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障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは

2016-08-29 08:00:42 | 福祉 高齢 障がい

 コメディアンでジャーナリストのステラ・ヤングは、たまたま車椅子で生活をしています。ヤングが強調したいのは、この事実だけでヤングが全人類を感化するような気高い存在になるわけではないと言うことです。この面白い講演で、ヤングは私たちの社会が障害者を「感動ポルノ」にしてしまう風潮を批判します。


http://logmi.jp/34434より転載

障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは

私たちが障害者の姿に感動しているのは、心のどこかで彼らを見下しているからかもしれません……。昨年12月に亡くなったコメディアン兼ジャーナリストのStella Young(ステラ・ヤング)氏は、従来の「気の毒な障害者」という枠を破った率直な発言で人気を集めました。健常者の感動を呼ぶために障害者を取り上げる風潮を批判し、障害者問題に対する社会の理解を求めました。(TED2014より)

スピーカー
コメディアン兼ジャーナリスト Stella Young(ステラ・ヤング) 氏
参照動画
私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく

何も達成していないのに「達成賞」をもらった理由

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ステラ・ヤング氏 私はビクトリア州の田舎の、とても小さな町で育ちました。ごくふつうの、穏やかな家庭です。学校へ行き、友達と遊び、妹たちとケンカし、といった具合にとても「ふつう」でした。私が15歳になった時のことです。

 地元のコミュニティのメンバーが私の両親のところへ来て、私を地域の「達成賞」にノミネートしたいと言いました。そのとき、両親はこう言いました。
「とてもありがたいお話ですが、ひとつ明らかな問題があると思います。彼女は何も『達成』していないと思うんですが」(会場笑)彼らの言った通りでした。私は学校に行き、良い成績を収め、放課後は母の経営するヘアサロンでのんびりとお手伝いをしていました。そして『吸血キラー聖少女バフィー』や『ドーソンズ・クリーク』といったテレビドラマをよく見ていました。「達成」という言葉に対するなんという矛盾。そう思いませんか?

 両親が言ったことはまったく正しかったのです。私は「ふつう」以上のことを何もしていませんでした。何ひとつとして。障害というものを、平均以下の状態であると見なさない限り、「達成」と言われるようなことは何もしていなかったのです。

 

障害者はあなた方を感動させるためにいるわけではない

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 数年後、私はメルボルン高校で2年目の教師生活を迎えていました。法律に関する11年生向けの授業で、20分くらい経った頃でしょうか。1人の男子生徒が手を挙げて、私に尋ねました。「先生、いつになったら講演を始めるんですか?」「何の講演?」と私は訊き返しました。名誉毀損について、20分ほど説明してきた後のことです。

 生徒は言いました。「何か、感動するようなスピーチですよ。車椅子の人が学校に来たら、ふつうは人を感動させるような話をするものでしょう? たいてい大きな講堂でだけど」(会場笑)それが、私が自分の置かれている状況に気付き始めたきっかけでした。その生徒が今まで出会った障害者はみな、「感動的な話をする人」という存在だったのです。

 私たちはそうではありません。もちろん、これは彼の責任ではありません。多くの人にとって、障害者とは、教師や医者やネイルアーティストのイメージではないでしょう。私たちはふつうの人ではないと思われています。誰かを感動させ、鼓舞するための存在なのだと。実際のところ、私がこうやってステージの上へ車椅子に乗って登場した時、みなさんは私が「感動的な話」をするのだろうと、どこかで期待していたのではないでしょうか。(会場笑)でしょ? やっぱり。

 紳士淑女のみなさん、残念ながらみなさんをがっかりさせなければなりません。私はあなた方を感動させるためにここにいるのではありません。障害に関して、私たちがついてきた嘘をお伝えするためにここにいるのです。

 

障害者は「感動ポルノ」として消費される

私たちは、障害を悪いものとしてとらえてきました。障害はマイナスである。そして、障害と共に生きることは素晴らしいことであると。

 障害は悪いことではないのです。そして、障害があるからといって、あなたが素晴らしい人間だというわけでもありません。さらに過去数年間、ソーシャルメディアによって、この手の嘘はより広く伝えられてきました。みなさんも、このような画像を見たことがあるのではないでしょうか。gazou1

「ネガティブな態度こそが、この世で唯一の障害だ」ふーむ……。

または、こんな画像です。「言い訳は通用しない」なるほどね。こういうのもあります。

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「言い訳は通用しない」なるほどね。こういうのもあります。

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「諦める前に、やってみろ!」

 これらはほんの一例に過ぎませんが、こういったイメージは世の中にあふれています。みなさんも、両手のない少女がペンを口にくわえて絵を描いている写真や、義足で走る子供の写真を見たことがあるのではないでしょうか。こういう画像はたくさんあり、私はそれらを「感動ものポルノ」と呼んでいます。(会場笑)

 「ポルノ」という言葉をわざと使いました。なぜならこれらの写真は、ある特定のグループに属する人々を、他のグループの人々の利益のためにモノ扱いしているからです。障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしているわけです。

 

社会のほうがより強い「障害」になっている

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 先ほどお見せした写真の目的は、人を感動させ、勇気づけ、やる気を引き出すことです。つまり、「自分の人生はうまく行っていないけれど、もっとひどい人だっているんだ」と思わせるためのものです。「あんな大変な人もいるんだ」と。では、もし自分がその立場になったらどうでしょう? 私は見知らぬ人に話しかけられたことが何度もあります。彼らは「あなたは勇敢だ」とか「元気をもらった」とか言います。私が人の前に立って話をするようになる前のことですが、毎朝起きて自分の名前を覚えているだけで、おめでとうと言われたものです。(会場笑)これらは、人をモノ扱いしている行為です。

 さきほどお見せしたような画像は、健常者が良い気分になれるように、障害者をネガティブな存在としてモノ扱いしています。自分の抱えている問題が大した困難ではないと、違う角度から見られるようにするためです。障害者の生活には、実際それなりに困難がつきまといます。乗り越えなければならないことはいろいろとあります。でも私たちが克服しなければならないことは、みなさんが考えるようなたぐいのものではありません。身体の障害は関係ないのです。私は「障害者」という言葉を意図的に使って来ました。なぜなら、私たちの身体と病名よりも、私たちの生きる社会のほうがより強く「障害」になっていると感じているからです。

 私はこの身体とともに長い年月を過ごしてきており、自分の身体をとても気に入っています。やらなければならないことは自分でできますし、みなさんと同じように、自分の身体の持つ可能性を最大限生かすことを学んできました。さきほどお見せした写真の子供たちも同じです。彼らは何も特別なことはしていません。彼らの身体でできる限りのことをしているだけなのです。では、さきほどのようなやり方で画像をシェアするのは、本当に正しいことでしょうか?

 

「あなたの姿に感動した」は本当に賛辞なのか?

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 「あなたの姿に感動した」と言う時、人はそれを賛辞として言っていると思っています。私は、どうしてそう言わざるを得ないのか知っています。それは私たち障害者が、障害と共に生きることが素晴らしいのだというイメージを作り上げて来たからなのです。本当は、そんなことはありません。みなさんが今考えていることもわかります。私がここで感動話を否定すると、みなさんはこうお思いでしょう。

 「ええっ、ステラ、じゃああなたは他の人を見て感動することはないの?」実際のところ、します。他の障害者の姿からいつも感銘を受けています。でもそれは、自分が彼らよりも恵まれているから感動するわけではありません。落とした物を拾うのに、バーベキューのトングを使うのは素晴らしいアイデアだということを教えてもらいました。車椅子のバッテリーから、携帯電話を充電できるというカッコいい裏技も学びました。彼らは天才です。私たち障害者は、それぞれの精神力と忍耐力をお互いに学びあっています。身体的特徴や病症に対してではなく、私たちに特別な業績を期待し、モノ扱いするこの社会に対抗するための知恵です。

 

障害が「ふつう」である世界で生きていきたい

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 私たちが今までつき続けてきたこの嘘は、大いなる不正だと思っています。この嘘が、私たちの人生をつらいものにしているのです。

 「ネガティブな態度こそが、唯一の障害だ」というさきほどの言葉、あれは間違っているだけでなく、この社会における障害の捉え方なのです。どれほど笑顔を振りまいても、階段をスロープに変えることなどできません。決して。(会場拍手)テレビで愛想を振りまいても、聴覚障害者のために字幕がつくことはありません。本屋の中でどれだけ前向きな姿勢を示そうが、全ての本が点字になることはないのです。それはありえないことなのです。

 私は、障害が例外としてではなく、ふつうのこととして扱われる世界で生きていきたいと望んでいます。部屋で『吸血ハンター 聖少女バフィー』を見ている15歳の女の子が、ただ座っているだけで何かを達成したと思われることのない世界に生きたいです。朝起きて名前を覚えているだけで喜ばれるような、程度の低い期待をされることのない世界。そしてメルボルン高校の11年生が、新しい先生が車椅子に乗っていてもまったく驚かない世界で生きて行きたいのです。障害そのものは、何も特別なことではありません。でもあなたの障害に対する意識について考えることは、あなたを特別な存在にします。ありがとうございました。

  

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