尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ジャ・ジャンクー監督「山河ノスタルジア」

2016年05月28日 22時51分34秒 |  〃  (新作外国映画)
 今の中国で一番注目すべき映画監督だと思うジャ・ジャンクー(賈樟柯、1970~)の「山河ノスタルジア」(原題「山河故人」)。(渋谷の東急文化村で、6月10日まで上映。)中国社会を考えるために重要な作品だから、関心のある人は見逃してはならない。僕はジャ・ジャンクーの最高傑作(という人もいるようだが)とは思わなかったが、何度も使われる楽曲とともに、妙に心に残り続ける作品である。
 
 この映画は3つのパートに分かれている。最初は「1999年」で、春節を祝う人々の中で小学校の女教師タオ(チャオ・タオ、ジャ監督作品のミューズで、監督夫人)が踊り歌っている。タオが幼なじみのリャンズー(リャン・ジンドン)と話していると、そこに同じく幼なじみのジンジェン(チャン・イー、「最愛の子」で誘拐児童の親の会の会長役で助演賞を受けた)が話に入ってくる。大学を辞め起業して買った外国車を見せたいのである。ということで、冒頭の場面で映画の構図が見えてくる。一人の女に二人の男、「三角関係」になるしかない。20世紀末、中国は成長を続ける時期。女は経済力のあるジンジェンの求婚を受け入れる。監督が描き続けてきた山西省汾陽(フェンヤン)市の出来事である。黄河を背景にして、歴史的な建造物の残る中国の風景が心に染み入る。

 続くは「2014年」で映画制作時の現在である。タオの結婚に傷つき、故郷を捨て遠くに去ったリャンズー。今は妻と幼い子がいるが、長年の坑夫生活の影響か、せきが絶えず大病院で見てもらうように言われる。結局一家で故郷に帰るが、そこでタオが離婚して、子供を上海の夫のもとに残して帰ってきていることを知る。タオは見舞いに訪れ多額の金を置いていく。そのころ、タオの父が急死して葬儀が行われる。息子のダオラー(アメリカ・ドルにちなんで父親がつけた名前)は一人で飛行機に乗って母のもとにやってくる。しかし、なかなか口を開かず、「お母さん」と呼んでと言うと「マミー」と答える。上海の国際学校に通って英語教育を受けているのである。そして、父親は再婚して一家でオーストラリアに移住しようとしていることを知る。タオは子供のためにはそれがいいだろうと思いつつ、二度と子供に会えないかもと各駅停車の列車で空港まで送っていく。

 ということで、普通の映画なら「これで終わり」というか、現在まで描けばそれ以上やりようがないんだけど、なんとそのあとに「2025年」のパートがある。「2014年」を見ていると、この子ダオラーは大丈夫かなあ、「根を持てない子供」になるんじゃないかなあと他人事ながら心配になったのだが、案の定オーストラリアでアイデンティティに悩む若者になっている。父と話し合いたいが、父は英語を理解せず、ダオラーは中国語が判らない。そこに中国語教師のミア(シルビア・チャン)が登場し、通訳するうちに二人は親しくなっていく。ミアが教室で母親の名を聞くが、ダオラーは母はいない、自分は試験管ベビーだと答える心に響くシーンがある。

 中国は経済は発展したが、金銭第一になり腐敗したと、まあそういうことがよく言われる。そして国を離れた人もたくさんいる。未来はどうなるか判らないが、この映画の描き方はかなり「図式的」なように僕は思う。それは監督なりの「憂国」かもしれないが、移住した国に適応して生きていく人の方が多いのではないか。だけど、ダオラーの場合は、「父母と一緒に移住した」のではなかった。実母とは離別し(義母がどうなったかは不明)、幼い頃も中国語教育を受けていないから、いわば「母語」がないのである。そして、それをもたらした父親の生き方、金銭優先の中国社会を批判している。

 この映画の不思議なところは、以上の3つのパートの画面の大きさがすべて違うのである。スクリーンに空きがあるから、最初は予告編の後で小さくするのを忘れたのかと思ったが、やがて広い画面のシーンになった。1999年は「1:1.33」、2014年は「1:1.85」、2025年は「1:2.39」だそうである。こういうのは珍しく、何の意図かと思うと「偶然」であるらしい。折々にどうやって再現したのかと思うシーンがあるのだが、再現ではなくて監督が実際に昔撮っていた映像があり、それを利用したのだという。そして、その時のカメラが違っていて、だから画面サイズが違っているという。しかし、それは「タテマエ」だろうと思う。未来のシーンなんか、どのサイズでもいいわけだが、オーストラリアだけは横に長い画面で海や草原を広く撮っている。それを見てしまうと、中国の「過去」の社会が、いかに「四角四面」であるかが視覚的に判断できる。まあ、そういうこともあるのかなと思う。

 それと楽曲の使い方。まずはサリー・イップ(1961~)の「珍重」という歌。サリー・イップは台湾生まれの歌手、女優で、1980年代後半には香港で広東語で歌いトップ歌手となった人。1999年に、タオの父がやっている電器屋に来た客のテープで初めて聞く。広東語が判らないながら、いい曲だというと、ジンジェンは追いかけて行ってその客からテープを買ってプレゼントする。その曲が2014年にも、2025年にもうまく使われている。「たとえ時代が変わっても、ずっとあなたを思い続ける」といった歌詞が映画のテーマと重なり、観客の思いに届く。

 また、冒頭とラストは、ペットショップ・ボーイズの「Go West」というディスコ曲で踊るシーン。元はアメリカの曲だというが、1993年にイギリスのデュオ、ペットショップ・ボーイズがカヴァーしたのが流行ったという。いろいろと使われる曲なので、聞けば判ると思う。懐かしい感じが確かにする。ソ連崩壊への皮肉がこの曲の背景にはあるという。「Go West」という題名も、中国を捨て「西側諸国」に移ったダオラーたちを暗示しているのかもしれない。だけど、そういう説明は一切ないから、単にディスコで流行っていた曲という扱いである。だからこそ、中国でも公開されたんだろうが。

 ジャ・ジャンクーは当初は「面白いけど、よく判らない」感じが付きまとった。ヴェネツィアでグランプリを撮った「長江哀歌」が大傑作。次のカンヌ脚本賞「罪の手ざわり」も良かった。しかし、それは中国で上映禁止となった。今度は許可され、中国でも大ヒットしたというが、それは「感情」に焦点を当てた映画だからだという。まあ、そういうより、展開が図式的で判りやすく、しかも「未来」パートを撮るという発想とその内容が面白いからかと思う。映像は魅惑的だが、僕はこんなに予想通りの展開でいいのかなと思ったのも確かである。他の映画より取っつきやすいから、入門編にはいいかもしれない。中国は好き嫌いを超越して、日本にとって「考えなければいけない問題」であり続ける。中国社会の移り変わりを、特に地方都市で展開するジャ・ジャンクーの映画は、見続けていかなければならない。いつものように、この映画も北野オフィスも出資して作られている。音楽は日本の半野喜弘
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする