異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

「夜と霧」を読んで~講演『余命を知って、生きるということ』…苦しみに意味を見つけられたら希望となる。病や障害さえも個性を育む。

2016-08-02 23:15:33 | 福祉 高齢 障がい

http://blog.goo.ne.jp/excite_hy/e/89e357f85e27337872eb9c8849319dd9より転載

講演「余命を知って、生きるということ」 

プロフィール

excite_hy保田 広輝

    自己紹介
デュシェンヌ型筋ジストロフィーという難病患者。電動車椅子とNPPVの人工呼吸器を使っています。
クリスチャン(日本キリスト改革派教会)。
苦しい病の人生でも、生きた証しを残したいし、誰かの支えになりたい☆
2015年07月24日 21時23分57秒 | 難病のこと
先日、沼津で、「命」「死を意識して生きること」について、講演した原稿をアップします。
長い文書ですが、読んでいただけたら嬉しいです。

2015年7月4日 沼津千本プラザ 「余命を知って、生きるということ」

私の名前は保田広輝です。いま24歳です。
デュシェンヌ型筋ジストロフィーという難病を抱えています。
この難病は遺伝子の異常により、次第に全身の筋肉が動かなくなってゆく難病です。
未だに治療法がありません。

今は24時間ずっと人工呼吸器で呼吸をしていて、手の親指以外は動かせないので、
食事もトイレも着替えも、ひとりでは生活の全てが何もできないですし、
やがて寝たきりの生活になります。

4歳で病名を診断され、当時は20歳までの命と言われました。
私は難病であることを知らずに育ちました。

幼い頃は、走ったり跳んだりできず、
階段は手すりをしっかりつかまないと上ることができなかったけど、
他の子よりも運動神経がないとしか思っていなかったんですね。

大人になって、なぜ難病を告げてくれなかったのかと両親に尋ねたところ、
「20歳で死ぬということはとても伝えられなかった…」と答えてくれました。

自分は他の人とは違うと感じ始めたのは、7歳からでした。
難病の進行で、よく転倒したり、ひとりで起き上がれないようになっていたんですね。

足が悪いという理由だけで、イジメを受けるようになりました。
足が悪くなければいじめられることはなかったのに、と子供ながらに苦しみました。

そして、9歳で車椅子生活となりました。

難病の現実を思い知らされたのは、
大学の受験勉強に励んでいた18歳の3月からでした。
自分も当時のドクターも、病気が悪化していることがまったく分からず、
1年間で5回も入院したんですね。

いつも嘔吐が止まらなかったり、
ものすごい息苦しさと、痛みがガンガン鳴り響くような激しい頭痛のせいで、
ほとんど眠れないので、毎日のように意識がボーとなって、
本当に死ぬかと思う毎日が続いたんですね。

その間も苦しい現実から逃げるように受験勉強に夢中で打ち込んでいました。
でも、息苦しさと頭痛のせいで、必死に勉強しても次から次に忘れていき、
試験の点数はどんどん下がっていくので、
努力が無駄になっていくのは辛かったです。

1年が経ったあと、母の努力のおかげで、
私の病気のスーパードクターがいる病院のことを知って、
その病院でいま使っている人工呼吸器を導入してもらってから、
苦しい症状は改善されました。

ただ、人工呼吸器を使うには医者の管理が必要だから、
そのために地元の福岡の専門病院で検査入院したときに、
医者から「やがて寝たきりになり、延命治療をしても、35歳で亡くなるでしょう」と、余命宣告を受けました。

心が引き裂かれるような宣告でした。
その時に難病の現実をとことん思い知ったんですね。

その後、合格した大学には入学したけど、体調不良により半年で中退しました。
それからは自分を見つめ直す日々でした。

19歳にして人工呼吸器を使うまでの体になったこと、
余命宣告を受けたこと、
難病による体の痛みが激しいので、ベッドで過ごす生活になったこと、
などが大きなストレスとなり、浮き沈みの激しい時期が長く続いたんですね。

この時は生きている意味が分かりませんでした。人生に絶望していました。

こういう気持ちになったのは、
寝たきりになって若く死ぬのは嫌だ、
どうして私は健康になれないのか、という思いが強かったからです。

なぜなら、この社会で人間が生きる価値は、
健康に生きて、結婚して、仕事をして社会で役立つことで決まるけど、
難病の私にはそれが無理だからです。

私には別の生きる価値が必要だったんですね。
でも、それがずっと分からなかったので、苦しかったです。
心はいつも暗闇の中を過ごしていました。

そんな中で、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読んで、
「絶望=苦悩-意味」という公式に出会ったんです。

この公式は、意味がない苦しみが絶望である、
苦しみに意味を問わなければ絶望となる、
苦しみに意味を見つけられたら希望となる、ということです。

苦しみがあるから、苦しくてたまらないから、
不幸だって簡単に考えるのではなくて、
苦しみに意味を見つけられたら、希望に変わる。

人生はそれ自体に意味があるから、どんな状況でも意味がある。
ということを『夜と霧』から学びました。


そして、どのような苦しい人生でも、人生に意味を見つけることができれば、
希望を失うことなく、勇気を持って生きていける、と思えるようになったんですね。

人は意味なくして生きることはできないんです。
人は何をするにも、自分にとって意味がなければ、すべてをむなしく感じるものですから。

苦しみに意味を見つけられたら希望となる。
それからは、苦しみを忍耐しながら、
難病の自分が生きている意味を、絶えず祈りながら考えるようになったんですね。

そのために、まず私は難病を受け入れることから始めようと思ったんです。
私の難病は、死ぬまで進行していくので、
いまできることが、半年後になるとできなくなるんですね。

これはなかなか受け入れることはできません。
でも、そういう体になったことは変えられない現実だし、
じたばたしても辛いだけですよね。

まず現実を受け入れていくことが大切です。

でも、受け入れることが、いつ死んでもいいやってあきらめになってしまったら、
生きることがどうでもよくなるので、
本当に大切なのは、受け入れた後のステップの、変わることです。
難病の人生を前向きに生きていこう!と変わることが大切なんですね。


そして、あと10年少しで死ぬんだと思うと、
いま自分が生きている毎日は当たり前のものではないなぁ、と感じたんです。

平凡な日常でさえも、二度と戻れない瞬間です。
同じ景色を明日も見られるかどうかは誰にも分からないんですよね。

平凡な日常でさえも輝いているのだから、
ひとつひとつの出来事を胸に刻んでいくために、
死を意識して、命の終わりを覚悟して受け入れていこう、
と思えるようになりました。

人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということです。
私たちの人生が取り返しのつかないものであり、全てやり直しがきかない。
一日一日、一瞬一瞬が一回きりだということが、人生に素晴らしい重みを教えてくれます。

私は難病の経験を通して、自分の人生が限られたものであることに気付き、
残された貴重な時間をどう生きるかを真剣に考えるきっかけを与えてくれました。

死を恐れて、単に「死なないこと」を願うのではなく、
死すべきものとして「どう生きるか」が大切だと思います。


命は必ず終わりがあるものですけど、やっぱり死は恐いです。
でも、私が死んでも、私の命は生きている人々の心の中で生きていくと信じています。

残された人間が、亡くなった人の人生を意味ぶかく受け止めていく時に、
本当の意味で、亡くなった人の命が残された人間の中で生きていくのだと思います。
だから、私も人々の心に残るような人生を歩んでいきたいです。

そうして、人との関係から生きることを考えるようになりました。
いま生きているということは、自分を支えてくれる人が必ずいるんですよね。

誰かとの関係があるからこそ、私たちの命は存在しているのだと思います。
人間は孤独を感じてしまうものだけど、生きている時点でひとりではないんですよね。

こういうことを考えていた頃に、
1946年に公開された映画「素晴らしき哉、人生!」を見たんですね。

これは、若い頃の夢を諦めて、愛する人たちや貧しい人々のために、
住宅ローンの会社経営を頑張る主人公の物語です。

ある困難をきっかけに自殺を決心した主人公の前に、天使があらわれて、
その天使が「主人公が生まれなかった世界」へと連れて行くシーンが
一番の見どころです。

この映画に出てくる
「一人の命は大勢の人に影響を与えている。一人がいなくなれば世界は一変する」

というセリフがとても心に響いたんですね。

私はこの映画から、
自分が生まれないだけで、自分の周りにいる人々の人生や性格が大きく変わってしまう、
だから自分の存在にも意味がある、ということを学びました。

そうして、難病は良いものだと思えるようになったんですね。

なぜなら、私はこの難病で生まれて来たからこそ、今の自分の性格や人生になれたし、
今まで築き上げて来た人間関係があるからです。

ひとりの命は自分に関わっている人たちに何かしらの影響を与えていますし、
もし私が難病になって生まれて来なかったら、
今まで自分に関わってくれた人たちの性格や人生が何かしら変わってしまう、と思うんです。

だから、人との関係から考えたら、
私にとって難病は良いものだ、と思えるようになったんですね。


そして、私は苦しむことが嫌だったんですが、
難病の人生で感じる苦しみは、自分にとって必要なものなんだ、
と思えるようになりました。

苦しみも、自分ひとりのものではなく、人のためにつながっていくものなんですよね。

人の痛みが分かる人は、
泣いている相手と同じくらい泣いた人、傷付いている相手と同じくらい傷付いた人です。
だから、難病の苦しみを受け入れて成長できれば、人の痛みに寄り添うことができるし、
苦しみの中でも、喜びを感じながら生きていれば、人を励ますことができます。

また、私たちのコミュニケーションの約20%は言葉で、
残りの80%は表情や仕草などの無言のコミュニケーションで成り立っているそうです。
言葉も大事ですが、その人の醸し出す雰囲気のほうがより大切になるそうです。
私は難病でも、なるべく笑顔で過ごすことで、人を励ますことができると信じています。


苦しみは人のためにつながっていくんです。
私の幸せは人とつながっていることを実感することですから、
難病でも幸せになることができるんですよね。

人と関わりながら生きていくのが命なんですね。

【パール・バック(作家)】

「悲しみを越えるには、あるがままのものを、そのまま受け入れることが、必要である。
これが自分の生活なのであり、私は生き抜かねばならない、と考えるのだ。

なぜ自分だけこんな目にあうのか?、と自分中心に物事を考えたり、
行動したりしている限り、人生は耐えられない。

自分の苦しみは自分ひとりのものではない。
苦しみの中で、自分は人々と共にあるのだ、と自覚すると、
やがて苦しみの中で人々と手をつないでいこう、という積極的な姿勢に変わってくる。」


でも、人との関わりが多くなるほど、
自分には無いものを持っている色んな人に出会うほど、
私は他人と自分を比べてしまい、
自己嫌悪や嫉妬に支配されてしまう時がたまにあります。

でも、他人は他人、自分は自分と考えるように心がけています。
命の尊さはみんな同じですし、人それぞれに生きる役割があるのだと思います。

逆に、自分には役割なんてない、誰にも必要とされていない、と考えてしまうと、
私だったら、いつ死んでもいいや、と投げやりになります。
生きる役割を感じながら生きていくほうが充実した人生を送れますよね。

難病になった私にも生きる役割があると信じています。
だから、私はこの難病から何をつくるのか、この難病でもって何を始めるのか、考えてみました。

そして、ただ競争するだけの社会から、
共に生きる社会へと展開させる役割が、障害者で難病の私にもある
、と思ったんです。

私がいつも意識していることは、病の人・障害のある人は不幸ではないということです。

 

 


ナチスドイツは、第二次世界大戦中に、安楽死プログラムという法律を作りました。
これにより、多くの障害者が政府の命令で殺されました。
詳しくは資料1をご覧ください。

・資料1『ナチスドイツの安楽死プログラム』

「安楽死」とは、
慢性的・末期症状の疾患を持つ個人を苦痛のない死に導くことを指します。

しかし、ナチスの場合は、ドイツ国内とドイツに併合された領土の療養施設で暮らす
身体障害者・知的障害者・精神障害者に対して実行された極秘の殺人計画でした。

ユダヤ人の大量虐殺、ホロコーストと同様に、「安楽死プログラム」のリーダーは、
優生学者が「生きる価値のない不幸な命」に指定した人々を、
殺害する計画を採用したのです。

1939年8月に、すべての医師・看護婦・助産婦に対して、
ドイツ政府は重度の障害の兆候がある新生児と3歳児未満の重度の障害者を、
強制的に報告させる法令を発しました。

1939年10月には、障害を持つ子供の親に対して、
政府は特別指定した小児診療所への入院を勧め始めました。

しかし診療所は、特別採用された医療関係者が、
致死量の薬剤摂取や餓死によって子供たちを殺した殺害病院でした。

次第に殺害計画は17歳までの少年を含めるようになりました。
まもなく施設に入所している大人にまで殺害計画をひろげました。

1939年の秋に、アドルフ・ヒトラーは、
安楽死プログラムに参加する医師・医療関係者・療養施設管理者を、
起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。
政府職員は、その秘密の企てを「T4作戦」と呼びました。

T4作戦ではガス施設が全国6か所に設置されました。
T4の職員は「安楽死プログラム」に選ばれた障害者を自宅・療養施設から連行して、
これらの施設に到着した数時間以内に、連行した障害者をガス室で殺害して、
死体を焼却炉で焼きました。

その後、職員は遺灰の山から犠牲者の灰を取って骨壷に入れ、
嘘の死因を書いた死亡証明書を付けて、遺族に送りました。

しかし、政策が一般に広く知られたこと、また殺害に関する民間からの抗議、
特にドイツ人聖職者からの反対が続き、
ヒトラーは1941年8月に安楽死プログラムの中止を命令しました。

しかし、ドイツの医療従事者は1942年8月に殺害を再開しました。
新しい作戦では、地方自治体が殺害のペースを決定しました。

再び致死量の薬剤摂取や餓死による殺害が採用されて、
「安楽死プログラム」は全国の広範な施設で再開され、
障害者の子供から大人まで殺害しました。

また、ドイツ占領下の東ヨーロッパでは、ナチス親衛隊と警察部隊が、
何万もの障害者を集団射殺やガストラックで殺害しました。

「安楽死プログラム」は第二次世界大戦の末期まで続き、
高齢患者、爆撃被害者、外国人強制労働者にまで拡大されました。
ナチスの「安楽死プログラム」を通して、20万人の命が奪われたと推定されています。

 


ナチスドイツが犯したこの残虐な出来事は他人事ではないと思います。
私たちは脳中心の社会に生きています。
五体満足で優秀な人だけを重んずる競争社会に生きています。

そこから引き出されてくるのは、能力とそれを裏付ける高い偏差値のみを評価して、
優劣を決める社会です。

脳の働きの中でも、
最も重要である意識がなくなったとみなされる脳死や植物状態に陥った人、
そして認知症になった人や障害のある人は、優劣を決める社会の中で、
ナチスが考えたように、生きる価値のない不幸な命と思われています。

能力と五体満足であることだけを生きる価値と認めるのは、狭い健康観だと思います。

能力と五体満足という強さのみを強調し、
弱さを差別する社会は、本当に幸せなのでしょうか。

もし、障害のある人や病の人、高齢の人、死にゆく人を、
生きる価値のない不幸な命と見なす人が多くなれば、
その社会は、ナチスドイツのように、ひどいものになります。

人はみんな老いていきますし、必ず死にます。
人はいつ障害者になるか分かりません。
弱さや悩みがない人はいません。

どんなに五体満足で優秀な人も、いつか、自分が弱さを抱える立場になったとき、
自らも強い者から排斥されることになると思います。

難病の私が自分は不幸だ、と思っていれば、
全ての病の人や障害のある人たちが不幸な人間だと思われてしまいます。
私は生まれて来なければ良かった存在になってしまいます。

でも、生きる希望を失くさないで、喜んで生きていれば、
病の人や障害のある人は不幸だと思う人は少なくなると思うんです。

私の前向きな生き様を通して、
日本におられる病の人や障害のある人を守ることにつながる、と信じています。


弱さを抱える人が生活しやすく受け入れられる社会は、
全ての人が生活しやすい社会になるはずです。

だから、ただ競争するだけの社会から、
共に生きる社会へと展開させる役割が、障害者で難病の私にもある、と思います。

共に生きる社会、共生社会には、「様々な文化が共に生き合う」、
「違いのあるひとりひとりが五分五分の対等な立場で付き合う」

という概念が含まれています。

人はそれぞれが持っている個性や長所を生かしながら、
お互いを支え合って生きていくことができるから、違いがあるからこそ良いんですよね。

私は病や障害さえも個性を育むものになると思うので、
弱さをマイナスと捉える必要はないと思います。

お互いの違いを認め合い、違う個性や長所を持つ同士が交わることで、
豊かな人間関係を作ることができるんですよね。

病や障害もひとつの個性なのだから、病や障がいのある人とない人が混じり合い、
支え合うことで、お互いを豊かにしていくんです。

自分の人生を他の人々と共に生きることにまで広げれば、
人生は充実したものになっていきます。


でも、もし共に生きる社会において、相手の違いを認めることができなかったら、差別するようになります。
「あの人は私たちの社会にいるべきではない」と疎外につながってしまいます。
これは気をつけなければいけないと思います。

最後の話になりますが、
第二代国連事務総長のダグ・ハマーショルドの著作「道しるべ」には、
「われわれは、わが亡きあとにせめて端正さだけでも生き残ってくれるよう、
端正さを保ちつつ死ぬべきであると、私は信じている」
という言葉があります。

ここで言う端正さとは、自分らしさそのものだと思うんです。
言い換えると、ひとりひとりが信条にしているものです。
つまり、自分が生きる上で大切にしていることです。

私が生きる上で大切にしていることは、今まで語ってきた内容です。

もうひとつの信条は、心が死んだ状態で生きたくはない。
それよりも、QOL(生活の質)を大切にして生きることです。
あとは私が信じているキリスト教信仰です。

これらの私が信条にしているものは、自分らしさそのものですし、
自分の命に代えても守り抜きたいんですよね。

死を目の前にして、いつも死をリアルに感じる難病の人生でも、
自分らしさを保ち続けることができれば、
幸せを感じられるし、人間の尊厳を守ることになるんです。

余命宣告を受けて、いつも死をリアルに感じていても、
自分が好きなことや、人のために生きること、自分が生きる上で大切にしていること、
自分の生きる役割、などの自分らしさを保ち続けることができれば、

困難な人生であっても、心が死んだ状態で生きることはないし、
前向きに寿命の最後まで生きていけるんですよね。

そうすることで、困難な人生であっても、充実に生きていけるし、
幸せを感じられる心を手に入れることができるんですよね。


今までお話ししてきたように、私は難病で生きることで、多くのものを得ました。

私が難病から得たものは不幸というちっぽけなものじゃないんです。
難病の不自由は不幸ではないんですね。
私は難病だからこそ幸せなのです。

神様が喜びを持って、生まれつきの難病の私を創造してくださいました。
私は難病だからこそ充実した人生を送れているんですね。

最後に、私はキリスト教を信じています。
たとえ私は若く死んだとしても、死んだ後に復活して、
天国で神様と共に生きていく永遠の命が与えられると信じています。

キリスト教徒にとって、死はもう取り返しのつかないものではなくて、
新しい命・永遠の命の始まりなのです。

『聖書 ヨハネによる福音書 11章25節』で、イエス・キリストが、
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
と言われたように、
イエス・キリストの復活こそ、永遠の命の証しなのです。

私は永遠の命を信じているからこそ、
若く死んだとしても、前向きに生きていけるんですよね。

【聖書 ヨハネによる福音書 3章16節】

『神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』


最後まで聞いてくださって、ありがとうございました。
下記の資料2と資料3も読んでみていただけたら嬉しいです。

・資料2 星野富弘の『花の詩画集「鈴の鳴る道」』より

いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった

いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった


中学校の体育教諭としてクラブ活動の指導中に、頸髄を損傷して、
首から下はすべて動かせない体になりながらも、口に筆をくわえて、
絵と詩を書いておられる、詩画作家の星野富弘さんの詩です。

・資料3 『末期がん、その不安と怖れがなくなる日 (樋野 興夫) 』より

~命よりたいせつなものを見つける~

「命よりたいせつなものはない」と考えている人は、
がんになると、つらい思いを味わうことが多いようです。

その人にとって一番たいせつなもの(=命)を失ってしまうという経験(=死)を、
身近なものとして暮らしていくわけですから、
どうしても、つらく重苦しい時間をすごすことになるようです。

とくに、不治のがん、末期がんの場合、
「たいせつなもの」をいまにも失ってしまうのではないか、という恐怖におびえて暮らすことになりがちです。

他人の命というなら、そのために自分に何ができるかを考えることができます。
けれども、自分の命のために自分ができることは限られているのではないでしょうか。

自分のことだけにかかりきりになるのは、実は、それぼど楽しいことでなく、
ときには辛いものになってしまうようです。

自分の中に追い込まれ、どんどん孤独なっていくこともあるかもしれません。
人は、人のためを思うときのほうが幸福をあじわえるようです。

健康な人でも、そうでしょう。
例えば、自分の食事にだけ関心を寄せて暮らすよりも、
人においしいものを食べさせてあげたい、人と一緒においしいものを食べたい、
と考えて暮らすほうが楽しいものです。

自分を満足させるよりも、人を満足させるほうが喜びが大きい。
人はそのようにできているのだと思います。

命が尊いことは、もちろんです。
しかし、自分の命よりもたいせつなものがあると思えるほうが、
幸せな時間を過ごせるような気がします。

では、自分の命よりもたいせつなものとは何か。
それは、自分自身で見つけるものでしょう。家族への愛かもしれません。
何かをなしとげようとする使命感かもしれません。

また、命を一番たいせつに思う人は、
死をネガティブにしかとらえられなくなりはしないでしょうか。

死は、命を奪うもの、死は命にとっての敵、
という考え方に、どうしてもおちいってしまうようです。

けれども、死もまた、私たちの一部です。
死は、私たち全員にひとつずつ与えられているという意味では、命と同じです。

どのようにして死を迎えるのか。
それは、私たちにとって、とても重要な仕事、最後の仕事ではないでしょうか
 
 
*******************:
 
保田 広輝 ブログ  明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~
              http://blog.goo.ne.jp/excite_hy

 

 

 

 


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