♦️429『自然と人間の歴史』国際連合の結成(1945)

2017-08-15 21:43:43 | Weblog

429『自然と人間の歴史』国際連合の結成(1945)

 1941年8月、第二次世界大戦後の世界の枠組みの相談が始まる。これは、1941年12月の太平洋戦争勃発前のことであった。この時は、連合国側の二人の首脳、イギリス首相チャーチル・アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトによって、大西洋上における会談において協議が始まった。その内容は大西洋憲章として発表された。それには、「一層広範かつ恒久的な全般的安全保障システムの確立」が含まれていた。
 1942年1月には、「連合国共同宣言」(Declaration by United Nations)がなされる。これを、アメリカ合衆国のフランクリン・ローズヴェルト大統領が提案し、26カ国が調印した。さらに1943年10月のモスクワ宣言があり、戦後世界の枠組みづくりの検討が進んだ。同年11月のテヘラン会談で新組織設立のための国際会議開催が決まった。
 1944年8月~10月に専門家によるダンバートン・オークス会議が開催される。この期間中に国際連合憲章草案が作成された。ここでは安全保障理事会の拒否権問題で米ソが対立した。1945年2月のヤルタ会談で両者が歩み寄る。同年4月に始まったサンフランシスコ会議で、6月に国際連合憲章が採択された。ポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏があった8月14日よりも前のことで、当時の日本はファシスト勢力の最後の陣営として、連合国とまだ戦争状態にあった訳だ。
 およそこのようにして準備された国際連合は、その後の51か国の批准によって1945年10月24日、正式に発足した。その本部は、ニューヨークに置かれている。その母体は戦前の国際連盟ではなく、第二次世界大戦での「連合国」であったことから、国際連盟はこの展開に係わることなく、翌1946年に静かにその不遇の幕を閉じた。なお、1945年11月には、ニュルンベルクにおいて国際軍事法廷が始まる。この法廷は、翌年の10月にゲーリングら「主要戦争犯罪人」24名を裁いて結審する。さらに1947年2月のパリ講和条約で、ドイツ以外の旧枢軸国イタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーの諸国と、連合国4か国との関係が正常化された。
 新しく設立された国際連合の国際連盟との違いは、当時の2大国と目されていたアメリカとソ連の二大国が原加盟国として参加したこと、紛争解決のために国連としての武力行使を容認し安全保障理事会を設けていること、総会の評決を多数決として、決定を出しやすくしたことにある。これらの中で最も特徴的なのは、安全保障理事会の常任理事国が5つの連合国を中心に運営されることになっていることであり、しかも5大国一致の原則で国際的な安全保障の問題の解決にあたろうとしている。
 そのシステム上は国連軍の編成も可能となっており、国連憲章第7章は、国際平和を破壊したり、侵略行為があった場合の、一定範囲、すなわち紛争の抑止・平和回復のための武力. 行使を認めている。 そのために必要な軍隊が明確な名称は与えられていないが、 「国連軍 」(俗称) で、国連に参加している国の軍隊を集めて、国連の命令を受けて動くものとなる。しかし、2017年春の現在に至るまで、しかし、正規の国連軍が過去において組織されたことがない。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️727『自然と人間の歴史・世界篇』平和を夢み戦いなどに命を捧げた人々2

2017-08-15 21:38:07 | Weblog

427『自然と人間の歴史・世界篇』平和を夢み戦いなどに命を捧げた人々2

 日本が積極的に関与した戦争(正式には第二次世界大戦の呼称だが、「大平洋戦争」も用いられる)も終盤になると、敗色濃厚になる中、多くの若く尊い命がむざむざと失われていった。次々と出撃していったかれらは、その時、何を考えていたのだろうか。それを伝える文章が戦後の日本にかなり多く遺された。それは、戦争の悲惨さ、愚かさを現代に伝えて止まない。その中から、幾つか紹介しよう。
 上原良司(、うえはらりょうじ、1922年~45)は長野県北安曇郡七貴村(現在の池田町)に医師の上原寅太郎の三男として生まれる。風光明媚な穂高町有明に幼い頃を過ごす。1941年(昭和16年)、旧制松本中学校を卒業後に上京し、慶應義塾大学予科に入学する。実家は、比較的裕福であったのだろうか。1942年(昭和17年)に慶應義塾大学経済学部に進学する。1943年(昭和18年)12月には、学生徴兵猶予停止により大学を繰り上げ卒業し、陸軍松本50連隊に入営する。1944年(昭和19年)2月には、特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校を入る。
 1945年(昭和20年)3月6日、「特攻」要請をうける。そして迎えた5月10日の出撃前夜、陸軍報道班員に『所感』を託す。翌5月11日午前6時15分、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として他の隊員たちと『男なら』を合唱したあと、三式戦闘機「飛燕」(ひえん)に搭乗し知覧基地から出撃、約3時間後に沖縄県嘉手納の海域に展開する米国機動部隊に突入し、戦死をを遂げる。戦後明らかにされた彼の『所感』には、こうある。
 「栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、 かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。
 権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
 真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。 既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
 愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
 空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。
 こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
 飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
 明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
 言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で」(戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』、岩波文庫)
 これを読んで驚かされるのは、広い視野をもって当時の戦況をつかんでいること、そして目前に迫りつつある困難にひるまない強靱な精神のことであろう。さらに、後事を託されているのは、広く日本人なのであった。この年にして、類稀な智者であり、勇者であった。誠に惜しい人を亡くしたものである。2006年、故郷の池田町に上原の記念碑(石碑)が建立された。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️123の8『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(アジア・大平洋3)

2017-08-15 21:33:33 | Weblog
123の8『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(アジア・大平洋3)

 果たせるかな、1941年(昭和16年)9月6日の「御前会議」において、アメリカとの戦争も辞さない構えの「第一次帝国国策遂行要領」が決定された。その中で、10月上旬になっても交渉が思うようにならない場合(「目途ナキ場合」)は、開戦を決定することが書かれている。その10月上旬になっても、近衛首相は対米開戦の決断に踏み出せなかった。そこで先の御前会議の決定を楯にとる形で、10月中に陸軍の東条英機を首班とする内閣にとってかわられてしまう。これをもって、現役の陸軍大将が首班でかつ陸軍大臣を兼ねるというファッショ内閣が成立する。
 新内閣は、天皇の命令により、今度は9月6日の御前会議の決定を白紙に返して、最終的に対米戦争に踏み切るかどうかの検討を行った。東条内閣は、11月一杯でアメリカとの交渉をして、その期限にまとまらない場合にアメリカとの戦争に踏み切ることとし、アメリカに対して石油の輸出解禁をしてもらう代償として、南部仏印の軍隊を北部引き揚げるという暫定案を示したりもした。しかし、アメリカからの返事として、同年11月26日付けで、ハル国務長官のノートが出され、その中では満州国をつくって以来の日本の行動を認めないことが書かれていた。同国内においては、11月7日の上院において、アメリカの商船に武装を許し、かつ交戦地域への貨物の輸送を認める中立法改正案を50対37の投票多数で通過させ、その一週間後の下院で若干の修正を加えて212対194の僅差で可決した。すなわち、アメリカはもう日本やドイツとの開戦がもはや避けられない成り行きとなりつつあることを事実上認めた形となっている。
 それまでには、大方の国民はその危険性を訴える政治的手段を既に失っていた。それゆえ、対米戦争に反対する勢力の目立った動きはもはやなかった、といっていい。中国では
国民党政府並びに共産党との共同戦線により日本軍への総反撃が進みつつあり、対欧米では日本側がいう「ABCD包囲網」(アメリカ、イギリス、オランダ、中国による日本への禁輸、貿易制限)により南方の油田を封鎖されたことで日本が行き詰まりつつあったことは、この自転で明らかである。そして、これらを打開するため、いよいよ日本時間で1941年(昭和16年)12月8日未明には、日本は真珠湾に奇襲攻撃をかけて、日米開戦となる。この攻撃の模様については、最近、瀧本邦慶氏(大阪市在住の93歳)による手記が新聞掲載になっている。他に上から目線の解説が多い中で、当時の一兵卒による報告は貴重である。ここでは、その中からハワイ沖に艦隊が集結するまでを紹介させていただく。
 「海軍整備兵だった私が乗り込んだ空母「飛龍」は41年11月、大分県から大平洋に出ると一路東へ。兵には行き先も目的も知らされない。ただ、出航前の異常な量の重油積み込みは腑に落ちなかった。通常ならタンク満タンでよいが艦内至る所にドラム缶、18リットル缶を積んだ。
 11月半ばを過ぎ、艦は千島列島の択捉(えとろふ)島・単冠湾(ひとかぶわん)に到着。夜が明けると他に空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦などが集結していたので驚いた。間もなく千島出港。翌日、総員集合し艦長が日米開戦を発表。我々は今ハワイへ向かっている。12月8日未明攻撃を目指して北太平洋を通過中、との訓示だった。11月下旬の北太平洋の荒れ様のすごいこと。奇襲作戦を知られぬよう、この時期を選んだのだ。全長約230メートルの飛龍も木の葉のように揺れる。」(朝日新聞、2015年11月16日附け)
 この奇襲を受けたハワイでは、停泊中の戦艦の沈没などで4000人余のアメリカの将兵が海に沈んだとされる。日本側の戦闘準備は約一年前から始まっていた。そのことは、1941年(昭和16年)1月下旬、山本五十六(やまもといそろく)が第十一航空艦隊参謀長の大西少将に真珠湾攻撃の作戦計画の立案を命じていることからも窺える。アメリカが、この企画が日本国内において進行中であることを察知していなかった、というのは当たらないのではないか。とはいえ、ローズべルト大統領は12月の初めまでは、「われわれは、攻撃を受けた場合のほかは、外国の戦争に参加しない、外国で戦うためにわれわれの陸・海・空軍を送りもしない」という公約を守る姿勢を、少なくとも表面的にはくずしていなかった、といってよい(尾上一雄「増補アメリカ経済史研究1」杉山書店、1970)。これより前、山本はアメリカに住んでいたことがあったようだが、彼我の経済力の違いに驚嘆していたと伝えられ、その彼がなぜこのような不意打ちで圧倒的な戦果を上げることでの早期集結を意図した、無謀きわまりない作戦を思い立たねばならなかったのか、おそらくもう「日米開戦」は天皇を戴く大本営の方針となっており、そのことはもう何が起ころうと変わらない。彼が反対しても、誰か代わり者が作戦を立案し指揮する運びになっていたのであろう。
 日本軍による真珠湾攻撃の一時間前、日本陸軍第25軍の先遣隊がマレー半島北部に奇襲上陸した。同月10日には、海軍航空隊がこの半島沖にて展開中のイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズなどの新鋭戦艦を攻撃して沈没させた。1942年(昭和17年)に入ると、日本陸軍は、当時イギリスの植民地であったマレー半島を南下してゆく。1月2日、彼らはその勢いで、当時アメリカの支配下にあったフイリピンのマニラを占領するとともに、オランダ領であったセレベス・スマトラ島に落下傘部隊を投入し、また、ボルネオにも上陸して石油、石炭などの資源確保、囲い込みに邁進した。さらに2月15日にはシンガポールに進軍し、占領した上、ここを「昭南島」と改名するなどの多方面作戦を行った。これら日本の欧米連合国相手の戦争突入により、政治経済はもとより、社会の隅々までが非常時態勢となって、国民生活全体が軍国主義国家の監視下に置かれるようになったのである。
 1942年(昭和17年)8月、ソロモン島での二度の海戦(特にガダルカナル島の争奪戦)で日本海軍がアメリカ軍に敗退し、日本側は多くの船舶と兵員を失った。1942年(昭和17年)4月には、東京に初めての空襲があった。太平洋上の米空母ホーネットから飛び立ったB25双発爆撃機の16機が飛来して、爆弾を落としていったのである。1943年(昭和18年)2月初めには、最南方のガダルカナルから日本軍が撤退を余儀なくされる。この南大平洋ソロモン諸島の激戦地、ガダルカナル島からの撤退作戦では、約1万人の将兵が、海軍の駆逐艦の援護を受けながら、同じソロモン諸島のブーゲンビル島に移った。ブーゲンビル島では米軍の激しい空襲があったり、物資を運ぶ輸送船が米軍機の攻撃を受けて次々に沈没していった。ところが、日本ではこれを国民に負け戦とは言わず、「戦略的転進」とか、「至妙なる後退展開」としか伝えなかった。当時、この撤退作戦に参加していた萩原卓さん(93歳、千葉県在住)は、こう述懐しておられる。
 「ー中略ー将兵の姿は惨めだった。汚れて灰色に変色したボロボロの服。負傷兵の包帯は、あり合わせのボロ切れ。多くが、やっと歩けるかどうかという疲労困ばいの極みにあった。壊れた銃や棒切れが杖であった。銃を持っている者は4分の1もおらず、まともな銃は皆無。軍刀で身を支える将校もいた。」(朝日新聞、2015年8月16日付け)
 続いて同年、ソロモン群島とニューギニアを中心に両軍の攻防が起こり、アメリカの空母が展開するに至る。1944年(昭和19年)にはマリアナ群島のサイパン島(7月、これより前の6月にアメリカ軍が上陸していた)、フィリピンのレイテ島の日本軍が陥落し、それからは米軍機の日本本土へのB29戦略爆撃機による空襲が頻繁になる。
 1944年(昭和19年)には、日本軍の中国戦線での展開は手詰まりの状況となっていた。同年3月から7月初旬にかけては、蒋介石の国民党軍への援助ルートを遮断すべく、インド北東部のインパールとインド・ビルマ国境の掌握を目指したが、数万人の犠牲を出して失敗した。ゆえに、このルートは日本軍の「白骨街道」とも言われた。おりしも環大平洋域においては、マリアナ群島のサイパンにアメリカ軍が上陸するに至る。この年の初めには、連合艦隊の基地のあるトラック諸島がアメリカ軍の大空襲を受けて、使いものにならなくされていく。6月、マリアナ群島のサイパン島にアメリカ軍が上陸する時、日本野海軍は壊滅的な打撃を受けた。アメリカはそこに飛行場をつくり、本土空襲を飛躍的に増大させた。その頃までには、海洋国日本の持てる船舶数は大きな減少を辿っていた。1941年(昭和16年)12月での年間の新造船・その他は44隻、喪失が52隻、年末の保有量が6376隻であったのが、1944年(昭和19年)になるとそれぞれ465隻、1502隻、2564隻へと減っていた(安藤良雄編「近代日本経済史要覧(第二版)」東大出版会、1979年)。
 このようにして日本の南方航路が途絶したのを機に、1944年(昭和19年)半ばには、政治の中枢部においても敗戦の見通しが半ば公然のものとなっていく。東条内閣が退き、小磯内閣が代わった。その頃の国民にはひた隠しにされた軍需省の戦力判断に次の下りがある。軍需省当局が最高戦争指導会議に提出した。この報告は、1944年(昭和19年)8月時点のものである。
 「大東亜戦争勃発以来、物的国力は開戦直前の見透に対し、主として敵潜水艦に依る船舶の損害予想外に増大し、造船量を遙に突破して、保有船腹は大幅に逓減せる上に、累次に亘るAB(陸海軍)の船舶増徴に依りC(民需)船輸力の激減せると一方・・・・・在庫物資よりの給源枯渇に依り逐年減少せり。然れども国民生活を中心とする民需部門の犠牲により、漸増せる軍需を充足し来れるも、既に現状に於いて主要食糧は一応確保し得るも、爾余の諸産業は全面的に操業を短縮若は中止せられあるの実情にして、徹底的に重点を形成せる軍需生産に於いても、十九年度初頭を頂点として爾後は低下の傾向にあるを否定し得ず。又現状程度の国民生活を維持することも逐次困難となる趨勢に在り、即ち戦争第四年たる十九年末には国力の弾撥性は概ね喪失するものと認められる。」
 要は、もはやこの戦争を継続することは困難になりつつあることを、はからずも認めるものとなっている。
 おりしも、1944年(昭和19年)8月、マリアナ群島の日本軍が壊滅した。戦況は、軍部にとってはいてもたってもいられない。どのようにしたら、「大東亜共栄圏」とやらで拡大し、途方もなく延びきった戦線を立て直すことができるのかもわからない、
 明くる1945年(昭和20年)の1月から2月にかけては、フィリピンのルソン島、硫黄島など日米の激戦が繰り広げられる。特に、2月19日~3月26にまでの硫黄島の戦いでは、日本の守備兵2万933名のうち2万129名までが戦死した。日本軍が玉砕した後は、アメリカ軍はこの島からB451戦闘機の護衛をつけてB29戦略爆撃機を昼間の本土爆撃に出撃できるようになったことがある。
 こうして軍国主義の日本を巡る戦況は、刻一刻と深刻の度合いを加えていくのであった。そしていよいよ南方の航路がついに途絶されたとき、東条内閣は瓦解し、小磯内閣に替わった。当時、軍需省に吸収されていた企画院が企画立案し、軍需省当局が最高戦争指導会議に提出した文章の一節を読むと、そこにあるのは「もはや、敗北は時間の問題」という客観的認識に尽きる。
 「大東亜戦争勃発以来、物的国力は開戦直前の見透に対し、主として敵潜水艦に依る船舶の損害予想外に増大し、造船量を遙かに突破して、保有船腹は大幅に逓減せる上に、累次に亘るAB(陸海軍)の船腹増徴に依り逐年減少せり。然れども国民生活を中心とする民需部門の犠牲により、漸増せる軍需を充足と来たれるも、既に現状に於いて主要食糧は一応確保し得るも、爾余(じよ)の諸産業は全面的に操業を短縮若しくは中止せられあるの実情にして、徹底的に重点を形成せる軍需生産に於いても、十九年度初頭を頂点として爾後は低下の傾向にあるを否定し得ず。又現状程度の国民生活を維持することも逐次困難となる趨勢に在り、すなわち戦争第四年たる十九年末には国力の断撥性は概ね喪失するものと認められる」とある。
 1945年(昭和20年)4月に入り、沖縄にアメリカ軍が上陸した。その夏、広島への原子爆弾投下で12万人強、続いての長崎への同爆弾の投下で7万人強が死者が出た、ともいわれている。原爆はまた、多くの放射能被害者をもたらした。
 「炎天下筏(いかだ)となりて屍(しかばね)往く」(公募で俳句を集めた『句集、広島』から、作者は伊東ひろ江)
 この原爆投下について、アメリカが対日本戦を勝利に導く最終的な切り札とはなっていなかったことがわかっている。というのも、ローズヴェルト(フランクリン・D・ローズヴェルト)が大統領に在任の間は、連合国はその一員のソ連に日本への宣戦布告を要請していた節がある。ところが、ナチスが崩壊し、日本の敗北も身近な視野に入ってきた時点で、戦争後のことを考えた時、アメリカはソ連の力を強く意識するようになっていた。脳溢血で急死したローズヴェルトの後を継いだトルーマン大統領は、「8月15日までにソ連が対日参戦する。そうしたら日本は敗北する」とみていた。それだから、アメリカはともかく日本をスターリンの率いるソ連が手をつける前に、降伏させたかった。つまり、ソ連を自陣営の仲間に引き入れての日本占領ではなく、アメリカ単独の力で一日でも早く日本を屈服させたかった。
 1945年(昭和20年)に入ると、日本本土へのアメリカ軍の空襲が激しさを増してくる。
 このような我が国内外において無気力化しつつある日本の情勢をじっとみていたであろう、昭和天皇は、アメリカ側が傍受していた7月18日の日本側公電によると、遅ればせながら戦争終結を望んでいることになっていた。これからすると、彼は、もはやこの戦争を終結に導かねばならないことを悟っており、8月14日、周囲の戦争推進勢力の大勢を押し切る形で、ポツダム宣言を受諾することに決めた。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

♦️123の7『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(アジア・大平洋2)

2017-08-15 21:32:21 | Weblog
123の7『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(アジア・大平洋2)

 この間の日本の軍国主義の急傾斜に対して、アメリカは1939年(昭和14年)7月、日米通商航海条約の廃棄を日本に通告し、半年の猶予期間の後の1940年(昭和15年)1月に同条約は失効した。この条約には、日本に対する貿易上の「最恵国待遇」がふくまれていた。日本としては、原材料や原料をアメリカから自由に買うことができていたのが、無条約だと、アメリカは自由に日本向けの輸出を制限したり、禁止したりできることになったのだ。案の定、条約の廃棄の最初には、アメリカは工作機械の輸出禁止に踏み切った。1939年(昭和14年)、ドイツがポーランドに電撃的に進駐した。1940年(昭和15年)5月にドイツがヨーロッパを席巻してフランス、イギリスと戦争状態に入った。第二次世界大戦の勃発である。
 世界情勢がこのような中、航空機ガソリンを含むガソリン、石油、屑鉄などへの輸出禁止の措置は、さしあたりせず、いざというときのために残され、アメリカは日本への経済的な圧力を強めて始めた。
 1940年(昭和15年)7月22日、日本陸軍は軍事的な海外進出に慎重な米内内閣を倒し、第二次近衛内閣を発足させた。その内閣成立直後の7月27日の政府大本営連絡会議において、「世界情勢ノ推移に伴フ時局処理要綱」が決定された。この中には、ドイツとイタリアとの提携を密にするとともに、次第によってはイギリス、アメリカとの戦争を構えることが盛り込まれていた。同年9月には、日本は北部仏印(現在のベトナムのハノイ、ハイフォン地区)に進駐するとともに、ドイツ、イタリアとの間で「三国同盟」を締結した。これらにより、アメリカとイギリスとの間は決定的に悪化する。特にアメリカは、日本の南部仏印進駐の報復として、日本に対する石油輸出を全面的に禁止するとともに、日本の在米資産を凍結した。経済面で、国交断絶に踏み切ったのである。ちなみに、1941年(昭和16年)10月時点の日本の石油保有量は840万キロリットルといわれ、それだけが「虎の子」の石油ストックであったことが覗われる。
 1941年(昭和16年)4月、アメリカとイギリスの対日経済封鎖を打開すべく、日本は日ソ中立条約を締結する。これには、2正面の的と戦うことを避けようとする意図が働いていた。ところが、この作戦は、ドイツが秘密裏に独ソ不可侵条約を結んでいるソ連に侵攻したことらより破綻する。この報告に接した政府の狼狽ぶりは大変なものであった。第二次近衛内閣は、1941年(昭和16年)7月にいったん総辞職した。この内閣は、この年の春から極東問題についてアメリカとの交渉を開始したが、「和戦」を巡る日本の支配層内の対立が解けぬままに、時間を浪費していた。この総辞職の直前、松岡外相が「我が国が三国同盟の誼(よしみ)を弊履のごとく棄て、多数同胞の血と涙と巨億の犠牲とを顧みずして、着々武を進め来たりたる大陸政策を断念せざるかぎり」ということで、アメリカとの交渉にもはや展望が見出し得ない」としたことで、政策の行き詰まりが露わとなったのである。そこで、外務大臣を松岡から豊田貞次郎に交替して、近衛は第三次内閣を組閣するに至る。
 その第三次近衛内閣が発足して間もない1940年7月22日、独ソ戦開始後の世界情勢についての、昭和天皇と杉山参謀総長とのやりとり(問答)があり、彼によるメモには、こうある。 
 「御上
 支那事変に何かよい考えはないか。
総長
 この前にも申し上げましたとおり、重慶側は戦力戦意とも衰え、軍は低下し、財政経済的にも困○(こんばい)しており、あたかも瀕死の状態と考えられ、命だけを保って長期抗戦をしているのであります。この長期抗戦ができるのは、英米等敵性国家の注射または栄養を与えるためであります。すなわち英米が重慶の起死回生をやっているのでありまして、英米を抑えなければ支那事変の解決は困難と考えます。第二次欧州戦の発生前は支那事変のみを考えてよかったが、これが始まり、また独ソ戦が始まりましてより以来は、世界戦争の動きにより、反枢軸諸国をいためることが重慶を長つづきさせぬものと考えます。従って、活力を与えるものをおしつける必要があるものと思います。・・・・・やはり機をとらえて撃たなければならぬと思います。」(出所は『杉山メモ』、引用は臼井勝美(うすいかつみ)『日中戦争ー和平か戦線拡大か』中公新書、1967)
 一国の軍事力は、その国の経済力の問題でもある。相手があることから、彼我の経済力格差がどのくらいあるかが最重要な問題であったろう。このやりとのでは問題とされなかったのかもしれないが、経済力で余りにも差のある英米を相手に安易に構えるという道に踏み出しつつある姿が読み取れる。この頃には、米英の対日経済封鎖と、すでに対中国戦争の長期化とのダブル・パンチをくらって混迷を深めていた日本経済は、いよいよゆきづまりの状況を呈してきており、この難局を打開すべく思い切った決定を下そうという空気が満ちていくことになったのである。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

♦️123の6『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(アジア・大平洋1)

2017-08-15 21:31:07 | Weblog
123の6『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(アジア・大平洋1)

 1936年(昭和11年)の「2.26事件」以後、日本社会は坂道を転げるように、国内的にはファシズム、対外的には帝国主義への道を転がっていく。なお、日本の第二次世界大戦後の歴史学主流の中では、「ファシズム」もしくは「日本型ファシズム」と定義付けるのをよしとせず、「軍国主義」云々をもって説明することのようである。とはいえ、このような慎重さを装う議論の向かう先が、ともすれば日本だけの殻に閉じこもって歴史的事実に対処しようとする方向性を多々もっていることも否定し難いのではないか。もちろん、予めあるタイプの社会事象を諸特性を列記しておき、日本で起こった現実をこれに当てはめていくが如き叙述の方向が正しい訳はないのであるが・・・・・、ここではひとまず「ファシズム」と言う言葉を当てはめ、話を進めることにさせていただきたい。
 中国大陸への歯止めのない進出の中で、第一次近衛内閣中、軍部の突出した動きを牽制できる勢力は、国内ではもはやいなくなっていく。1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外に架かる大橋・の芦溝橋(ろこうきょう)で、「芦溝橋事件」が、またもや日本軍の謀略により起こる。この事件を契機として、軍部がかねてから計画し準備してきた実体か姿を見せ始める。案の定、同月11日の五相会議で5項目、具体的には(1)派兵の目的は戦力の誇示にあること、(2)中国の国民政府側がこの要求に応じないときは武力を行使すること、(3)不拡大・現地解決主義、(4)動員後、派兵の要なきにいたらば派兵を取りやむこと、(5派兵勢力は五個師団、但し差当たり三個師団とすることを早々、政府の独断で決めてしまった。中国に対する全面侵略戦争の火蓋が切って落とされる。8月開催の閣議においては、内地の二個師団の上海を派遣することに決める。そして迎えた9月2日、日本政府はそれまで使用してきた「北支事変」の名称を「支那事変」に改め、中国側との全面戦争の開始を決意する。
 1937年(昭和12年)12月、日本軍は中国の国民政府の首都である南京(なんきん)を占領した。翌1938年(昭和13年)1月15日に開催された大本営政府連絡会議で、今度は内閣が独走を演じる。この会議で、多田駿参謀長は、国民政府を否認することは時期尚早であり、交渉を継続すべきだと主張した。それなのに、広田外務大臣外相、杉山陸軍大臣などは、「すみやかに和平交渉を打ち切り、わが態度を明瞭にする必要がある」とする近衛首相に同調した。結局、この会議の翌日には「帝国政府は爾後(じご)国民政府を相手とせず、石斗真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更正新支那の建設に協力せんとす」との政府声明を発表する。
 こうした短兵急な侵略戦争への傾斜ならびにその正当化の動きに対し、国民世論の反応は概して鈍かった。無産政党の一部までを含めた「挙国一致」の戦争支持の声が高まり、共産党(「講座派マルクス主義派」で非合法)、「労農派マルクス主義派(向坂逸郎、山川均ら)」と社会民主主義の最左派、きわめて一部の自由主義者(無産党の代議士であった山本宣治など)と宗教家(大本教や一部のキリスト者など)などを除いてはこの趨勢に、同調、応召若しくは無抵抗であったといえる。これらの中で異彩を放っていたのが大本教であり、明治末、出口ナオを教祖として出口王仁三郎(でくちおにさぶろう)が立教した。同じく神道系ながら、いわゆる天皇家を頂点とする国家神道とは異なる、独特の神を説いて、世直し、「みろくの世」(神の国)の到来を説く。1921年(大正10年)と1935年(昭和10年)の二度の弾圧を受けたが、ひるまなかった。
 1938年(昭和13年)第一次近衛内閣 によって第73帝国議会に「国家総動員法」の法案が提出され、制定、公布(4月10日)された。この法に関連する法令の制定・改廃の中では、1937年の臨時資金調整法と輸出入品等臨時措置法の制定があり、これらの戦争法令が合わさって国民経済の統制経済化が現出していく。国家総動員法の第一条には、「国家総動員」とはどんな事態をいうのかを定義していて、「戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及ビ物的資源ヲ統制運用スル」ことだとされる。これは、企画院において陸軍が主導して案をこしらえものであって、軍部の思惑がここに秘められている。
 驚くべきは、この法令の施行に関係する、異様なまでの明治憲法下での「勅令」(1939~1942年)の多種・多様さであろうか。経済法学者の正田彬氏は、これらを次の4つに分類しておられる。Aとしては、人的と元の統制および利用に関するもので、従業者雇入制限令、国民徴用令、賃金等統制令などが当てはまる。そのBは、物的資源の統制および利用に関するもので、生活必需物資統制令、価格等統制令、小作料統制令、電力統制令、金属回収令など。そのCとして、資金の統制および運用に関するもので、会社利益配当及資金融通令、銀行等資金運用令、株式会社統制令などがある。産業資金の供給面で、直接金融(資本市場などから企業が社債や借入金などの形で直接資金の供給を受けること)から国家の意図する銀行などからの間接金融を優先させることも行われていく。Dとしてあるのは、事業の統制および運用に関するものであって、重要産業団体令、金融統制団体令、企業許可令、戦時海運管理令、貿易統制令などがあった。さらにEとして、文化統制および運用に関するものも出されていて、新聞事業令、新聞紙等掲載制限令これに該当していた。
 これらの中から本法令の最重要点を拾うと、やはり国民経済への統制と労働者への統制であろうか。その基本としてあったのは、あらゆる物資、サービスでの軍事優先である。各事業は平和的不急部門(丙類)と軍事的緊急部門(甲類)に分けられる。前者の予算が削られ、後者の予算が肥大していく元となってゆく。例えば、繊維は丙類であり、岡山県の倉敷紡績や倉敷絹織などは、繊維産業関係予算の削減により、綿花の輸入や設備投資などが大きく制限されていく。また労働者が軍需産業以外に漏れ出さないことや賃金統制なども意図されていて、国家による労働力の最適配分が最優先されてゆくのであった。
 1938年(昭和17年)、日中戦争勃発時の1938年(昭和13年)7月を100とし、1942年(昭和17年)8月時点の岡山市生活必需品価格指数(総平均)は194.8となり、約4年間で9割強上がったと報道されている(『合同新聞』8月16日付け)。これには、戦争による軍事産業の優先で民間産業が圧迫されていたことが働いている。岡山県下においても、1942年(昭和17年)に米、衣料品、マッチ、木炭、味噌、醤油、牛肉などの配給・切符制が強化されたことがある。
 結局、1937年(昭和12年)に発足した第一次近衛内閣がやったことといえば、戦争の会誌と、それに伴う経済統制などであった。この内閣は1939年(昭和14年)に入ると、万事が責任を持てなくなってきたのか、主にグン゛府から手詰まりを指摘されるようになり、同年1月には平沼内閣に交代した。しかし、日独伊)(日本・ドイツ・イタリア)の3国同盟問題での閣内不統一から8月には安部内閣が発足した。しかし、これでも安定した政局とはならず、1940年(昭和15年)1月に米内内閣にとって代わられ、さらに同年7月には第二次近衛内閣に代わるというめまぐるしさであった。
 日本側がいうところの「支那事変」から2年後の1940年(昭和15年)年2月2日第75回帝国議会において、最後となる戦争反対派議員による演説があった。民政党所属の衆議院議員・斎藤隆夫が、この日衆議院本会議で代表質問に立った時、彼の念頭にあったのは、当時「日華事変」)と呼ばれていた事件の処理である。米内光政首相を追及するに際し、過ぎし1938年(昭和13年)年末に当時の近衛文麿内閣が表明した処理方針との関わりがあった。つまり、日本は中国の国民党政府を相手にせず、汪兆銘を首班とする傀儡政権の日本政府が樹立工作を進めていた。斎藤演説は、この政府の「唯徒に聖戦の美名に隠れ国民的犠牲を閑却し」た姿勢を正すことを要求したのであった。
 ここでは、かかる斎藤隆夫「国務大臣の演説に対する斎藤君の質疑」(題名付けは国立国会図書館による)質問演説の中から、問題とされた、後半の核心部分を紹介させていただく。
 「次に新政府が出来た後に於て重慶政府との関係はどうなるものであるか、之に付きましては前内閣の阿部首相は新聞を通じて、斯う云う意見を述べて居らるるのであります、即ち新政権が出来たならば、新政権は重慶政府に向って働き掛けるであろう、新政権樹立の趣旨が徹底したならば、重慶政府も一緒になって和平救国の途に就くであろう、斯う云う意見を述べて居られるのであります、是は決して前阿部首相一人の意見ではない、今日政府の要人の中には、確に此の意見を持って居る人があるのであります、是が私には分り兼ねるのである、新政権と重慶政府、どう考えても是が将来一致するものであるとは思えないのであります、なぜに一致しないか、御承知の通りに重慶政府は徹頭徹尾容共抗日を以て其の指導精神と為し、之を基として長期抗戦を企てて居るのである、然るに之に反して新政府は反共親日をもって指導精神と為し、之を以て新政府の樹立に向って進んでいるのである、此の氷炭相容れざる二つのものがどうして一緒になることが出来るか、私共に於てはどうも是は想像が付かない、是は唯理窟ばかりの問題ではなくして、支那の現状を見ましても斯様なことは到底想像することが出来ないのである、殊に先程申しましたように、蒋介石を徹底的に撃滅するにあらざれば断じて戈を収めない、此の鉄の如き方針が確立して、之を以て有ゆる作戦計画が立てられて居るべき筈であるのであります、先程引用致しました所の此の文書の中に於きましても、確に其の意味は現われて居るのである、即ち重慶政府が出来た所が蒋介石は決して兜を脱がない、重慶政府が屈服しない限りは日本軍は飽くまでも重慶討伐に向って進軍するのである、汪兆銘は日本の重慶討伐に便乗して戦うのである、是が軍部の方針であるに相違ないのであります、然るに前内閣の首相及び政府の要人は彼の如き気楽なる考を持って居る、支那事変処理の根本方針に付て政府と軍部との間に於て何か意見の相違があるらしくも思えるのであります、是は前内閣のやったことでありまして、現内閣のやったことではないのてありまするが、併し支那事変の処理に付ては前内閣の方針を踏襲すると言われた所の現内閣の総理大臣は、之に付ても相当のお考えがあるには相違ないと思いまするから、此の点も併せて伺って置きたいのであります。
 次に重慶政府に対する方針、重ねて申しまするが、蒋政権を撃滅するにあらざれば断じて戈は収めない、蒋介石の政府を対手としては一切の和平工作はやらない、この方針は動かすべからざるものでありまするが、其の後蒋介石は敗戦に次ぐに敗戦をもってして、今日は重慶の奥地に逃込んで、一地方政権と堕して居るとはいうものの、今尚お大軍を擁して長期抗戦を豪語し、有ゆる作戦計画をして居るように見受けられるのであります、固より之に付ては我方に於きましても確乎不抜の方針が立てられて居るに相違ありませぬが、併し前途のことは是は測り知ることが出来ない、然るに一方に於ては何処までも新政権を支持せねばならぬ、有ゆる犠牲を払って之を支持せねばならぬ、即ち一方に於ては蒋介石討伐、他の一方に於ては新政権の援助、我国は是より此の二つの重荷を担うて進んで行かなければならぬのでありますが、是が我が国力と対照して如何なる関係を持って居るものであるか、私共決して悲観するものではない、悲観するものではないが、是が人的関係の上に於て、物的関係の上に於て、又財政経済の関係に於て如何なるものてあるかと云うことは、全国民が聴かんとする所であると思うのであります。」
次いで、その締めくくりの部分、及び国務大臣米内光政の返答を暫し引用させていただくと、こうあった。
 「繰り返して申しまするが、事変処理はあらゆる政治問題を超越するところの極めて重大なるところの問題であるのであります。内外の政治はことごとく支那事変を中心として動いている。現にこの議会に現われて来まするところの予算でも、増税でも、その他あらゆる法律案はいずれも直接間接に事変と関係をもたないものはないでありましょう。それ故にその中心でありまするところの支那事変は如何に処理せらるるものであるか、その処理せらるる内容は如何なるものであるかこれが相当に分らない間は、議会の審議も進めることが出来ないのである。私が政府に向って質問する趣旨はここにあるのでありまするから、総理大臣はただ私の質問に答えるばかりではなく、なお進んで積極的に支那事変処理に関するところの一切の抱負経綸を披瀝して、この議会を通して全国民の理解を求められんことを要求するのである。(拍手)私の質問はこれをもって終りと致します。(拍手)
 (発言する者あり)
 議長(小山松寿君)野溝君にご注意致します。
(国務大臣米内光政君登壇)
 国務大臣(米内光政君)お答致します,
 支那事変処理に関する帝国の方針は確乎不動のものであります。政府はこの方針に向って邁道せんとするものてあります。戦争と平和に関するご意見は能く拝聴致しました,以下具体的問題についてお答を致します。
 支那側の新中央政府に関する帝国の態度は如何、こういうご質問であります。汪精衝氏を中心とする新中央政府は、東亜新秩序建設につきまして、帝国政府と同じ考えを持っておりますから、帝国と致しましては、新政府が真に実力あり、かつ国交調整の能力あるものであるということを期待致しまして、その成立発展を極力援助せんとするものであります。(拍手)
 その次に新政府樹立後、これと重慶政権との関係は如何というご質問でありまするが、新政府が出来上りまして、差当り重慶政府と対立関係となるということは、やむを得ないものと考えておりまするが、重慶政府が翻意解体致しまして新政府の傘下に入ることを期待するものであります。次に国内問題でありまするが、政府は東亜新秩序建設の使命を全うせんがために、鞏固なる決意のもとに手段を尽して断乎時局の解決を期している次第であります。この興亜の大事案を完成しまするためには、労務、物資、資金の各方面に亘りまして、戦時体制を強化整備致しまして、国家の総力を挙げて、本問題処理のために総合集中することが肝要てありまして、これがために真に挙国一致、不抜の信念に基づきまする国民の理解と協力とを得ることが必要であると存ずるのであります、(拍手)」(斎藤隆夫著「回顧七十年」中公文庫他の複数のソースから引用)
 これに陸軍などが憤慨した。彼らは、真実への認識が国民の間に広まることを怖れた。小山松寿衆議院議長が職権で議事速記録から斎藤演説の後半部分を削除した。それでも足らず、斎藤を懲罰委員会にかける。周囲からの議員辞職勧告に対して、斎藤は「憲法の保障する言論自由の議会」での演説に対する速記録削除や自らの論旨を曲解した非難がもとで辞めるのは、「国民に対して忠なる所以ではない」と拒否した。しかし、帝国議会ではついに多勢に押し切られてしまう。3月7日の衆議院本会議で斎藤の除名処分が議決された。議会によるこの挙は、それまでの帝国議会にとって、他に例を見ない強権措置であった。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

♦️382の1『自然と人間の歴史・世界篇』スペイン内戦(1937)

2017-08-15 20:31:50 | Weblog

382の1『自然と人間の歴史・世界篇』スペイン内戦(1937)

 1937年に入り、スペインの内戦は最終段階の「マドリード防衛戦」に突入していく。スペイン内戦の特色として、さらに国際義勇兵の活躍があげられる。さて、スペイン内戦は、一面では中央集権に対する地域自治の闘争でもあった。内戦開始後まもなくバスク地方は自治政府をつくり、保守的なカトリック教徒も共和国を支持していた。2月、ハラマで激しい戦いがあった。1937年4月、制空権を掌握したドイツ空軍のコンドル兵団は、バスク地方の町ゲルニカを爆撃した。スペインの画家パプロ・ピカソは、このゲルニカへの非人道的な爆撃に抗議して、『ゲルニカ』を完成させた。以後、バスク地方を制圧したフランコ軍はバスクの自治を奪い、バスク語を禁止した。カトリック教徒も共和国を支持する限り厳しい弾圧にあった。
 同4月、政党統一令でファランヘが成立する。5月には、バルセロナで五月事件が発生する。共和国の敗北内戦中フランコ側がともかく統一を保ちえたのに対して、共和国側は構成要素がしだいに分裂し始めた。スペイン共産党の勢力伸張は、同時に当時のスターリン的な政治指導の誤りをスペインにも持ち込むことになった。ソ連における「粛清」がスペインでも行われ、反フランコ勢力の内部に致命的な分裂を生じた。1937年5月のバルセロナにおける市街戦で、政府軍が敗北を喫す。共和国側は、以後カバリェロ内閣にかわったネグリン内閣となるが、もはや大勢を挽回できなかった。1937年11月、共和国政府はバレンシアに移転する。1938年1月、フランコはブルゴスに最初の内閣を樹立する。7月から11月にかけて、エブロ川で最後の大きな戦いが繰り広げられる。1939年1月バルセロナは陥落し、2月イギリスとフランスはやむなくフランコ政権を承認するに至る。そして迎えた3月、マドリードも陥落して、反乱軍が首都を占領するに至り、内戦はフランコを頭目とするファシスト側の勝利に帰した。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️117『自然と人間の歴史・世界篇』スペイン内戦(1923~1936)

2017-08-15 20:30:44 | Weblog
117『自然と人間の歴史・世界篇』スペイン内戦(1923~1936)

 1923年9月、プリモ・デ・リベーラが軍事蜂起を起こし、政権を掌握すると戒厳令が敷かれ、憲法は停止となる。1876年からそれまで続いていた立憲君主制が崩壊し、軍事独裁政治の開始となる。1930年、経済危機の中で軍内部からも独裁者への批判が噴出、ベレンゲール将軍が政権を引き継ぐ。これに至る経緯はなかなかに複雑であった。ざっと示すと、その前年の8月、共和主義者たちが全国から北部のサン・セバスチャンに集まって、共和国樹立のための相談にとりかかる。首都のマドリッドでは、かれらによる革命委員会が結成される。
 1931年2月にベレンゲールが辞任を余儀なくされる。新政府は生き延びる道を見つけようと、国民の意思を問うことにし、1931年4月12日、地方(市町村議会)選挙に打って出る。農村部では、王党派が勝利を収める。一方、都市部では社会労働党など共和派が勝利する。返り咲きをねらっていたアルフォンス13世は亡命する。すると、人々は「共和国万歳」を叫んで、先の革命委員会は臨時政府に衣替えし、権力を握るに至る。これを「第二共和政」と呼ぶ。6月28日には、憲法制定議会選挙が実施され、社会労働党、急進社会党などが躍進する。新憲法が制定され、その第1条には「スペインはあらゆる種類の労働者の共和国である」とあった。この憲法下で、10月にはアルカラ・サモーラが大統領職に、アサーニヤが首相にそれぞれ就任する。
 1932年8月、サンフルホ将軍らによるクーデターが勃発するも、軍の一部の蜂起であったがために、政府の素早い措置により失敗に終わる。9月には、農地改革法が施行される。これによって「収容された土地は、南部を中心とする大土地所有(ラティフンディオ)のみで、手続きの煩雑さや資金不足も手伝って、実際に収容され農民に分配された土地は予定の20%ほどに過ぎず、根本的な改革にはほど遠かった」(立石博高・席哲行・中川功・中塚次郎『スペインの歴史』昭和堂、1998)といわれる。農地改革が徹底しないことで農民に不満が残り、新政府を支える労農同盟に不安が生まれたのは否めない。
 同月、カタルーニャ憲章が制定される。1933年1月、カサス・ビエハス事件が発生する。これは、CNT(1910年に結成された全国労働連合でアナーキスト(無政府主義)的色彩が強い)系の労働者や農民による抗議であり、これを弾圧したアサーニャの権威は失墜する。3月には、政府の反カトリック改革に反対してスペイン独立右翼連合(CEDA)が結成される。アサーニャは辞任を余儀なくされ、1933年11月に総選挙が実施された。共和国政府の改革に不満な浮動票がブルジョアを中心とする右派勢力に流れた。右派による政権が生まれたことで、これからを「暗黒の二年間」という。1934年10月には、反ファシスト政府の樹立を目指す民衆の立ち上がりがあった。これを「アストゥリアスの蜂起」という。スペイン人民にとって、生きることは戦うことになっていたのであろう。かれらは「人民戦線協定」を締結する。1936年2月16日、スペインでは総選挙の結果、共和主義者、社会党、共産党の協力による人民戦線派が右翼の国民戦線派に対して勝利する。19日、共和主義者が中心となって、再びアサーニャを首班とする人民戦線政府が成立する。
 かくしてこれは、スペイン人民が集う政府としては、スペインの歴史始まって以来の出来事であった。人民戦線政府は、反ファシスト政府蜂起(ほうき)における政治犯の釈放や農地改革、カトリック教会の特権の縮小などの課題を表明する。一方、大資本・地主・教会を基盤とする右翼諸勢力は、軍部を中心としてひそかに政府打倒の計画を進めた。1936年7月17日のモロッコで、駐屯軍の蜂起があった。この事件を機に、翌18日にはフランコ将軍をはじめとする軍部がスペイン各地で反乱を起こした、フランコの指揮下にモロッコに拠点を確保した反乱軍は、ドイツ、イタリアの援助を得て本土に上陸し、以後長期的な内戦になった。ここに内戦が勃発したのである。
 ここに至り人民戦線政府は決意を固める。武器を労働者に分配することを要求し、首都マドリードやバルセロナでは、労働者や市民が武器庫や銃砲店を襲って武器を手に入れ、反乱軍と戦った。1936年7月19日、ヒラールが新たに共和諸派による政府を組織し、労働者団体を武装することを決定した。軍部の蜂起は、同月20日までにはスペイン本土ではカディスとセビーリャを除いてほとんど鎮圧された。もう一方のフランコ将軍は、ファシストの国となっていたドイツとイタリアに援助を求め、両国の飛行機がモロッコへ送られた。この両国の介入はその規模を増していく。内戦は、ここに国際的な対立の構図を巻き込んだ形となったのだ。1936年年8月、モロッコから本土に上陸したフランコ軍は、北上してマドリードを目ざし、また北方のレオン、ガリシア地方を制圧し、同年9月末マドリードをほぼ半円形に囲んだ。ここにスペイン本土は共和国政府に残された地域と、反乱軍(ナショナリストと自称)に占領された
 1936年9月4日、ヒラール内閣は退陣して、労働者に信望のある社会党左派のラルゴ・カバリェロが内閣を組織した。カバリェロ内閣は社会党、共産党からも入閣させ、さらに11月にはアナキストを入閣させた。共産党員がブルジョアジーとの連立内閣に入り、さらにアナキストが政府機関に参加しないという原則を破って入閣した。同じ9月には、ロンドンに不干渉委員会を開設する。10月、バスク自由憲章が制定される。その後もドイツ、イタリアの武力介入は続いてゆく。ソ連はこれに対抗して、1936年10月末、共和国側に戦車や飛行機、大砲などを送った。ソ連から送られた人数は約2千人、多くは技術的な部門で活動した。なお、メキシコのカルデナス政権もスペイン共和国に対して武器を送った。アメリカは、スペイン内戦に対しては中立の態度をとっていたが、石油資本はフランコに対する石油の供給を続けていた。
 ここに至り、共和国側内部の事情は、内戦前と比べて著しく変化した。その中でも、労働者が部分的に権力を掌握したことが重要である。ヒラールを中心とする共和国政府は、自由主義的ブルジョアジーからなり、旧来の国家機構を把握している。社会党、共産党は、これを閣外から支持していた。軍部のなかにも合法的な共和国政府に忠誠を誓う勢力もあった。またカタルーニャでは、自治政府の大統領コンパニースは、アナキストを含む民兵委員会や経済評議会を設置して、労働者による軍事と経済の管理を認めていた。フランコは内戦の過程でナショナリスト側において指導的地位を獲得し、1936年10月、自ら「統領」と名のり、ファランヘ党からその大衆向けのイデオロギーを借用し、この党をテロ部隊として利用した。
 そして同月、フランコ軍はマドリードの郊外にまで迫る。11月6日、フランコ軍がついに総攻撃を開始した。ドイツとイタリアは、同11月、フランコ政権をスペインの正統政府として承認を与えた。人民戦線政府側では、国際義勇兵が、マドリードの戦場に姿を現した、勇敢な心には不可能の文字はないかのように。そんな中でも、この国際義勇兵を組織的にスペインに送り込むことに努めたのは、コミンテルン(第三インターナショナル、当時の共産主義者の国際組織)であった。政府軍と渾然一体となってファシスト側と戦うことになるこの義勇兵の数は、精々3万から4万位であったろうか。共和国政府はマドリードからバレンシアへ移転した。マドリードはその後2年半ほどもちこたえた。フランコ軍に対するドイツ・イタリアの武力援助とイギリス・フランスの不干渉政策という状況の下では、共和国側は圧倒的に不利であった。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

♦️375『自然と人間の歴史・世界篇』有効需要の原理の発見(カレツキ)

2017-08-15 20:08:16 | Weblog

375『自然と人間の歴史・世界篇』有効需要の原理の発見(カレツキ)

 ところで、ポーランドのミハウ・カレツキは、ケインズとは独立して、しかも、ケインズの『一般理論』が出る前の1933年に発表の著作である『景気循環理論概説』で、「カレツキ乗数」の導出を試みている。これについては、次のような簡単な説明によってなされており、かれはこれをマルクスの再生産表式からヒントを得て、ケインズが発見されたといわれる有効需要の原理を発見していた。
 前提として、次のような閉鎖的な経済を考える。社会は、第一部門としての投資財の生産部門、第二部門としての資本家用の消費財の生産部門、そして第三部門としての賃金財生産部門から成り立っているとしよう。ここでの前提は閉鎖経済ですから、政府部門と外国との関係はない。前提により、労働者は裸一貫で暮らしていることから、貯蓄はしない。
 第一部門(生産財生産部門)での産出量の価値Aは、この部門での利潤(a)と賃金(α)の和に等しいから、
A=a+α・・・・・・・(1)
 第二部門(資本家用消費財生産部門)での産出量の価値Bは、この部門での利潤(b)と賃金(β)の和に等しいから
B=b+β・・・・・・・(2)
 第三部門(労働者用の消費財生産部門=賃金財生産部門)での産出量の価値Cは、この部門での利潤(c)と賃金(γ)の和に等しいから、
C=c+γ・・・・・・・(3)
 全経済でのD(粗国民所得)=d(総利潤)+δ(デルタ)=総賃金
 (D=d+δ=A+B+C)
 ここで労働者は上記の前提により、かれらの稼ぎの全部を貯蓄するから、
C=α+β+γ・・・・・(4)
(3)と(4)から
c=α+β・・・・・・・(5)
また、A+B=(a+α)+(b+β)=a+b+α+βなので、
これを(5)式を入れて、
A+B=a+b+c
A+B=d又はd=A+B・・・・・(6)
一方、
B=G(定数)+λ(ラムダ)×d・・・・・(7)
ここでλ(0<λ<1)とは資本家の消費性向(所得のうち消費にまわす割合)である。
(6)と(7)から
d=G+λd+A・・・・・・(8)
d-λd=G+A・・・・・・(9)
d(1-λ)=G+A
d=(G+A)/(1-λ)・・・・・・(10)
さらに、総利潤dの国民所得Dに占める割合(=利潤分配率)をπ(パイ、(0<λ<1))とおくと、
d=πD
πD=(G+A)/(1-λ)・・・・・・(11)
D=(G+A)/【(1-λ)π】・・・・・・(12)
ここでDの変化率△Dを取ると、Gは定数なので関係が無くなり、
△D=【△A+1】×【1/【(1-λ)】×【1/π】・・・・・・(13)
ここでの【1/【(1-λ)】は、「カレツキの乗数」と呼ばれているのだが、これはそっくりそのままケインズのいう有効需要の式なのである。結論とするところは同じながら、着眼点はあくまで階級的である。
 なお、同じことだが、次のような簡易な導き方も流布されているところだ。 
政府部門のない閉鎖体系で、労働者がその所得をすべて消費する(賃金=労働者の消費)とすれば、
利潤P=投資(I)+資本家の消費(C)・・・・・・(1)
 ここでCが固定的部分B0と利潤に比例する部分を合わせての、λ(ラムダ)×(掛ける)P(0<λ<1)とおくと、
C=B0+λP・・・・・・(2)
(1)と(2)から、
P=B0+1/1-λ・・・・・・(3)
 さらに、利潤Pの国民所得Yに占める割合をπとすると(P=πY、0<π<1)、次の式を得る。
Y=1/(1-λ)π×(B0+1)・・・・・・(4)
 この(4)式の1/(1-λ)πが、「カレツキの乗数」である。この式での注目点とては、それが資本家の消費性向λばかりでなく、利潤分配率πにも依存していることであって、かれはこれをマルクスの再生産表式から導き出した。
 経済体系を、投資財生産部門Ⅰと資本家の消費手段生産部門Ⅱと賃金財生産部門Ⅲに分かれているとする。各部門の産出量の価値Vは、利潤Pと賃金Wの和に等しい。
V1=P1+W1
 第三部門の産出量は、一部はそれを生産した労働者によって消費され、残りは他の生産部門の労働者によって消費される。したがって、
P3=W1+W2・・・・・・(5)
 第Ⅰ部門と第Ⅱ部門の産出量の価値を合計すると、
V1+V2=P1+P2+W1+W2・・・・・・(6)
(5)式を(6)式に代入すると、
V1+V2=P1+P2+P3・・・・・・(7)
となる。
この(7)式は、経済全体の利潤が、投資財の産出量の価値と資本家の消費財の産出量の価値の和に等しいことを示す。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️374『自然人間の歴史・世界篇』有効需要の原理の発見(ケインズ、その例)

2017-08-15 19:05:02 | Weblog

374『自然人間の歴史・世界篇』有効需要の原理の発見(ケインズ、その例)

(4)いわゆる「乗数効果」の説明②
 いま企業A、B、Cがあるとしましょう。企業Aが設備の更新か在庫の積み増しのために新たに10億円の投資をしたとしましょう。このためA企業がB企業に設備と材料を発注することになると、企業Bでは新たな労働者を雇い入れます。それから企業Cから企業Aからの注文の品を生産するに必要な原材料を購入しないといけません。それを購入するのに5億円、支払う労働賃金に4億円、あとの1億円が企業Bの儲けであったとしましょう。
 これが企業Cにまで下ると、企業Bから5億円で受注してから原材料に2.5億円、賃金に2億円、儲けは5000万円となります。このような取引と生産活動の連鎖が途切れなく続いた結果として、企業Aの設備更新がなされたことになります。この10億円分の投資によって、企業Bまで下ると発生した原材料需要はは5億円、次いで企業Cまで下ると2.5億円.....ということになり、社会全体の原材料需要への波及額としては最初のA社の投資額10億円に等しくなるまで増大したことになります。
 一方、このA社の10億円の投資によって、企業Bまで下ると発生した所得、つまり賃金と利潤の合計額は5億円、次いで企業Cまで下ると2.5億円.....ということになり、社会の所得の合計が最初のA社の投資額10億円に等しくなるまで増大したことになります。これが投資の第一次所得効果(「投資部門で発生した第一次所得」としての所得の合計)と呼ばれるものです。
  次に投資の第二次効果の話ですが、10億円の投資により発生した「投資の所得の第一次効果」としての10億円は、その投資財関連の資本家と労働者が所得として受けとります。
  いま社会全体の平均した限界消費性向を0.6とすると、その10億円のうち6億円を消費し、残りの4億円を貯蓄することになります。そういうわけで6億円分の消費財を購入するのですから、さきの投資財生産の場合と同じ理由から、新たな消費需要に向かいます。そこでいま、その6億円分の需要が、それと同額の6億円分の新たな消費財生産を誘発するものとすれば、この生産は、生産額と同じ額の6億円のさらに新たな所得を生み出すでしょう。最初の消費財需要増加→消費財生産増加→所得増加ということであり、これが「第二次の所得効果」です。
 同様に、限界消費性向を0.6とすると、かれらはその獲得された6億円のうち3.6億円を消費し、残りの2.4億円を貯蓄することになるでしょう。そういうわけで新たに3.6億円分の消費財を購入するのですから、それがさきの投資財生産の場合と同じ理由から、新たな消費需要に向かうことになるでしょう。そこでいま、その3.6億円分の需要が、それと同額の3.6億円分の新たな消費財生産を誘発するものとすれば、この生産は、生産額と同じ額の3.6億円のさらに新たな所得を生み出すでしょう。二番目の消費財需要増加→消費財生産増加→所得増加ということであり、これが「第三次の所得効果」です。
 その連鎖は、理論的に、次から次へと所得の新たな発生がゼロとなるまで続きますから、そのときどきの所得増加額の合計は、つぎのように見積もることができるでしょう。
 すなわち、消費財需要増加→消費財生産増加→所得増加過程が繰り返し、それは追加の所得増加がゼロになるまで続くと、
10+6+3.6+・・・・・・・=10×1/(1-0.6)=25億円ということになります。
 また、このとき、消費の増加額に着目すると、その合計額はつぎのようになるでしょう。
6+3.6+・・・・・・・=6×1/(1-0.6)=15億円ということになります。
 さらに、このとき、貯蓄の増加額に着目すると、その合計額はつぎのようになるでしょう。
40+24+14.4+・・・・・・・=40×1/(1-0.6)=10億円ということになります。
 以上をまとめると、つぎのようになります。
(1)政府による最初の投資である10億円は、その投資乗数分(k=2.5)だけの所得の増加を引き出しています。 
(2)そして、その所得の増加を通じ、最初の投資である10億円と同額だけの貯蓄の増加が実現されることになるでしょう。
(5)いわゆる「乗数効果」の説明②
投資の持つ乗数効果の数学的説明には、つぎのようなアプローチもあります。
Y=C+I+G
ここでYとはGDP(国内総生産)、Cとは民間消費、Iとは民間投資、Gとは政府投資といたしましょう。
C=α+βY
ここでCというのは一国の消費関数、α(アルファ)は基本消費、β(ベータ)は限界消費性向と呼ばれるもので、たとえていうとGDPが1万円増えれば消費支出はβ万円増えることになります。
0<β<1のことを限界消費性向といいます。
この2つの式からCを消去すると
Y=α+βY+I+G
この式を変形すると
Y-βY=α+I+G
(1-β)Y=α+I+G
したがって、Y=α/(1-β)+{【1/(1-β)】(I+G)}
この式で第2項に目を向けましょう。そこで1/(1-β)のことを乗数(m)といいます。この式で投資Iが100万円増えるとYは100万円増加することになるでしょう。
(以上は、丸尾泰司HP「戦後日本の政治経済の歩み」より引用)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️373『自然と人間の歴史・世界篇』有効需要の原理の発見(ケインズ、あらまし)

2017-08-15 19:02:08 | Weblog

373『自然と人間の歴史・世界篇』有効需要の原理の発見(ケインズ、あらまし)

 まずは、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズ(1883~1946)に従い、ある国での経済活動、外国との貿易のある「開放経済」を考えてみましょう。今期の生産活動で総生産物価額(総生産量と価格の積)=X(未知数をあらわすエックス)だけの財とサービスが生産されたとします。この生産に見合う需要を考えると、輸出(E:Export)と輸入(IM:Import)の差額であるところの外国貿易差額(E-IM)、政府部門の需要(G:Government)、今期の生産活動のために消耗された部分を補填(ほてん)するための需要(D:Demand)、労働者と資本家の消費需要(C:Consumption)、そして次期以降の生産能力を拡大するための新投資需要(I:Investment)の合計になります。
X=D+C+I+(E-IM)+G
ここでDを差し引けば、今期の純生産物の価額つまり=国民所得(Yieldここでは広義:国民総生産や国民総支出のことを意味します。))となります。
Y=X-D=C+I+(E-IM)+G
ケインズの定義によると今期の国民所得(ここでは広義:国民総生産や国民総支出のことを意味します。)のうち消費されないものを貯蓄(S)といいますから、
S=Y-C
ここで左辺は国民供給(National Supply)で、右辺は国民需要(National Demand)ということになります。Cは消費財の購入に充てられるもの、Iは生産財の購入に充てられるもので、この2つが合わさってその国の国民総需要、つまり有効需要のYを形成するのです。これを言い換えまして、Yの大きさは、消費プラス投資、つまり有効需要(effective demand)の水準に合うように決定されるといっても構いません。
S=I+(E-IM)+G
税金の概念を入れてつぎのようにしてもよろしいでしょう。
S=I+(E-IM)+(T-G):①式
 ここに税収(T:Tax)は政府消費CGと政府貯蓄SGに分けられ、また政府支出Gは政府消費CGと政府投資IGに分けられますから、
T-G=(CG+SG)-(CG-IG)
T-G=SG-IGとなります。
そうすると、総投資をI(=IP+IG)と、総貯蓄をS(=SP+SG)ということがわかります。
もう一度①式に戻って
S-I=(E-IM)+G
ここで政府部門を捨象すると、
S-I=(E-IM)
つまり一国の貿易差額、つまり近似的には経常収支ということになりますが、これはマクロ的なISバランス(貯蓄と投資の差額)に事後的に等しくなります。
次に、閉鎖経済、つまり貿易のある場合の需給の関係については、どうなるのでしょうか。上の式につきその基本的な関係をみるために、もう一度(EX-IM)=(S-I)+(T-G)の式に立ち戻りましょう。いま外国貿易と政府部門の需要を捨象しますと、
S=I
 これが閉鎖経済(外部とのやりとりを捨象)の下でのケインズの需給一致の均衡式(demand equal to supply market equiliblium)と呼ばれるものです。参考までに、彼の『雇用、利子および貨幣の一般理論』の第6章において、貯蓄と投資については次のように説明されています。
その原文は、次のとおり。
「Provided it is agreed that income is equal to the value of current output,that current investment is equal to the value of that part of current output which is not consumed , and that saving is equal to the excess of income over consumption,the equality of saving and investment necessarily follows. In short-
Income=value of output=Consumption+Investment.
Saving=income-consumption
Therefore, Saving=Investment.
これの訳は、次のとおり。
 「所得は経常産出高の価値に等しいということ、経常投資は経常産出高のうち消費されない部分の価値に等しいということ、および貯蓄は所得の消費を超える額に等しいということが承認されるならば、貯蓄と投資との均等性は必然的に生まれてくる。
 要するに、まずは、生産されたもの:総生産=産出物の価値=消費+投資
これが所得になって分配されると、定義によって総所得=消費+貯蓄
両方とも左辺は総生産=総所得ですから、
消費+投資=消費+貯蓄
この式より貯蓄=投資」
 さて、話をもう少し進めてみよう。今期に生産された財とサービスの生産物が今期に売れ尽くすには、貯蓄と投資が等しくなければなりません。ところが、実際には過剰生産で売れ残りが生じているのが大抵なのではないでしょうか。これは国民所得統計ではそれを製品在庫投資ということにしておいて、在庫品増加で説明するのです。この統計上での操作ですが、実社会によくある、いわば「つじつま合わせ」のようなものといっても構いません。このような約束の下ではある需要があればそれだけの需要を賄う量の財とサービスが生産され、供給されるということになるでしょう。
 参考までに、ここで「投資」とは、固定資本、運転資本、そして流動資本をすべて含むというのがケインズ「雇用、利子および貨幣の一般理論」の立場ですが、この広い意味だと、彼の有効需要の理論との関係が論理的に矛盾したものとなってしまいます。これについては、経済学者の宇沢弘文の著作に、こんな説明がなされているところです。
 「もしかりに、総供給額額Yと総需要額Xとが等しくなかったとしよう。このとき、総需要額は消費C、投資I、政府の財政支出Gの和である。
X=C+I+G
総供給額Yと総需要額Xとの差額Y-Xは当然在庫投資の一部になっているはずであるから、ケインズの意味での投資はIではなく、
I'(ダッシュ)=I+(Y-X)
となっていなければならなかったはずである。したがって、総需要も、Xではなく、じつは
X'(ダッシュ)=C+I'(ダッシュ)+G=C+I+G+(Y-X)≡Y
となる。すなわち、総需要額Xは総供給額Yに恒等的に等しくなってしまって、有効需要は不確定となってしまう。ケインズが批判した新古典派理論の場合とまったく同じになって、有効需要の理論は妥当しなくなるわけである。」(宇沢弘文『経済学の考え方』岩波新書、1989より引用)
 統計の数字を読み取る場合には、こうした理論の実際との乖離点に留意することが必要となります。
 これでマクロ経済の現状把握についての基礎の基礎ができましたので、次へとすすみましょう。ここで再び「閉鎖経済」(外国との関係を捨象)を想定し、貯蓄が国民所得に平均貯蓄性向(s)を乗じたものだといたしましょう。そうなると、
S=sY=I
Y=(1/s)I
 つまり新投資が決まると、需給が均衡に向かうように働き、Y=(1/s)Iが先ず決まります。そして、生産技術がいま短期分析で一定の場合でいうと、その生産技術に体化した雇用量が決まると考えるのです。
 まず設備投資ですが、供給能力の最適化という観点から国民総生産(GNP)の期待成長率に依存して決まる面がない訳ではありません。好況期においては、中小企業も含めて作れば売れるれるので、投資を増やしていくでしょう。
 しかし、競争が激しい不況期においてはこの図式はあてはまらないと思います。
 設備投資のもう一つの側面は、それが生産財への最終需要となって一国レベルでのYを押し上げることです。
(3)「乗数効果」の説明①
 ところで、この式のなかのsは、平均消費性向をaとすると(1-a)と置き換えられます。
Y=(1/s)I=(1/1-a)I
 そこでいま新投資需要Iが政府によって投入されると、その需要を満たすためにY=Iだけの産出高が生まれます。そうなると、aIだけの消費需要が派生し、それを満たすように同額の派生所得が生まれます。aIの所得からはaの2乗×Iだけの派生需要、そしてそれを満たすための新たな産出高が見込まれます。結局、Iだけの投資需要の追加は、
I+aI+aの2乗I+・・・・だけの需要と所得を生み出す理屈になります。
一般に、初項がa、公比がr(rの絶対値<1)の無限等比級数の合計Aは
A=a + ar + ar^2 + ar^3 + ar^4 +...+ ar^n-1 + ar^n + ...   ①
(3)式の左辺と右辺に r をかけます.
rA=ar + ar^2 + ar^3 + ar^4 +....+ ar^n + ar^n+1 + ......    ②
 ここで①の両辺から②の両辺を差し引きます。②の方が最初の項aが多いだけなので次のように整理できます。
   A - rA = a                      ③
従って、次のとおりになります。
      a
  A = ---------                      ④
     1 - r

 これから、初項が1、公比がa(aの絶対値<1)の無限等比級数の合計Sは次の通りになります。
S=1+a+a二乗+・・・・・+aのn-1乗=(1/1-a)   ⑤

(以上は、丸尾泰司HP「戦後日本の政治経済の歩み」より引用)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️369『自然と人間の歴史・世界篇』世界大恐慌(その経緯と原因)

2017-08-15 18:54:45 | Weblog

369『自然と人間の歴史・世界篇』世界大恐慌(その経緯と原因)

 1929年10月24日の木曜日、ニューヨーク株式市場での「この日の出来高はなんと1289万4650万株に達し、その多くが、持ち主の夢と希望を打ち砕くような値で取引された」(ジョン・K・ガルブレイス著・村井章子訳「大暴落1929」日経BP社、2008)とある。それから4日を経た28日の月曜日、この日のニューヨーク株式市場(タイムズ平均)は49ドルもの大暴落になった。「この日一日の下落幅は、市場がパニックに落ち込んだ前週一週間分を合わせたよりもおおかった」(同)とある。次の29日、「出来高は暗黒の木曜日を大きく上回り、下げ幅は月曜日に匹敵する急落ぶり。そしてどちらの日にも劣らぬ強い不安感と先行き不透明感が市場を覆った」(同)と伝わる。ちなみに、それより1か月余り前の9月3日のピーク時の株価は、381ドル17セントであったのに、である。
 その後の株式相場の推移はどうなったのかというと、かかる大暴落の開始から34か月後の1932年7月8日には41ドル22セントとなって、9月3日のピーク時からの下落率は89.2%とであった、多くの投資家にとっては「いったいどうしてこのようになった、なってしまったのか」という程に、まさに悪夢であったことであろう。
 そこで、この一連の出来事がなぜ起こったかであるが、元々、株価というのは、「暴騰すれば必ず暴落する」のが原則だから、それ自体は別に驚くことに当たらない。瞠目(どうもく)すべきは、もと別のこと、すなわち暴落後の株式の不況が恐ろしく長期化したこと、それから前代未聞の規模と長さを持った経済恐慌・不況がその後にやってきたことであった。大恐慌後の不況がなぜさけられなかったのか、その原因がどんなものなものであったのかの原因を巡っては、多くの説が出されてきた。ここでは、それらの中からガルブレイスの分析を中心に紹介したい。
彼によると、「恐慌長引いたことととくに関係がふかかったのは、次の五点と考えられる」(同)とのこと。その1としては、所得分配、富の30%が富裕層に集中しており、株投資の失敗により消費も投資もかなりの額が減少した。その2は企業構造の問題があった。ガルブレスはここで「とくに問題なのは、下流側の事業会社から支払われる配当を、上流側の持株会社が発行した社債の利払いに充てるやり方」(同)であるとし、「何かの事情で配当が止まったら、社債は利払い不能となっていずれ債務不履行は避けられず、ひいては上から下まで全体が破綻してしまう」(同)と懸念する。
 その3としては、銀行システム銀行は脆弱で連鎖倒産が多発した。預金者は預金を引き出せなくなり消費も投資も激減した。その4は対外収支であって、アメリカと貿易、資本のやりとりで関係する債務国との間で、起こりうる、「債務国にしてみれば、いつまでもゴールドで支払い付けることは不可能である。となれば対米輸出を増やすか、対米輸入を減らすか、でなければ既発債のデフォルトを起こすしかない」(同)という訳だ。さらに5番目として政策の隘路(あいろ)があった。
 そんな中で最も注目されるのは5番目の指摘であって、その背景には、専門家の経済知識が適切でなく、インフレ懸念などからの財政均衡論が、当時のエコノミストや政府アドバイザーの頭の中を牛耳っていた。「財政の均衡というのは論考の結果ではなく、よく言われるように信念の問題でもないこれは、一つの基本原則なのである」(同)と断罪する。あわせて、1933年2月、ハーバート.C.フーバー大統領(共和党)が次期大統領のフランクリン・D・ルーズベルト(民主党、1932年の大統領選挙でフーバーを破る)に渡した有名な書簡がある。そこには「通貨の変動や切り下げを行わないこと、必要とあらば増税を行ってでも財政均衡を実現すること、国債の増発を控えて政府の債務をこれ以上増やさないこと。以上の点を直ちに実施すれば、国は安定するでしょう」と書かれていた。
 では、この恐慌によって、労働者の状態はどのような影響をうけたのだろうか。デイヴィッド・A・シャノン編の当時の記録に、こんな要約がある。
 「1930年代の恐慌は、最初は賃金構造に衝撃をあたえなかった。賃金に影響をおよぼすまえに、失業と労働時間の削減とによって数百万人の所得がまず減じたのであった。製造業における賃金が目だって下降しだしたのは、1930年の代4四半期に入ってからだった。1時間あたり59セントという29年平均からすると、この当時の賃金下落は時間あたり約1セントであった。
 翌年の1931年には、時間給は緩慢ではあるが着実に下がって、同年末には約3セント低下した。これを週給でみると、失業のために、はるかに急速であった。
 全国産業会議委員会に提出された諸産業の1929年における平均週給は、28.50ドルをこえていたのにたいし、30年には25.74ドルに低下し、31年には22.64ドルにすぎなくなった。
 恐慌が急速に拡大するにつれて、労働時間も削減され、1929年には48時間以上であったのが、30年には44時間、31年には40時間をやや上まわるだけという程度にまで短くなった。さらに31年の9~12月にはわずか38時間となった。」(デイヴィッド・A・シャノン編・玉野井芳郎、清水知久訳『大恐慌』中公新書、1963)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️370『自然と人間の歴史・世界篇』1929年世界大恐慌(金本位制離脱へ)

2017-08-15 18:34:14 | Weblog

370『自然と人間の歴史・世界篇』1929年世界大恐慌(金本位制離脱へ)

 振り返って、1929年(昭和4年)10月には、アメリカのニューヨーク株式が大暴落した。こうなると多くの企業はものが売れないし、資金の調達も返済もままならなくなっていく。アメリカの企業の生産活動が急降下し、物価が下落し、同国の経済はその4年後の1933年(昭和8年)までに国民総生産がほぼ半減してしまう。これを「1929年世界大恐慌」と呼ぶ。ときのアメリカ大統領のハーバート・C・フーバー(在任1929~33)とそのブレーンたちの頭の中には、この降って湧いたような難局に対し、為す術を知らなかった。ところが、相手方の民主党も、如何せん、頭の中は空っぽに近かったらしい。あの融通無碍が売り物のフランクリン・D・ローズベルトルーズベルト党首も、1932年選挙戦末期にこう述べるに留まっていた。
 「党綱領では、何があっても健全な通貨安定を維持すると謳われております。その意味するところは明白であります。7月30日に行われた綱領を巡る討議の席で、私は、通貨の安定は国際的な要請であり、一国の国内事情で左右されるべきではないと述べました。ビュートでもシアトルでも、私はこの方針を確認しております。」(ジョン・K・ガルブレイス著・村井章子訳『大暴落1929』日経BP社、2008)
 つまりは、この前代未聞の困難に立ち向かう経済学を知らなかったものだから、共和党と民主党の双方とも、当時支配的であった自由主義経済学(正確には、「新古典派」と呼ばれる)の教義に従うことしか考えられなかった。そして、このような「緊縮財政なくして景気回復なし」との立場は、その後の不況をますます深刻なものにしていった。ちなみに、この後、アメリカの経済がようやく立ち直りの方向に向き始めるのは、1932年11月にルーズベルトが現職大統領を破って大統領に当選し、翌年の途中から採用するに至った積極的財政政策(ジョン・M・ケインズらの唱える有効需要政策)によってであった。
 当時、日の出の勢いで成長していた筈のアメリカがこうなのだから、これに追随する国での大恐慌の影響は尚更だった。1931年(昭和6年)9月にまずイギリスが金本位制を停止し、1カ月後にカナダもこれに同調した。イギリスが金本位制から離脱した理由は、「イギリスはドイツに金を貸していたが、この年の夏、オーストリアとドイツで金融恐慌が激化して、ドイツにあったイギリスの資金が凍結されてしまった。それを見て、イギリスに投資をしていたフランスやスイス゛がイギリスから資金を引き揚げにかかった」(中村隆英『昭和経済史』岩波セミナーブックス)ことがある。また、アメリカの金兌換停止は、それから1年半ばかりたった1933年(昭和8年)3月のことだった。翌1934年(昭和9年)1月には公定の金価格は1オンスが20.67ドルから35ドルに引き上げられた。このことは、固定価格価格標準が1ドル=金20.67分の1であったのが、1ドル=金35分の1に切り下げられたことを意味する。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️315『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの工場法

2017-08-15 18:29:39 | Weblog

315『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの工場法

 ここで、当時の労働者がどのような状態に置かれていたかをみておこう。そもそも「一般工場法」と呼ばれるものは、欧米で最初に生まれた。これは、個別資本ではままならない、労働条件や労働時間などを政府の力で規制するものである。イギリスでの労働者の保護立法は、1802年の工場法(正式には徒弟の健康と道徳に関する法律)以後、たびたび制定されている。エリザベス救貧法の教区徒弟制度の一環としてのものであった。1819年にオーウェンの努力で紡績工場法(木綿工場法)ができた。これとても、繊維という特定の業種に限られていた。9歳以下の労働の禁止と16歳以下の少年工の労働時間を12時間に制限された。加えるに、監督官制度が無かったために実効力には乏しかった。そのような状況の中で、労働者の要求も高まり、またシャフツベリーなど工場主の立場からも普遍的、実効的な労働者保護立法の必要を主張する人々の運動が続いた。
 これらが力となって、ホイッグ党のグレイ内閣の1833年に、一般的な(どのような工場にも当てはまる)工場法の制定が実現した。これは、選挙法改正(第1回)(1832年)、奴隷制度廃止などの自由主義的改革の一環としての制定経緯を持つ。この1833年工場法の下では、12時間労働、9歳以下の労働禁止、13歳未満の児童労働は週48時間、18歳未満の児童労働は週69時間、一日最高9時間労働、18歳未満の夜業禁止、工場監督官・工場医の設置などが定められた。それまでの婦人労働、児童労働、深夜労働など、ありとあらゆる形での労働力酷使の状態、つまりは「掠奪経営」による労働力の消耗が烈しかったのが、この立法で改善に向かう根拠を与えられた。加えて、監督官が工場の労働実態を立ち入って調査し、工場主や少年、婦人、労働者の供述を受けることで工場経営が透明性を増した。監督官の主張が明確に述べられる特徴を持ち、半年毎に議会によって公表されることにより、これをもって実効性のある労働時間制限ができ始める仕組みであった。イギリスでの草の根運動はこれ以後、8時間労働制の実現へと進んでいく。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️348『自然と人間の歴史・世界篇』ロシア革命(1920~1928年)

2017-08-15 18:25:17 | Weblog

348『自然と人間の歴史・世界篇篇』ロシア革命(1920~1928年)

 この時期は資本主義から社会主義への過渡期と言われた。過渡期の価値法則について、レーニンはブハーリンの「過渡期経済」(1920年刊)に寄せて、「商品・資本主義的制度の均衡の範疇としての価値は、商品生産が著しく消滅して均衡が存在しない過渡期には殆ど役に立たない」と書き、人々の理解を求めた。一方、彼の「自然成長性にかわって意識的な社会的規制者があらわれるならば、商品は生産物に転嫁してその商品的性格を失う」については、「不正確。生産物にではなくなにか別のもの、たとえば、市場を通らないで社会的消費に入っていく生産物に転化する」と脚注している。
 対外関係では、1918年4月6日、日本軍がソ連領土のウラジオストークに上陸・侵攻する。7月2日には英仏軍がムルマンスクに上陸・侵攻する。領土的野心を抱いてのンの派遣であったことは疑いない。1920年1月29日、ウラジオストークで日本との休戦条約が締結された。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️347『自然と人間の歴史・世界篇』ロシア革命(1917~1919年)

2017-08-15 18:24:01 | Weblog

347『自然と人間の歴史・世界篇』ロシア革命(1917~1919年)


 ソビエト権力成立期(1917~1919年)から幾つか述べてみたい。1917年3月12日、2月革命でツァーリズムが倒壊された。1917年11月7日、社会主義革命で臨時政府が転覆された。普通はこれを「10月革命」といっているが、当時のロシアでは旧暦を使っており、その古い暦によるとその日は10月25日に当たる。だから、新暦では11月7日が革命の起こった日ということになる。
 次に紹介するのは、その最初の日の模様であろうか、ジャーナリストのジョン・リードが伝えたルポルタージュの一節である。この他にも、音楽でもって再現する試みもなされているところであり、ショスタコーヴィチの交響曲第12番『1917年』第1楽章「革命のペトログラード」は、アップ・テンポでその慌ただしい成り行きを表現している。
 「電話交換嬢たち」
 「2時半、ユンケル(=士官候補生)は白旗を掲げ、生命の安全を保証されるなら降服すると申し出た。この申し出は受け入れられた。数千の兵士と赤衛兵は喚声を上げて殺到し、窓や戸口や壁の穴からなだれ込んだ。止める間もあらばこそ、5人のユンケルが殴り殺され、斬り殺された。残りの約200人は、目立たぬよう小さなグループに分けられ、ペトロパブロフスクへ護送された。その途中、ひとつのグループは暴徒に襲われ、さらに8人のユンケルが殺された。赤衛兵と兵士の犠牲は100人を越えた。
 電話交換局は午後まで持ちこたえていたが、午後になってボリシェヴィキの装甲自動車が姿を現わし、水兵たちが交換局に強襲をかけた。おびえた交換嬢たちは金切り声を上げて、あちこち走り回った。ユンケルは自分たちの制服から目立つ肩章や記章を剥ぎとり、ひとりのユンケルなどはウィリアムズ(=外人記者)に向かって、変装用に外套を貸してくれればどんな事でもすると言った。
「彼らに殺されます! 殺されます!」と、ユンケルたちは叫んだ。というのは、彼らの多くは冬宮で、民衆に向かって武器を取らない事を誓っていたのである。アントーノフを釈放するなら仲裁に入ってやろう、とウィリアムズは言った。この申し入れはただちに実行に移された。アントーノフとウィリアムズは、大勢の仲間を殺されて気が立っている水兵たちに向かって演説をし、ユンケルたちはもういちど放免されたのだった。ただ、少数の者は恐怖に駆られて屋根づたいに逃げようとしたり、あるいは屋根裏部屋に隠れようとしたりして、発見され、街路に放り出された。
 疲れて、血だらけで、勝ち誇った水兵や労働者たちは交換機室へなだれ込んだが、大勢のかわいい娘たちを見て、二の足を踏み、無様な恰好でもじもじした。娘たちのなかで傷付けられたり、辱められたりした者はひとりもいなかった。おびえた娘たちは初め部屋の隅にかたまっていたが、やがて身の安全を悟ると、侵入者たちをいじめ始めた。
「いやらしい! 汚ない、無知な連中よ! 馬鹿な連中よ!」
 ……水兵や赤衛兵たちは弱りきっていた。
「けだもの! 豚!」
 娘たちは憤然とコートや帽子を身につけながら金切り声で叫んだ。なにしろ勇敢に局を防衛したユンケルたちに弾薬を運んだり、負傷者の手当をしたりした経験はロマンチックだったのである。ユンケルはたいてい高貴な家柄の出で、愛するツァーリの復位の為に戦っているのではないか! それに比べれば、この連中はただの労働者や百姓、いわゆる「暗愚の民」に過ぎない。
 軍事革命委員会の委員、小男のヴィシニャックが、持ち場にとどまるよう娘たちを説得し始めた。ヴィシニャックは心底から礼儀正しく語った。
「あなた方はひどい待遇を受けて来ました。電話系統を管理しているのは市ドゥーマです。あなた方は60ルーブリの月給で10時間以上も働かなければならない。今後そういう事はすべて変わります。政府は電話局を郵政省の管理下に置く予定です。あなた方の月給はただちに150ルーブリに引き上げられ、労働時間は逆に減らされるでしょう。労働者階級の一員として、あなた方は仕合せになり……」
 労働者階級の一員だって? この、けだものどもと、わたしたちとの間に、何か共通点があるとでも思っているの? 残れ、だって? 千ルーブリ出されてもいやよ! ……意地悪く高慢に、娘たちはその場から立ち去った。
 建物の保安係や雑役夫たちは残った。しかし、交換機を操作しなければならない。電話は死活に関わる。役に立つ熟練交換手は6人しか残らなかった。あとは有志が募られた。百人ほどの水兵や兵士や労働者が志願した。6人の娘たちは教え、手を貸し、叱りながら、前へ後へ駆けずり回った。こうして、びっこを引き引き、立ち止まりつつ、それでも徐々に電話の機能は前進を始めたのである。第一の仕事は、スモーリヌイと兵営や工場とをつなぐ事だった。次には、ドゥーマとユンケルの学校とを切り離す事。午後遅く、噂が市内に広まり、何百人ものブルジョワが電話をかけてきては叫んだ。
「馬鹿野郎! 悪魔! いつまで持ちこたえるつもりだ? コサックが来てから吠え面かくな!」
 すでに夕闇が垂れこめていた。ほとんど人気のないネフスキー通りでは、身を刺す風に吹かれながら、カザン大寺院の前に集まった群集が果てしない議論を続けていた。労働者が数人、兵士が若干、あとは商人や勤め人たちである。
「しかし、レーニンは、ドイツに講和を結ばせる事はできないだろう!」 とひとりが叫んだ。荒々しい青年兵士が答えた。
「それは誰のせいだ? 君らのケレンスキーの畜生や、腐敗したブルジョワどものせいだ! ケレンスキーを倒せ! 奴は俺たちには必要じゃない! 俺たちに必要なのはレーニンなんだ」(ジョン・リード著・小笠原豊樹訳「世界をゆるがした十日間」筑摩書房、1967)
 同11月9日、ソビエト政府が樹立され、人民委員会議議長にレーニンが選ばれる。同月、銀行業務の国家独占に関する布告により、株式会社形態の全ての民間銀行(59行)を国立銀行に合併する。12月には、国民経済を組織するために、人民委員会議の下に最高国民経済会議を設置する。ここには地域別の各国民経済会議(ソブナルホーズ)と産業部門別の管理局(グラフクとシェントル)が作られ、この連携によって経済管理を行うことになった。このシステムは1932年に廃止されるまで続く。
 さて、誕生したばかりのソビエト政府は外国軍の侵攻と併せて内憂外患に直面する。この間に、食料割当徴発制(余剰生産物の徴収)、労働義務制、私営商業の禁止の施策がなされる。翌1918年5月、製糖業がまず国有化される。続いて、6月に石油工業、機械工業が国有化される。その上で、6月28日には、残りの全ての工業の国有化を内容とする人民委員会議布告が発布される。この措置で、従業員10人以上の全部、従業員5人以上で動力機をもつ全ての企業に適用されることになった。同年9月までに国有化された企業は3000に達した。1921年、国立銀行の業務が再開される。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆