リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

行為理論と領域社会学(その2)

2020-10-10 11:11:22 | 社会学の基礎概念
 こんにちは、突然寒くなってきました。台風後の暑い日も今回は期待できそうもなく、冬用の布団のお支度を、といっても関東地方、雨で干せませんが。
 
 日常の話題。ここんとこパソコンのコマーシャルがひどくて。ちょっとアマゾンでも楽天でも買い物を探すといつまでも画面に出てきやがる。スマホの方には関係ないことですが、誰が買ってやるか、って気がするのは私の性格だけのせいでしょうが。
 2か月前パソコン代えてから(windows10)、とみに一層ひどい。何万も出して買ったのに、これじゃ企業のレンタルパソコンです。
 昔はよかったんですよ、20年以上前。いつもパソコンに挨拶して使ってました。終わるときも挨拶して終わるの。画面に「おはよう、元気?」とか「さよなら、またね」とかまあ色々出るのね、windows起動時の「ようこそ」が昔の習わしの名残りだけどね。
 うそつけって、ほんと。みんな自分で作ったんだもんだよ、私の場合も自分で作ったからほんと。AUTOEXEC.BATっていってね。自分で書き入れるだけ。人間挨拶が大事だからね。自分で作るったって、それだけに仮もんじゃない、文字通り世界で一つのパソコン。
 ただ、もうこのバッチファイル使えないんだよね、10数年前で終わり、その時点で、米帝の世界支配が決まったのさ。うそだけど。

 ニュース。
 「南陽市川樋でクマを目撃し、クマよけの鈴で追い払うなどした同市中川小2年の土屋心聖(ことせ)さん(8)が7日、山形新聞の取材に応じ、「(一緒に下校していた1年生の)小さな2人を守らなきゃと頑張った」と当時の状況を振り返った。」(山形新聞)
 偉いぞ、お前。アメリカだかでも妹を猟犬から守ったガキのことがでてました。その子は代わりに噛まれて治療90針だと。子供はいつの日にも、未来の希望ですね。
 
 引用省略、例の学術会議の「学問の自由」問題。
 わたしゃネットウヨの感性はしみじみわかると自認しているのですが、この「問題だ」というタテマエも噴飯物ですね。なにが「学問の自由」さ。そんな冗句がスローガンになると思っている年寄りと共産党の気が知れない。学術会議など解散しちまえ。「中立の偉い学者集団」!!! 100年生まれる時代を間違ってるよ。
 もちろん、とりあえず政府が悪いのだけれど、それには「嘘つき」だと事実をいうしかない。
 しかしここで、問題とすべき比重はそんなことではない、そんな虚構の「正義の」「学問集団」は潰す。これはウヨではなく「フツウの」感性ですぜ。河野に好き勝手にやらせるなよ、お役所審議会に変えようとしてるんだから。そもそも初めから潰す。審議会は中立の仮面を剥いで自前で作らせる。見てる朝日新聞社員はわかってますか? なお、自称左翼はわからなくてよい。見放してるから。
 
 もうトランプが元気になったって?
 つまりだ、人はコロナに罹っても
 高熱を押して通院したり、4日も寝てからPCR検査に出かけたりせずに
 早期から酸素が足りなくなれば吸入させて肺の負担をとり
 抗体医薬を服薬し、レムデシビルとデキメタゾンを投与されていれば
 74歳でもすぐに治る
 というわけです。
 良かったじゃないか、人民。ケチなこといわせないで、GOTOのカネ回して病床作って、人は自由に往来すればいい。差別主義のアメリカじゃ無理だけどね。
 それにしてもテレビで「ウイルスには薬が効かないからほっておくしかない」とか宣伝しまくったやつらはなんなんだ?
 病院でほっとくしかなかった医者は胸が痛んだろうし可哀そうですが、だからって、政府のお先棒担いでデマ流してやる気を殺いだのは恥ずべき罪悪でしょう。馬鹿にされてもアメリカじゃ、がんばってなんとかしたってわけで、偉い。
 
 別な話、東京の感染者の話ばかりしてるけど、川崎市というのは 全部で7区あるのだけれど、圧倒的に川崎駅近辺の感染者が多い。上野並みなんでしょうね。こういうの扱いが一緒というのも変だと思う。

 というわけで、前回延期の「2通りのハイフン社会学」。
 つまんないし、今日はもう長いので、簡便に趣旨だけ。
 
 その1)
 ハイフン社会学には本来の領域社会学である「農村」「家族」「産業組織」の社会学がある。これは「どの社会を研究するか」による、きわめて健全な分析主義による。
 
 その2)
 が、一方、そうではない「領域」である、「法」「政治」「経済」「教育」といった名詞が頭につく社会学がある。これは「どの社会」の問題ではない。もちろん法律家のように白を黒と言いくるめて「領域」に関連付ける言い訳もなされているが、それは決して本来ではない。それはそもそも評論でしかなかった名詞分野で、社会科学的味付けをしなければならない、というささやかな良心の結果である。(ただし、「数理社会学」という分野だけは、いうまでもなく議論の範囲外です。)
 それは当該の本来学に、社会に通ぜられない規定性を感じ取ったからである、研究者個人の意向は別として。
 「あ、こんな議論には根拠がない。常識が間違っている。何かが足りない。ほかに我々行為者への媒介的規定性があるのだ。これは領域とは別に研究しなければならない。」という事情である。
 
 その3)
 ではその規定性とは何か。
 第1に「行為共同性」である。筆者隈は、「政治(権力)」領域については「歴史としての支配」で、「経済」領域については次回作「資本主義と支配システム」において、名詞領域と行為論的社会学との関連を示した。
 そして第2が「事実認知」である。
 事実認知とは、書物やニュースで得られるものではない。目で見、耳で聞いた単語同士の連携には意味はないのである。それらの認知には、現実の身体の生理的神経刺激がセットされなければならないし、それは個人行為者の現実の日常、すなわち下位体系の人間関係の中でセットされるのである。
 というわけで、次々回論究「下位体系論」において、ようやく「法」領域は事実認知と社会制度の関連の解明によってクリアされる。
 なお、残った「教育」領域は、脳神経の発達の問題が脳科学分野で未解明であるため、筆者隈はこれ以降も関知しない。
 
 という、なんのことはない、次々回論究「下位体系論(女性差別の廃絶に向けて)」の宣伝でありました。
 
 なお、本題の(その1)は、当ブログ、2020-02-08 になります。
 
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