尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「物語 近現代ギリシャの歴史」

2012年03月06日 00時39分24秒 |  〃 (歴史・地理)
 2月の中公新書新刊。村田奈々子「物語 近現代ギリシャの歴史」。ギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスが1月に交通事故で逝去して、ここでも追悼を書いておいた。(「追悼テオ・アンゲロプロス」)その「アンゲロプロスの訃報に接した日に」とある「おわりに」を持つ本。これでギリシャ現代史について大体わかると言う本である。アンゲロプロスの追悼上映も池袋・新文芸坐で企画されている。まずはこの本で勉強しておきたいなと思った。

 読んで思ったのは、19世紀初頭のギリシャ独立というのは、まったく列強の都合で成立した出来事だったということ。19世紀ヨーロッパの歴史は、国民国家の発展、帝国主義化という道筋で、イギリスやフランスを中心に語られる。ドイツやイタリアは統一が遅れ「遅れてきた帝国主義国」になる。そういう中で、19世紀初めにオスマン帝国に対するギリシャ独立運動が起こり、いろいろあったあげく1830年に一応の独立を認められる。だから、なんとなく「ギリシャという国民国家」がここに「復活」したかに思ってしまう。今まで実は僕もそう思っていたのである。

 でも、よく考えて見れば、確かにギリシャという国はそれまで歴史上にただの一回もなかった。古代にあったのはアテネやスパルタと言う都市国家(ポリス)だし、その後はアレクサンドロス大王の支配からローマ帝国へ、そしてローマ帝国分裂で東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の千年間、そしてオスマン帝国である。であるならば、ギリシャ人にとっては、復活すべきは「古代の栄光」なんかではなく、正教にもとづく「ビザンツ帝国の復活」だという考えも多かったとしても不思議ではない。今では、ギリシャの首都と言えば、第1回のオリンピックを1896年に開いたアテネに決まってると世界中が思ってるだろう。でも当時は、ギリシャ人の真の首都は「コンスタンティノープル」(イスタンブール)であるべきだ、と考えていたギリシャ人が多かった。そういう「大ギリシャの建設」をめざす「メガリ・イデア」が20世紀前半までのギリシャ人の夢だった。

 この夢はある程度は実現し、テッサロニキなどマケドニアやクレタ島などは獲得するが、結局はコンスタンティノープルの奪還とエーゲ海東岸(イズミルなど)獲得はあきらめなくてはならなかった。最終的には第一次世界大戦後の話となる。その間、オスマン帝国をめぐってはバルカン半島で何度も戦争があった。その時代を首相としてギリシャ近代化を目指した大政治家が、エレフテリオス・ヴェニゼロス(1864~1936)という人である。パリの空港が「シャルル・ドゴール空港」であるように、アテネの国際空港は「ヴェニゼロス国際空港」というのである。1910年に首相になって以来、都合9回首相をつとめ、行政、教育、司法などの近代化をはかった。この本でも第4章全体が「闘う政治家ヴェニゼロスの時代」となっている。でも、この人の名前知ってた人、ほとんどいないでしょう。

 ヴェニゼロスはもともとクレタ島の生まれで、クレタ島がまだギリシャ領になっていない時代に本国に招かれて首相となったと言う人である。本国の伝統的支配層の人ではなく、近代化政策が抵抗を買うことも多かった。第一次世界大戦にあたっては、国王が中立を主張し、ヴェニゼロスが連合国側での参戦を主張した。それ以後、ずっとヴェニゼロス派と王党派にギリシャ政界は二分され政争が絶えなかったという。そういう政治風土を作ってしまったとも言える。(なお、ギリシャ独立にあたっては、列強によって王政が選択され、ヴィスコンティの映画にもなって有名なバイエルン国王ヴィルヘルム1世の次男オトンが初代国王に招かれた。しかし失政が多くクーデタがおこり1863年に廃位され、17歳のデンマーク王子が国王に就いた。ゲオルギウス1世。以後、数代続いていくが、1974年軍事政権崩壊後に国民投票で王制廃止。)

 第二次世界大戦では、まずイタリアに侵攻され、続いてナチス・ドイツに占領された。王室と政府はカイロに亡命政府をつくるが、国内では共産党系のゲリラ組織が勢力を広げていた。ティトーを中心に自力で解放したユーゴスラヴィアと同じく、自ら解放することもありえなくはなかった。しかし、ギリシャの地理的重要性からイギリスはギリシャの共産化を認めず、スターリンもギリシャをイギリス勢力圏と認める。こうして、国内で「兄弟殺し」の内戦が始まるのである。そして軍による「白色テロ」が横行し、政治犯があふれ多くの人々が銃殺されていった。隣国ユーゴスラヴィアがソ連と対立するようになって、ギリシャ共産党はソ連を支持したためにユーゴの支援がとまり、ついに展望がなくなった左翼勢力は壊滅し、10万人近くが亡命したという。こうした事情は、台湾で1947年に起こった「二・二八事件」後の情勢、あるいは1948年に韓国済州島で起こった「四・三事件」などを思い起こさせる。どちらも数万人の犠牲者が出たという。

 その後1967年に軍事政権が成立し数多くの人権侵害が起こった。1974年にキプロス問題で行き詰り軍事政権が崩壊して、ようやく安定した民主主義の時代がやってくる。しかし、その後もなかなか大変である。軍事政権崩壊後、王制廃止、EU(当初はEC)参加を主導したのは、保守派のカラマンリスで首相、大統領を務めた。右派の新民主主義党は甥のコスタス・カラマンリスが継いでいる。2004年~2009年に首相。一方、左派の方では、ゲオルギオス、アンドレアス、ゲオルギウス=アンドレアスと三代のパパンドレウ一族が首相を務めている。なんだかインドのガンディー家みたいな政治状況である。

 1981年、全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が勝利して、アンドレアス・パパンドレウが首相に就いた。野党時代はNATOやECからの脱退もありうるような主張を掲げてナショナリズムを主張していたようだが、政権についたら野党時代の主張は引っ込めてしまったという。一方、内政では女性の地位向上などを進めるとともに「特権なき人々」のための政策を推進した。しかし、それは国民の中に「パトロン・クライアント関係」を拡大してしまい、年金、保険、賃金などの充実を続けて行ってしまう。そこに現在の経済危機にいたる直接のきっかけがある。(しかし、もっと長い目でみれば、産業なき辺境地域が「古代の栄光」という神話によって「国民国家」の地位を与えられたという歴史的事情が前提にある。)しかし、この外交と内政の問題は、「政権交代」後の民主党を見てみると他人ごとではないなあと思った

(なお、追悼文では「ギリシア」と書いた。ギリシアとかペルシアというのは「教科書的書き方」なのである。どっちでもいいと思うけど、今回は書名にあわせてギリシャと書く。)
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