○238『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(1850~1867)

2017-08-07 21:18:48 | Weblog

238『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて(1850~1867)


 1862年(文久2年)4月27日、長州藩の高杉晋作は、幕府小人目付の犬塚鑅三郎の従者として幕船千歳丸に乗り込んだ。5月6日には上海に降り立ち、彼の地で見聞を広めた。帰国後の彼は、その時の模様を日記風の『遊清五録』」として公表した。この日記は、「航海日誌」「上海掩留日録」という二編と、「内情探索録」「外情探索録」「崎陽雑録」という三篇の情報記録書から成る。まずは「航海日誌」に、初めてみる上海の景色を、こう伝える。
 「鞍山々々去上海四拾餘里、諸子大踴躍爲入生地之思、五月五月天晴風順船馳如矢、
忽至呉淞江々々々乃洋子江中小名也、觀望两岸相隔三四里計、四面茫々草野、更不見山、
外國船皆碇泊檣花如林、本船亦碇泊于此、待明朝川蒸気船來而上海去此纔七里、
五月六日早朝川蒸気船來到本船左折溯江两岸民家風景殆與我那無異、右岸有米利堅商館
嘗長髪賊與支那人戰于此地云、午前漸到上海港此支那第一盛津港、欧羅波諸那商船軍艦
數千艘碇泊檣花林森欲埋津口、陸上則諸邦商館紛壁千尺、殆如城郭其廣大嚴烈不可以筆紙
盡也、午後官吏上陸至和蘭館予亦陪従官吏登樓上、従臣待樓下、予與清人三两名筆話、
官吏與蘭人應接了、乃以清人爲介者、徘徊街市、土人如土檣圍我輩其形異故也、毎街門
懸街名、酒店茶肆與我邦大同小異唯恐臭氣甚而已黄昏歸本船甲板上、極目四方舟子欸乃聲
與軍艦發砲之音相應實一愉快之地也、入夜两岸燈影泳水波光景如晝。」(「航海日誌」)
 続いて本編の「上海掩留日録」に入って、上陸してから目の当たりにした事柄を、こう伝える。
 「上海実上海之地雖属支那、謂英仏属地、又可也。」(「上海掩留日録」)
 「支那人はことごとく外国人の便役のため、英法の人(英仏人)市(まち)を歩行すれば、清人(清国人)皆避けて傍らに道を譲る。実に上海の地は支那に属すると雖も、英仏の属地と謂ふも、又可なり。」(「上海掩留日録」書き下し文)
 「貴邦尭舜以来堂々正気之国、而至近世区々西洋夷蛮夷之所猖獗則何乎。」(「上海掩留日録」)
 「貴邦は尭舜以来堂々正気の国なり。而るに近世に至りて、区々たる西洋夷蛮夷の猖獗する所は、則ち何ぞや。」(「上海掩留日録」書き下し文)
 「貴邦国運陵替、君臣之不得其道故也、君臣得其道、何有国運陵替、清近世之衰微、自為災而已矣豈謂之天命乎。」((「上海掩留日録」)
  「貴邦は国運の陵替するは、、君臣の其の道を得ざるが故なり。君臣其の道を得れば、何ぞ国運の陵替あらんや。清の近世の衰微は、自ら災ひを為すのみ、豈に之を天命と謂はんや。」(「上海掩留日録」書き下し文)

(続く)

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○236の3『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて2(1750~1849、日本地図など)

2017-08-07 21:15:58 | Weblog

236の3『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて2(1750~1849、日本地図など)


 伊能忠敬(いのうただたか、1745~1818)は、現在の千葉県の九十九里町に生まれる。裕福な家ではなかったらしく、17歳の時に佐原(さわら)の、酒造を営む伊能家の婿養子となる。それからは商売の道に分け入り、本業の酒造業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年後には、当初傾いていた経営を立て直したのだという。その心構えといい、商才といい、当初から秀でていたのであろう。
 それからだが、ただに商売に邁進していったのではなくて、36歳で名主となり、1783年、38歳の時の天明の大飢饉では、私財の一部をなげうって米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力したのだという。
 その忠敬だが、いつからか暦学に興味をもって、勉強していたらしい。それが高じてか、1795年、50歳になったのを機会に家業を譲り、江戸へと出て行く。当時の天文学の第一人者、高橋至時(たかはしよしとき、1764~1804)の門をたたく。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る幕府の天文方暦局があった。至時は、そこで改暦作業や何やに携わっていたとのこと。この師に相まみえて、以後彼の天文学は日々の実践で鍛えられていくことになる。
 そんな中の1797年、至時と同僚の間重富は新たな暦(寛政暦)を完成させるも、地球の正確な大きさが分からず、つくりたての暦の精度に不満足だったという。地球は丸い、そこで子午線1度の長さをこの国で測ることができれば、それを360倍することで地球の一周、さらに直径がわかるというのだが、それをどのようにして測るのかが問われていた。すでに学識が一流の域に達していた忠敬は、この話を至時から聞き、できるだけ離れた2つの地点で北極星の高さを観測し、それで得られる二つの見上げる角度を比較することで緯度の差を割り出し、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せるという提案をなし、自分はこれをやってみたいと申し出る、至時は忠敬の案に賛同するにいたる。
 至時がまだ若くして病で倒れた後には、忠敬はこの仕事に邁進していく。幕府の天文方に取り立てられてからは、なお一層励み、この組織の中心となって働く。参考までに、この仕事に用いられたのは、量程車(至時考案のもので、引いて歩いて使う、歯車の回転数で巨利を割り出せる・国宝)、半円方位盤(中央に据えられた磁石と半円の目盛りで方位を読む、国宝)、象限儀(中)(北極星などの高度を観測し、緯度の測定に用いる・国宝)、わんか羅鍼(らしん)(杖先(じょうさき)方位盤、磁石面を水平に保ち、方位や角度を測る、国宝)、測食定分儀(日食、月食の進み具合を目盛りで読む、国宝)といった測量器具である。
 1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)まで、足かけ17年をかけて、仲間とともに全国を歩き回って測量し、『大日本沿海輿地全図』の大方を完成させ、日本の国土の正確な姿を初めて明らかにする。その忠敬の墓標には、「測量の命が下る毎に、すなわち喜び顔色にあわらし、不日にして発す」云々と刻まれる。また、晩年の彼が娘に宛てた手紙においては「古今これ無き、日本国中に測量御用仰付けられ(中略)これぞ天命といわんか(中略)」とあり、本懐を遂げたというのは、誠にこのことをいうのであろうか。
 時はさらに経過しての1842年(文政13年)になって、異国船打払令(無二念打払令)が改訂された。それまでの異国船打払令(無二念打払令)を緩和して、文化期の「撫恤令」の水準に戻し、薪水の供給をすることになった。これには、アヘン戦争などで、清国が西洋列強の餌食にされたことが背景にある。
 おりしもこの時期に、シーボルト事件が起こる。これは、1828年(文政11年)、故国のオランドに帰ろうとシーボルトの乗る船が台風を受け座礁したのに始まる。積み荷の中に、幕府の天文方で書物奉行を兼ねる高橋作左右衛門こと高橋景保(たかはしかげやす)からもらった「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」などの禁制品のあるのが、発覚した。シーボルトには永久追放処分が下り、高橋景保は獄中で病死する。この事件には後日談がある。まずシーボルトには、事件から27年後の1856年(安政3)、「日蘭修好通商条約」が締結されるに及んで国禁も解除され、再び日本の地を踏むことができた。
 もう一つは、景保を巡る数奇な人間関係にある。というのも、彼は伊能忠敬の恩師である高橋至時(たかはしよしとき)の息子であり、忠敬の死後同図の作成を引き継いで、1821年(文政4年)に完成させた。しかも、その景保を密告した人物が、伊能忠敬と親交があり、忠敬の弟子(前役職の松前奉行支配調役下役格の時代、忠敬の方役職は小普請組天文方に配属)ともいえる、幕府普請役(ふしんやく)の間宮林蔵(まみやりんぞう)なのである。なお、「シーボルトはもちろん事件の告発者である林蔵を快く思わなかったが、その大著『日本』において、林蔵の間宮海峡発見のことを紹介し、称賛する雅量は失わなかった」(北島正元『日本の歴史・幕藩制の苦悶』)ともいわれる。
 ところで、シーボルトと親交を結んだ中に、幕末期の「蝦夷(えぞ)」や「樺太(からふと)」への探検家に、最上徳内(もがみとくない)がいる。彼は1754年(年)に出羽国(後の羽前国)村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)の農家に生まれる。1781年(天明元年)に江戸へ出る。数学者にして経世家の本多利明が経営する音羽塾に入門したのである。この塾にて天文、測量、航海術などを学ぶ。その彼が、当時のオランダ商館長の参府について江戸にいたシーボルトと知り合ったのは、1826年(文政9年)のことであった。その日のシーボルトの日記にこうある。
 「4月16日(旧3月10日)、本当にこの16日は特別に白い石でもって記入する日なのである。
 最上徳内(もがみとくない)という日本人が、二日間にわたってわれわれの仲間を訪れた時に、彼は数学とそれに関係ある他の学問に精通していることを示した。中国、日本およびヨーロッパの数学の種々な問題を詳しく論じた後で、彼は絶対に秘密を厳守するという約束で、蝦夷(えぞ)の海と樺太(からふと)島の略図が描いてある二枚の画布をわれわれに貸してくれた。しばらくの間利用できるというのである。実に貴重な宝ではあるまいか。」(シーボルト著・斎藤信訳「江戸参府紀行」)
 これから推すに、最上徳内という人は、なにかなかの理論と実践の両方を兼ね備えた人手であったらしい。いろんな遍歴の後、後に幕府の普請役になって食をつなぎながら、はなばなしい地図作りや鳴り物入りの冒険ではなかったのかも知れないが、蝦地や千島の探検など、数々の功績があったことで知られる。1836年(天保7年)に江戸下町の片隅で、82歳の人生を極貧の中に閉じたのだと伝えられる。 

(続く)

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○○229『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の民衆娯楽(伊勢参り、金比羅参りなど)

2017-08-07 20:34:14 | Weblog

229『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の民衆娯楽(伊勢参り、金比羅参りなど)

 江戸時代の民衆にとって、娯楽はどのようなものであったのだろうか。人生をを楽しみたいという、民衆のエネルギーを引き出したものとして、活動的な「文化」の存在があった。殊に、民衆の一番人気にあったものこそ、「遊び」、「娯楽」の類であったのだ。その種類はあまたあったであろうし、殊更に強調すべきものがある訳ではない。ここでは江戸時代に生きた人々が日頃の労苦や生活上の縛りから暫し解き放たれて、旅していたことを思い越してみたい。ここでは一例のみ挙げると、その中に「金比羅参り」があった。

(続く)

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○228『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の民間宗教

2017-08-07 20:32:21 | Weblog

228『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の民間宗教

 江戸期の一般民衆は、一般に「士農工商」でがんじがらめの状態であった。そうした人々の精神的拠所となっていたのは、一体何であったのだろうか。まずは、数多い仏教各派の中から一例、最も物神的要素の薄い部類だと思われる禅宗を選んで始めよう。江戸中期の白隠禅師(はくいんぜんじ)は、以前NHKの『日曜美術館』に紹介されていた、彼は、どちらかというと、市井(しせい)におのが心を寄り添わせるところがある、かの「良寛さん」程ではなかったせよ、大いに庶民向きの禅僧であったようだ。その木訥な水墨画で有名だ。そればかりでなく、彼の作った『和讃』はつとに有名である。ここに述べられていることの理屈は、漠然と「本当かなあ」という心が働く人はきっと多い。とはいいつつも、信じる、信じないにかかわらず、諳んじているとえもいわれぬ、良い気持ちになってくる。そのことは、「般若心経」の時と似通っているのではないか。今では習慣のようになっている、自分の唱えてみる声が、まるで歌のように調べが耳に沁み込んでくるから、実に不思議だ。
 「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて。水を離れて氷なく、衆生の他に仏なし。例えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり。長者の家の子となりて、貧離に迷うに異ならず。六趣輪廻の因縁は、おのれが愚痴の闇地なり。闇地に闇地を踏み添えて、いつか生死を離るべき。それ摩訶縁(まかえん)の禅定(ぜんじょう)は賛嘆するに余りあり。布施や持戒の諸波羅密(しょはらみつ)、念仏懺悔(ざんげ)修行等。皆この内に帰するなり。因果一如の門開け、無二無三の道なおし。無相の相を相として、往くも還るもよそならず。無念の念を念として、うたうも舞うも法の声。三昧無碍(ざんまいむげ)の道遠く、死地円明の月冴えん。このとき何をか語るべき、寂滅厳然するゆえに。当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり。」
 ここに述べられるのは、所詮は観念論の類にすぎないのかも知れぬが、今はそのことはさて置きたい。すると、この和讃の吟じ終わりに近づくにつれ、あたかも自身が仏国土の中にいるのではないかという観念(「温かな透明感をもった想念」とでも例えるか?)に包まれてくるから、人間脳というのは誠に不思議だ。ここに「六趣輪廻の因縁」とあるのは、紀元前の人、釈尊の思想と大いに関わる。単に彼の考えたことを紐解くための概念というよりは、そのことの批判の中から仏教が生まれたといっても過言ではあるまい。是に由れば、人は地獄、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)、そして天を巡り巡ってまた人に生まれ変わっていくと考える。
 釈尊が説法していた頃のインドにおいては、この因縁、縁起に基づく「輪廻転生」が宗教界の大いなる風潮であったし、今日の世の中でもそのことを強調する宗教観はあまた存在している。これを敷延すると、人は死後に天に昇って神のような存在にもなれると言うことで、我が国でのような絶対神を必要としない風土の上では、ともすればこれをありがたがる風潮が広く見られるところだ。
 だが、これらは全て仏教のものではない。特に禅宗では、これを嫌う。例えば、「禅宗ではそうは考えません。禅の精神は、今・ここ・自己の教えでありますからして、人間はそのときの心の持ち方によって、天に生まれる神々のごとく神々しくもなれば、恐ろしい地獄にもなるということです」(禅僧、松原哲明氏の『心の眼を開く』祥伝社、1988)と言われるが如く、禅宗では六道に囚われぬ、変幻自在な精神生活を重んじる気風が働く。白隠のこの『和讃』も同様の趣旨で貫かれているように、私には思える。
 いま一人仏僧から紹介すると、白隠よりもおそらく、ずっと控えめ、かつ柔軟に生きたのが良寛(りょうかん、1758~1831)であった。越後に生まれ、出家して諸国を行脚した。その時の肩書きは、ただの曹洞宗の僧侶であった筈だ。後年の彼は、郷里の国上山(くがみやま)の五合庵(ごごうあん)で托鉢生活を送る。粗末な衣装に身をまとった外観はそのままに、極々普通の僧として生きた。行動は仏事に留まらず、広い範囲にわたった。歌人として、絵画と書道家の両方での筆達者として等々とある。そんな中でも、書の達人であったことは疑いなく、その特徴たるや技術よりも精神の高さであったという話が伝わる(一例として、北大路魯山人の「良寛様の書」とか、駒井○静「良寛を書く」雄山閣)。しかも、それらの芸達者を偉ぶることなく、何よりも自由人としての生涯を振る舞った。いつの頃からか、日本全国に広く親しまれるようになっていく。
 当時の僧侶の大方は、幕府による寺社支配の中で生きていくしかなかったろう。その中でも、彼はできるだけ自分の出身宗派に囚われることがなかった点で希有の人と言って良い。民衆に頼まれれば、他の宗派のよく唱える経も進んで唱えたという。子供たちとも無弱に遊んだ。こうなって来ると、たとえ寺がなくとも民衆にとっては良寛その人がいればそれでいい、寺の建物は本人に付随するものとしてあることにもなっていく。その彼に、こんな歌が残っている。すなわち死に望んで、「形見とて、何残すらむ春は花、夏ほととぎす、秋はもみじ葉」とある。心はあくまでも平坦であり、加えるに「死ぬ時は死ねばよい」という自分の運命を自然に身を任せるのだという。これは、並大抵の境地ではできないことに違いない。それでも、彼は他人にも、社会にも関心を寄せていた。果たせるかな、心安らぐらぐ思いがするのは、例えば「墨染めの、我が衣手(ころもで)のひろくありせば、世の中の貧しき人を、蔽(おお)はましものを」とある。彼は、決して世の中の動きに無反応な、世捨て人であったのではないのだから。
 もちろん、江戸期の民衆に根ざした宗教を語る場合、仏教以外に様々勃興した新興宗派を見過ごす訳にはゆかない。ざっと振り返ると、主なものに金光教(こんこうきょう)、黒住教(くろずみきょう)、天理教(てんりきょう)があって、金光教と黒住教の二つは、こんにちの「おかやま」で発祥している。これらは、幕末になって権力の衰えから宗教政策が弛緩してきたところへ、民衆にとって身近な病気や人生上の悩みを受け止め、悩みや苦しみを癒してくれる、既存の形式に囚われた既成宗教に飽きたらぬ人々が参集していった。金光教は、赤沢文治(あかざわぶんじ、1814~1883年)が唱えた。黒住教は、黒住宗治(くろずみぶんじ、1780~1850年)が唱えた。天理教は、中山みき(1898~1887年)が唱えた。いずれも、病気の治療といった身近な益する事柄から始めており、独特の教理を展開した。

(続く)

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○227『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(岡山藩、備中松山藩、佐賀藩)

2017-08-07 20:30:41 | Weblog

227『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(岡山藩、備中松山藩、佐賀藩)

 比較的豊かであったとされる19世紀半ばの岡山藩においては、その藩政は立て直しというよりは、事業拡張といっうのが似つかわしい。児島郡の南部においては、文政・天保期になって、古くは奈良期から細々と続けられてきていた製塩業が、藩の庇護を受けて規模を大きくしていった。中でも、塩浜地主であった薪問屋の野崎武左衛は味野村と赤崎村の沖合に49町歩の野崎浜を築いた。これに習って、近くの地主たちもこぞってより大きな塩田を営むようになっていく。その中からは、塩田主から塩田を借り受け、人夫を雇い入れて製塩業を営む産業資本家も現れる。彼らは、製塩のための薪や石炭を買い入れ、作った塩を全国に売った。全国に販路を広げるということは、そのための航路なり、寄港地の繁栄も約束していく。また、商いや事業の拡張のための新しい資金の借入れも必要となり、金融も発達していく。あれやこれやで波及効果が現れることになって、児島の港や町は賑わいを増していくのであった。 
 この期の藩政改革のめずらしいところでは、農民の生活にも目を向けた改革が登場する。中でも、備中松山藩の藩政改革と、佐賀藩が行った農政改革は特記に値する展開を見せた。というのも、小農民の、その多くは「水呑百姓」とか呼んで十把一絡げにする風潮があるが、その置かれている実体は、この藩でも悲惨であったことだろう。そこへ、この両藩では、真っ向からこの問題に取り組んでいったことに特色がある。
 備中松山藩では、1849年(嘉永2年)、新藩主・板倉勝静(いたくらかつきよ)が登場する。そうなるいきさつであるが、藩主板倉勝職(いたくらかつつね)は、1842年に伊勢桑名藩から、藩主松平定永(まつだいらさだなが)の八男である寧八郎を婿養子に迎える。これが勝静で、22歳にして才気に溢れていたという。彼は、さっそく家臣の儒学者にして、陽明学者山田方谷(やまだほうこく)に、同藩の元締役(財務の責任者)兼吟味役を任命した。陽明学は、中国宋の時代の王陽明が拓いた学問で、儒学に基礎をおきつつ、実利を重んじるところが特徴である。山田は苦労人で、40歳になっており、すでにこの二つの学問の大家として知られる。そして、勝静の学問の師になっていた。
 その山田が最初に取り組んだのが、藩の抱える負債の整理であった。なにしろ、収入が約二万両のところへ支出がざっと5万両であったといわれ、支出のうち1万3千両が借金の利息に消えていたようである。借金は、大坂、松山、江戸に散らばっていた。1850年(嘉永3年)の春、彼は債権者の多い大阪に向かった。これからすると、大坂に出掛ける前から、相当の自信があったらしい。そして、かれらを前にして行った説得がなにしろ奮っていて、これまでの備中松山藩の財政状況を正直に説明し、借金10万両の猶予を申し入れたのに対し、商人達は利子の免除、最大50年の借金棚上げを承認したのであった。なぜそうなったのかというと、山田は借金は必ず返済する、踏み倒すつもりは毛頭ないとしながら、その猶予だけでなく、新規事業を立ち上げることでの財政再建計画を示したからだと考えられる。こうして利にさとい債権者たちの大方の同意をとりつけた山田は、1851年(嘉永3年)の『存寄申上候覚』」には、こうある。
 「御年限中成行き候へば、七ヶ年に御借財は凡四万両の払込と相成り、御借財半方の減と相成り申す可く候。其の節に至り候へえば、又別の手段を以て、御無借同様に仕り度き愚案仕り居り候。其の節、私身分何方へ退転罷り在り候共、今一応御呼出下され、御相談仰せ付けられ候へば、愚存申し上げ度く存じ奉り候事。」
 それからの山田は、心ある仲間とともに藩としての新規事業の立ち上げに邁進した。1854年(安政元年)には、彼は藩の「参政」という最高職に就任する。財政再建の主力は、この地に産する豊富で良質の砂鉄を使って、この地にタタラ吹きの鉄工場を次々につくり、そこでえたたたら鉄を使って釘、刃物、鍋、釜、鋤、鍬などの農具や鉄器を製造した。当時の人口の80%を占める農家相手の農具としての備中鍬を商品開発した。備中鍬は、3本の大きなつめを持ったホークのような鍬である。これは、従来の鍬に比べて、土を掘り返すのに深く掘ることができ、これが客足がとだえることのない程の大ヒット商品となった。
 また、藩内の商品作物づくりに精を出した。タバコ、茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙などの生産が手掛けられた。その特産品に「備中」のネーミングで売り出した。しかも、他藩の専売制で生産者の取り分を奪うことをせず、生産者の利益が出るように、藩は流通上の工夫によって利益が上げるように立ち回った。販売方法も苦心し、領内の産物をいったん松山城下に集荷し、そこから問屋を通じて高瀬舟で松山川(現在の高梁川)を玉島港に運び、そこから自前の運送で船を仕立てて江戸を目指した。そして、板倉江戸屋敷で江戸や関東近辺の商人を中心に直接売りさばく販売方法を確立したのであった。これらの産業創成策は、藩内にじわじわと浸透していき、それに応じて藩の財政も改善していくのであった。
 山田は、その後の1868年(明治元年)に64歳で引退するまで、その要職にあったとされるので、文字どおり藩の財政を立て直した救世主と考えてもよいのかもしれない。
引退してからの彼の詩の一つには、こうある。
「暴残、債を破る、官に就きし初め。天道は還るを好み、○○(はかりごと)疎ならず。
十万の貯金、一朝にして尽く。確然と数は合す旧券書」(深澤賢治氏の『陽明学のすすめ3(ローマ字)、山田方谷「擬対策』明徳出版社、2009に紹介されているものを転載させていただいた)
 彼ほどの不屈の精神の持ち主が、いかに幕府の命とはいえ、10万両もの貯金を食いつぶしてしまったことへの悔悟の念が、心の底に巣くい、沸々と煮えたぎっていたものと見える。
 佐賀藩の農政改革というのは、藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ)が1860年代の初めにかけて、儒者古賀穀堂(こがこくどう)らの助けを得て行ったものだ。その内容は、多岐でいろいろあるが、その中心はつぎに紹介するような「均田制度」による農政の立て直しであった。ここに「均田制度というのは、これまで伊万里など都市の商業資本の手に集中していた土地の所有を、農民の手にかえしてやることであり、その地主としての作徳米収取を停止して、これを農民の生活の資にあてさせるという思い切った土地政策であったのだ。
 この均田制度を指して、これこそ完全な封建反動であり、古い隷農制への回帰であると説く人もいるが、しかし、これが貧弱な農民を救って、かけらの生産力を向上させたことはいうまでもないことである。問題はその形式にあるのではなくて、それが農民の生活に如何に働いたかということであろう。ともかくも、直正の小農民保護政策は、その断固たる意志において実行の緒についたのであった。
 しかしながら、それだけに農民に対する制限は厳重なもので、絹織物の禁止は当然のことながら、歌舞音曲の停止から、仏事神事に対する制限、そして酒を飲むことの禁止まで、代官所の厳重な見回りの下に励行させられていった。
 いや、そればかりではない。代官所の見回り、日没後の内職にまで干渉して、これを励行させたのである。怠惰なる者に対しては容赦なく、代官所手代の棍棒が降ってきたというから、相当なものであろう。これも、二宮尊徳が、工事などの監督に歩き、怠けている者があれば川の中に突き落としたという話とよく似ている。」(「日本歴史シリーズ16、幕藩制の動揺」世界文化社、1970所収の奈良本辰也氏の論文「鍋島直正と天保の改革」から引用させていただいた。)
 さて、私たちの故郷、当時の津山藩では、これより前、国学者の佐藤信淵(さとうのぶひろ、1769~1850年)を招いて藩政改革を相談したことになっている。彼は、宇田玄随の医学の門下生であった。藩命で帰る師匠について津山に行ったのが最初で、農学者として知られるようになってから、津山藩の招きに応じて津山にもしばらく滞在していたらしい。その時の彼は、「殖産興業」と、商業資本の活用で藩を立て直すことを持論としていた筈だ。わけても、施政者による商業資本の活用は流通過程からの収奪の可能性もあったのであろうが、その招かれた時何らかの具体的提言をもって津山藩の諸改革にどう影響を及ぼしたのだろうか、その詳細は明らかになっていないようである。

(続く)

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○新226『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(長州藩、薩摩藩)

2017-08-07 20:28:57 | Weblog

新226『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(長州藩、薩摩藩)

 この時期には、全国の三百諸藩の藩政改革が盛んに行われた。長州藩では、天保期の初年、1830年(天保元年)に大規模な農民一揆が起こる。それは、翌年まで続き、防長二国の全域に広がった。この一揆が掲げたスローガンに「藩営専売の廃止」があり、藩が藍や櫨などの主要な産物の流通を独占したことに反対したのであった。これだと、農民としては、強制的に買い上げられるのであるから、利益は見込めなくなってしまう。こうした一揆はその後も藩内のそこかしこで頻発した。また、藩としての商業資本への借財も、「両に換算しておよそ二百万両、藩の年収の二十二倍」(松浦玲「藩政改革」:「幕藩体制の動揺」:日本歴史シリーズ16、世界文化社、1970に所収)の厳しい財政状況であった、とされる。
 長州藩においては、1831年(天保2年)、藩を揺るがす大一揆が勃発する。襲撃されたのは、村役人と特産物の買い占めで暴利をむさぼっていた商人達だった。長州藩は、財政再建策の一つとして産物会所を作り、彼らに特産物の売買を独占的に許したが、その改革案に民衆が抗議の一揆を起こしたのだ。藩から特権を与えられた商人と農民との間で利権を巡る争いが起き、これが領内全土に広がったのだ。この一揆は、一説には十万人を超える農民が参加した。一揆の鎮圧とその後の復興に莫大な資金を投入せざるをえない状況となった長州藩は再び財政難に陥る。
 このようなとき、毛利敬親(もうりたかちか)は家督を継ぎ、十三代藩主となる。彼は、よいと思われる話があると、「そうせい」というのが口癖であったとか。たしかに「凡庸」な性格であったかもしれないが、それでいて、先取の気風があったのではないか。

 長州藩は、この時大いなる決断をした。1838年(天保9年)、中級武士だった村田清風(むらたせいふう、1783~1855)を抜擢し、藩政改革を命じた。村田はこの時、56歳を数えていた。この頃の長州藩は多くの負債があり、就任した村田はこれを「8万貫の大敵」と呼んで、解消を目論む。その手段として、驚くことになんと村田清風を中心に、商人達に向かって借金の棒引きと要求したのであるが、それがなんとかうまくいったようだ。
 1842年(天保14年)、村田は「三七ヵ年賦皆済仕法」を出した。これは、藩債については、元金の3%を37年にわたって返済すれば、皆済とする一方的な返済案だった。また、藩士の借財についても、藩がいったん全部肩代わりすることとし、同様の条件での返済をすることにした。

 村田ら改革派は、下関という場所の重要性にも着目した。この頃、下関海峡は西国諸大名にとって商業・交通の要衝であった。1840年(天保11年)には、流幣改正令を発布があり、下関越荷方を拡張する。

 そこで白石正一郎ら地元の豪商を登用して、越荷方を設置した。越荷方の「越荷」とは、他国から入ってきた荷物のことである。これを扱うべく、藩が下関で商人などを束ね、運営する金融兼倉庫業を営む。具体的には、他国船の越荷を担保に資金を貸し付けたり、越荷を買っては委託販売を行う。

 しかし、この仕法は、藩士が多額の借金をしていた萩の商人らに反発を受ける。また越荷方を成功させたことで、大坂への商品流通が減少したため、幕府当局からの横槍が入り退陣に追い込まれる。そこで、藩が専売していた特産物の売買を商人に認めるかわりに税を課すことで、藩としても収益を上げていく。
 村田らはこれらの政策実行で、紙、蝋、米、塩の生産強化を行い、専売制の手直しを始めた。それに、藍の統制廃止や木綿の流通自由化に踏み出した。さらに藩内の豪商に対しては、責任を持たせて他藩の貨物や船舶相手の運賃稼ぎや資金の融通するという施策を行った。これらが効を奏する形で、藩の財政はしだいに好転を始めていく。

 これらのうち蝋、米、塩は「三白」(さんぱく)と呼ばれた。「三白」のうち蝋は、櫨(はぜ)の実を原料とする。紙に劣らぬ産業にと育成策が取り組まれる。不毛の山野や畑の畦(あぜ)などの閑地を選んで櫨の植林を増やすようにと、農民を激励するとともに、「鯖山製蝋局」による統括体制が整えられていく。
 そして迎えた1841年(天保13年)には、長州藩の積年の3万貫の負債を減らすことに成功した。また、清風の改革は財政再建だけでなく人材登用や教育の面でも効果をあげるが、逆風も吹き荒れていたらしい。中級以上の藩士を中心に改革に反対する勢力の台頭があった。それに持病の中風の悪化により、63歳の村田は、坪井九右衛門(つぼいくえもん)にその座を譲る。村田は、生家である三隅山荘に帰り、隠居した。それからも、人材の育成には熱心であったようで、三隅山荘に開いた私塾、尊聖堂は多くの子弟達で満ち溢れていたという。


 薩摩藩においては、琉球国との関係があって、これがなかなかに複雑であった。1609年(慶長14年)、琉球王国を島津氏から攻略された。この国はその後も日本とは異なる独立国には違いないのだが、、中国との著交換系は続けていた。江戸幕府の体制下に組み込まれてからの琉球王国には、「在番奉行所」(御仮屋(うかりや))と呼ばれる薩摩藩からの出先が設けられていた。その琉球の那覇の湊に、1853年(嘉永6年)旧暦5月、ペリー艦隊がやってきた。首里城に入ったペリーは、石炭貯蔵庫の設置などを要求した。その翌年の1854年(嘉永7年)、琉球国はアメリカとの修好条約を結んだ。そればかりでなく、薩摩藩の島津斉彬(しまずなりあきら)が、「奄美大島と沖縄の運天港を開港させ、フランスから軍艦と最新鋭の銃を、琉球を介して購入する計画を立て、両者間でこの取引は成立」(喜納大作・上里隆史「琉球王朝のすべて」河出書房新社、2015年に改訂新版)したものの、斉彬の急死で計画が中止になったいきさつもある。

(続く)

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○○220『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代における民衆史編纂の試み

2017-08-07 20:27:21 | Weblog

220『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代における民衆史編纂の試み

 江戸時代における農民の状態については、幕府や藩当局の息掛かりの文献も幾分か受けられる。そのあたりの事情をまとめた例として、美作の『東作誌』がある。これが書かれたのは18世紀の後半、主に文化年間(1804~1818年)にして、軍学師役として津山藩の禄を食んでいた正木兵馬(まさきひょうま)が、個人の調査・見解として折に触れ書き足していた。

 この人物は、妻子を連れて諸国浪々のあげく、運良く1791年(寛政3年)、津山城主の松平越後守康哉(やすちか、1752~1794年)に、四十五俵で召抱えられた、とされる。この書物の目的とするところは、美作(「作州」は別名)の地誌であった。それまでの美作には、1691年(元禄4年)成稿の『作陽誌』があった。ところがこれは作州西六郡のみで、吉野郡を含む作州東部六郡を含んでいなかった。ここに東部六郡には、津山城の北方あたりから時計回りに、東南条郡、東北条郡、勝北郡とその南に勝南郡、さらに東外側に吉野郡とその南に英田郡(あいだぐん)が含まれる。ちなみに、文化年間東作六郡所領別村数としては、幕府領(天領)が217か村、津山藩領が45か村、その他藩領が88か村の合計350か村であった、と伝えられる。
 東半分の地誌が欠落している理由は、当時の森藩での事情があったのだとされる。1689年(元禄二年)、執政・家老級の重臣・長尾隼人勝明を中心にして地誌作成の企画がもちあがった。同藩は、この事業の予算人員を確保し、作州西部六郡について江村宗普(春軒)に、東部六郡について川越玄三(玄俊)に担当させた。国の歴史として。

 ところが、何らかの理由により東の六郡の作業が遅れたままに、1697年(元禄10年)森藩が改易でなくなってしまう。そこで正木が思い立ったのが、百数十年前の森家時代に編纂された『作陽誌』が、美作東分を欠くゆえに、それを追補するこどてあった。あくまでも、編著者正木の個人的な著作であったのだ。文の特徴は、和漢の入り交じった文で書かれていたことであって、そうだというのなら民間で読まれることを期待していたのであろうか。正木が存命の間は個人の手元にあったのだろうが、彼の死後にはその家人が保存しておいたものだろうか。
 これが出版されるに至る事情は複雑だったらしい。本人が直に書いたのではない、写本として伝わったらしい。これを後に江戸藩邸で儒官・昌谷精谿(さかやせいけい)が発見して、1851年(嘉永4年)、彼による編修で三十一巻にまとめた上「追補作陽誌」という名で紹介した。この写本の刊本は1884年(明治17年)であって、長尾勝明編とした『校正作陽誌』上中下三巻本が刊行される。明治末には作陽古書刊行会が、郷土史家の矢吹金一郎に校訂を依嘱して、大正元年に『校訂作陽誌』刊行、1913年(大正2年)に至ってようやく『東作誌』の名称を付けて出版されたのだ、と言われる。
 しかしながら、こうしたものは当時の支配階級である藩なりが主体的に関わったものであるため、ほとんどが上から目線で書かれている。そのため、当時の庶民の暮らしをシルには、主に民間の有志の筆によるものの方が、より多くの、そして良質な情報が得られるのではないか。まず『西域物語』という書物は、江戸後期の蘭学者にして経世学者の本多利明(としあき)が著した。1798年(寛政10年)の作で、世界的視点で色々と調べてある。国内に向かっては、農民の暮らし向きに多くの観察が見られ、こうある。
 「神尾氏が日く、胡麻の油と百姓は、絞れば絞る程出る物なりと云り。不忠不貞云べきなし。日本へ漫る程の罪人共云べし。此の如きの奸曲成邪事は消失がたきものにて、渠が時の尹たる享保度の御取箇辻を以て、当時の規鑑となるは歎敷に非ずや。故に猶農民の詰りと成り、猶間引子するを恥辱とせず。次第に農民減少する故、租税も又減少するなり。租税減少する故、庶子も又貧窮するなり。ここに於て間引子の悪癖萌して次第に迷とせんとす。是又悪騒の萌と成なり。是、治乱・存亡・興廃の因てでる境界なり」(『西域物語』の「年貢増徴」の項)
 「田畑に際限あり、出産の米穀に亦際限あり、年貢租税に亦際限あり、其残りの米穀も亦際限あり、其際限ある米穀を以て、下万民の食用を達するを、士・工・商・僧・遊民、日を追、月を追、増殖するゆへ国用不足となる。是に於て是非無くも猾吏を選挙して農民を責め虐るより外の所業なし。終に過租税を取り、課役を掛るに至るなり。是に於て農民堪えかね、手余地と名け良田畑としれど亡処と為て、租税の減納を謀るなり。…斯なり行く勢ゆへに、出生の子を間引ことは扨置き、餓死人も出来する筈なり。斯の如く理道明白なるものを、神尾氏が日く、胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり、といへり。不忠・不貞いふべき様なし」(『西域物語』の『苛税』の項
 上段引用文中に「神尾氏」とあるのは、当時の勘定奉行・神尾若狭守(1737~53在任)の言にことかけたもので、農民から搾取・収奪で富を搾り取ることに汲々としている施政者強欲を問題視している。下段引用文中においては、そのことが農村をスパイラル的な疲弊に追い込んでいく様の一端を説明している。
 次に、『世事見聞録』というのがあって、こちらは江戸時代後期における庶民の暮らしに詳しい。著者は武陽隠士とあるが本名は未詳とのこと、1816年(文化13年)の自序がある。
 「都て村内にても、上田といえるよき地所は、皆福有等が所持となり、貧農は下田にして実入あしき地所のみ所持いたし、・・・・・又その悪田をも取失ひし族は小作のみを致し、高持百姓の下に付て稼尽し、作りたる米は皆地主へ納むれば、其身は粃籾、糟糠、藁のみ得て、年中頭の上る瀬なく、息を継ぐ間さへ得ざるなり。依て盛なるものは次第に栄へて追々田地を取込み、次男三男をも分家致し、何れも大造に構へ、又衰へたるは次第に衰へて田地を離れ、居屋敷を売り、或は老若男女散々になりて困窮に沈みはつるなり。当世、かくの如く貧福かたより勝劣甚しく出来て、有徳人一人あれば、其辺に困窮の百姓二十人も三十人も出来、譬へば大木の傍に草木も生立兼る如く、大家の傍には百姓も野立兼ね、 自然と福有の威に吸取れ困窮のもの余多出来るなり。福有は其の大勢の徳分を吸取て一人の結構と成し、右の如く栄花を尽くし、或ひは他所迄も財宝を費る程の猶予出来るなり。扨又其の盛衰の懸隔なる体を爰に言ふ。
 まづ右体過分の田畑を持余したるものあれば、耕作すべき地所もなきもの出来、又年貢纔斗納めて有余米沢山成ものあれば、年貢米出来ず領主地頭の咎に逢ふもの出来、又米五十俵百俵乃至二百俵三百俵とも売払ふものあれば、節句に米の飯も給へ兼ね、正月餅も舂兼るものも出来、或ひは子供を寵愛に余るものあれば、子を売る親も出来、或ひは前にいふ如く家蔵結構座敷をも襖唐紙を立て、畳を敷き、絹布を着たるものあれば、屋根漏り、壁破れ、竹の簀子落ち、古き莚切れ、身に覆ふ衣敝れて、飢寒に堪兼るもの出来るなり。百姓の一揆徒党など発る場所は、極めて右の福有人と困窮人と偏りたるなり。百姓の騒動するは、領主地頭の責誣(しいたぐ)る事のみにはあるべからず。必ず其の土地に有余のものあって大勢の小前を貧るゆへ、苦痛に迫りて一揆など企るなり。前にいふ如く昔百人のて共に稼来し村方をも、今は五十人程は遊び暮すのみならず、小前を犯すゆへ、小前の五十人は難儀の四重にも五重にも覆ひ懸るゆへ、中々食料たらず、耕作の間に或ひは駄賃を取り、或ひは日雇に出で或ひは手業その外の業を成せども、遠国の事なれば左のみ助成にも成り兼て、身も心も落付べき所なし」(『世事見聞録』の「農村の分解」の項)
 この文中、「都て村内にても、上田といえるよき地所は、皆福有等が所持となり、貧農は下田にして実入あしき地所のみ所持いたし」、それに「百姓の一揆徒党など発る場所は、極めて右の福有人と困窮人と偏りたるなり。百姓の騒動するは、領主地頭の責誣(しいたぐ)る事のみにはあるべからず。」とあって、貧富の差の大きいこと(今日の言葉で言うと、「経済格差」といったところか)が最大要因だと評した。
 3番目は、『古事記』の研究で広く知られる本居宣長(もとおりのりなが)の著した『秘本玉くしげ』であって、1787年(天明7年)の彼が紀州藩主徳川治貞の求めに応じて政治向きの意見書を提出した。その時の本巻が、この名で呼ばれる。
 「百姓町人、大勢徒党して、強訴濫放する事は、昔は治平の世には、おさおさ承り及ばぬ事也。近世に成りても、先年はいと稀なる事なりしに、近年は所々にこれ有て、めずらしからぬ事になれり。これ武士にあづからず、畢竟百姓町人の事なれば、何程の事にもあらず。 小事なるには、似たれども、小事にあらず、甚大切の事也。いづれも困窮に迫りて、せんかたなきより起るとはいへ共、詮ずる所、上を恐れざるより起れり。下民の上を恐れざるは、乱の本にて、甚容易ならざる事にて、先づ第一、その領主の耻辱、是に過らるはなし。されば、仮令聊の事にもせよ、此筋あらば、其のおこる所の本を、委細に能々吟味して、是非を糺し、下の非あらば、其の張本の僕を、重く刑し給ふべきは、勿論の事、又上の非あらば、其の非を行へる役人を、おもく罰し給ふべき也。
 抑々此事の起るを考るに、いづれ下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。今の世、百姓町人の心もあしく成りたりとはいへども、能々堪へがたきに至らざれば此事はおこる物にあらず。・・・・・然るに近年此事の所々に多きは、他国は例を聞て、いよいよ百姓の心も動き、又役人の取りはからひもいよいよ非なることも多く、困窮も甚だしきが故に、一致しやすきなるべし。・・・・・近年たやすく一致し、固まりて此事の起りやすきは、畢竟これ人為にはあらず、上たる人、深く遠慮をめぐらさるべき也。然りとて、いか程おこらぬようのかねての防ぎ、工夫をなすとも、末をふせぐ計にては止がたかるべし。兎角その因て起る本を直さずばあるべからず。基本を直すといふは、非理の計ひをやめて、民をいたはる是也。仮令いか程困窮はしても、上の計ひだによろしければ、この事は起るものにあらず」(『秘本玉くしげ』)
 この文中にて、「抑々此事の起るを考るに、いづれ下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。今の世、百姓町人の心もあしく成りたりとはいへども、能々堪へがたきに至らざれば此事はおこる物にあらず」とあるのは、一揆の原因を政治を行う領主側の視点から見ている。

(続く)

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○○228『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の民間宗教

2017-08-07 20:25:19 | Weblog

228『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の民間宗教

 江戸期の一般民衆は、一般に「士農工商」でがんじがらめの状態であった。そうした人々の精神的拠所となっていたのは、一体何であったのだろうか。まずは、数多い仏教各派の中から一例、最も物神的要素の薄い部類だと思われる禅宗を選んで始めよう。江戸中期の白隠禅師(はくいんぜんじ)は、以前NHKの『日曜美術館』に紹介されていた、彼は、どちらかというと、市井(しせい)におのが心を寄り添わせるところがある、かの「良寛さん」程ではなかったせよ、大いに庶民向きの禅僧であったようだ。その木訥な水墨画で有名だ。そればかりでなく、彼の作った『和讃』はつとに有名である。ここに述べられていることの理屈は、漠然と「本当かなあ」という心が働く人はきっと多い。とはいいつつも、信じる、信じないにかかわらず、諳んじているとえもいわれぬ、良い気持ちになってくる。そのことは、「般若心経」の時と似通っているのではないか。今では習慣のようになっている、自分の唱えてみる声が、まるで歌のように調べが耳に沁み込んでくるから、実に不思議だ。
 「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて。水を離れて氷なく、衆生の他に仏なし。例えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり。長者の家の子となりて、貧離に迷うに異ならず。六趣輪廻の因縁は、おのれが愚痴の闇地なり。闇地に闇地を踏み添えて、いつか生死を離るべき。それ摩訶縁(まかえん)の禅定(ぜんじょう)は賛嘆するに余りあり。布施や持戒の諸波羅密(しょはらみつ)、念仏懺悔(ざんげ)修行等。皆この内に帰するなり。因果一如の門開け、無二無三の道なおし。無相の相を相として、往くも還るもよそならず。無念の念を念として、うたうも舞うも法の声。三昧無碍(ざんまいむげ)の道遠く、死地円明の月冴えん。このとき何をか語るべき、寂滅厳然するゆえに。当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり。」
 ここに述べられるのは、所詮は観念論の類にすぎないのかも知れぬが、今はそのことはさて置きたい。すると、この和讃の吟じ終わりに近づくにつれ、あたかも自身が仏国土の中にいるのではないかという観念(「温かな透明感をもった想念」とでも例えるか?)に包まれてくるから、人間脳というのは誠に不思議だ。ここに「六趣輪廻の因縁」とあるのは、紀元前の人、釈尊の思想と大いに関わる。単に彼の考えたことを紐解くための概念というよりは、そのことの批判の中から仏教が生まれたといっても過言ではあるまい。是に由れば、人は地獄、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)、そして天を巡り巡ってまた人に生まれ変わっていくと考える。
 釈尊が説法していた頃のインドにおいては、この因縁、縁起に基づく「輪廻転生」が宗教界の大いなる風潮であったし、今日の世の中でもそのことを強調する宗教観はあまた存在している。これを敷延すると、人は死後に天に昇って神のような存在にもなれると言うことで、我が国でのような絶対神を必要としない風土の上では、ともすればこれをありがたがる風潮が広く見られるところだ。
 だが、これらは全て仏教のものではない。特に禅宗では、これを嫌う。例えば、「禅宗ではそうは考えません。禅の精神は、今・ここ・自己の教えでありますからして、人間はそのときの心の持ち方によって、天に生まれる神々のごとく神々しくもなれば、恐ろしい地獄にもなるということです」(禅僧、松原哲明氏の『心の眼を開く』祥伝社、1988)と言われるが如く、禅宗では六道に囚われぬ、変幻自在な精神生活を重んじる気風が働く。白隠のこの『和讃』も同様の趣旨で貫かれているように、私には思える。
 いま一人仏僧から紹介すると、白隠よりもおそらく、ずっと控えめ、かつ柔軟に生きたのが良寛(りょうかん、1758~1831)であった。越後に生まれ、出家して諸国を行脚した。その時の肩書きは、ただの曹洞宗の僧侶であった筈だ。後年の彼は、郷里の国上山(くがみやま)の五合庵(ごごうあん)で托鉢生活を送る。粗末な衣装に身をまとった外観はそのままに、極々普通の僧として生きた。行動は仏事に留まらず、広い範囲にわたった。歌人として、絵画と書道家の両方での筆達者として等々とある。そんな中でも、書の達人であったことは疑いなく、その特徴たるや技術よりも精神の高さであったという話が伝わる(一例として、北大路魯山人の「良寛様の書」とか、駒井○静「良寛を書く」雄山閣)。しかも、それらの芸達者を偉ぶることなく、何よりも自由人としての生涯を振る舞った。いつの頃からか、日本全国に広く親しまれるようになっていく。
 当時の僧侶の大方は、幕府による寺社支配の中で生きていくしかなかったろう。その中でも、彼はできるだけ自分の出身宗派に囚われることがなかった点で希有の人と言って良い。民衆に頼まれれば、他の宗派のよく唱える経も進んで唱えたという。子供たちとも無弱に遊んだ。こうなって来ると、たとえ寺がなくとも民衆にとっては良寛その人がいればそれでいい、寺の建物は本人に付随するものとしてあることにもなっていく。その彼に、こんな歌が残っている。すなわち死に望んで、「形見とて、何残すらむ春は花、夏ほととぎす、秋はもみじ葉」とある。心はあくまでも平坦であり、加えるに「死ぬ時は死ねばよい」という自分の運命を自然に身を任せるのだという。これは、並大抵の境地ではできないことに違いない。それでも、彼は他人にも、社会にも関心を寄せていた。果たせるかな、心安らぐらぐ思いがするのは、例えば「墨染めの、我が衣手(ころもで)のひろくありせば、世の中の貧しき人を、蔽(おお)はましものを」とある。彼は、決して世の中の動きに無反応な、世捨て人であったのではないのだから。
 もちろん、江戸期の民衆に根ざした宗教を語る場合、仏教以外に様々勃興した新興宗派を見過ごす訳にはゆかない。ざっと振り返ると、主なものに金光教(こんこうきょう)、黒住教(くろずみきょう)、天理教(てんりきょう)があって、金光教と黒住教の二つは、こんにちの「おかやま」で発祥している。これらは、幕末になって権力の衰えから宗教政策が弛緩してきたところへ、民衆にとって身近な病気や人生上の悩みを受け止め、悩みや苦しみを癒してくれる、既存の形式に囚われた既成宗教に飽きたらぬ人々が参集していった。金光教は、赤沢文治(あかざわぶんじ、1814~1883年)が唱えた。黒住教は、黒住宗治(くろずみぶんじ、1780~1850年)が唱えた。天理教は、中山みき(1898~1887年)が唱えた。いずれも、病気の治療といった身近な益する事柄から始めており、独特の教理を展開した。

(続く)

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○○219『自然と人間の歴史・日本篇』大塩平八郎の乱(1837)と天保の改革(1834~1843)

2017-08-07 18:47:22 | Weblog

219『自然と人間の歴史・日本篇』大塩平八郎の乱(1837)と天保の改革(1834~1843)

 江戸時代も19世紀になると、徳川幕藩体制による民衆支配の屋台骨が揺らいできた。1837年(天保8年)、天保の飢饉のさなかの大坂では、民衆の生活救済に腐心してきた大塩平八郎らが、幕府の「御政道」を正そうと立ち上がった。しかし、決起の事前にこの計画を察知した幕府に潰された、これを「大塩平八郎の乱」と呼ぶ。その前年の飢饉に際して、大坂町奉行をはじめ役人たちはなんら民衆の救済策を講じることなく、無為無策であった。それなのに、大坂の豪商らはかえって大量の米を江戸へ回送し、米を買占めるという奸智ぶりであり、そのことで暴利を博してはばかるところがなかった。正義感と世直しに燃えていた大塩は、この両方に激怒し、門下の与力・同心など、近郷の富農らとひそかに謀って、ともに「世直し」をしようとしたのであった。
 文政期から天保期にかけては、体制側からの改革の機運が盛り上がってくる。そこへ水野忠邦が老中となって、幕政の改革に着手した。物価安定をねらった倹約令や、株仲間の解散、それに江戸からの人返しといった荒手の改革に着手した。これらのうち倹約令では、規制品外贅沢品の使用を禁止したものの、効果は芳しくなかった。
 また、株仲間の解散令により、生産物の集荷や流通を独占していた問屋株仲間の専横を抑え、商人間の自由な競争を促す。その達しには、こうあった。
 「仲間株札は勿論、此外共都而問屋仲間並組合抔と唱候儀相成らず旨、十組問屋共江申渡書。
 菱垣迴船積問屋、十組問屋共。
 其方共儀、是迄年々金壱万弐百両冥加上納致来たり候処、問屋共不正の趣に相聞に付、以来上納に及ばず候。尤向後仲間株札は勿論、此外共都而問屋仲間並組合抔と唱候儀は相成らず候。
一、右に付而は、是迄右船に積来候諸品は勿論、都而何国より出候何品に而も 素人直売買勝手次第たるべく候。且又諸家国産類其外惣而は江戸表江相迴し 候品々も、問屋に限らず銘々出入りの者共引受け売捌候儀も、是又勝手次第 に候間其の旨存じすべし。(中略)
 天保十二年丑十二月十三日」
 これに「十組問屋」(とくみどいや)とは、そもそも1694年(元禄7年)に、江戸と大坂間の舟運を取り仕切っていた商人(荷主)たちが、諸国物産の卸売り・問屋を独占するために設けた。1822年(文政5年)には、は、幕府から念願の株の認可を取得した。この時、すでに65組を組織していたと伝わる。その進出は、さまざまな分野に及んでいた。彼らの仲間うちでは、仲間の制限や、保有する株の譲渡の条件・方法などを定め、新規加入を制限していたことが知れている。奉公人を自由に引き抜かれては困ることから、制裁などを申しあわせることも取り決めていたという。幕府に認可してもらう代償としては、国庫に冥加金(みょうがきん)を納めるほか、無代物納や無賃任即の提供まで行っていたようで、それらの負担を上回る見返り利益が見込まれていたからに他なるまい。そんな問屋などの株仲間を解散させようというのであったとすれば、幕府として、当時の社会に浸透しつつ商品経済になんとか規制の網をかけて、なんとか封建制の土台を維持しようとしていたのかもしれないが、その政策意図についてははっきりしない部分がなお多い。
 1838年には、老中水野忠邦(みずのただくに)の肝煎りで、諸国の代官に現時点での地方が抱えている問題についての諮問があった時、越後国出雲崎代官が幕府に提出した回答(上申書)にはこう書かれていた。
 「帰住相願い候者は稀にて、御府内又は在町へ立ち入り、生涯立ち戻らざる者どもは、支配において厚く世話致し候とも行き届き難し、殊に在方(村のこと・引用者)にては昼夜農業のために艱苦骨折、その上、米を食し候者は少なく、麦稗へかて(混ぜ加える食物・引用者)を取り交ぜそ食致し候者、御府内へ出候ては、その日稼ぎ致し候者も美食を致し、身持ち惰弱に相成り候故、帰住の志さらにこれ無し。」(『市中取締類集』)
 これを受けてか、1843年(天保14年)には「人返し令」が発布される。これは、寛政の改革時にだされた『旧里帰農令』を強化したものであった。農民が農村から離れることで封建制経済が崩壊することを避けるために、江戸やその周辺などに来た農民を元の場所に引き戻すのみならず、そもそも江戸府内に入れることのないよう手配するものであった。
 「天保十四年卯年三月廿六日条
 諸国人別改方の儀、此度仰出され候に付而は、自今以後、在方のもの身上相仕舞、江戸人別に入候儀決し而相成らず候間、領分知行所役場等に罷在候家来より、精々勧農之儀申諭、成丈ケ人別減らざる様取計、且職分に付、当分出稼之もの並奉公稼に出府致候もの共は、村役人共連印之願書差出させ、右願之趣、承届候旨、(中略)在方にまかりあり候家来え精々申しつけらるべく候。
 在方之もの当地江出居、馴候に随ひ、(中略)商売等相始め、妻子等持候ものも、一般に差戻に相成候而は、難渋致すべき筋に付、格別之御仁恵を以、是迄年来人別に加わり居候分者、帰郷之御沙汰にはおよばれず、以後取締方左之通り仰出され候」(『徳川禁令考』)
 「天保十四年三月条
  在々え御触
 在方のもの当地へ出居馴候に随ひ、故郷え立戻候念慮絶し、其侭人別に加わり候もの年を追い相増し、在方人別相減候趣相聞こえ、然るべからざる儀に付、今般悉く相改め、残らず帰郷仰せ付けらるべく候処、商売等相始め、妻子等持候ものも一般に差戻しに相成候而は難渋致すべき筋に付、格別之御仁恵を以、是迄年来人別に加わり居候分者、帰郷之御沙汰にはおよばれず、以後取締方左之通り仰出され候。
一、在方のもの身上相仕舞い、江戸人別に入候儀、自今以後決而相成らず。(中略)
一、近年御府内え入込み、裏店等借請け居り候もの内には妻子等もこれなく、一期住み同様のものもこれ有るべし。左様の類は早々村方え呼戻し申すべき事。」(『牧民金鑑』)
 上段の文章であるが、ここに「在方のもの身上相仕舞江戸人別に入候儀」として、村人が所帯をたたんで江戸の人別に入ることを禁じている。一時的に出稼ぎにやってきたり、奉公に来る者についても、必ず村役人、ひいては領主・代官の許可を得ることとした。
下段の引用文(「在々え御触」)においては、「商売等相始め、妻子等持候ものも一般に差戻しに相成候而は難渋致すべき筋に付、格別之御仁恵を以、是迄年来人別に加わり居候分者、帰郷之御沙汰にはおよばれず」といい、すでに町方で定着している者については例外とする緩和修正も行っている。
 彼の農業面でのもくろみの一つが、印旛沼(いんばぬま)の開発であった。これを思い付いた時は1842年(天保13年)、印旛沼は利根川の遊泳地となっていた。面積が27平方キロメートルあることから、普段は余った水がここへ逆流して集まってくるのでよい。ところが、増水が一本調子で嵩(こう)じる、つまり上流に大雨が続くと、利根川の増水を吸収するどころか、今度は印旛沼が氾濫して、周囲の村々が水浸しになってしまう。そこで、水野と幕格(ばっかく)は、この印旛沼から江戸湾(現在の東京湾)に向かって運河を通すことにしたい。そうして溢れた水を海に導くとともに、沼の近辺の川の河床を深くする。そのことにより、沼地が良田に替わるという一石二鳥の効果を見込んだ。
 幕府は、さっそく、噂に高い二宮金次郎(にのみやきんじろう)に土木工事の指導を請け負うよう頼み込んだ。しかし、金次郎から提出された『利根川分水路掘割御普請見込之趣申上候書付』なる案は、正攻法のやり方で時間がかかる企画内容であった。だが、短兵急な仕上がりを考える水野は、これを採用しない。そこで、幕府勘定所にいる地方技術者などを中心に新たな計画を立てて、これを五つの藩に命じて嵩じを受け持たせることにした。 翌1843年(天保14年)に着工され、毎日5万人からの人夫が投入された。一説には、25万両ものカネが投入された。しかし、何らの成果もあげられないうちに、旗振り役の水野が失脚して天保の改革時代が瓦解したため、この工事は未完のままに終了した。
 それから、1843年(天保14年)、『上知令(あげちれい)』を出して、江戸と大坂の十里四方、あわせて50万石分の土地を幕府領に差し出させる。これで幕府財政を安定させようとする。
 「天保十四卯年八月十八日条
 御料所の内、薄地多く御収納免合相劣り、(中略)御料所より私領の方、高免の土地多くこれあり候は不都合の儀と存じ奉り候。仮令如何様の御由緒を以て下され、又は家祖共武功等にて頂戴候領地に候とも、加削は当御代思召次第の処(中略)此の度、江戸・大坂最寄御取締りと為て上知仰せ付けられ候。右領分其の余、飛地の領分にも高免之場所もこれ有り、御沙汰次第差上げ、代地の儀如何様にも苦しからず候得共、三つ五分より宜敷き場所に而は折角上知相願ひ候詮も之無く候間、御定の通り三つ五分に過ぎざる土地下され候得ば、有難く安心仕る可く候。」(『続徳川実記』)
 ここに「上知(あげち)」というのは、土地の所有者に当該土地を幕府に返上させることである。また「三つ五分」とあるのは、代地の年貢課税率が三割五分よりも高いところでは、「上知」を下達した意味もないので、規定通り、この年貢率を越えない土地を代地として与えることにしている。この法令が実施されると、「上知」を命じられた土地に領地を持つ三河譜代や旗本、かれらに経済的に結び付いている豪農、商人などもこぞって反対した。当初はこれに賛成していた老中の土井利位(どいとしつら)も反対に回った。おりしも、庶民の人気はつるべ落としになっていき、改革反対派はしだいに強力になっていった。このため、水野は1843年(天保14年)、お勝手取扱いのことで不行届きがあったとして、老中職に留まること2年5箇月にしてその要職から引きずり降ろされてしまった。

(続く)

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○○217『自然と人間の歴史』18世紀後半における諸藩の状況(信州佐久騒動(1783)、美作寛政の告訴(1798))

2017-08-07 18:42:20 | Weblog

217『自然と人間の歴史』18世紀後半における諸藩の状況(信州佐久騒動(1783)、美作寛政の告訴(1798))

 ここではまず、「信州佐久騒動」と呼ばれる、18世紀の後半に起こった大規模な騒動に触れたい。詳しい日付で言うと、1783年10月24日~27日(天明3年9月29日~10月6日)の出来事であった。この騒動に直接かかわっていたのが、1783年6月25日(天明3年5月26日)からの浅間山の大規模噴火であった。これのつながりについて、当地に残っている「信州浅間山大焼凶年にて佐久郡騒動覚書(騒動覚書)」には、こうある。
 「天明三年六月二十四日頃より、浅間山焼出し日毎に強く鳴り渡り、七月二三日の頃大焼け大鳴り、家々の戸障子殊の外に揺れ、夜に入り焼け登り候。」
 「八日の晩方より少々ゆれ静まり、夫より上州吾妻郡利根川の川上、浅間の北方より長さ十二間、横八九間、高さ二三丈の大石、十七里余り流れ出し、百姓家五十八カ村押し流し、上州五鈴村より二三里下、死人沢山出来し、其の外川筋へ死人大分かかり之有り候との事。
 碓氷峠人馬通路之無く、妙義、高崎、榛名辺りは砂四五寸降り、武州八王子、江戸惣家(草加)辺りは寺にも降り、浅間の鳴り音は一円二三十里四方へ聞こえ候との事也。」
 そして、これが、騒動へと発展していく。曰く、「天明三年九月十八日の夜、上州一ノ宮北方、人見ケ原に何人(なにひと)の高札を立て、「此の節至って米価高値に相成り、末々の者難儀至極に付き、下仁田、本宿両村の穀屋(米屋)を打潰し、続いて信州穀物囲い置き処(御蔵)の富人、並びに買置きの者共を打ち潰し米価豊かに仕るべく候以上」と記されたり。」
 「これ即ち此の騒動の導火線なり。而して此の騒動の由来は人民、連年の凶歉(きょうけん)(著しく不作)に苦しめる際、此の年七月浅間山の大噴火ありて、上州地方は特に其の惨害を被りしより、遂に無智の百姓等徒党を組み、暴力を逞(たくま)ふするにいたりしなり。初め、立て札の風聞、農民の口に依りて四方に喧伝せらるるや界隈次第に騒がしく、同月二十八日黄昏、妙義山麓の二本松付近に集会せる烏合の一団あり。」
 「其の首謀者何処の誰たるを知らざるも、其の指揮者より近村に向い「相談の趣きあるにより是非共出席を煩わす、万一出席之無き村々へは早速火を放ち焼き払うべし」との脅迫文を貼り札し、為に此の集会を生ぜしなり。而して此の烏合(うごう)団へ首謀者等馳せ参じ、群集を煽動せしかば一同忽ち付和雷同し、鬨(とき)の声を発して磯辺宿に押し寄せたり。これ即ち騒動の発端なり。」
 「此の騒動は同年十月六日まで続きしか、信州に進入せしは十月二日にして、渠等(首謀者)は此の日未明横河の関所を破り、勢いに乗じて碓井(峠)の峻嶺を越え、総勢二百七十人軽井沢に乱入し、口々に叫びて曰く「米があったら炊き出しをしろ」「若い者は一揆の仲間になれ」「言う事を聞かないと焼き払うぞ」と、斯くして騒動は南北佐久および小県に波及せり。」
 「同年十月二日より騒動始まり人の家を押し潰し、衣類諸道具残らず取り出し踏み潰し引裂き捨て、先ず一番に沓掛にて一軒潰し、其の節は人数に百人程相見え、夫より追分へ行き、問屋へ鳴込、村々先へ麻帯又は衣類を引裂き結び付け、是を梵天(頭取の標識)と号し、問屋に持たせ町中を加勢に付け、小田井宿へ行き鳴り騒ぎ、村中を加勢に付け、岩村田へ昼時行き、人数六百人と相見へ加勢出よと叫び、さもこれ無くに於いては村中残らず焼き払い申すべく等と騒ぐ。」
 「梵天を立て並べ大鞁(だいこ)たたき、ほら貝を吹き立て、吹き立て時の声を上げ岩村田を六軒潰し、酒屋へ鳴り込み、酒を大番切りの桶へ入れ、通へ持ち出しおや椀にて呑む。」
 「町中の商人の家毎へ押し込み、草履・草鞋なとは外へ投げ出し灯篭蝋燭いろいろの物を持ち出し、鳴り騒ぎに於いては、恐ろしくなり、加勢を出し、其の外見物なども出掛け大勢になる。」
 「当時一揆の群集は皆顔に煤を塗りて面相を変じ、身に襤(ぼろ)褄(つま)を纏い、手に斧、懸け矢等の凶器を携え、引裂き紙の纏を真っ先に立て、首領様(よう)の者全体を指揮し、鯨波(ときのこえ)をあげて戸板を叩き、法螺を鳴らす。」
 「而して十月二日午後岩村田(現佐久市)に至り、散々に狼藉を極め、志賀に出て、翌黎明南佐久内山村(現佐久市)に乱入せり。人数は途次脅迫に依りて参加せしもの多く、昼迄人数千人余りに相成り、(行く手で、次々に襲いかかり)、昼の四つ時平賀にて三軒潰し、其れより又左衛門に燈出しを致させ、昼九つ時下中込へ行き四軒潰し、焼出し、一間に致させ、是まで家数弐拾軒潰す。」


 二つ目に紹介するのは、西の方からのもので、美作津山藩での状況を振り返ってみたい。顧みるに、美作においては、初めは津山藩(森家)、その森家の領国支配が1697年(元禄10年)に「御家断絶」となった。その後には、美作の東部に当たるこの辺りは幕府天領(ばくふてんりょう)の支配下に入る。江戸期に、勝田郡が勝北郡と勝南郡とに分かれた後も、新野郷に属する各では入会地や用水などの管理を巡って、村の寄合組織が営まれていた。例えば、「新野山形村」(江戸期から(明治22年)の呼び名)は、宇喜多氏、小早川氏の領有から、「慶長8年津山藩領、元禄10年幕府領、宝英5年甲斐甲府藩領、同6年幕府領、天明7年下総佐倉藩領、寛政11年からは幕府領(同年~文化14年は播磨竜野藩預り地)。ただし、天保年間頃は幕府と上野沼田藩の相給ともいう(美作国郷中高帳)」(角川書店「日本地名辞典」)と変化した。これと隣あわせの「新野西上村及び新野西下村」(江戸期~明治5年)についても、「美作国勝北郡のうち、慶安4年新野西村が新野西中村・新野西下村と新野西上村に分村して成立した」後、「津山藩領を経て(一部は延宝4年津山新田藩領)、元禄10年幕府領、宝永5年甲斐甲府藩領、同6年幕府領(延享2年から因幡鳥取藩預り地)、延享4年からは常陸土浦藩領(延享3年からともいう)」(同)と、めまぐるしい変遷を遂げている。


 そこで、当時の戸の地域での農民の暮らしはどのようなものだったのかを紐解くと、1783年(天明元年)の津山町中で「うちこわし」度々起き、豪商などへの民衆による襲撃があった。1785年(天明3年)にも、津山町内に「米一揆」があったことが伝えられている。続いて、1797年(寛政9年)まで、幕府は美作に残る幕府天領の搾取を強めた。その翌年の1798年(寛政10年)、美作の天領二二八か村の代表格に広戸村市場分庄屋である竹内弥兵衛がいて、彼を中心に各村々の実情がつぶさに解き明かされ、五月には、幕府天領二二八か村の総代五人の庄屋を江戸表に派遣することに決めた。
 ここに美作の天領二二八か村の構成は、播州竜野脇坂氏の一時預り領としての勝南、英田、久米南条、久米北条四郡のうち七七か村が一つのグループ。二つ目は、久世代官所所管の大庭、西々条郡二郡六六か村のグループ。三つ目は、但馬生野代官所所管の勝北、西々条、吉野、東北条、西北条五郡のうち五五か村のグループ。四つ目は久美浜代官所所管の吉野郡三五か村のグループであった。このときの百姓の税減免の訴えは、紆余曲折の末の同年旧暦7月22日、老中松平伊豆守信明の籠を待ち受けての直訴に及んだ。この直訴は幕府に認められ、咎めもなかったと記されている。これを「美作の寛政の国訴」と呼んでいる。

(続く)

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○○216『自然と人間の歴史』18世紀後半における災害、飢饉(天明大飢饉、浅間山噴火など)(

2017-08-07 18:37:15 | Weblog

216『自然と人間の歴史』18世紀後半における災害、飢饉(天明大飢饉、浅間山噴火など)

 ところで、この時期には大いなる天災が重なった。1783年6月25日(天明3年5月26日)からの浅間山の大規模噴火であった。これのつながりについて、当地に残っている「信州浅間山大焼凶年にて佐久郡騒動覚書(騒動覚書)」には、こうある。
 「天明三年六月二十四日頃より、浅間山焼出し日毎に強く鳴り渡り、七月二三日の頃大焼け大鳴り、家々の戸障子殊の外に揺れ、夜に入り焼け登り候。」
 「八日の晩方より少々ゆれ静まり、夫より上州吾妻郡利根川の川上、浅間の北方より長さ十二間、横八九間、高さ二三丈の大石、十七里余り流れ出し、百姓家五十八カ村押し流し、上州五鈴村より二三里下、死人沢山出来し、其の外川筋へ死人大分かかり之有り候との事。
 碓氷峠人馬通路之無く、妙義、高崎、榛名辺りは砂四五寸降り、武州八王子、江戸惣家(草加)辺りは寺にも降り、浅間の鳴り音は一円二三十里四方へ聞こえ候との事也。」
 そして、これが、騒動へと発展していく。曰く、「天明三年九月十八日の夜、上州一ノ宮北方、人見ケ原に何人(なにひと)の高札を立て、「此の節至って米価高値に相成り、末々の者難儀至極に付き、下仁田、本宿両村の穀屋(米屋)を打潰し、続いて信州穀物囲い置き処(御蔵)の富人、並びに買置きの者共を打ち潰し米価豊かに仕るべく候以上」と記されたり。」
 この浅間山の大噴火の有様は、多くの絵師によって描かれている。私の現在住んでいる比企丘陵の金勝山からは、晴れの日にはこの浅間山が「おむすび」の頭の如くに見えているが、浅間山噴火の際には関東のかなりの範囲には火山灰が降ったのではないか。これに対する諸藩の対応は色々であった。あるところは、凶作の予兆がある年には、米価が高騰するのを見越して、領内の米を江戸や大坂に送ってできるだけ高く売りさばこうとしたり、商人たちも手持ちの米を売り惜しむ動きが見られた。そうなると、領内での米の流通が連鎖的に滞るようになって、多くの栄養失調の者、餓死者、離散者が出ることになっていった。
 この噴火があってからは、東北地方を中心に冷害が多発するようになっていく。関東においても天変地異が相次ぐ。例えば、1784年(天明4年)、武蔵国の上福岡新田村(現在の埼玉県神福岡市)の役人から「夫食」(食料)拝借を求める嘆願書が、次の文言にて川越藩に提出されている。
 「乍恐以書付奉願上候事
一、当村後小前御百姓、去ル寅年水損仕、又候去夏中、度々長雨ニ而(しかして)水損仕候、田畑格別違ニ而(しかして)、悉困窮仕候、依之小前御百姓夫食一向無御座、及飢ニ候躰之御百姓多御座候付、夫食御拝食願上候、何卒以御慈悲夫食御拝借被為仰付被下置候ハ者、相他偏ニ難有仕合ニ奉存候以上
天明四甲辰年正月
福岡新田、百姓代・善右衛門(印)、百姓代・惣右衛門(印)、組頭・市兵衛(印)、同 弥右衛門(印)、名主・権右衛門(印)、御代官御役所」(福岡新田、柳川哲家文書にして、埼玉県上福岡市教育委員会「市史調査報告書第6集、水害資料集成ー明治43年大水害を中心に」1995年3月収録より引用)
 1781年(天明元年)から1788年(天明8年)までの天明年間には、全国的には、あの「天明の大飢饉」があった。餓死者は数十万、飢えに晒された者はその数倍とも言われる。1750年2月当時の幕府による日本の全国人口調査の結果は、男が1381万8654人、女が1209万9176人、合計では2591万7830人であったから、大変な被害であったといえる。 
 1786年(天明6年)の被害は将軍の膝元である関東においても、深刻な状況であった。『徳川実記』は、こう伝える。
 「七月十七日の頃。ことしの春は日ごとに風烈しく。火災しげきこと常にこえしかば。四民ただ雨をのみのぞみしが。夏のほどより連日雨ふり風つよく不時の冷気にて。時の衣をきるものなし。のちには雨をやみなく神なりはためき。おどろおどろしかりしかば、又いかなることやいで来らんと。人ごとに安きこころもなかりしに。この月十二日より。わけて雨風はげしく。昨日の夕よりにはかに川々の水みなぎり来たりて、両国。永代をはじめ橋梁ををしながし、青山。牛込などいへる高燥(こうそう)の地さへも山水出で。屋舎をやぶるに至りければ(中略)
 まして郊塙(こうかく)の外は堤上も七八尺。田圃は一丈四五尺ばかりも水みち。竪川。逆井。葛西(かさい)。松戸。利根川のあたり。草加。越谷(こしがや)。粕壁。栗橋の宿駅までも。ただ海のごとく。森々としてわかず。岡は没して洲となり。瀬は変じて淵となりぬ。(中略)
 すべて慶長のむかし府を開かれしより後。関東の国々水害をかうぶることありし中にも、これまでは寛保二年をもて大水と称せしが。こたびはなほそれにも十倍せりといへり。
(後略)」(『徳川実記』の「しゅん明院殿御実記」巻五十五、1786年(天明6年)より引用)

(続く)

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○○224『自然と人間の歴史・日本篇』江戸中期の地方(備前、備中、美作など)

2017-08-07 18:24:21 | Weblog

224『自然と人間の歴史・日本篇』江戸中期の地方(備前、備中、美作など)

 では、田沼期から寛政改革期にかけての諸藩では、どのような治政が行われていたのであろうか。天明期には、全国的に飢饉が発生した。杉田玄白(すぎたげんぱく)が著した『後見草』(のちみぐさ、のちみちぐさ。上巻については、亀岡宗山が明暦の大火等について執筆)には、こうある。
 「扨此の後に至り御府内は五穀の価少し賎く成しか共、他国はさして替りなく、次第に食尽て、果は草木の根葉までもかてに成るべき程の物くらはずといふ事なし。或ひは松の皮をはぎ餅に作りて喰ふの由、公にも聞召し、飢を凌ぐの為なれば藁餅といふ物を作り喰へと触られたり。其の製法は、能わらのあくをぬき粉にはたきて、一升あらば米粉三合まぜ合わせ、蒸し搗て餅となし是を喰ふ事なりき。
 其の中にも、出羽、陸奥の両国は、常は豊饒の国なりしが、此年はそれに引きかへて取わけの不熟にて、南部、津軽に至りては、余所よりは甚しく、銭三百文に米一升、雑穀も夫に准じ、後々は銀拾弐匁に狗壱疋、銀五拾匁に馬一疋と価を定め侍りし由。
 然ありしにより元より貧き者共は生産の手だてなく、父子兄弟を見棄て我一にと他領に出さまよひ、なげき食を乞ふ。されど行く先々も同じ飢饉の折からなれば…日々に千人二千人流民共は餓死せし由、又出で行く事のかなはずして残り留る者共は、食ふべきものの限りは食ひたれど後には尽果て、先に死したる屍を切取ては食ひし由、或は小児の首を切、頭面の皮を剥去りて焼火の中にて焙り焼、頭蓋のわれめに箆さし入、脳味噌を引出し、草木の根葉をまぜたきて食ひし人も有しと也。
 又或人の語りしは、其ころ陸奥にて何がしとかいへる橋打通り侍りしに、其下に餓たる人の死骸あり、是を切割、股の肉、籃に盛行人有し故、何になすとぞと問侍れば、是を草木の葉に交て犬の肉と欺て商ふなりと答へし由。かく浅間しき年なれば、国々の大小名皆々心を痛ましめ饑を救はせ玉へ共、天災の致す所人力にては及がたく、凡そ去年今年の間に五畿七道にて餓死せし人、何万人と云数知れず、おそろしかりし年なりし。(中略)
 夏も過ぎ漸く秋に至りぬれば新穀も出来り世の中少し隠なり。されども昔より人の申伝へし如く、飢饉の後はいつとても疫癘必ず行はるとかや。今年も又其の如く此の病災にかかりては死亡する者多かりき。遥か程過侍れて後、陸奥国松前かたに罷りし人帰り来て語りしは、南部の五戸、六戸より東の方の村里は飢饉疫癘両災にて人種も尽けるにや、田畠は皆荒はてて渺々たる原野の如く、郷里は猶有ながら行通ふ人もなく、民屋は立並べど更に人語の響もなく、窓や戸ぼそを窺へば天災にかかりし人葬り弔ふ者もなく、筋肉爛れ臥もあり、或ひは白骨と成はてて煩ひ寐し其の侭に、夜の物着て転もあり。又路々の草間には餓死せし人の骸骨ども累々と重なり相合ひ、幾らともなく有けるを見過ごし侍ると申たり。
 かかる無慙の有様如何に乱離の後にても及ぶまじとぞ聞へしなり。此の躰に侍れば何時何の年耕作むかしに立帰り、五穀の実のり出来ぬべし、苦々敷世のさまなりとぞ申けり。又或人の語りしは、白河より東の方、此の一両年の凶作にて、婦人の月経めぐり来らず、鶏玉子を産ざる由、是も一つの異事なるべし」
 備前については、岡山藩がどっしりとその地理の大方を占めていた。その岡山藩では、1741年(寛保元年)には、鴻池が蔵屋敷で蔵物の売却出納の事務を扱う「蔵元(くらもと)」に就任している。そればかりか、1747年(延享4年)になると、売却代銀の出納と管理にあたる「銀掛屋(ぎんかけや)」までも鴻池(鴻池善右衛門)が担っている。鴻池は、1676年(延宝4年)から岡山からの米穀輸送も請け負っていたので、まさしく藩の財政丸抱えになっている感がある。これらの高利貸資本などは、また鉱山や農村に進出して、農民の階層分化を促進させていく。もちろん、改革についていけた一部の農民にとっては、生活向上に役立った面もある。けれども全体的には、商品経済の浸透に伴い、農村の疲弊はむしろ進んでいった。とりわけ深刻なのが、農村の人口減であった。松平定信により1786年の全国規模での戸口調査の結果が紹介されており、「(天明)午(うま)のとし、諸国人別改られしに、まへの子(ね)のとし(1780年(安永8年))よりは諸国にて百四十万人減じぬ。この減じたる人みな死(しに)うせしにはあらず」(松平定信の自叙伝『宇下人言』)とある。
 ところが、その西隣の備中は、新見、松山(高梁)、成羽、足守、浅尾、生坂、岡田、庭瀬、鴨方の各藩があった。同地域には天領や藩外大名の飛地などもあって、互いに境界が入り組んでいた。ここでは、その中から倉敷を取り上げたい。此の地は、1600年(慶長5年)の幕府発足のおり、幕府直轄の、いわゆる「天領」に組み入れられた。備中代官所が幕府支配の出先として置かれた。その翌年、代官、小堀正次(こぼりまさつぐ)による検地が行われる。1617年(元和3年)からは、天領から備中松山藩所領に配置換えとなる。ところが、1642年(寛永19年)に再び天領に戻る。領地を巡る紆余曲折、有為転変とはこのことなのであろうか。彼の地は、その後も一時大名領となったこともあるものの、以後明治までの大方の期間は幕府の天領として過ごした。
 倉敷では、江戸初期以来の「門閥商人」にかわって、「新禄商人」が歴史の表舞台に登場してくる。2015年夏を迎えた現在では、倉敷川に沿って白漆喰になまこ壁の土蔵や商家など蔵屋敷が建ち並んでいることから「美観地区」に指定されている。この辺りは、かつては海に浮かぶ小島と漁村であった、といわれる。地質年代的には、高梁川の土砂沖積作用による陸地化作用がある。そこに加え、江戸時代になってからの新田開発の干拓事業によって埋め立ての陸地はどんどん拡大してきた。南は現在の下津井(しもつい)にいたるまで、かなり大きな半島状の陸地が形成されている。
 ここに商業は、商品生産物を生産者から得て販売する機能をいう。商人たちが扱う品目について領主などによる封建的搾取がなければ、本来その販売は生産者なのである。したがって、そこでは生産者に属していた販売機能が彼らの権能から分離して、商業(商人)資本によって独立して営まれることになっている。そのかぎりでは、商業資本が得る所得は商品の購入者の所得からの控除ではなく、その源泉は生産者の所得から直接的に再分配されるべきものだ。ところが、農業生産物に封建的搾取が行われている社会においては、搾取者である武士階級などがこの関係に介在している。そのため、この仕組み本来の機能が見えなくなってしまっている。そこで、独立生産者(イギリスではかれらを「独立自営農民」と呼んだ)としての本来の機能行使からは、年貢や専売の対象になっている生産物を除いた、生産者の裁量で自由に処分できることになっている。
 そこで商業が成り立つためには、売買差益(商業マージン)が確保できなければならず、そのためには、いまその商品が価値どおりに販売されることを前提すると、商人は当該の生産物を生産者からその価値より安い価値で仕入れ、それを価値どおりに消費者に販売することで某かの利益を得ることができる。これを生産者視点からみると、自ら生産した付加価値のうちの費用を差し引いた部分を削って価値以下で商人に販売していると考えられてよいだろう。とはいえ、その農業生産者は自分が市場で買い手を探して販売するのに比べ、その販売を商人に委ねる見返りに自らの取り分を削った以上の利益が見込まれることになるのだ。
 16世紀頃までには、宇喜多による埋め立てにより、倉敷の村には陸地が広がっていく。高梁川の流す土砂の沖積作用によっても、鶴形山の周辺は急速に陸地化していく。それまでの鶴形山は瀬戸内海に浮かぶ小島であったらしい。この山の南麓に漁師や水夫の住む集落ができていた。干潟に残された水脈は干拓地を貫く水路となって海へと流れていた。この水路というのが、現在倉敷美観地区に始まって、児島湖に注いでいる倉敷川なのである。
 それからほぼ一世紀余りが流れて行く。この間にも、岡山藩などにより埋め立ては続いていく。高梁川からの土砂も下流へ、下流へと沖積していくのであった。1768年(明和5年)の頃には、ここは、備中における物流の動脈である高梁川があり、そこから引き込まれた倉敷川をはじめとする水路や運河に囲まれていた。また、1746年からは、それまで笠岡にあった代官所が倉敷の地に移された。備中、美作、讃岐の三国に散在する天領約60万石を支配する幕府の代官所が置かれ、年貢米などの物資の一大集地として今に残る蔵が建ち並ぶようになっていた。
 この間、倉敷村の村高としては、1601年(慶長6年)が619石であったのが、1630年(寛永7年)には1385石になっていた。それからまた年が経過して1772年(安永元年)に1834石になっていた。江戸初期の干拓によって石高が飛躍的に増えたのであろう。ところが、人口は1601年(慶長6年)に800人程度と推定される。それが1672年(寛文12年)になると2536人、1733年(享保18年)には5392人、さらに1770年(明和7年)にf6835人、それからも1838年(天保9年)に7989人^と増加していったと観られている。この人口増加こそが、倉敷への商業資本の蓄積、商人たちの集積を意味していた。
 このような環境変化に見舞われるくらい倉敷(村)であったのだが、この町の江戸初期から中期までは「古禄」と呼ばれる、13軒の地主的な性格ももつ、「門閥商人」たちが幅を効かせていた。しかも、この特権商人たちはその地位を世襲していた。13軒の中では豪農から転じた者が多かったのではないか。主な商人としては、紀国屋(小野家)、俵屋(岡家)、宮崎屋(井上家)などの名が伝わる。彼らは、その古くからの土着で培われた集団の力によって、庄屋、年寄り、百姓代などの村役人を世襲したのはもちろん、木綿問屋、米穀問屋、質屋などから始めた商売の網を此の地にめぐらしていく。
 そこへ、江戸期も中期、後半に入る頃になると、今度は、新たに干拓による農地の拡大、人口増加によって「新禄商人」と呼ばれる別の流れの商人たちが台頭してくる。彼らは、はじめは「綿仲買」で綿つくりの農民と結び付いたり、干鰯(ほしか)、干鰊(ほしにしん)売り、油売りなどの商いを賄いながら経済力を蓄えていく。いまも残る、美観地区に立ち並ぶ白壁の蔵屋敷群は、そうした新興商人らの富と権力(金によるものであって、武力によるものではなかったが)の象徴なのである。その具体的な姿の例としては、江戸中期頃より、綿作の発展によって新たに財を蓄積していく者が出てくる。これらの人たちは児島などの近郊から倉敷にやって来た者が多かったのではないか、とも言われる。彼ら25軒くらいは、彼らなりの団結を固めていく。そんな中、中心となったのは、児島屋(大原家)、中島屋(大橋家)、浜田屋(小山家)、吉井屋(原家)、日野屋(木山家)などの面々であった。やがて彼ら新興の勢力は、村役なども含め、あれやこれやで名実を要求するようになっていく。つごう、1790年(寛政2年)から1828(文政11年)にかけて勢力争いを繰り広げた結果、大方ことでは新録派の勝利に終わったのだとされる。
 念のため、かくも急速な発展を助けたのは、倉敷村の置かれていた利便さなのであった。ここに「倉敷」というのは、当初から小さな運河があって、これがだんだんに発展させられてゆくに従い、運河の網上の展開となってで運送の便が整えられていくのであった。では、品物としては、どこから運んできたものが、ここを経由してどこへと運ばれていったのだろうか。これの全体の流れについては、ここに集積された品々は舟運でもって瀬戸内海に面した下津井などの湊へと運ばれ、そこから大坂などの大消費地に搬出させれていた。 果たして、その湊の一つであった下津井には、早くから備前や備中の産物、それに加えて北国産の金肥(干鰯や干鰊)を扱う大問屋の蔵や倉庫(「鰊倉」(にしんぐら)とか呼ばれていた)がずらりとを並んでいるのであった。ここに「北国産の金肥(干鰯や干鰊)」とあるのは、当時の北前船のブームにのって、北海道や東北の海産物が日本海を南下し、下関を回って大坂方面へ盛んに運ばれていたことがある。これには次、城山三郎の論考「銭屋五兵衛」にみられるように「巨利」がついていた。いわく、「北前船業者は、ただ物資を運ぶだけの海運業者ではない。運賃のもうけも大きいが、それ以上に、商品の価格差でもうけることが大きい。北海道の海産物などを関西に持ってくると、仕入値の三倍から五倍に熟れることも珍しくなかった」(「幕藩制の動揺」日本歴史シリーズ16、世界文化社、1970)とある。
 それが、1790年(寛政2年)の村方騒動では、このあたりの農民たちと新興商人とが結び付いて、従来の経費の村割りに村民が参加することを要求するに至り、村役人の罷免と選挙制の実施へと動いていく。それに応じて、古い制度と結び付いていた特権商人の問屋の経済力を削いでいくことが目指された。ついには、「新禄派」と呼ばれた25軒の振興商人たちが古禄派による独占支配の撤廃を幕府へ訴え、長い闘争の末に勝利していくことにもなっていく。

(続く)

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○○215『自然と人間の歴史・日本篇』寛政の改革(1786~1793)

2017-08-07 18:17:28 | Weblog

215『自然と人間の歴史・日本篇』寛政の改革(1786~1793)

 1786年(天明6年)に田沼が幕閣を失脚した後には、将軍吉宗の血脈(孫、過ぐる日、田安家からだされ白河藩主となっていた)の松平定信(まつだいらさだのぶ)が、なかなかの意気込みで筆頭老中に就任する。それから1787年(天明7年)から定信が突然老中を辞任する1793年(寛政5年)までの間に進められるのが、「寛政改革」(かんせいのかいかく)と呼ばれる。
 最初に、寛政改革期の農村向けの政策としては、何が行われたのだろうか。まずは1789年(寛政元年)に出された出稼ぎ禁止令、それから1793年(寛政5年)にかけては「旧里帰農令」や『出稼ぎ奉公人制限令』をだすに至るが、それにはこうあった。
 「一、陸奥・常陸・下野国村々の儀、御料・私領共近年困窮に及び、別て去る卯年凶作以後は人数も格別に相減じ、耕作も行届兼ね候趣に相聞き、畢竟 人少よりの事と相聞き候間、右三ケ国の内人数不足にて、手余荒地等もこ れ有る場所よりは、以来奉公稼等に出でざること。(中略)
 一、御料所村々の内人数少なにて、手余荒地等これ有る村々より他国へ出で、奉公稼等いたし候者は、年季明の節は帰村致させ、尤も貧窮の者にて、農業成り難き者は糺の上御手当下され候積り、且軽罪の者にて、是迄、其村々に差置かざる者の内にも、其村々の害に相成らざるもの帰村の儀、村々 一同相願ひ候類は、猶又糺の上帰村致っせ候積りに候間、私領村々にても 右体の類帰村致させ度く存じ候分は、得と吟味の上、御料は御代官、私領 は領主・地頭へ願出るべく候」(『徳川禁令考』)
 要は、「百姓は活かさぬように、殺さぬように」という前提に立ちつつ、すでに享保期から疲弊しつつあった本百姓の生活再建をねらって、農業生産の担い手である農民の土地定着を促したのである。
 けれども、農村へ帰って仕事をせよ、農村を捨てて出ることはならぬとやかましく説くだけでは、問題の解決にはならない。そう考え、次の措置を含む。
 「在方より当地え出居候者、故郷え立帰度存じ候得共、路用金調難く候か、立帰候ても夫食・農具代など差支候者は、町役人差添願出づべく候。吟味の上夫々御手当下さるべく候。若村方に故障の義これ有るか、身寄の者これ無く、田畑も所持致さず、故郷の外ニても百姓に成申し度存じ候者は、前文の御手当下され、手余地等これ有る国々え差遣し、相応の田畑下さるべく候。妻子召連(めしつ)れたき旨相願わば、その意に任すべく候。」
(『御触書天保集成』)
 ここに「在方」とは、村もしくは地方、「夫食」とは食料、「手余地」とあるのは「耕作者のない農地」のことをいう。要は、「吟味の上夫々御手当下さるべく候」、さらに「手余地等これ有る国々え差遣し、相応の田畑下さるべく候」ともいって、公儀のの方から某かの生活支援をさしのべるに至っている。あわせて、1790年(寛政2年)には凶作に備えるための囲い米の奨励が始まったりの他、助郷役及び村入用の軽減を打ち出したり、種々の名目での公金を低利で貸したりで、実に多彩な施策が講じられていたことが伝わる。
 次に、都市部ないし武士、町人などに対しては、どのような政策がとられたのであろうか。その内容のめぼしいところでは、1789年(寛政元年)の棄捐令(きえんれい)があった。
 これについては、『御触書天保集成』に、こうある。
 「寛政元酉年九月 大目付え
此度御蔵米取御旗本御家人勝手向御救のため、蔵宿借金仕法御改正仰せ出され候事
一、御旗本御家人蔵宿共より借入金利足の儀は、向後金壱両ニ付銀六分宛の積 り、利下ゲ申し渡し候間、借り方の儀は是迄の通り蔵宿と相対に致すべき事
一、旧来の借金は勿論、六ケ年以前辰年までニ借請候金子は、古借新借の差別 無く、棄捐の積り相心得べき事。(中略)
一、去る巳年以来、当夏御借米以前迄の借用金済まし方の儀は、元金の多少に 拘らず、向後壱ケ月五拾両壱分の利足を加へ、高百俵に付壱ケ年元金三両づ つの済まし方勘定相立て、尤も百俵内外共并借金高済まし方割合の儀も右に 准べき事…
 右ケ条の趣、向後堅く相守り、御旗本御家人とも成るべく丈、借金高相増さざる様心掛け申すべく候。前条の通り、借金棄捐利下げ等仰せ出され候上は、一統猶更厚く相慎み、倹約等別して心掛け申すべく候。右体の御仁慈をも相弁へず、不正の事聊にても之れ有るに於ては、急度御咎仰せ付けらるべく候。勿論是迄の借金棄捐並済方等に儀に付、異論ケ間敷儀これ無く候様、明白に対談致すべきもの也。
 寛政元年九月
 右の趣、万石以下の面々江相触れらる可く候」(『御触書天保集成』)
 その当時、札差(ふださし)といわれる、米商人は、旗本、御家人の米を売却し、お金に変えるという仕事の他に、旗本、御家人にお金を貸すこともやっていた。武士はというと、しだいに貨幣経済にのめり込んで、借財がかさんでいくのであった。このため、武家下流を中心に、生活困窮者が増していった。そこで、この法令の文言にあるとおり、田沼時代から力を蓄えてきていた株仲間の力を削ぐことを目指した中でも、札差からの旗本などの借金を、5年より前のものを限り破棄するという「荒療治」を断行した。とはいえ、
それだけでは札差の経営が立ちゆかなくなることも予想されることから、かれらのために資金の貸付機関である猿屋町会所を設け、低利で融資させることにした。猿屋町会所の設置に必要な資金は、江戸の豪商10名を「勘定所御用達」に任じるという「アメ」を与えて、そのみかえりに出資を促したと伝えられる。
 さて、1786年からその翌年にかけて、関東でも飢饉が起こった。これにより、米価が高騰を来した。これによってもたらされた社会の疲弊を前に、危機感をもった幕府は1790年(寛政元年)に「高壱万石に付、五十石の割合を以て(中略)囲穀(かこいこく)いたし」(『御触書天保集成』)、つまり米価下落のためのために「翌年から10000石につき米50石の割合で5年間囲米せよ」と全国の諸大名、地方の幕府領を預かる代官所に指示を下した。
 翌1791年(寛政3年)には、「七分積金」(しちぶつみきん)の政策を講じるに至る。その内容だが、『宇下人言』によると、こうある。
 「江戸町々、町入用とて無益にこれまた入用かゝりたり。これによって、近年の入用をならして、其の事々簡易渋らざる様に奉行所にてさたせしかば、その入用多く減じぬ。その減じたるうちの七分は、町々永続かこひ籾つみ金の料として、年々のけをかれ、上よりも御金壱万両町々へ下され、これまたつみ金とともにかし付け、或ひは籾をかひ納め、または鰥寡孤独なんどのよるべきもの、又は火にあふて家たつべき力なき地主なんどへ下され料に仰出せらる。猶のこる三分のうち、一分は町入用のましに下され、二分は地主へ下さる。これまでかしやなど住めるもの軒毎にあくたせん・番銭とて出して、実はその入用にもならず、故にこの役銭をゆるされしなり。これまたその積金囲籾一とせにても少なからず。
 年をおひ侍らば、いか計りかの備になり侍らん。まづあらましかうやうほどにも饑饉の御備あれば、俄に乱階ともなり侍るまじき哉。此の入用といふは地主の出すなり。たとへば此の町は地代店ちんの上り高いかほど、うち町入用いかほど、地主の全くとるべきはいかほどと定りて、これらを家守なんどがはからひて町入用を弁ぜしなり。しかれば此の入用を減じて、その一分は町入用にさし加へ、二分は地主の増手取とし、七分はその町々にて囲籾積金になして、凶年の備とし、または鰥寡孤独なんどにほどこし与ふるなり。故に上納などいふことにはあらず。豪富の町人并びに江戸町々地主のうち五人づゝこれをつかさどりて納払をなすなり。
 さるにそのころに仰出され候を、たゞ上へ聚□せらるゝやうに思ひたがひて、あるはかくのごとく金銀上へあつまらば、天下の通用の金少なく成るべし、またはその減じたるも書面にて実の減はさしてもなければ、その七分とていだすも、地主の別にいだすにあたり侍れんどとさまざまいひのゝしりて、人々こはいかゞあらんこの事行はるまじきかといひやひたり」
 これにあるように、都市の貧民救済と低利での金融のため金を積み立てるものであり、「囲米」(かこいまい)の都市版であった。江戸の地主に命じて、かれらが負担する町入用(まちにゆう よう、町費)を倹約させ、その倹約分の七割を町会所に積み立てさせる。そして、その節約させた「町入用」により救貧基金をつくらせ、飢饉が発生した際の都市窮民救済(家持町人への低利融資、つまり利殖運用したものを含む)に用立てることにし、その救済対象には侍身分での御家人も含めたのである。
 さらにこの時代、社会政策にも、目新しいものが出てくる。江戸に限ったところでは、1790年(寛政2年)旧暦2月、老中の松平定信は石川島に人足寄場(にんそくよせば)を開所する。これを建言したのは長谷川平蔵だとも言われるものの、松平定信が長谷川の才智を見つけて命じたのではあるまいか。直参旗本の彼は、通常の仕事に上に「火付盗賊改方」も兼ねていた。さらに、この役を仰せつけられた平蔵は、この人足寄せ場に、軽犯罪者のほか無宿の人たちも入所させる。こうすれば、収容者を江戸市中から隔離するとともに、逃亡を阻止するにはうってつけのものとなる。江戸やその近郊地域の治安を守るばかりでなく、放置すれば犯罪の温床になりかねないかれらを、うまいこと幕府の管理下におくことができるのではないか。当時の石川島は、江戸の隅田川河口にあった砂州というか、川中島のような場所であったらしい。
 とはいえ、この事業により、かれらに大工、指し物、塗師など、出所後の自立のための技術を授け、行政として、なんとかこれらの人達に人としての再生の機会を与えようとしていたことが窺える。きっちりした作業に対しては、それなりの給金も支払われたことがわかっている。1792年(寛政4年)旧暦6月、定信は平蔵の任を解くとともに、新たに「寄場奉行」を新設し、村田鉄太郎を初代の奉行に任命する。これによって、定信・平蔵のコンビで手掛けたこの仕事は臨時扱いを抜け出し、幕府の恒常的事業となったのである。現代でいうと、刑法内での教育刑へ発展するきっかけにもなったのではないか。
 そんな定信の幕政改革で、当時から一般庶民に人気がなかったのが、学術文化政策である。『徳川禁令考』には、こうある。
 「学派維持ノ儀に付申達  林大学頭え
 朱学の儀は、慶長以来御代々御信用の御事にて、已に其方家、代々右学風維持の事仰せ付置れ候儀に候得者、油断無く正学相励み、門人共取立て申すべき筈に候。然処近来世上種々新規の説をなし、異学流行、風俗を破り候類これ有り、全く正学衰微のゆえに候哉、甚だ相済まざる事にて候。其方門人共の内にも、右体、学術純正ならざるもの、折節はこれ有る様にも相聞え、如何に候。
 此度聖堂御取締厳重に仰せ付られ、柴野彦助・岡田清助儀も、右御用仰せ付られ候事に候得者、能々此旨申し談じ、急度門人共異学を禁じ、猶又、自門に限らず他門に申合せ、正学講窮致し、人才取立て候様相心掛申すべく候事。
 寛政二年五月廿四日」(『徳川禁令考』)
 これによると、「正学」とのお墨付きのある、儒学の一派である朱子学(しゅしがく)のみが奨励され、その他の学問、例えば陽明学(ようめいがく)などは「学術純正ならざるもの」の部類に入れられてしまう。それでは、正とそうでないものとの見分け方は何なのであろうか。その答えは、この達しの中からは覗い知れない。それは、施政者の胸先三寸にある、といったところか。1790年には出版禁止令ができ、以後、文学や評論などにひっかかるものが出てくる。文学では、山東京伝による洒落本『仕懸文庫』が禁止され、本人も一時囚われの身になる。また、浮世絵にも厳しい吟味が加えられる。さらに林子平の時論である『海国兵談』が絶版に追い込まれる。こうなると、追々、庶民生活の細々としたことにも監視の目が向けられていく。いつしか、市中の巷(ちまた)では、「白河の清きに魚のすみかねて/もとの濁りの田沼こひしき」とか、「世の中に蚊ほどうるさきものは無し/ぶんぶといふて夜も寝られず」の如き、川柳(せんりゅう)などによる民衆の不満が募って、渦巻くようになっていったと考えられる。

(続く)

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○○211『自然と人間の歴史・日本篇』全国に蔓延する飢饉・飢餓(18世紀前半)

2017-08-07 18:12:10 | Weblog

211『自然と人間の歴史・日本篇』全国に蔓延する飢饉・飢餓(18世紀前半)

 1707年(宝永4年)には富士山が噴火した。東海地震と連動したとも言われている。高く舞い上がった火山灰は、偏西風に乗り江戸に運ばれて降ったと伝えられる。新井白石の著書『折たく柴の記』にも、次のように書かれている。
 「よべ地震ひ、此日の午後雷の声す。家を出るに及びて、雪のふり下るがごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起りて、雷の光しきりにす。西城に参りつきしにおよびては、白灰地を埋みて、草木もまた皆白くなりぬ・・・・・」
 関東平野の火山灰層は、は富士山や浅間山の火山灰が堆積してできたと言われている。それまでの噴火で大きいものとしては、864年(貞観6年)夏の「貞観(じょうがん)噴火」がある。そのときは、富士山北西麓の現在の一合目から二合目付近にかけて割れ目噴火が起こり、大量のマグマを噴出し、溶岩流がふもとの地形を変えてしまうほど大規模なものであったことが知られている。宝永噴火では、富士山南東山腹の五合目付近から轟音とともに黒い噴煙が渦を巻いて立ち上ったことになっているが、近隣に住んでいた人々は空が闇空となり、轟音に身体が震わされたりして、さぞかし驚き、恐怖にかられたことだろう。
 1732年(享保17年)には西日本で蝗(いなご)の大量発生などによる稲作の収穫減少があり、同地域の46藩を中心に数万人の餓死者が出た。これ以後、かなりの頻度で凶作が続いた。

(続く)

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○○209『自然と人間の歴史・日本篇』18世紀~19世紀前半の諸藩の改革(米沢藩、長州藩)

2017-08-07 18:06:33 | Weblog

209『自然と人間の歴史・日本篇』18世紀~19世紀前半の諸藩の改革(米沢藩、長州藩)

 米沢藩の藩政改革は、上杉鷹山(うえすぎようざん)の政治経済ら臨む姿勢によるところが多かった。藩政改革は、1767年(明和4年)に始まり、1823年(文政6年)に一応の成果をを見た。彼の改革に向けてのユニークさとしては、「自助」、「互助」、「扶助」の合わせ技がある。これらのうち「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を発揮した。
 1782年(天明2年)の長雨が春から始まって冷夏となった。翌年も同じような天候不順が続いた。これに対し米沢藩は、直ちに対応を実施した。一つは、藩士・領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺(しゃく)の割合で支給した。食糧をできるだけ平等に分けようとする試みは、身分制社会ではなかなか類を見ない、画期的な出来事であった。二つ目は、酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止した。この策では、評価が若干分かれるかもしれない。酒米を使って酒を製造するよりも、食糧として役立てることを優先したのは、偉い。三つ目は、比較的被害の少ない酒田(さかた)、越後(えちご)から米の買い入れ。不作による供給減少により米価格がどのくらい上昇していたのであろうか。商人たちの協力も必要であった。これには、相当額のカネがかかった筈だ。
 米沢藩ではこのような扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出なかったと伝わる。当時、近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、仙台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされる中での出来事であった。それだけでなく、飢饉となれば他藩からも難民がやって来る。鷹山はこのような苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じたという。鷹山が種を蒔いた自助、互助、扶助の「三助」の方針は、こうした難局をくぐり抜けつつも、同藩の財政再建は後退するどころか、逆に漸進していったのである。
 長州藩での最初の改革は、江戸時代中期に行われた。長府(府中)藩第8代藩主の毛利匡敬(もうりまさたか、、1725~1789、毛利毛利匡広(まさひろ)の10男)が、跡取りのいなかった宗家の毛利宗広(もうりむねひろ)が1751年(宝暦元年)に卒した後を継ぎ、長州藩7代藩主の毛利重就(もうりしげなり)となる。その頃の長州藩の財政は、俗に言うところの「火の車」の状態であった。藩の負債は、一説には「銀約三万貫目といわれ、毎年の経理はその支払いを含めて、米十三万四千石および銀一万一千貫目ばかりの赤字になる計算であった」(児玉幸多・北島正元編「物語藩史6」人物往来社、1965)という。
 藩主に就任した重就は、さっそく倹約令を出している。藩士の家禄をカットすることに執心した。しかし、これだけではどうにもならない。1752年(宝暦2年)に初めて領国に帰り、人材の登用を始めた。翌年、実兄の毛利広定を藩政改革の当職、梨羽広云をその副として、実地の責任者に任命する。本格的な藩の財政改革の着手としては、1758年(宝暦8年)に諮問により藩主宛に提出された坂時存の直言(答申書)によった。坂時存は翌年81歳で卒したものの、重就は心細さに怯むところなく、「獅子御廊下の会議」でこの政策立案を煮詰めて、ついに防・長二国の検地を行うことに決定する。
 1687年(貞享4年)の前回の検地からすでに70年以上を経過していたのを踏まえ、1761年から1764年にかけて萩藩内の土地の調査を実施する。これを「長州藩の宝暦検地」と呼ぶ。これにより、およそ4万石の増収に成功する。すると、この増収分の中から4万石を一般会計とは別の特別会計として蓄え、新事業のために充てることにする。そのための担当として、城内に一局、「撫育方」(ぶいくかた)を新設する。これにより年年の増高からえられる租税その他の収入は、守り抜くべき藩の「基金」とみなして、撫育方にその管理を任せる。
 その撫育方には、優れた人材が配置された。そして、毎年入ってくる税を非常時のための基金として蓄財していく。単に溜め込んでいったのではない。固くながら、その一方では柔軟かつ大胆に塩田開発や港湾の新設、整備、干拓(開作(かいさく))などに投資をすることで、資金を有望と思われる事業を興し、運用していく。これによってつくられた資金を用いて製塩業も興されていった。そこには越荷方・貸銀所が設けられた。ほかにも、製蝋事業を基幹に据える地域産業計画が立案されてたものの、計画実行に漕ぎ着ける迄には至らなかった。こうして多くの業績を生み出していく撫育方の基金だが、その後も歴代の藩主によって守り抜かれていく、そのことによって幕末からは江戸幕府を倒幕するための同藩資金の拠り所の一つとなっていくのであった。

(続く)

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