の委員、小男のヴィシニャックが、持ち場にとどまるよう娘たちを説得し始めた。ヴィシニャックは心底から礼儀正しく語った。
「あなた方はひどい待遇を受けて来ました。電話系統を管理しているのは市ドゥーマです。あなた方は60ルーブリの月給で10時間以上も働かなければならない。今後そういう事はすべて変わります。政府は電話局を郵政省の管理下に置く予定です。あなた方の月給はただちに150ルーブリに引き上げられ、労働時間は逆に減らされるでしょう。労働者階級の一員として、あなた方は仕合せになり……」
労働者階級の一員だって? この、けだものどもと、わたしたちとの間に、何か共通点があるとでも思っているの? 残れ、だって? 千ルーブリ出されてもいやよ! ……意地悪く高慢に、娘たちはその場から立ち去った。
建物の保安係や雑役夫たちは残った。しかし、交換機を操作しなければならない。電話は死活に関わる。役に立つ熟練交換手は6人しか残らなかった。あとは有志が募られた。百人ほどの水兵や兵士や労働者が志願した。6人の娘たちは教え、手を貸し、叱りながら、前へ後へ駆けずり回った。こうして、びっこを引き引き、立ち止まりつつ、それでも徐々に電話の機能は前進を始めたのである。第一の仕事は、スモーリヌイと兵営や工場とをつなぐ事だった。次には、ドゥーマとユンケルの学校とを切り離す事。午後遅く、噂が市内に広まり、何百人ものブルジョワが電話をかけてきては叫んだ。
「馬鹿野郎! 悪魔! いつまで持ちこたえるつもりだ? コサックが来てから吠え面かくな!」
すでに夕闇が垂れこめていた。ほとんど人気のないネフスキー通りでは、身を刺す風に吹かれながら、カザン大寺院の前に集まった群集が果てしない議論を続けていた。労働者が数人、兵士が若干、あとは商人や勤め人たちである。
「しかし、レーニンは、ドイツに講和を結ばせる事はできないだろう!」 とひとりが叫んだ。荒々しい青年兵士が答えた。
「それは誰のせいだ? 君らのケレンスキーの畜生や、腐敗したブルジョワどものせいだ! ケレンスキーを倒せ! 奴は俺たちには必要じゃない! 俺たちに必要なのはレーニンなんだ」(ジョン・リード著・小笠原豊樹訳「世界をゆるがした十日間」筑摩書房、1967)
同11月9日、ソビエト政府が樹立され、人民委員会議議長にレーニンが選ばれる。同月、銀行業務の国家独占に関する布告により、株式会社形態の全ての民間銀行(59行)を国立銀行に合併する。12月には、国民経済を組織するために、人民委員会議の下に最高国民経済会議を設置する。ここには地域別の各国民経済会議(ソブナルホーズ)と産業部門別の管理局(グラフクとシェントル)が作られ、この連携によって経済管理を行うことになった。このシステムは1932年に廃止されるまで続く。
さて、誕生したばかりのソビエト政府は外国軍の侵攻と併せて内憂外患に直面する。この間に、食料割当徴発制(余剰生産物の徴収)、労働義務制、私営商業の禁止の施策がなされる。翌1918年5月、製糖業がまず国有化される。続いて、6月に石油工業、機械工業が国有化される。その上で、6月28日には、残りの全ての工業の国有化を内容とする人民委員会議布告が発布される。この措置で、従業員10人以上の全部、従業員5人以上で動力機をもつ全ての企業に適用されることになった。同年9月までに国有化された企業は3000に達した。1921年、国立銀行の業務が再開される。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆