尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・蜷川幸雄

2016年05月12日 21時34分06秒 | 演劇
 12日の夕方、突然蜷川幸雄の訃報が飛び込んできた。(1935~2016)80歳。今日は午後から免許の更新に行ってから、フィルムセンターで「喜劇・団体列車」という飛びきり面白い喜劇を見た。そのまま帰って、大相撲の終わり数番を見ていたら、突然「ニュース速報」が流れた。そんなに見たわけでもないし、まとめて来月書けばいいような気もしたが、考えてみれば「ニュース速報」で報じられるような演出家が他にいるだろうか。演劇界に止まらず、文化全般を通しても数少ないだろう。そういう人の場合、自分で書くことが少なくても書いておくべきだろうと考えを変えたわけである。

 蜷川幸雄は1935年(昭和10年)10月15日に生まれた。同年生まれに、大江健三郎小澤征爾寺山修司がいる。あるいは美輪明宏や赤塚不二夫が。(はたまたエルヴィス・プレスリーも。「世界で一番貧しい大統領」のホセ・ムヒカやウッディ・アレンも。)これらの顔ぶれをみると、若くして文化の各分野で世界的に認められたり、革新者として世代の代表となった人がいる。蜷川幸雄もそういう世代の一員だったと言える。音楽、美術、映画、文学などと違い、日本の現代演劇が世界で認められるには時間がかかった。当然だろう。「持ち運び」が一番難しい。だからこそ、「ニナガワ」の功績は限りなく大きい。シェークスピアを日本風に演出して英本国で認められるなど、もう誰にもできないのではないか。

 最初は俳優だった。劇団青俳に所属したが、1967年に現代人劇場を結成した。1969年の清水邦夫作「真情あふるる軽薄さ」が最初の演出である。どこでやったかというと、新宿文化である。(今の角川シネマ新宿、シネマート新宿の入ったビルの場所にあった映画館。)ATG系映画館だった新宿文化は、上映後に演劇上映を行っていた。支配人だった葛井喜四郎の「遺言」(2008、河出書房)という抜群に面白い本があるが、その資料にあるリストを見ると、1969年9月10日から22日に上演されている。出演者は岡田英次、真山知子、蟹江敬三、石橋蓮司など。真山知子という人は、蜷川夫人になった人。何と豪華な顔ぶれだろうと思うが、御代は400円なんだから驚く。そして、以後続々と清水作品を手がけ、騒然たる若者反乱の季節に大評判となった。1970年の「想い出の日本一萬年」、1971年の「鴉よ、おれたちは弾丸のこめる」、1972年の「僕らが非情の大河をくだる時」、1973年の「泣かないのか? 泣かないのか一九七三年のために?」と続き、そしてそこで一つの季節が終わった。

 僕はもちろん、これらの舞台を見てはいない。中学生、高校生だったのだから、新宿のレイト公演に行くのは無理である。ATG映画のゴダールや大島、寺山映画は見ていたが、それは有楽町の日劇文化で見たのである。新宿文化そのものに一度も行ったことがない。でも、「そういう方面」に関心がある高校生には、蜷川幸雄の名前はもう届いていたということが言いたいのである。

 俳優時代の蜷川はいくつかの映画、あるいはテレビに出ている。大河ドラマにも何本か出ている。「暗殺」(篠田正浩)や「とべない沈黙」(黒木和雄)など映画史に残る作品にも出ているが、端役が多い。僕の記憶にあるのは、吉田喜重監督が北海道を舞台に撮影した「樹氷のよろめき」という映画。主演の岡田茉莉子の愛人役で、夫役の木村功に続いて、三番目にクレジットされている。吉田監督は僕の好きな監督で、監督特集で見た時に、ずっと出ているこの人はどこかで見たと思い、よく考えたら蜷川幸雄の若い顔だった。また「Wの悲劇」(澤井信一郎)という、薬師丸ひろ子主演の傑作映画の「劇中劇」の演出家で出ているのは有名。劇中劇の演出もしている。この映画は面白く、今でも劇場上映される機会が多い。何度も見る価値がある映画。

 清水邦夫作品を卒業してどうなるかと思ったら、「商業演劇」に進出した。思った以上に大成功し、シェークスピアやギリシャ悲劇を初め、ものすごくたくさんの作品を手がけた。それらの多くは、新聞の劇評で読んだり、NHKの中継で見たけれど、ナマでは見ていない。いくつかは見ているが、本格的に論評するほどのことは書けない。何で見てないかというと、学生には高く、仕事に就くと多忙だったからである。そして、近年になると本拠が「彩の国さいたま芸術劇場」となり、ここはちょっと僕には遠い。週末はすぐ売り切れるし、是非見たいと思った「海辺のカフカ」も見逃してしまった。昨年、一昨年になっても、10本近い作品を演出している。何という驚異のエネルギーだろうと思い続けていた。

 蜷川の生涯をもとに藤田貴大が書いた作品が上演予定とされながら、体調不良で延期されていた。そのことに何か不吉なものを感じないではなかったが、それは「もう舞台に戻って来れないのではないか」ということで、まさか突然の訃報に接するとは思っていなかった。今多くの人が「演出家」として知っているのは、蜷川幸雄だけではないだろうか。(鵜山仁や栗山民也や宮田慶子などの名前を知っている人は決して多くはないだろう。)僕らは演劇を見る時に、「これは井上ひさしの劇だ」などと劇作家の作品のように思うことが多い。映画の場合は逆に、脚本家の名前は知らないのに、映画監督の名前の方が知られている。そこに舞台芸術と映像表現の違いがあるのだろうが、ここで書く余裕はない。これほど破格の人物の評価は僕の手に余るが、今後多くの人がさまざまなことを語るだろう。ゆっくりと思い返してみたいと思う。
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